○○狂気について◯◯7/12
ドリフ大爆笑のDVDが発売されると言うことで、
再放送的なものがちょっと前に放送された。今考えると
テレビで放送されるにはあまりにも刺激が強すぎるのでは
ないかと思われるギャグがむき出しの状態で見られて
有意義だった。ドリフのメンバーの意志に感謝したい。

その当時においてさほど意味のないやりとり、ギャグで
あっても今見るとものすごいやりとりになっている。
それを見越して放送をしているのが面白すぎる。
とはいえ、構造的に面白いと言うことであって声に
出して笑えるようなものではない

番組の最後の方にあった早着替えコントでの一幕
お爺さんの役でドリフのメンバー全員が出てくるが、
知り合い同士のはずが認知症っぽくなっているので
わからない。

加藤「おや、志村さん。」
志村「あぁ〜?あんただれだっけ?」
加藤「あたしゃ神様だぁ」

と言うここまでのやりとりは、ただのパターンであり
あぁ〜?と言う言い方が面白かったり、あたしゃ神様だ
というのが定番のギャグであるので面白いだけの話だ。
ここから、故いかりや長介が加わって以下のような
やりとりをする。

加藤「あ、仏様。」
いかりや「わたしゃまだ死んでないよ!」

唐突に、実際は死んでいる人にまだ死んでいないと
言わせていた。死んだことすら笑いに変えようとする
姿勢は愚直と言うより狂気だ。

また、このコントではこの部分以外では現在でも
通用するような笑いが一切入っておらず、それでいて
20分ぐらいの冗長なやりとりを流し続けていた。

いかりやの死により加わった笑いの要素を提供する
ためだけに無駄に20分やりとりを流し続けたのだろう。
このパターンに出会うことはおそらくテレビではもう無い
ように思う。逆に今後頻繁にこのパターンが来ても悲しい。
○○なされるがままについて◯◯7/15
ドリフ大爆笑の放送についてもう一つ気になった
ところがあった。加藤茶だけは現在の人物が出演していた。
ガレッジセールのゴリ、観月ありさとのドリフの
思い出に関するトークを繰り広げていた。

そのトークを聞いていたら、最後の方に言ったゴリの
発言に腹が立った。ドリフに失礼ではないかと思ったためだ。
「ドリフは日本のチャップリンだ」
と言うようなことを言った。これはないだろうと思った。

方向性が全く違う。チャップリンは社会風刺を前面に
押し出しているが、ドリフはただただナンセンスではないか。
何度も何度も足の小指を戸にぶつけたり、将棋の対局中に
大便を漏らし続けると言うコントのどこに社会風刺がある
というのだろうか。

「ドリフのコントはチャップリンみたいな高尚なものじゃない」
とか
「ドリフとチャップリンはむいている方向が違う」
みたいな答えが加藤の口から出てくるのだろうなと思ったら
「そう思ってくれているなら嬉しい」
と言った。これには驚いた。これもないだろうと思った。

加藤は、何度も何度も足の小指を戸にぶつけたり、将棋の
対局中に大便を漏らし続けると言うコントのどこに
チャップリンのような社会風刺を織り込んでいるというの
だろうか。

確かにコント内の加藤、志村の行動を見ていても社会風刺的
なものはない。しかし、いかりやの役割は社会風刺的だ。
これは「もしもシリーズ」内のいかりやの役を見れば
よく分かる。いかりやは一介の凡夫として登場する。

そして店主などの役である他のメンバーからやりたい放題
やられる。やりたい放題やられるが、怒らない。
少しとがめることはあるが真に怒ることはない。
退店する自由は保証されているのに、あえて退店を
しないのである。これは怒りが頂点に達していない証拠だ。

あらゆるやりたい放題をされ取り返しのつかない状況に
なって初めて「だめだこりゃ」というだけである。
それでも退店せず、店主からサービスを受けようと
する節さえ見受けられる。

これは日本国民に対する風刺であると取れる。
兵庫のおじさんの政見放送で、兵庫のおじさんは
日本人たちが苦労道楽であると指摘している。
これは全くの当てずっぽを言っているわけでなく
実際に起こっているニュースから類推している。

この苦労道楽は「もしもシリーズ」のいかりや長介の
イメージと合致する。

ゴリがチャップリン云々と言わなかったら大衆を
風刺したコントになっている事に気付かなかった
ところだった。ゴリが、ドリフの風刺性を気付か
せる意図でチャップリンという言葉を出した
ならば、さすがはプロだと思う。

おそらく大衆を批判しても、批判者自身も大衆に過ぎない
と言うことに嫌悪感を覚えたので、どうでも良い部分を
過度にエキセントリックにしてしまったのだろう。
そちらばかりに目が行ってしまい、批評の効果が
全く得られることが無く現在に至ってしまったわけだ。

そのおかげで現在においてもドリフのおもしろさが
それほど色あせていないと言うことはお笑いを
見る側にとってはありがたいことでもある。
○○治し方について◯◯7/22
大地震があったとき、仕事をしていたのでラジオで
その一報を聞いていた。おじや総合病院とアナウンサーが
言ったので驚いた。そして、水や食料が足りないという話と
病院が満員なので他の病院に移ってもらうと言う話が
断片的に聞こえた。

新潟は米所であり、米所と言うことは水もきれいであると
思う。そうすると、おじやであらゆる病気を治そうとする
意識が先鋭化し、西洋医学におじやを取り入れあらゆる病気の
治療をする病院というものが新潟にあるのではないかと思った。
それがおじや総合病院なのだろう。

私は幼少時、何か病気をしたとなるとおじやめいたものを
食わされたという記憶がある。しかし、私の地方では「おじや」
という表現はなく味のついていない「おかゆ」と味の
ついている「ぞうすい」という言い方しかしない。

このどちらかを病気になったら食わされるわけだが、
それが非情にいやだった記憶がある。もう病気と申告すると
おじやめいたものを食わされるので病気であることを
宣言せずに過ごそうとした。何でもかんでもおじや
めいたものを食わそうとする節がある。

中耳炎や神経性の胃炎であると医者が診断したときも
ほぼ無理矢理おじやめいたものを食べさせられた記憶がある。

おじやめいたものを食べたくない意識が強すぎて
ストレスが高まり、神経性の胃炎になったかもしれないのに
それを治さないといけないとしておじやめいたものを
食べさせられるという構図は全くもってコントチックだが
、実話だ。

おじやめいたものを食べるのが嫌だったのは、それが
まずかったからだ。新潟の高級米、清浄な水を使ったおじやで
あれば薬効があると考えるのは自然ではある。しかし、
それを前面に押し出して「おじや総合病院」と名付けるのは
エキセントリックだと思った。

そして、その病院に被災者の方々が運ばれたと言うことは
怪我をもおじやで治すような研究がなされており、ある程度の
効果が得られているのだろうと思い、感心した。
どのようなおじやがその病院で作られているのか。
非情に興味深い。

と、ここまで考えていたが、おじやというのは雑炊っぽい
もののことではなく、新潟にある市の名前だった事に気付く。
ホームページにも雑炊っぽいものが出てきている形跡がない。
それにしても大きな被害がなかったのは良かった。
柏崎などの被害が甚大な地域の人々にはお見舞い申し上げる。

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