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過去ログ 2004年_1月前半
0674 2004年・・・
1・2・3・ダー!!
●記録者
綾小路伯爵綾小路伯爵
●記録日
2004/1/1(木) 00:01
0675 めでたさもアル中ハイマー
ども。あけましておめでとうございます。綾小路さん、イノキボンバイエ見ましたね。元旦早々書き込みありがとうございました。
まぁそれにしてもいつものことですが、初春を言祝ぐというかそういう雰囲気にはなりませんな。娘に絵を描かせても変な絵になっちゃうし。あれはメス猿なんでしょうか。
朝からウコンを飲みコーヒーを飲んでますが、頭の中はまだアルコール漬けです。親戚一同集まって飲み始めるためには、ちょっと「お迎え」が必要かもしれません。車に乗る必要さえなければ、正月早々コーヒーなんて無粋なものは飲まないんですけどね。
というわけで、今年もよろしくお願いします。私は3/4になりましたが、このBBSはどんどん拡張しております。
●記録者
上野大樹
●記録日
2004/1/1(木) 10:27
0676 青空、ひとりきり
前のメッセージのタイトルは、もちろん昨年の元旦の書き込みを意識したものだが、誰も気づくはずが無いので、そう思うとカナシイので一応書いておく。今回のタイトルは、まぁそんなに意味があるわけでもない。
それはさておきお正月。冷夏の反動なのか、なま暖かい正月である。過ごしやすくていいが、雰囲気は盛り上がらない。やはり正月気分にはアルコールが不可欠なのであろう。一人でコーヒーなど飲んでいては、全くの平日と変わらない。
さらに、正月だというのに居間には未だにクリスマスツリーが飾られているというのも、雰囲気が出ない原因かもしれない。そのせいか、玄関の注連飾りも正月のリースなんて言ったりしている。
しかも、親戚一同集まっているというのに、家に一人でいるのは、夜の宴会のために体を休ませておく意味もあるが、妻が仕事に出ているせいでもある。妻抜きで妻の実家に居るというのは、アルコール抜きでは落ち着かないものなのだ。
というわけで、いつもの日曜日と何ら変わらない状況なのだが、世の中が正月だと考えると自分がひとり普通でいることが特別なことのように思えてくる。
普通ではなく、正月らしいといえば洗車をした。いつもの冬なら、車が泥で真っ白になるまで洗わないのだが、普段使っているスタンドがセルフ式になったので、練習も兼ねて洗ってみたのである。ガソリンを入れるたびにいちいち「洗車しますか?」と聞かれなくて済むのはありがたいが、洗いっぱなしで拭いてくれないのも少し困る。面倒だからそのまま走ってきたが、一人きりでは困る場合もあるわけだ。
メリットがあるのは、ウチで、どんな曲をどんなボリュームで聴いても文句が出ないということ。今はキングクリムゾンのアイランドを、 -30dbで聴いている(陽水ぢゃないのね)。また、チベットの霊性についての本を読んでも怪しまれないし、どんなサイトも接続自由である。裸で寝ていても問題ないし、怪しい踊りを踊っても平気だし、非社会的言動をしても怒られないし、新聞のTV欄を熱心にみてもTVが見たいのだと思われなくて済む。
しかしまぁ、意外にやることは無いものだ。そんなに時間が無いのだ。しかも、せっかくの時間をこんな文章書くのに使っていてはダメである。同時進行出来るのはクリムゾンだけだし。
●記録者
上野大樹
●記録日
2004/1/1(木) 15:57
0677 新年のご挨拶
あけましておめでとうございま〜す。今年も宜しくお願いしますね>大樹さん、皆さんへ
しばらく、訪問していなかったうちに、また、何やら面白そうな話題を、、、そのような話を聞くと、指が勝手にキーを叩きそうですが、、、今回は、ご挨拶にとどめようかと、、、グッグッーっと、ガ・マ・ン〜〜〜(;´▽`A``
●記録者
くも
●記録日
2004/1/2(金) 00:53
0678 re(1):新年のご挨拶
どもども、ことしもよろしくお願いします。
くもさんが反応した面白そうな話題というのはどれかなぁと考えておりましたが、どうも昨年末から調子が出ず、これといった話題が無いのですね…
強いて言えば、チベットの霊性の本ってあたりかな?昨年末に、お正月の暇な時間に読んでみようと、図書館で何冊か本を借りたんですが、PC関連を2冊、ギターの本を1冊、そして宗教関係を2冊選んで、宗教の一冊が、チベットについての本なのでした。
結局あまり時間もなく、まだ半分も読んでおりません。しかし、本日から正月宴会モードから通常モードにシフトしましたので、読書にも勤しもうかと考えております。
●記録者
上野大樹
●記録日
2004/1/4(日) 16:12
0679 駅弁
世の中は正月気分ということで駅伝が流行るが、スポーツ観戦をしない私は駅弁の方が興味がある。と言っても、鉄道の旅をしないと実際に駅弁を食べるということは滅多にないものだ。本日は、たまたま親戚を八戸駅まで送る機会があり、ここの話題にもあった「いわし蒲焼き風弁当」が結構イケるということだったので、それを食べてみようと思ったわけである。
10時過ぎに買ったので、お昼には冷めていたから、少し温めて食べることにした。蓋を開けて香の物を取り出し、レンジで加熱する。内容は、開いて衣を付けた蒲焼き風のイワシが2尾乗っているだけというかなりシンプルなもの。味は、作りたてのほかほかだったら結構イケてるかも、という感じ。昔のボックス席の鈍行列車に乗って、しみじみ食べれば相当ンマいと思われる。
ま、結局駅弁は雰囲気なのだな。同じものを新幹線で食べればさほどうまくも無いだろう。以前にもどこかで書いたような気がするが、何でもかんでも新しくすればいいというものではない。ロングレールなど使っては旅情は出ないのである。ボックス席の固いシートで痛くなったケツをずらしつつ、ガタンゴトンと揺られながら文庫本を読み、腹が減ったら適当な駅を待ち、熱いお茶と弁当を買って食べるからこそンマいのである。
いつかそんな旅をしてみたいと思うのだが、もはやボックス席の鈍行列車も継ぎ目の多いレールも珍しくなってきた。せめて時間がある時にはと思って、旨い酒を持って鈍行列車に乗り込んだら、向かい合わせのベンチシートだったりして、そんなところで呑んでいたらただの怪しいオヤジである。
●記録者
上野大樹
●記録日
2004/1/4(日) 23:40
0680 re(2):新年のご挨拶
ハイハイ。チベットの本でやんす。当家にも何冊かあるんですが、未だにインドからチベットにかけた地区は本気で霊を信じている人が多いと聞きました(いるいないは別として)。そのせいか、霊とか神とか妖怪とかを目撃している人も非常に多いといいます。
人間見たいものを見る、見たいものしか見ない。。。という特性がありますから、霊が見えても何ら不思議じゃないと思うのですが、そういうお国柄の本にはどんなことが書かれてあるのか興味深々です。
ずっと前に「第三の目」という本がありました。○ニーの取締役でアシモ君を作った方もその本の影響を受けて科学者になったとか、、、天外伺朗という名で本が出されていますが、なかなか面白いのです。
ちょうど彼の本を何冊か読んだところだったので「チベットの霊性」という文字に反応しちゃいました。
将来世界旅行に行くとしたら、探究心の面からは行きたいところが三ヶ所あります。それが、インドからチベットにかけて、そして、メキシコ奥地、あとゴビ砂漠。
遊びならイングランドかカナダでキャンプ旅行と思っていますので、結構関心があったりするんですね。
そうそう、そういえば先日以前話題に上がった人類発祥の地に関係するニュースが出ましたね。中国奥地で最古の霊長類の化石が見つかったそうで、今まで最も古いといわれたアメリカの化石と同年代なのですが、中国のほうがより原始的なのだそうです。
とすると、人類発祥の地はほぼ三箇所になりますね。ミトコンドリアイブのアフリカ、上記化石のアメリカと中国奥地。。。実は、出口王仁三郎という人の著書「霊界物語」という本の中でこの三箇所は人類の発祥地として書かれているんですね。もう約百年前にかかれた本ですが。。。
●記録者
くも
●記録日
2004/1/5(月) 22:31
0681 re(3):新年のご挨拶
ふむ…そうでしたか。それならば私も、アルコールが入りつつも気合いを入れてコメントしなければなりませんな。というのは、結構面白い内容だったのです。面白い、というか、今までに無い見解があったりしたので。
宗教関係の本を2冊借りたと書きましたが、実はお正月のヒマな時に読む物語を探していたのです。で、昨年、ドイツの方達と関わったこともあって、ドイツ文学が良かろうと、そのあたりの棚を見ていたのですが…
とりあえず有名どころで読んでないものを、と思って、ヘルマン・ヘッセの全集に目が止まったんですが、その中に「シッダールタ」というのがあるぢゃないですか!ほほう、ドイツでブッダとは珍しいということで、とりあえずそれを手に取り、後は適当に何か…と思ったら「チベット」の文字が。
そう、チベットの霊性の本と書きましたが、実はこれはT・イリオンというドイツの探検家で、第二次大戦の寸前にチベットに単身潜入した時の手記なのです。しかし、ただの探検家ではなく、この人自身、かなり霊を感じる力を持っていたようで、当時のチベットのラマ僧や隠者の様子が客観的に書かれると同時に、隠者とのやりとりがかなり霊的なレベルに達しているのです。
内容的には、だいたい多くのラマ僧を批判的に、そして数少ない隠者を、霊的にも精神的にも高い立場に置いて書かれています。隠者というのは、だいたいがチベットでもさらに山奥に隠れ住んで、人との関わりを持たないわけですが、そのあたりのやりとりに興味深い部分があります。
イリオンがチベットでいろいろな経験をした後に、最後に「素朴な家」に居る「親切な友」に会い、話しを聞くのです。この人は霊性に至る道は内観であると説き、その他諸々のことも著者に共感を与えるのですが、最後の段階で相容れない部分が出てきます。
それは、最終的な救いに至る最後の道は、無明を無くすことだという部分です。これはつまり、個人として分離した霊的状態を捨て去ること、著者から見れば人間の最も聖なるものである「意志」を捨てることだということです。
ここが私にとってはとても微妙です。悟りとか涅槃とかいう状態は、そういう状態だと思うのですが、人間の「自己意識」を捨てることが最上であるのなら、なぜ我々は「自己意識」だけを持った状態で存在するのかというのも疑問になります。この著者の立場で言えば、やはり人間原理として、霊的な目的はそれなりにあるのだということなのです。
霊的な話しの中では、似ているというのは全く違うと著者は言います。確かに、例えばオーム真理教は真理に近いことを説いていたと思います。だからこそ信者が集められ、強大な組織も作れたわけです。しかし、最終的な部分があまりに利己主義でした。「自己意識」を捨てて「無」になることによって「幸福」を得ようとする、まさにその「幸福」を求めてしまうのが利己主義で、非利己的人生を追求する根底にあるものが、実は大きな利己主義だったというのです。
私としては結論は出ないのですが、利己的でないということがかなり難しいものだと思えてきました。まぁ、私は、私自身は偽善的だと思っているので、それなりに人生を過ごしていくつもりでいますが、やはり涅槃だの悟りだのとは、縁が無いのでしょうね。長くなったので、シッダールタについては次回。
●記録者
上野大樹
●記録日
2004/1/6(火) 23:18
0682 re(4):新年のご挨拶
T・イリオンというと大樹さんが読んだのは「チベット永遠の書」というものではありませんか?私も約一冊持っております。賢者とのやり取りなどは、非常に感銘を受けて読みました。その中の何箇所かの文章は、個人の悟りとして、そのような発想が湧くものだろうかと非常に関心を持って読んだのを覚えています。
ただ、最後の方でシャンバラらしいものが出てきた。。。そのあたりの内容に逆に違和感を覚えました。そのシャンバラの王がルシファーというのは、、、どうしたものかと(; ̄- ̄;)、、、頭から否定するものではありませんが。。。
最後のほうが創作だとすれば、賢者との会話の内容はあまりにも高度すぎるように感じますし、、、そのような洞察力を持つ人があまりにも安易な物語を書くのも妙な話ですから。でも、事実だとすれば、ちょっと信じがたい(私の頭では、、、)
まあ、考えて結論の出せる内容ではないので、私的には保留ですが、その違和感が未だに気になります。
無明についてですが、私は賢者の説で納得しています。問題は「意志」の捉え方だと思うのです。「自由意志」という言葉があるように、私たちは自分の「意志」は自由に選択できると<思い込んで>います。でも、以前ちょっと書きましたが、その自由意志というのは、外界からの刺激に対する単なる「反応」である場合が殆どです。反応である以上「自由」ではありません。
一般に使われる「意志が強い」というのは、殆どの人は「習慣の継続」に過ぎません。つまり頑固なだけです。もし、自由意志なるものが本当にあるなら、いわゆる頑固な人は意志の力ですぐさま頑固でなくなることも可能なはずですし、頑固でなくなろうと意志することも、外界の出来事に<全く>関係なく行われなければいけません。
このように「意志」なるものを考察すると執着というものが何者なのかが解ると思います。
では、自由意志なるものは存在しないのかというと、そうでもないらしいのです。この外界の出来事にも、執着にもとらわれない完全な自由意志は確かに存在し、通常は内的な直感、あるいは内的な衝動として私たちの内部から沸き起こります。つまり、私たちの人格を形成する知・情・意(習慣、または本能)とは関係のないところから発生します。
この手の衝動は非常に微弱で、しかも根強く沸き起こっています。けれども、現代人は「自分の心に目を向ける」という習慣を失っていますので、明確に感じ取ることは非常に困難ですので、なかなか気付きません。
けれども、その微弱な衝動を感じ取り、その直感に知・情・意を従わせることが出来るなら、そのとき私たちは本当の意志を獲得し、無明を去ることが出来ます。
無明は「無知」と訳されていますが、どだい私たちは全知にはなれません。その私たちがどのようにして無明を去れるというのでしょうか。仏教の言葉に「自灯明他灯明」というのがありますが、この「自他」というのは自分・他人という意味ではないと考えます。自分の中にあり、他人の中にもある「灯明(全知)」という意味だと思うのです。つまり、大樹さんも書いていますが、私たちは「全てが一つ」ですから、本来は「全知」なはずです。この全知と同一のものから「本当の意志」は出ているわけです。
従って、無明を去るためには執着(一般的にいわれる意志)を去って、本当の意志からの微弱な衝動を感じ取らねばならないわけです。この辺の解釈の違いかな〜と私は理解しました。このような解釈でいかがでしょう?
ドイツ発のシッダールタは面白そうですね。わたしはそんな本があることもしりませんでしたが、フロイトやユングが活躍しだした頃からドイツではかなり東洋思想に関心が集められたようですからね。ユングなんかも晩年は易経の虜になっているようですし、近代ではヒトラーが感化されて大戦中の敗戦間近なときですら、チベットに使者を派遣した経緯もあります。そのようなお国柄でかかれた本でしょうから、意外な盲点が書かれていそうな、、、レポートお待ちしていま〜す(=^0^=)v
●記録者
くも
●記録日
2004/1/7(水) 00:32
0683 re(5):新年のご挨拶
その通り、「チベット永遠の書」でございます。ただ、この本のタイトルにはちょっと疑問を感じます。「永遠」は、別にテーマでも何でも無いのですから。「チベット死者の書」というのがあるので、それに対して付けられたのかと思いますが、そちらはチベットでは通常の仏典ですので、そのタイトルに倣う必要は全く無いでしょう。
この本はドイツ人のT・イリオンという人が、外国人の入国が許可されていなかった大戦前に単身チベットに潜入し、その精神世界をレポートしているわけです。単身とはいえ、確かに国家レベルの計画、つまりヒットラーが興味を持っていたとか、そういう部分はあったのだと思います。そのあたりの関連は全く不明ですが、個人の興味レベルでは不可能な探検をしているわけです。
前半と後半が違うのは、元々2冊だった本を2部形式にまとめているからです。前半がラマ僧や賢者との出会いについて、後半はチベットの暗黒部とも言える組織についてです。
前半の賢者の態度で面白いのは、救うべき人間とそうでない人間が居ると、賢者自身が考えていることです。世界を救おうと思っているけれども、その目的では個人レベルでは救うべきでない人が存在するというわけです。そして、世界全体が幸福にならなければ、自分も幸福にはなれないのだと、賢治と同じことを言っています。
後半に出てくる「シャンバラ」ですが、この存在が微妙です。この本では、明らかに暗黒部分、イリオンにとって邪悪としか思えない組織というように描写されています。確かに死人を復活させる儀式だとか、人肉を食すというような、はっきりとした邪悪な部分もありますが、大体においてシャンバラの王の言うことは、賢者の言うことに「似て」います。かなりの部分まで真理なのです。
それがどこかで狂っているというのですね。最後の最後で悪魔に魂を売り渡していると。ルシファーというのは「光輝く者」、元々は天使なんですが、堕天使なんですね。シャンバラのマニ・リンポチェ、「貴き宝珠」も、真理を手にしつつ、じつは「魂」を持っていなかった、ということのようです。
様々な修行の果てに、魂を自分のものに出来るか否かは、結局利己的であるかどうかにかかっているということでしょうか。利己的な考えを持っている場合、修行を積めば真理に近づくことは出来るけれども、どこかで魂を失ってしまうということなのでしょう。
そうなると、「自由意志」というものは何なのか、ということになります。真に非利己的で自由なる魂が存在するのかどうか、ということになりますね。人間存在として、それがあるかどうか、ということです。確かに我々は梵我一如と言って宇宙と自分は一体だという思想を持っていますが、私たちの存在は、わざわざそれを断ち切って、「無明」の状態に置かれているわけなのです。
問題は、それが必要だからそういう状態に置かれているわけですが、その「無明」を去ることが果たしていいことなのか、ということです。また、「無明」を去るとしても、それが利己的なのかそうでないのかということも、真の賢者なのか偽りなのかという判断基準にしているようです。
ヘッセのシッダールタも、この「無明」を去るということに関して興味深い内容があります。それについては、また次回。
●記録者
上野大樹
●記録日
2004/1/8(木) 23:22
0684 re(6):新年のご挨拶
なるほど了解しました。もともと2部の著作をまとめたわけですか。どうりで違和感があるはずです。でも、まとめた段階でその違和感に気付かなかったんですかね(; ̄- ̄;)
禅の思想に、、、というか、禅に取り組んである程度のところに行くと魔境という境地に巡り会います。意識が非常にクリアになって全てが光り輝いて見える。草木や、目の前にある物の息吹まで聞こえてくるそうです。この境地が通常の意識状態と比べてもあまりにもリアリティーがありすぎるので、悟りを開いたと思い込んでしまうのだそうです。
この境地にとらわれると禅摩天になってしまい、進歩も終わり、現代の心境宗教の教祖みたくなってしまうのだとか。悟りにいたる第一の難関として、この魔境が語られているわけですが、それと同じ事なんでしょうね。
悪魔は99%の真実を語り最後の1%で嘘をついて欺くと言われています。悪魔が実在するかどうかは別として、この譬えは私たち自身の「独り言」でも大いに真実だと思うのです。私達は何かに切羽詰ると、最後の1割のところで自己弁護に走り、自己正当化をして自分を欺くことがままあります。しかもそのことに全く気付かないことが多い。このような事を重ねてゆくと、何が真実かすらわからなくなります。
このような人の話を聞いていると、確かに筋は通っているように思えるのに、どこかが変なんですね。話を聞いていると確かに解るし、そうだと思うし、同情もする。でも、どこかが変(;´▽`A``
おそらく、こうしたことが悪魔に魂を売り渡すということなのでしょう。とすると、人を貶めたり、傷つけることだけが悪魔に魂を売り渡すのではないということでしょうね。
この手の神話的な話というのは、人の心の部分と、歴史的な事件とがしばしば混同されて語られているので、結構解釈するのが厄介ですが。
シャンバラについてはかねてから二つの説がありますよね、「チベット永遠の書」に書かれているような悪魔の帝国みたいなものだという説と、理想郷としての世界という説です。
ルシファーについても、一般には堕天使というキリスト教の思想が普及していますが、人類に知恵(自我)を与えた本当の神であると捉えている人たちもいます。
インドや日本では阿修羅は鬼ですが、ゾロアスター教(いつか話題に出たミトラ教とも重なるのかな?)では阿修羅はアフラマズダとして光輝の神ということになっていますよね。
この三つの話はどこかでリンクしているような気がしてなりません。もしかしたら、出展は古代文明までさかのぼるのかもしれませんね。
余談ですが、人肉を食すということで思い出しました。十二使徒の最後の晩餐のときに、イエスはこれは我が血といってワインを注ぎ、これは我が肉といってパンを弟子たちに与えました。これは、実は本当のことだったのではないかと言っている人がいます。
このようなことは現代では全面的に否定されていますが、最近までは、そうすることによって、その偉人の超人的な力を受け継ぐことが出来ると信じられていましたからね。まあ「永遠の書」の中では単なる食料になってしまっているので、この話とは関係ありませんが。
長くなりましたが今回のテーマは「無明」ということですよね。(勝手にテーマにしちゃってますが、、、)
現実的に考えてみて「無明」の原因は何かというと、、、「未来がわからない」ということだと思うのですよ。私たちが何を考えようと結果的にそれが的外れなら、つまり悪い結果を招くなら、それは苦のもとなわけです。より良い結果を出したくて悩み、苦するわけですから。
最善の方法だと思って出した結論が最悪の結果になるということは、人生でしばしば経験することです。結局理性で考えて解るものではない。未来なんてわかるはずもありません。それなら、、、ということで、結果にこだわらない。。。つまり執着しないということが考案されたのではないかと。
しかし、執着しないということには、結構良い効果があるわけです。執着しないということはリラックス状態ですから、このような状態をキープしておけば、実際には最大限の能力を引き出せるわけです。結果的に良い未来を作り出せる条件のもとに生活することが出来ます。
たぶん体験的にこのようなことが理解されたのではないでしょうか。未来がわからず「苦」していたものが、執着をなくすことで良い未来を引き寄せることが出来るなら、無明を去るのと同じ効果がありますからね。
それに、前回も書きましたが、執着を去ることは内的直感を感じやすい状態にしますから、この意味でも無明を去る効果があります。
この意味では、無明を去るためには「利己主義」を去らなければなりません。利己主義のまま無明を去ることは不可能です。
というのは、利己主義というのはもともと「個の保存」から生じています。肉体存在として「生き延びる」という至上命題ですね。生き延びるためには利己主義でなければいけない。これが、人類が進化の長い時間の中で学んできたことです。
ところが、集団化が進むと、これは弊害になります。この弊害の克服途上にあるのが現代ですね。
それが「世界全体が幸福にならなければ、自分も幸福にはなれないのだと、賢治と同じことを言っています。」ということだと思うのです。
もっとも利己主義はいまや私たちの本能となってしまっているので、克服するには膨大な時間がかかるでしょうが。。。
このように考えると、私たちの中には二つの流れがあります。
個の保存 ←―――→ 集団化
これは意識で言えば顕在意識と集合的無意識の関係と同じです。
もっとも大きな集合的無意識、それが「全ては一つ」ということです。この状態では「自・他」というものは存在しません。利己主義も、利他主義もないわけです。
ここに知恵が必要になります。一般に言われる「利己主義」というのは自分を利するためにあるわけですが、利己主義は長い目では結局自分を害することになります。集団化の状態ではどうしてもそうなりますよね。それを考察すれば自分を利する最大の方法は利他主義であるという結論に至ると思います。
このことをエゴ(利己主義の主体)に納得させなければいけない。このための自己説得の役目を担っているのが「知性」だと思うわけです。こうなると利己主義=利他主義の状態ですから、殆ど無明を去った状態といっていいでしょう。
一般に言われる利己主義は、利己主義⇔利他主義ですから、
>利己的な考えを持っている場合、修行を積めば真理に近づくことは出来るけれども、どこかで魂を失ってしまうということなのでしょう。
ということになってしまいますね(魂=集合的無意識として)。もっとも「全てが一つ」の状態では魂がない状態はありえませんよね。それは「全一」の枠から出てしまうということですから、宇宙に存在できるはずがなくなります。
つまり魂を失うというのは、魂を失ったような・・・ということで、全一の状態と最も遠い状態のことだと思います。
めちゃくちゃ長くなりましたが、最後に。
明星から「だしの香」というラーメンが新発売されましたよ。150円です。塩としょうゆを食べてみましたが、これがなかなかいけます。大樹さんの好みじゃないかと思いますよ。是非、ご賞味あれ。(=^0^=)v
●記録者
くも
●記録日
2004/1/9(金) 03:37
0685 テスト
失礼いたします。書き込みテストです。@mac
●記録者
けいぢ
●記録日
2004/1/10(土) 10:10
0686 re(1):テスト MacとWinの共存
ども。一連のマックからの動作報告、ありがとうございました。おかげさまで、当方もここ数日、performa6310からのダイアルアップ接続&書き込み、それに続き、死んでいたUMAXのpulsar2250を復活させ、LAN接続実験など行うよい機会となりました。
そんなことで精神世界の方のコメントが遅れておりますが、準備中ですのでお待ち下さい>くも様。私の頭の中では、やはりPCの世界と精神世界の同時進行は難しいものがあるようです。というわけで、以下、Macの復活経過報告です。
UMAXのpulsar2250はMac互換機で、調子が悪くなったものを譲り受けたもの。不調なのでOS8.5をインストールしただけで投げてあったのだが、またいじってみると不調の主な原因はメモリ等の接触不良によるものらしく、メモリを差し直したり接点復活剤の利用で直るようで、とりあえず動くようになった。
動くのならばと、早速LANに接続、インターネットにもつながったので、その後各種設定をしてみる。その流れは、以下。
自宅サーバーへ、URLでの接続
サーバーはWindowsなので、PCの名前では接続不可。×http://vs30/
→直接IPを指定すれば繋がるが、これを修正する。
△http://192.168.1.11/ → ○http://daiki.dyndns.org/
テキストの設定ファイルを作る(例:daiki.dyndns.org A 192.168.1.11)
→ノートパッドがあるので使ったら、ファイルが作れない。
→jeditで作ったが、これはシェアウェアなので
後でフリーのエディタを導入することにする。で、とりあえず完了。
メールの設定
ブラウザからniftyのメールへログインしようとするが、はねられる
→ブラウザが古いのが原因、最新版に入れ替え。
ついでにメーラーも設定、OutlookExpressを使えるようにする。
→メールを読み書き出来たが、サーバの既読メールを全部消してしまう。
→受信したメールを、niftyに転送し直す。
→とりあえずmacから送信された画像も見えるようになる。
日本語入力の設定
「ことえり」というのを使うのだが、非常に操作性が悪い。
→悪いというか、手に馴染んでいない。
→これをatok風にするパッチを発見。親切に、古いVer.にも対応。
→日本語入力環境、バッチリ。タッチタイピング、バリバリ。
Windowsとのファイル交換
ついでにここまでやってしまうことにする。
→自宅ではFTPサーバが動いているので、これを使う。
→Mac用のフリーのFTPソフトを探すが、なかなか無い。とりあえずfetchを導入。
→いちいち「試用する」と出るが、ファイル交換は出来た。
→Winで落としたMac画像を転送、ちゃんと見える。
→しかし、速度があまりにも遅い。
LAN接続の見直し
MTUの設定でいくらかは直ると思われるが、設定の方法が不明
→いろいろDLしてみたが結局わからず。
→現状10baseなので100にしたらと思うが、OS8.5に対応した製品が無い。
→諦める(T_T)
現在、このような状況です。LANのスピードが遅い点以外は、ほぼ満足のいく結果だと思います。普段使うマシンでもないので、LANの方は中古品のいい出物があった時にでも直してみましょう。
●記録者
上野大樹
●記録日
2004/1/14(水) 08:55
0687 re(7):新年のご挨拶
テーマは、「無明」というより「無明を去る方法」若しくは「無明を去るという意味」ということになるかもしれません。そこが、アジア人と欧米人でとらえ方が違うというのが、今回の「チベット永遠の書」で感じたことです。
まず「無明」の状態に関していうと、人間の存在がそのように作られたものということです。「未来がわからない」、そして同時に「過去がわからない」のです。もちろん過去は歴史として知ることができますが、未来も過去も感じることは出来ません。そういう存在として人間は作られており、だからこそ身勝手にいろいろな経験が出来るともいえます。
「未来」「過去」に関して面白いのは、実は先に書いたヘッセのシッダールタにも、そのあたりが出てくるので、ちょっとストーリーを解説してみましょう。
ヘッセのシッダールタは、我々の知る釈迦とは少し違う存在に書かれており、いわゆるゴータマ・ブッダとは別人になっています。シッダールタが沙門として修行中に、ブッダとの出会いなどがあるのです。
生まれはもちろん、バラモンの王の子として育ち、そして出家し、沙門として苦行します。そこでブッダに出会い、そこで「自我」というものと向き合います。
その後が面白いのですが、彼はカマーラという遊女に教えを乞います。もちろん肉欲の教えです。しかし彼は無一文ですので、その目的を達するために商人の元へ行き、商売も始めます。そこで彼は金持ちになり、肉欲におぼれ、博打にのめりこんでいきます。
長年そんな生活を続け、ある時急にその生活に嘔吐を感じ、離れていきます。そして川へ身を沈めて死のうと考えた時、水の中で「オーム」を感じ、そのまま眠り込みます。
その後沙門時代の友人に出会い、そして川のほとりの渡し守となってとどまることを決意します。沙門時代に自分を渡してくれた渡し守と一緒に。そこで川の声に耳を傾けながら生活を続けるのですが、ある時カマーラがむすこをつれてきます。カマーラはヘビの毒で死に、シッダールタは贅沢なむすことの生活に悩み、むすこは結局出ていきます。
シッダールタはむすこを探しに行きますが、思い果たせず、愛の苦痛を知り、小児人になってしまい、愛の愚行を繰り返し、失意のまま川に帰り、そして老渡し守にその全てをうち明けます。
そうしているうちに、彼には川の声が聞こえ始めます。川の中の多くの声、それは大人も子供も入り交じり、訴えも笑いも叫びもうめきも一つになり、すべての声・目標・あこがれ・悩み・快感・善悪、それらが一緒になった世界なのです。そしてそこに、「未来」も「過去」も一緒にあるということに気づくわけです。
この段階で、シッダールタはようやく「執着」を去ることができたようです。そして彼は、もはや自分には思想が無いと言います。言葉も同じく重要ではないと。いくら言葉を連ねても、「もの」から教わる方が遙かに多くのことを学べるのだと。それは、それを感じ取ることが必要だと言うことでしょうか。
思想が無くなったとすれば、それは人類としての知恵、つまり自我も無くなったと言えるのでしょうか?それとも、これこそが梵我一如の境地なんでしょうか。先の「永遠の書」の考え方とは、これもまた違っています。ヘッセの方が東洋的涅槃に近いようですし、よく言い表しているように思えます。もちろん、だからと言って自分自身がどうなるものでもありませんけれども。
●記録者
上野大樹
●記録日
2004/1/14(水) 23:20
0688 プリンター運命&復活の日
今回は運命と復活、両方いっぺんに書くという初めての試み。なんせプリンターというのは故障したらそのままというわけにはいかず、何とか印刷しないと仕事にならないからなのである。
まず運命の方からだが、弟が投げてあったのを拝借し、ずっとメインで使っていたEPSONのMJ-3000Cである。インクが無くなって無理矢理継ぎ足したなどと書いたのが昨年7月、No.0534「インク充填120%」という項である。その後の経過はリクエストが有れば書くと言っていたのだが、予想通り反応が無く書いていなかったのだ。いつもながら誰も興味は無かったようである。
とにかく、それからのプリンターの調子は、いきなり全部のインクが漏れてしまうというトラブルの後、再度充填し、その後はちょっとインクがにじむような感じだったが調子よく動いていたのである。だからつい先頃まで、ほぼ半年間はそのまま稼働していたわけなのだ。
だが、昨年末あたりから、時々全く印字されないということがあった。インクはきれておらず、ヘッドのクリーニングを1回か2回行うと、またきれいに印刷できるようになる。やはりインクの質が違うのが問題なのか、このトラブルが起こる頻度が多くなっていたのである。
このトラブルは、プリンターを頻繁に使っていれば起こらないのだが、しばらく使っていなかったりすると突如現れる。もちろん、そんな時は仕事で急ぎの出力をしたい時に限っているのは言うまでもない。
それから年が変わって、またまた急ぎの図面を提出することになり、提出期限の朝に印刷を開始すると、真っ白のまま。かなり頭にきつつもヘッドクリーニングを行う。念を入れて2回したが、次のプリントもまた真っ白。頭の中も真っ白になり、しょうがないのでデータを持って提出先の会社へ出かける。
あちらではちょうどパソコンを使用中で、仕方ないのでそこらのノートを借りることにするが、JW_CADが古いバージョンしか入っていない。回線はISDNだが、DLを開始する。ADSLならあっという間のところ、急いでいるのに10分近くかかる。ようやくDLを終えインストール、印刷はページプリンターだからあっという間に終了した。
はぁ〜っっと一息ついたわけだが、とにかく印刷できないと困る。そこで復活の方へ入るわけだが、長くなったので次回。
●記録者
上野大樹
●記録日
2004/1/15(木) 19:43
0689 プリンター運命&復活の日〜その2〜
さて、MJ-3000Cがダメになって、なんとか代替機を用意しなければならなくなった。A4までならBJC-35vがあるのでなんとかなるが、図面を出力するには最低でもA3が必要なのだ。本当ならA1が欲しいくらいだが、高望みをしてもしょうがない。
MJ-3000C以前はどうしていたかといえば、canonのBJC-455Jを使っていた。この機械は基本的には非常にいいと思っていたのだが、いかんせんプリントヘッドが静電気によって壊れやすいという弱点があり、愚妻の指先から発する電子ビームの破壊工作に対し、自衛の予算もなく為す術がなかったのである。
そんなわけでヘッドは黒もカラーも両方壊れて、455Jはそれ以降使う気力を無くし、そんな時にMJ-3000Cを手に入れたので、455Jの方はほったらかしにしてあったのだ。だからこの際、高いとはいえ新たなヘッドを買えば、とりあえず使えるはずなのである。
そんな判断の元、もう死んだ気で2880円ナリのヘッドを購入する。無論消費税はまだ外税だから、財布からは3000円以上無くなってしまう。そんな哀しみを乗り越えつつ、新しいヘッドを持ち帰り、早速455Jに装着するとあえなくエラー。つまり、本体が壊れているのである。
これは全く予想外だがどうしようもない。既に3000円という大枚を投資しているわけだから、これをムダにしないためには同じヘッドを使えるプリンターを入手しなければならない。古い機種だから、リサイクルショップなどを当たるのがいいのだろうか。
金さえあれば最初から新品を購入するのだが、貧乏故の試練、何としても探し出すつもりで、市内のリサイクルショップを巡る。しかし、A4プリンターはそれなりにあるが、A3対応のものは皆無であった。しかも、目的の商品が無くてもついつい店内をみて歩いてしまうため、時間も無くなる。
こうして失意のうちに帰宅、どうにも手詰まりになったわけだが、その日は無理をせず寝ることにして、新たな気分で対策を考えることにする。というか、夜はやっぱり呑みたいし、呑めばめんどくさいことなどやりたくなくなるのだ。
というわけで一夜が明けたわけだが、もちろん寝ただけで事態が好転するなら苦労することはない。状況は前日と全く変わらず手詰まりである。が、ここまで手詰まりなら、ダメ元でプリンターを分解して状況を確認してみようという気持ちもある。
黙って考えていてもしょうがないので、早速プリンターをバラしてみる。バラすと言っても外側のカバーを外すだけで、機械の部分はいじりようもない。とりあえずプラスチックのカバーを全部外した状態にして電源をいれ、動作を確認する。
そうすると、ギアがガリガリと空回りしてエラーが出て止まるのは、ヘッドが右端に寄ろうとする時であるのがわかった。手で押してみると、確かにそこからの動きが渋くなる。電源を入れ、空回りした瞬間に手で押してサポートしてやると、正常に動きエラーも無くなった。つまり故障しているのはその部分なのだ。
しかし、どう見ても壊れている様子が無い。ヘッドが止まってしまうのは、単に滑りが悪くなっているだけのようで、手の出しようも無い。明るいところへ持ち出してプラスチックの表面を確認したり、潤滑用のシリコンを塗ったりするが一向に改善しない。あれこれいじっているうちに、そのヘッドが当たっている部分を外してしまった。これはバネで固定されていたのだが、ドライバーでいじくって壊してしまったのだ。
外見上は壊れたがヘッドはぶつからなくなったので、それで電源を入れて動作を見てみることにする。カバーが無いのでターミネーターみたいな状態のプリンターがギコギコと動き、電源LEDが点灯して止まった。つまり、正常である。あれ?これでいいのかな?明らかにバネが外れているので、出荷状態とは違って壊れているのだが、それでも印刷さえできればそれでいいのだ。
その後PCと接続してデモプリントを繰り返すと、きちんと印刷されるようになった。ヘッドは新品だから、印刷のかすれなども無い。そんなこんなでBJC-455Jは復活するに至ったのである。もちろん、今後いつ壊れるのかは知る由もないが。
●記録者
上野大樹
●記録日
2004/1/15(木) 21:56
0690 re(8):新年のご挨拶
最近ではニューエイジ思想が定着しているようで、欧米でも理解者が増えているようですが、「チベット永遠の書」が書かれた頃はきっとチンプンカンプンだったでしょうね。
それにしても「無明を去る方法」とは、話題が滅茶苦茶難しいところに突入しちゃいましたね。何が滅茶苦茶難しいかと言うと、無明を去る方法は簡単なんですが、実行して身につけるのが難しいからです。
無明は真理を知らないということです。真理を知らないから欲望、執着に振り回され苦しみが生じる。この場合の「苦」はもちろん思想的な「苦」だけではなく、全ての現実的な「生活苦」を含んでいます。般若心経の冒頭にこんな一文があります。
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄」
仏陀が菩薩行を行い深い般若(真理知)に到達したときに、五感から生じるものは、全てが実体のないものであるが、これが苦の根本だと言うわけです。見て、聞いて、触って、嗅いで、味わい、それらから考え、思う事には実体がないと言うわけですよね。いきなり現実否定です(; ̄- ̄;)
そうかもしれませんが、出来ますか?そんなこと。。。見て、触って、味わっているものに実体がないなんて、本気で信じることが出来るでしょうか?絶望的なくらい無理な話ですよね。
でも、お釈迦様は「般若」に到達して、それらを達観した。その般若とは何かということです。般若は無明の反対です。明知です。だから、般若に到達することが無明を去る方法という当たり前の結論になります。
無明は真理を知らないということですから、反対に考えれば明知は真理知ということになります。でも、これは一般の「知識」ではないんです。知識も五感から生じたものですから知識ではありえません。じゃあ、どこにあるのか。それが前回にも書いた「内的な印象」だと私は思うのです。つまり「全知」です。
この内的な印象を感じ取れるかどうかにかかっている。これを感じるためには、瞑想するとか、集中力を鍛えるとかして、自分の心に敏感になる必要があります。無明を去る方法はこれだけだと私は思いますが、いかがでしょう?
般若心経には続いて次のように書かれています。
「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是」
「空」の解釈が難しいですが、ここでは老荘思想の「道(タオ)」のようなものということで良いかと思います。「心」と訳しても良いかもしれません。「全一」としての心ですね。「色」は現実、もしくは物質世界と訳して良いと思います。
とすれば「心と現実は不離一体である」と書かれていることになります。普通私達は、現実の世界で嫌なことが起こるから、苦しむと思っていますよね。ところが上記の解釈を適用すれば、「空」=「現実」ですから、心の中に嫌な部分、否定的な部分があるから現実もそうなる。と解釈することも出来ます。つまり、「想い」が「現実」になっていると言うことです。
この事が分かれば、広義での無明(苦の原因としての)を去る方法が分かりますよね。「苦」の心をまず無くすと、現実的な「苦」も無くなるわけですから。
具体的に言えば、不安、嫉み、憎しみ、悲しみ、怒り、執着、、、などの心を無くして、豊かで寛容な自分を作り上げていくということになります。
これが私が考える無明を去る方法ですが、どうでしょうか?
おそらくそれが、ヘッセの仏陀に書かれている、
>そして彼は、もはや自分には思想が無いと言います。言葉も同じく重要ではないと。いくら言葉を連ねても、「もの」から教わる方が遙かに多くのことを学べるのだと。
という部分ではないかと推測します。思想はそれ自体が執着と言えます。また、この場合の「もの」とは「色」のことだと思うのですが、、、
>思想が無くなったとすれば、それは人類としての知恵、つまり自我も無くなったと言えるのでしょうか?
無くなる事は無いだろうと思います。内的な印象は「全知」ですよね「全て」です。その中には私たちの「自我」も当然含まれなければ変です。けれども、その自我の使い方(使われ方)がまったく違ってくるだろうと思います。
現在の人間は肉体存在として如何に優位に立つかという方面でのみ自我を使っています。と言うか、自我を野放しにしていると当然そうなるわけです。もともと、自我はそのように進化してきましたから。
ところが、内的印象と結びつき、それに従うようになった自我は「全て」の表現者です。「全て」の中には無限の個性がありますから、それを一個の人間が全て表現するのは無理でしょう。私たち一人一人は「全て」の一面の表現者として自我を使うようになると思いますよ。
まあ、そのような表現者としての自我を作り上げるために「苦」はあるとも言えるので、やっぱり、無明を去る必要は無いのかも、、、でも、「苦労」はしたくないのが人情ですね(;´▽`A``
●記録者
くも
●記録日
2004/1/16(金) 05:02
0691 re(1):プリンター運命&復活の日〜その2〜
私も同じプリンターを使ってて、同じ経験をしました。そして、分解し同じように動きましたが、すぐに壊れました。今は、epson製を使用してます。
困ったときは、下記をご覧下さい。品番に固執するんならお得かも・・。http://search3.auctions.yahoo.co.jp/jp/search/auc?p=BJC-455J&aucminprice=&aucmaxprice=&auccat=23428
●記録者
けいぢ
●記録日
2004/1/16(金) 14:14
0692 re(2):プリンター運命&復活の日〜その2〜
むむむ?全く同じ症状ですか?それともただ分解して組み立てたら動いたということで同じだということかな?
ヘッドの動きとか、分解した時の対処方法とか、もうちょっと詳しく教えてくださいませ。オークションの方は、安いのがあったら入札します。
●記録者
上野大樹
●記録日
2004/1/16(金) 21:50
0693 re(3):プリンター運命&復活の日〜その2〜
ほほぅ。皆さん同じような経験をされていますね。
私の場合ですが、これまた古いドットプリンター(動き出すと話が出来ない)でしたが、印刷中にギギッとヘットが止まってしまうのだ。ヘットのスライドの軸のよじれかと思い見ましたが分からず(分かるはずがない)グリスを注すが良くならず。逆の発想と思い、ウエスでスライド軸をきれいに清掃してみました。そしたら見事に動き出すではないですか。古い潤滑油がかえって抵抗を生んでいたみたいで、思えば寒い朝一番が引っかかりやすかったです。
話が変わるが、先日妻の会社のインクジェットプリンタが紙を噛んで動かなくなった。詰まった紙も取れなく、部品も外れる始末で再起不能状態でした。すぐさま妻からコールが入り、プリンターを自宅に持ち帰り、私が見てみる事になった。最近のプリンターは複雑で、カバーを外すビス1本外すにも面倒であり、寒い夜でしたが、額に汗をかきながらの作業です。部品一つ一つバネの付いた部品が多く、細いラジペンを2本巧みに操ってやらないと組立できない。詰まった紙を取り除くため、ほとんど工作キットのようにばらばらになったプリンターを組立、終わり頃になると必ず部品が1つ余ってしまう。とほほです。(見事に完成はしております)
●記録者
いさむ
●記録日
2004/1/17(土) 11:21
0694 re(3):プリンター運命&復活の日〜その2〜
症状は、上野氏と同じでした。通常スイッチオンすると、ヘッドクリーニング見たいにグィーン・カチャッ・カチャッ・ギーッギーッギーッ。って動きだして、最後に右端の突き当り位まで行って、「カチッ」と収まるんですが、その「カチッ」がないの。それで棒をつかんで左側に引っぱると、ヘッドはレール伝いにスライドします。その際に気づいたのは、片面にギザギザがついてるベルトが回転しながらヘッドの引っ掛かりにかんでヘッドもスライドする。って寸法ですが、ヘッドが右端の格納庫に収まるときに、床部分の段差が引っ込むんだと記憶してます。たぶん、上野氏の取れたバネとゆーのは、その床部分が引っ込んだのを解除すると勝手に押し上げられるためのバネでないでしょうか?今は、そのバネが無いから、上に押し上げられなくて、結果床は必然的にバリアフリー状態。使える状態なのでいいのですが、ある日、ヘッドクリーニングをしようとするときに、それができればいいですけど・・・。あの床が上下するのは、ヘッドを固定しなければならない必要があるからだと思うんだよね。自分のBJ-455Cは、去年の春、お釈迦にしました。
いさむさん、こんにちは。それってエプソン製のプリンター使ってないすか?私のエプソンはプリンターは・・寒さに弱いです。PM-2000を使ってますが、BJ-455C同様、一度分解してしてしまいました。現在は、プリンターの電源は24時間つけっぱなしです。
●記録者
けいぢ
●記録日
2004/1/17(土) 17:01
0695 re(4):プリンター運命&復活の日〜その2〜
けいじ様、どもどもです。私のその寒さで不調のプリンターはNEC製です。エプソンも使っておりますが特に問題ないですね。ただし、インクのにじみ(用紙の角などにインクしみ)が多いように感じます。ヘットの当たりを調整してもあまり改善できませんね。インクジェットの宿命でしょうか。
最近はA4プリンターは安価で売られているので、使い捨てですかね。でもA3まで使えるプリンターは魅力ですね。非常に欲しいです。図面を書く訳では有りませんが、見開きの文書など作る時は便利ですね。A4を2枚印刷してコピーとっているのでは効率悪いです。
モノクロでいいからレーザーが欲しいこのごろです。会社では全部レーザーですので、大きい文書は会社でこっそり印刷してます。
●記録者
いさむ
●記録日
2004/1/17(土) 18:19
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