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過去ログ 2004年_1月後半


0696 re(4):プリンター運命&復活の日〜その2〜

 ふむ。軸の清掃ですな。今の話題で壊れたEPSONのMJ-3000CUは、そのスライド軸の清掃をするためのキットが送られてきていたのでした。不調が頻発し、メーカーがそのキットを送付することで対応したのでしょう。潤滑油を浸した布で軸を挟んで清掃するようになっており、動きが渋くなったらそれを行えば良い、ということでした。私も一度やったら、ヘッドの動きは良くなりましたが、インクが出ないのは別問題です。

 455Jは、軸の滑りは問題無く、今回は明らかにヘッドがぶつかって止まっていました。ヘッドがぶつかると下へ下がるようになっている部品があるんですが、そこの滑りが悪いのか、止まってしまい、ヘッドを駆動するベルトが空回りするのでした。

 分解のしやすさは、メーカーの設計の違いかもしれませんね。455Jは意外にバラしやすかったです。ビスを一本も外さないでカバーを全部取ることが出来ましたので。組み立てラインもその方がコストダウンになるような気がしますが、ま、メーカーの勝手ですけどね。

●記録者 上野大樹
●記録日 2004/1/17(土) 21:28


0697 re(4):プリンター運命&復活の日〜その2〜

 なるほど、ほぼ同じ症状のようですね。それで、前の書き込みでは「分解し同じように動きましたが」と書いておられますが、どのように対処したのでしょうか?

 当方では、先に書いたとおりその部分を壊してしまったのです。壊すつもりは無かったのですが、いじくっているうちにバネが外れ、通常は上に出ている筈の部分が、下がりっぱなしになって、結果、ヘッドの動きを妨げなくなりましたが、本来は上に上がっていて、何らかの機能をしていた筈なのです。

 ヘッドクリーニングをしてみればわかるということでしょうか?壊した後にクリーニングは何度かしておりますが、とりあえず今は通常動作しております。

●記録者 上野大樹
●記録日 2004/1/17(土) 21:29


0698 re(9):新年のご挨拶

 「無明を去る方法」ですが、もちろん簡単ならば誰もがそれに挑戦し、皆が平安な心を獲得し、そして人類全て幸福になったと言えるのかもしれません。しかし、問題なのは人間としてはそれでいいのかというところです。

 人間は、わざわざ「無明」の状態にされて存在しているわけです。それは「宇宙」という自分自身を客観的に観察したり、宇宙の全知から離れていろいろな経験をするためだということは、もう何度か話題にもなっています。

 そういうことならば、我々が真理に到達せず、煩悩に振り回されて「苦」を経験するのは必然的なことであって、それでいいのであり、それこそが人類の目的ということになるのです。「悪」があるからこそ相対的に「善」があるのであって、人類全て善人になってしまった時、それは既に「善」とも言えなくなり、本当に幸福なのかどうかすらわかりません。「宇宙」から見れば、わざわざ「悪」を創ったのに、お前らはなんで悟ったりなんかするんだ、「悟り」なんかは分かり切っているんだから、肉体を持った生き物としてちゃんと苦楽を味わえ、と言いたいのじゃないでしょうか。

 また、今我々に対して苦や楽を与える「実体」ですが、それが空虚なものであることは考えてみるとわかります。我々の世界は原子から構成されているわけですが、その原子の「実体」はどうなっているでしょう?中心に陽子や中性子からなる「核」があり、その周りに「電子」が廻っているわけですが、どちらのサイズもその原子の直径から比べれば微々たるものです。ほとんど空洞なのです。しかもそれら原子を構成する粒子は、位置や質量を特定することが物理的に出来ません。それが人間の知性の限界なのです。

 現代物理学はそこまで行き着きました。最近の物理学者が、「宇宙には意志がある」と言い出すのも当然のことなのです。そうでないと理屈が合わない、ということです。これは物理学の知識、つまりくもさんのおっしゃる五感から生じた「知識」であるわけですが、これはこれで真理に近づいていくか、真理の方向性を指し示しているものだと私は考えています。

 もちろん、本当の「全知」に触れるには、お釈迦様のように「悟る」とか「涅槃に至る」「彼岸に至る」何でもいいですが、そういう状態が必要でしょう。しかし、それを我々が欲しているかどうかなのです。もし我々が悟りの状態になれたとしたら、今の生活は全く無意味になるでしょう。森の中で木の実など食べて、そして他に誰か生かしてくれるものがあればよし、食べる物も無くなって死んでいくのもまた良し、屍は鳥にでも喰われればそれでよし。いわゆる我々の現実社会における幸福とは全然次元が違ってしまうのです。

 逆に我々には、苦労もあるけれども楽しみもあります。身内が死ぬという哀しみ、そして自分自身が死ぬという恐れ、いろいろなものに対する怒りもあります。そういう喜怒哀楽を持って生きるか、それともそれら一切を平坦にしてしまうか、どちらがいいのでしょう。

 私としては、「無明を去る方法」を研究するだけでいいと思っています。本当に悟ることは出来ませんが、それなりに心は平安になります。欲を無くすことは出来ないけれども、減らすことは出来ます。そこに気がつくだけでいいのではないかと。

 だから、「思想が無くなる」という状況もはっきり定義できないにしても、考えた末に思想は無意味なのだと気がついたとしても、やはり「自我」は歴然と存在しています。存在というか、確かに自分は自分だと思ってはいます。その自分が、実は宇宙と一体だと体感できたら、もう一般社会には戻れそうもありません。考えるのではなく、体感するということです。その時、それでも「自我」があると言えるのかどうか、定義として言えるというのではなく、たまたまそこに肉体があったとしても、もはやそれは我々のいう「自我」では無いような気がします。

 ちょっと言葉の解釈の話しだけになってしまいそうなので、今回はこの辺で。次回はもう少し内容を整理してみたいと思います。

●記録者 上野大樹
●記録日 2004/1/17(土) 21:30


0699 re(10):新年のご挨拶

 大樹さんの仰りたいことは良くわかります。けれども悟ると苦は無くなるのでしょうか?「チベット永遠の書」に「全ての人が幸福になるまで、自分の幸福も無い」と書かれているのがその答えだと思うのです。ある実業家も「社会に貢献するということを知ると、もう戻れなくなる」と同じようなことを言っている人もいます。
 悟ることで個人的な苦は無くなるのかもしれませんが、全部の苦がなくなるわけではないのでしょう。もっとも、悟り=無苦だと定義すれば、それは悟りとはいえないでしょうが、、、

>しかし、問題なのは人間としてはそれでいいのかというところです。

 大樹さんも転生輪廻の事を書かれていますが、生まれ変わりがあるとすれば、その各生での経験はどこに行くのでしょうか?私達は自分の過去世というものを覚えていません。ですが、各生での体験は私たちの意識のどこかに存在しているはずですよね。

 善悪いずれの体験でもかまいませんが、それらが私たちのどこかに累積されているということは、同じ過ちを犯さなくなっていくということになりませんか?(もちろん何度も同じ過ちを繰り返す人もいますが、永遠に繰り返すわけではないでしょう)
 意識する、しないに関わらず、過去世での経験は私たちの人生に生かされているはずだからです。もっとも、これは今生に限って言えばそのような認識はもてないかもしれませんが。

 ですから、転生輪廻をものすごく長い視点で眺めれば、どんな人も結局は悟ることになると思います。たとえば、数百年前戦国の時代では人を殺すことは当たり前のようなことでした。今はどうでしょう。曲がりなりにも「どんな」理由があっても殺人は罪という認識に至っています。こういう認識の進化は人類的な一種の悟りではないでしょうか?

 それで、苦は減ったかというと、そうでもないでしょう。明日殺されるかもしれないという不安は激減しましたが、それに代わって新しい苦は増えました。生死の問題に比べれば大したものではないとしても、、、つまり、その時の認識力に応じた苦は存在しているということです。

 でも、今生ということに限って言えば、大樹さんの仰る通り、悟りに執着する必要はないと私も思います。苦も楽もその人の楽しめる?範囲内である限り、そう切羽詰って悟りがうんぬんというより、良いことも悪いことも一日一日を楽しんだ方がずっと健康的です。

>「宇宙」から見れば、わざわざ「悪」を創ったのに、お前らはなんで悟ったりなんかするんだ、「悟り」なんかは分かり切っているんだから、肉体を持った生き物としてちゃんと苦楽を味わえ、

 ご指摘のように「悪」はわざわざ創られたものなわけです。絶対悪というのは存在しない。擬似悪なわけです。これが悟りなんじゃないかと思うんですが(;´▽`A``
 普通、悪は絶対悪として存在していると思っているんじゃないですか?だから悪(苦・不幸)と『戦って』克服しようと多くの人は躍起になっていますよね。それを擬似悪と言ってのける大樹さんの感性に感嘆してしまいます。どこからそんな発想が出たのかとても関心があるのです(失礼かもしれませんが)。

 擬似悪、という言葉の裏には宇宙は善であるという認識がありますよね。宇宙は善のみの世界である。でも、大樹さんも書いていますが、善のみの世界では善がどういうものかすら分からない。だからこそ悪のある世界も必要なわけです。で、擬似悪のある世界が作られた。作ったのは誰か、全一としての私たち自身です。

 でも、それは苦を経験するだけに作ったわけではないでしょう。苦を乗り越える「喜び」をも経験するために、この世はあると思うわけです。(唯一善の世界では喜びだけがあるわけですから、喜びがなんなのかも分からない。同じ理屈です。)
 苦を乗り越える喜び(悟り)を経験し尽くせば、宇宙は無用の存在になるでしょうが、「し尽くす」には一体どれだけの時間が必要なんでしょう。。。そして「し尽くさない」限り、自我は必要なものです。それなしには体験できないからです。
 だから、悟りを開いたからといって無一物になったり、原始的な生活に戻る必要はまったくないと思います。

>その自分が、実は宇宙と一体だと体感できたら、もう一般社会には戻れそうもありません。考えるのではなく、体感するということです。その時、それでも「自我」があると言えるのかどうか、

 一体感を体験したとしても、一般社会に戻れないということは無いでしょう。むしろ、積極的に一般社会の中に入り込もうとするはずです。今以上に。でも、無理強いは絶対しないでしょうから、それが積極的といえるのかどうか。。。
 チベット永遠の書では、賢者は隠遁生活をしていますので、一般社会から逃れているような印象をもたれたのかもしれませんが、彼らが社会から隠遁しているように見えるのは、無理強いを絶対しないからだと思います。

 彼らは機を見るに敏なのです。「縁」を見るというか。縁無き衆生度し難しといいますが、このような経験は無いでしょうか?
 勉強でも何かの説得でもそうですが、自分が教えても全然分かってくれないのに、他の人が話をしたらすんなりと得心した。まったく同じ事を同じように説明しているのに〜って。
 この違いには「縁」が働いているんです。教える側も、教えられる側も、両方にとって「利(利害とは違います)」が無いと、このようなことになります。そればかりか悪くなる(こんがらがる)こともあります。
 こうした摂理をいわゆる賢者は熟知しているんですね。彼らは私たちと違って縁を見逃しません。けれども、縁が無い場合は無理を押してということはしません。共鳴の原理は心の世界でも真理だからだと思います。

 このような活動は当然自我なしでは出来ません。自我は表現者だからです。言ってみれば、自我は野生の馬のようなものだと思います。それが騎手に従って走るようになるには、うまく調教されなければいけません。調教とはこの場合、私たちの転生輪廻で繰り返されている様々な経験です。

 騎手というのは本当の自分(魂)です。内なる印象に従うというのは、この魂の考え・思いを受信できるということです。これが悟りだとも思うのですが、この状態になったからといって馬がいなくなるわけではありません。でも、騎手がいるのと居ないのとでは、馬の行動は随分違うはずです。
 これは自我が無くなるということではなく、自我の進歩だと思うのですが。。。当然、進歩する前と後では、様子は全然違うでしょう。

 最後に「悟り=喜怒哀楽が無くなる?平坦になる」ということはないと思います。むしろ、今の私たちのほうが喜怒哀楽を知らないのです。もしくは「怒と哀」の系統しか知りません。悟りを開くということは、心、感受性が精妙になるということです。もちろんそれらをコントロールする術も知るでしょうが。だからこそ彼らは人の心にも敏感であり無理強いをしないのだと思います。

 波だった水面に石(喜怒哀楽)を投げても、その波紋は見れませんよね。凪いだ水面にだけ波紋は映ります。そんなだから、死んだとたんに遺産相続の話をしたり、生前の悪口を平気で言える人がいるんじゃないでしょうか?彼らはまさに野生の自我の持ち主ですが、喜怒哀楽の持ち主しょうか?

 弱い子をいじめた経験のある子が、いじめの理由を聞かれて「楽しいから」と応えた子供がいました。それは本当に「楽」なんでしょうか?明らかに違うと思いませんか?
 このような勘違いは大なり小なり私たちの誰にでもあるものだと思います。その勘違いが大きくなればなるほど「無明」小さくなればなるほど「悟り」ということではないでしょうか?どの程度自分が勘違いをしているかは、自分ではなかなか分かりませんけど。。。

 ですから、私の考える悟りとは、悲しむべきときに悲しむことが出来、怒るべきときに怒ることが出来る。そんな当たり前の心の持ち主になることです。それが無理にではなく、ごく自然に、素直にそうなれる。それが悟りではないかと、、、そう思います。

 そういう素直な自然体で居られるとき、私達は内的直感(魂の声)にも耳を傾けることが出来るのではないかと。


 本当に最後に、学問的?に言うと悟りに至る道は三つあります。苦行者(本能)の道と、信仰(感情)の道と、哲学(知性)の道です。どれも、結局は内的な声を聞く地点に到達します。これらの道はいずれかの道で、人生の他のことを捨てて打ち込んでも幾転生かかるでしょう。職業に関わらず、殆どの人はこの三つのいずれかの道を歩んでいます。

 でも、ずるがしこい道と言われるもう一つの道があります。興味があったら試してみてください。

 実行するためには二つの事をしなければいけません。一つは徹底的に自分を無視すること。もう一つは常に意識的でいることです。
 最初は常に意識的でいられるようにならなければいけません。そうでなければ完全に自分を無視することは不可能だからです。

 意識的でいるためには、次の事をします。
 まず、自分の全身を常に意識します。自分の手の動き、脚の動き、内臓の感じ、、、そういったものを常に意識します。
 次に、自分の心にも意識的になります。このとき、徹底的に観察者になります。自分の心に湧き起こる思い、考え、感情を観察しつづけます。観察していることを意識してそうします。しかし、その思い、考え、感情にどんなものが湧き起こっても手を出してはいけません。完全な傍観者、観察者になることが必要です。つまり、自分の考え、思い、感情に同化してはいけません。
 次に、肉体と心に対する意識的な観察を統合して出来るようにします。

 これが出来るようになったら、次に無視の作業に入ります。自分の心に湧き起こる、怒り、喜び、、、あらゆる感情、そして思考、苦痛、疲労、、、そういったものを無視しつづけます。否定ではなく無視です(感情と同化しないと言ったほうがいいかも)。でも、とても危険です。自己崩壊するかもしれません。そんなこと書くな!って(; ̄- ̄;)

 若いときにこれをやっておかしくなりかけたことがあります。。。今もおかしいって言わないでくださいね〜。

 意識的でいるのは、危険性は余りありません。でも、最初は運転中とかはやらないほうがいいでしょう。やっぱり危険です。

 これをやると、心の働き、動き、有意義な部分と無意味な部分が良く分かります。その思考がどこから出ているのか、過去のどんな体験がその思考に結びついているのかが良く分かります。ついでに過去のどんな思い、考えが、現在のこの状況を引き起こしたのか、つまり「因果」が分かりはじめます。

 自己無視をすることによって、感情の出所がわかります。つまり、上記の勘違をしなくなります。同時に、自我からの感情と魂からの感情の違いが分かるようになります。どちらに従うかは意識的でいることをやめない限り自由です。
 自己無視をすると、かえって自分の感情や思考に非常に敏感になります。自分の感情の出自、思考の経路がわかるので、他人の思考経路もわかるようになります。なぜ、その人がそのように考えたかが手に取るように分かり始めます。
 敏感になるのに無視しなければいけないので、ケツの穴が四六時中むずむずします。その忍耐力は半端じゃないです(;´▽`A``
 やりすぎるとたぶん発狂しちゃうと思うので、ある程度のところで自己無視は止めるのが無難です。

 余分な話だったかもしれませんが。。。長文失礼いたしました。

●記録者 くも
●記録日 2004/1/18(日) 03:44


0700 re(5):プリンター運命&復活の日〜その2〜

けいぢです。BJ-455Cの分解対処ですが、レールとか紙送りのローラーとかベルトとか、指が触れるところは、それはそれは丁寧に拭いてあげました。特に、ヘッドの格納部分は、かなり汚れてたんで(ヘッドクリーニングの際のインクが凄いんだと思われます)、綿棒やティッシュで奇麗にしました。バネは取れてないです。でも、自分で直したと自覚してから三日目位で、インクが全く出なくなったので、ヘッド自体が寿命と判断し、5000円(だったかな?)出して直すのも勿体ないし捨てました。キャノンは、インク代が安くて助かったんだけどね。たぶん、致命的な故障部分は大樹さんとはちがうのかもしれないです。

●記録者 けいぢ
●記録日 2004/1/19(月) 18:27


0701 re(11):新年のご挨拶

 私が定義している「悟り」では、「苦」は無くなります。元々自分が作ったものだとわかる(実感として)わけですから。シム・アースをやっていて、そのプログラムを全部解析したようなものです。

 宗教的な問題になると、そのような「悟り」では衆生を救えないため、あえて悟りを開かずにその前段階の状態にとどまって人々を助けようという「菩薩」という概念が必要になってくるようですが、私がここに書いているのは「真理」がどうなっているのか考察したいという欲求によってやっているので、「衆生を救う」という考え方は、私にとってこの場では必要無いわけです。

 考え方としては、いわゆる小乗仏教が陥っているニヒリズムの方に近いかもしれません。いずれにせよ私は悟ろうとしているわけではなく、この問題を人生の役に立てようというわけでもなく、人のためにしようというのでもなく、悪く言えばただの興味本位と言えるでしょう。おそらくこの辺りがくもさんとの違いなのだと思います。くもさんの場合は人のために役に立つようにしたいという希望が見えていますから。

 私の場合はそのへんの縛りが無いので、勝手な発想をさせて貰っています。宗教の本と同じレベルで物理の本も読み、そこから真理らしいエッセンスを抽出していくのです。そして私の場合、くもさんのように物事を複雑に考えることが出来ないので、何でも単純化していくのです。くもさんが高速なマルチCPUを乗せメモリもたっぷりあるPCだとすれば、私はシングルCPUで速度も遅くメモリも少ない一昔前のPCです。だから、人の半分の思考能力でそれなりの結論を出す方法を考えるわけです。

 さて、そうして考えた時に、どうしても「魂」なりそれに類するものが存在すべきであるという結論に達し、それが実は宇宙そのものであり、「神」であり「大日如来」であり我々の造物主としての意志であるに違いないと考え始めました。呼び方は何でも良いわけです。日本語にするよりブラフマンというのがいいかもしれません。

 状況証拠でしかありませんが、様々なジャンルの本を読みつつ、真理のエッセンスを抽出した結果がそのブラフマンの存在なのです。そこでそういう「魂」なり「精神」があると仮定すれば、当然「輪廻」はあってしかるべきということになります。

 そこで疑問に思っていることは、その「魂」にヒエラルキーが存在しなければならないという点です。魂ははっきりした形も無く、実際は宇宙と一体ですから境界も無いはずなのです。しかし、肉体を与えられそこに宿る形になると、宇宙からは切り離された、つまり「無明」の状態におかれます。そしてその肉体が滅びても、すぐに宇宙に戻るわけではなく、ほとんどそのままで別の肉体に宿ったり、ある時は他の魂と多少混じり合ったり、分割されたり、完全に宇宙と一体になったり(これが解脱ですな)、いろいろな状況があるとしなければなりません。このあたりの状況を表しているのが「チベット死者の書」だと考えています。どうもそういうヒエラルキーを、実際はどのような形で実現しているのか、そのあたりが不明ですが、とにかくそう有らねば説明がつかないということです。

 さて、そう考えていくと、魂は進化する場合もあれば、同じレベルで輪廻し続ける場合もあるということになります。ここで、進化はあくまでも上のレベルに達するという意味であり、「悟り」とは違うと考えています。大乗仏教では死ねば皆「仏」になるという救いを用意していますが、そうではなく、「輪廻」から「解脱」できて初めて「仏」であるという結論になってしまいます。もちろんお釈迦様のように肉体を持ったまま「解脱」されるという尊い方もいらっしゃるわけです。

 そして、そういう釈迦は、では「悟り」に関してその方法論であるとか状況などを説いたかといえば、スッタニ・パータを読んでみる限りそんなことは書かれていません。終始、欲望を起こさないよう気をつけよとか、心を静めよとかそんなことが問答形式で語られているだけです。何で読んだか忘れましたが、釈迦も「悟り」と「救い」の矛盾を悩んだのだったと思います。

 というわけで、私の場合は「悟り」はその釈迦の到達した段階だけを意味しています。「悟り」にはヒエラルキーは無いのです。だから「永遠の書」の賢者は、「菩薩」的な状態と認識しております。彼らは積極的に衆生を救おうとしているわけですから。

 では、釈迦は衆生を救おうとはしていないのか、ということになりますが、そうかもしれません。私の考える「悟り」は、人間社会には何の役にも立たない!のです。それでいいと思っています。このBBSのようなもので、思想が空回りしているだけなのと同じです。私の思想は全く世のため人のためにはならないという結論ですので、とりあえず人間社会の方には、肉体的な奉仕をすることにしております。

●記録者 上野大樹
●記録日 2004/1/19(月) 21:25


0702 re:0700 おめでとうございます!!

 けいぢ様、おめでとうございます。0700番、キリ番ゲットでございます。

 さて、キリ番をゲットされたお客様には豪華景品をご用意致しておりますが、実は最初に用意していたOMRONの高級モデムは、会員用掲示板の方で0100番を取られたお客様に差し上げることになりましたので、別の景品にさせていただきます。

 二番目の景品は、HDDに致します。Caravelleの44LGという製品で、接続はSASIになります。私が\118,000で求めた品でございますが、0700番という大台ですから、この際涙を呑んで手放すことに致しましょう。ちなみに容量は40Mbyteという大容量でございます。

 ところでプリンターの件ですが、分解掃除をされたわけですね。しかし、BJC-455Jの場合は、ヘッドは完全に独立・別売りですので、インクが出なくなったのは単純にインク切れと思われます。ヘッド代\2,880は買うのに勇気が要りますが、お釈迦にするよりいいかもしれません。

 今、当方の445Jは新品ヘッドのインクが切れ、仕方ないのでcanonの別製品のインクを無理矢理補充して使用中ですが、何とか使えております。けいぢ様の方は私が壊した部分をいじっていないということですので、故障原因は違うということですよね?それならば、次回インク詰まりでダメになった場合は、また新品のヘッドを買えば復活するということなので、一応安心しております。

●記録者 上野大樹
●記録日 2004/1/19(月) 21:26


0703 re(12):新年のご挨拶

 大樹さんとの視点の違いは理解しているつもりです。そのため恐る恐る書いている部分もあり、その辺が複雑(回りくどく)なっているのだと思います。
 真理は常にシンプルというのが私にとっても持論です。でも、説明しようとすると小難しくなってしまいます。私の文章能力の無さが問題ですが、その辺を御理解頂いて辟易せずにお付き合い下されば幸いです。

 御指摘のように、この手の知識を役立つようにしたいという希望はあります。人のためにというよりは、何故か分かりませんが子供の頃から事あるごとに考えてきたことなので、それが全く役に立たないのでは単なるオカルトということになってしまいます。それだと、考えつづけてきた自分自身の価値が崩壊してしまいそうな、、、極めて独善的な理由です。
 かといって、こじつけで自分を納得させることも出来ないわけで、不便なものだと痛感しております。

 回りくどい論議を避けるために、私が考えていることを大まかに書いておきますね。また長くなりますが。。。(^^;

 神秘学の方では3分節というのがあります。「霊・魂・体」というものです。この三つは人によって定義がまちまちで、非常にややこしいのですが、ここでは取り敢えず次のように定義させてもらいます。私の定義ですが、、、

霊:純粋なエネルギー。神。
魂:個。本来の自分、輪廻転生の核。
体:肉体を含む自我意識

 純粋なエネルギーである霊が個を持つには「場」がなければいけません。この「場」を規定するものが神の意志(思い)で、エネルギーから物質が形成されたのと同じ現象だと思います。この「場」は質量(物質)という形になります。簡単に言えば魂にも身体があるということです。この身体なしには霊(エネルギー)は拡散してしまい個を保てないはずだからです。

 魂の世界では「個性」はあります。個性とは神の全てから規制を受けた神の一面ということです。その一面のエネルギーが形の中に封印されるわけです。もっとも、この時点での形態は3次元世界の物質と比較すると極めて希薄ではないかと思います。希薄といっても自由度が高いという意味です。
「個と思えば個、全てと思えば全て」といった言葉が神秘学に残されています。ですから、魂の世界では形態が与えられたといっても「全て、全知」の状況に殆ど変わりは無いと思われます。

 この魂は、神の「自らを体験する」という目的にそって、経験する実体をそれぞれに創出します。それが「体」私たちです。この世を「現世(うつしよ)」というのも、魂世界の転写的な意味合いがあるからといわれます。つまり、神が魂を創り、魂が私たち(自我)を作るという順になります。

 霊(神)の三位一体は「真・善・美」といわれ、その三位一体が魂世界では「意志・愛・智慧(仏知)」とされます。この三つは私たちの世界では「知識・感情・本能」と転写されています(三つでなくてもよさそうですが)。それぞれは以下のように対応しています。

霊 …   魂   … 自我
―――――――――――――
真 … 意  志 … 本能(肉体)
善 … 智  慧 … 知性
美 … 愛(慈悲)… 感情

 霊は純粋なエネルギー世界で三つの特性に区別はつかないので三つで一つです。で、他の六つには形態がそれぞれに与えられています。つまり、人間の構成は丁度7層の玉葱のようになっているとされます。
 もっとも、肉体を純粋物質として、本能の働きをエーテル体という身体の作用と解釈する向きもあります。働きがあるということは、そこに精神(エネルギー)が作用しているという考えです。

 本能・感情・知性は其々に霊的な身体をもっていると考えられています。名称は、、

 本能=エーテル体
 感情=アストラル体
 知性=メンタル体
 智慧=コーザル体
 慈悲=ブッディー体
 意志=アートマー体

 という名称がついています。

 魂それ自体が転生することはありません。自我の経験は逐次魂に転送されますが、それらは印象(イメージ・波動?)という形で転送されるようです。ので、魂は自我が経験する全てを経験していますが、言語的に経験しているのでは無いと思われ、その為、転生者が過去世の名前を思い出す、、、というのは極めて稀なケースだと思います。
 自我の経験が魂に転送されるということは、実は転生する必要性がないということを示してもします。このことは後述します。

 魂は転生が決まると過去世の印象に基づいて肉体を形成するように仕向けます。
 遺伝子学の研究で知られる筑波大学名誉教授の村上和雄という人が「人間は遺伝子に込められている能力の数パーセントしか使っていない。この能力を開くためには、なにか人間の目には見えない素晴らしい力(サムシンググレート)が必要であり、それを動かすもととなるのがプラス思考である」

 といっていますが、同様のことが肉体形成時に行われると考えられ、私達はこれをカルマと呼んでいます。が、これらはあくまでも可能性で決定事項ではありません。で、大樹さんの言うシムアースという表現に時折戸惑うわけです。どうも完全管理されているような印象を受けてしまうもので、、、
 別の話題になりますが、完全管理されているということになると、善悪の選択責任は私たちには一切ないということになってしまいそうで。。。

 戻りますが、輪廻は魂の三つの領域を経験し尽くすまで続きます。つまり、智慧、愛(慈悲)、意志の順に経験してゆきます。魂の持つ個性による三つの段階を表現し尽くすまでと言った方が良いかもしれません。し尽くしたらどうなるかというと、魂は形態を捨て霊に回帰するか、そのまま継続することも自由だと言われます。

 もっとも、これらは人間という枠の中での話で、し尽くした魂は次のステップ、つまり月とか惑星とか恒星へと移行してゆくとされます。人間としては解脱していますが、個性としてはまだ残っているわけです。もちろん相応の苦は存在するはずですから、その意味では解脱ではないということになるでしょう。
 余談ですが「霊・魂・体」の霊は恒星意識だという説もあります。私にはわかりません。

 このことを話していて、ちょっと考え込みました。神に「苦」は無いのだろうか?といことです。
 私たち人間は、仮に自我部分だとしても、神の一部であることに変わりは無いわけで、私たちが苦しむということは神も苦しんでいるということになります。では、神は解脱していないということになるのでしょうか?もしそうなら解脱はありえないということになってしまいます。どう思いますか?

 で、自我は転生しないということについてです。これはまだ結論しているわけではありませんが。転生という目的は今までの中で出てきたように「経験」という所為が大きいわけです。しかし、この経験のエッセンスは既に魂の中に送られています。
 また、魂は過去世の体験に基づいて新しい肉体の形成の際にそれを織り込みますから、自我が継続的に転生する必要性がありません。
 自我を主体に考えると、転生は必要不可欠のように思われます。が、あくまでも経験の主体は魂だと思えるのです。もし、自我体が転生するのであれば、前世の記憶を保持する確率は現象的にもっと多くならなければいけないような気がします。

 もっとも、このことは自我意識が死と同時に無くなるということではありません。ある程度のタイムラグはあると思います。が、自我を構成する霊的身体もいずれ崩壊するのではないかと思うのです。
 このことは自然のリサイクル性という特色にも見ることが出来ます。また、自我自体が輪廻を繰り返し、あらゆる成長を遂げていくとしたら、今度は逆に魂の存在理由がなくなります。自我が魂のレベルまで成長すればいいだけですから。

 単純に魂を無視することも可能です。それでも、大方の説明は可能だと思います。

 この中間的な説に魂が複数の自我体の集合だという考え方があります。スウェーデンボルグという人が、魂の兄弟という表現を「霊界物語」という本の中で披露しています。これだと分かり易いんですけどね。意外とそうかもしれません。
 もしかしたら、このように定義すること自体が不可能なのかもしれないと時々思います。2次元世界の人間に、3次元世界を説明しろといっているような感じですから。

 最後に、神秘学で人間が犯している三大錯覚というのがあります。それは「時間・空間・自我」なんです。この三つが人間を無明に貶めているというわけです。
 瞑想に取り組むと、この三つが確かに普通認識されているものとかなり違うということが分かります。誤解を恐れず言えば、この三つはともに不定形で、無いといってもいいくらいです。過去、現在、未来、そして、ここ、あそこ、それ以外、と、私、あなた、それ以外の人、、、これらがたった一点に折り重なって同時に存在しているようなイメージです。

 しかし、私達はその中の一つしか認識しようとしない。一つしか認識しようとしないので、他のことは分からない。だから無明というわけです。平たく言えば、自分のことしか考えないと、どこかでトラブルが起こるでしょう。そのトラブルを起こしておきながら腹が立つとまた怒る、、、無明ですよね。。。理由は執着があるから一つのことしか見えないということになります。

 スッタニ・パータは悟りの方法論で満ちています。というより実践書だと思います。冒頭の蛇の章から悟りについて書かれていると思うのですが。。。「この世とかの世とをともに捨て去る。」と繰り返し書かれています。また、6章の破滅の項や次の7章も全て無明の具体例だと思うのですが。。。

 うわ〜やっぱり長くなっちゃいました。

●記録者 くも
●記録日 2004/1/20(火) 08:20


0704 re(1):re:0700 おめでとうございます!!

わーい!!どうもありがとうござんす。アクセス番なんて見てかいとことはないので、ビックリです。簡易掲示板でも書き込みさせていただきましたが、PCのHDがいかれました。景品のCaravelleの44LG、接続はSASI、容量は40Mbyteは、私のPCにもくっつけば、至福のいたりです。って、40Mって40メガバイトってことかな?

●記録者 けいぢ
●記録日 2004/1/20(火) 13:00


0705 re(2):re:0700 おめでとうございます!!

 いや…景品で喜ばれても困りますが…(^^; スペックは書いたとおりでして、値段も書いたとおりなんですが、購入したのは平成元年なんです。

 ここのとこはジョーク的景品として笑って貰えばそれでいいわけでして、もちろん現品が欲しいという事であれば進呈します。接続は不可能ではありませんが、SASIのインターフェースカードが現存する物かどうか、わかりません。我が家にあるのはCバス用、つまりNECの9801シリーズ用なので当然使えません。

 アクセス番号というか、記事の番号ですね。ここのBBSでは、トップページのカウンターではなく、あくまでも書き込んだ記事の番号でキリ番ゲット者を決めているというわけなのです。

●記録者 “D”
●記録日 2004/1/20(火) 14:28


0706 re(3):re:0700 おめでとうございます!!

やられた。新春にそろそろキリ番を狙えると思っていたのに。くやしい。

毎日チエックしないとキリ番ねらえないな。というより、キリ番の事をすっかり忘れていました。けいぢさんがキリ番の話をしなければ、気が付きませんでした。

●記録者 いさむ
●記録日 2004/1/20(火) 15:36


0707 re(13):新年のご挨拶

 では、もう少し視点の違いについて書いてみたいと思います。視点の違いと、アプローチの違い、目的の違いなどについてです。

 まず目的の違いということで、先に書いたようにくもさんはこれらのことを実生活というか人生に応用しようと考えていらっしゃいます。それは当然過去の宗教者も考えてきたことで、釈迦ですらそのことで悩み、その後の仏教の方向性もそこを模索しているのだと思います。ですからくもさんの理論がどんどん複雑になり、説明するのにどうしても長文になってしまいがちなのはそのためなのでしょう。「悟り」から「救い」という流れが元々矛盾したものを含んでいて、そこを説明するための様々な知識を、くもさんはお持ちのようです。

 私の場合は、元々宗教的なこと、神秘的なことには全く興味は無かったのです。霊的なものを感じる力もまったくありません。そういうものが最初から感じたり見えたりする人は、興味を持ち、深く研究し、知識も増えていくのだと思いますが、とりあえず私はそのあたりの知識はゼロからのスタートでした。

 私が興味を持っていたのは物理的なことで、量子力学や、いわゆる科学体系からの宇宙論みたいなものは良く読んでいました。そこにはもちろん「魂」も「輪廻」も存在しません。理論物理学が先行し、実験物理学がそれを検証していくという世界です。そういうものしか頭に入らないのです。理系の頭というのも不自由なものです。

 ところが、物理学者の中でも人間の意識、さらに「超意識」といったものを研究している人がいるのです。今回くもさんの書かれている六つの霊体の名称、これなどがその物理学(と言えるかどうか少なくとも著者はエンジニアです)の本に出てきています。もちろんそのままではなく、多少形が変わったりしています。

 これが大切な部分なのです。宗教ではこう言っている、物理学ではこう言う、それぞれの理論の中で、同じことを言っている部分が時々あるのです。この両者の意見が重なり合っている部分を取り出す、つまりANDを取るということになりますが、それを自分の知識として蓄積するわけです。

 こんな形で、私は今の考え方にたどり着きました。ANDを取るということは、宗教の知識もそうですが、物理学側の理論を必ず含みます。そしてそこには「衆生の救い」などはあり得ないわけです。人生論もありません。だから、「悟り」に関しても単純に定義出来てしまいます。もちろんそれが正しいかどうかは別として、他に理論をくっつける必要が無いため、単純化できるのです。

 今回の話題のスタートは、「永遠の書」で、欧米人の「悟り」とアジアのそれの相違、また、「無明」を去るにあたって、「利己主義」「自我」というものをどうとらえるか、というあたりだったと思います。

 私の理屈は単純なので、「悟り」は原初の宇宙意志と一体であることを肉体を持ちながらも体感し理解するということです。宇宙意志は宇宙を作り上げた本人ですから、当然人間の持つ「利己主義」や「自我」も彼が作ったのです。わざわざ人間を作り、「無明」の状態に置いたのも彼です。目的は、ここでも何度も話題に取り上げてきましたが、宇宙のままでは出来ない「経験」をするため、そして宇宙を客観的に観察するためです。

 その状態をシム・アースに比喩しているわけです。シム・アースはどのようにプログラミングされているかというと、人間の行動をいちいち細かく指定するものではありません。我々は神の側で、時に天災を起こしたり啓示を与えたり、人間の活動に関与していくという形です。最終的に人間たちがどのような文明を作り上げるかは、予想は出来ないですし、だからこそ面白いのでしょう。最初に人間に与えられるのはアルゴリズムだけ、あとは進化の方向性を時々に修正してやるというものです。

 また、ライフ・ゲームというのをご存じでしょうか。これは非常に単純なルールに基づいて、升目に置かれた石を減らしたり増やしたりしていくものです。ルールが単純なのでプログラムも簡単にできます。それをPCの画面上で見ると、とても面白いものですが、石の初期状態の並べ方によって全く違ったものになります。すぐに全体が死滅してしまうもの、安定した状態になるもの、際限なく広がって行くもの、定期的に石を生み出すものなど、様々です。そして、それは単純なプログラムによって行われているにも関わらず、その未来は「予測出来ない」のです。最初に数式が与えられても、結果が予測できない場合があるのです。

 スッタニ・パータに関して、私の見解は前に書いたとおりです。あれを読んでも、私には何もできないと思っています。あの本は、修行者に対してはその道を示しているのでしょうが、衆生の救いという意味において疑問を感じます。あの本で質問を繰り返しているのは学生、つまり沙門など、修行をしている人たちのようです。釈迦としては、彼らに悟りのエッセンスを伝えることで、その後の仏教そのものの発展、大乗仏教の出現まで見越していたのかもしれません。それはそれでいいのだと思っています。

 私の理屈はどうしても小乗的になりがちですが、「救い」や「応用」を考える必要がないという点、知識としてはトリビア〜なのかもしれませんが、やっぱりそれを「知りたい」のですね。

●記録者 上野大樹
●記録日 2004/1/21(水) 09:02


0708 re(4):re:0700 おめでとうございます!!

 番号ですね。意外に意識しないのかなぁ。一覧を見れば必ず出ているし、皆さんそこをクリックしているわけなんですが、無意識なんですね。

 結構、今まで書いたことが伝わってないと感じることが多いのです。まぁ、長文は読まれていないとは思ってますけどね (^^;

 もしかすると、この「黒地に緑字」というのが、読みにくいんでしょうか。私は長年この色の画面で文章を読み書きしているものだから、全く違和感を感じないのですけど、特にWindows環境しか知らない人にとっては、文字が見えてないのかもしれません。

 そのあたり、皆さんのご意見をいただけると嬉しいと思います。「こんなに読みにくいページは無い」とか、「別に読めるけど内容がツマラン」とか、「親戚だから一応アクセスしているだけじゃ!」とか、何でも結構です。よろしくお願いします。

●記録者 上野大樹
●記録日 2004/1/21(水) 09:10


0709 re(14):新年のご挨拶

 忌事があり、本日も大樹さんの御両親宅へお邪魔してまいりました。ので、急ぎ足ですみません。

 視点の違いについては大樹さんの御指摘のとおりだと思います。もし「悟り」と「救い」が説明できるならば、現代に見合った方法で、出来るだけ論理的に説明したいという欲求はありました。過去形なのは私の思考力では無理という諦め半分と、実際に救いとか、悟りを求める人はそういないということがあります。

 もし救い、悟り、というものを求めるなら、それ相応の努力が当然必要になるでしょう。その自己犠牲の対価として悟り、救いというものは残念ながら余り価値がないようです。ですから、大樹さんのような視点の方がより正道なのだろうと思います。

 仏教にも含蓄の深い大樹さんなら御わかりのように、宗教界(というより精神世界)で言われることと、近代科学は妙な一致点を見せるようになりました。今では、それで十分ではないかというのが私の気持ちでもあります。

 ですから、今までの習性から、悟り、あるいは救いと結び付けて考えがちな私ではありますが、基本的には知的関心なのです。でも、そうは見えないのでしょうね。。。(; ̄- ̄;)

 けれど、これまた不思議に、ある程度のことが分かり始めると実感したくなるのですよ。実用したくなる。現代にいたるまで実用化されなかった知識がないように、、、です。といっても、現在この実用化は私個人の範疇でのことです。

 巨視的に言えば「思い=宇宙(現実)」という視点で見ていますし、私の意見も要は、この一点を中心に回っています。その中で、大樹さんが科学的な視点で見てくれ、私は宗教的(といっても現実私は無宗教ですが)な視点で見ている。そのズレ、または一致の中に何か面白いものがありそうな、、、という気持ちです。

 文脈があちこちに飛んでいますが、今日はこれにて失礼します。

PS:
 やったことが無かったので、ようやくシムアースの中身が了解できました。
 ライフゲームの話を聞いて、ウイルスの突然変異をシュミレートしたプログラムのことを思い出しましたが、それと近いものですか?

●記録者 くも
●記録日 2004/1/22(木) 00:55


0710 ブラスターの攻撃止む

 〜撃ちてし止まん、鬼畜ブラスター〜
 さて、ここ数日学校のイベントで忙しく、書き込みをさぼっている間にネットの状況は大きく変わっていた。なんと、毎時間に十数回以上もあったブラスター感染者によると思われる無意味なアクセスが、22日夜からぱったり途絶えたのである。それは、

adsl-216-100-161-154.dsl.lsan03.pacbell.net - - [29/Jun/2003:18:54:44 +0900] "HEAD / HTTP/1.0" 403 214
220.73.165.76 - - [03/Jul/2003:14:00:03 +0900] "GET / HTTP/1.0" 403 214

 というようなものだが、これらは単にアクセスしてきてエラーログを残すだけで悪さをするわけではない。ただ、これがやたらと多く、我が家のログを見るだけでも一日に300件近くあるのだから、ネット上でのこのアクセスの頻度は恐るべき数値になっていただろう。

 とにかく自分のマシンが感染していなければ大丈夫なので、時々ウィルススキャンだけはしていたが、感染ルートはメールなのだから、未だにニフティーマネージャーなど使っている我が家は安全なのである。

 しかし、アクセス頻度が少ない我がサーバーの大半を占めるのがこの不正アクセスなわけで、ログから消すためにいちいちエディタのマクロなど作らねばならず、迷惑な話であったのだ。

 これが、ふとログを見てみるとパッタリと途絶えていた。22日の夜からだから、もう丸4日を経過したが、復活していない。その代わり、ブラスターの猛攻の頃は姿を見せなかった、いわゆる「コード・レッド」と思われるもの、(↓こんなの)

219.93.20.141 - - [26/Jan/2004:20:15:59 +0900] "GET /default.ida?XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX%u9090%u6858%ucbd3%u7801%u9090%u6858%ucbd3%u7801%u9090%u6858%ucbd3%u7801%u9090%u9090%u8190%u00c3%u0003%u8b00%u531b%u53ff%u0078%u0000%u00=a HTTP/1.0" 404 215

 が復活している。これはそんなにアクセスは多くないのでログの管理の時に手作業で除去すれば問題はない。

 それにしても、以前もブラスターのアクセスは一時止んだことがあり、今回も終息したとは思えないのだが、一時止むというのはどういうことなのだろうか。やはりワーム同士の戦いなのだろうか。そういうことなら、ついついアクセスの頻度の少ない「コード・レッド」を応援したくなるが、いずれにせよ悪い子ちゃんなのである。

●記録者 上野大樹
●記録日 2004/1/27(火) 07:53


0711 沖縄料理〜ピーマン

 ここのBBSには、トップメニューには表示されていない掲示板もいくつか存在し、稼働しているものもある。そのなかで沖縄料理に関することが書かれていて、たった3〜4人だけの話題にしておくのはもったいないので、こちらにコメントを書くことにする。なにせ全体でも十数人しかアクセスしていないページなのである。人数を分散するのは、本意ではないのだ。

 とにかくその沖縄料理の話題。

 最初は屋台村の話しで、ソーキそばを食べたよ、ということだった。それを受けて、沖縄料理といえば「バスストップ」というのがあると書いた。そうしたら、屋台村とバスストップのマスターは同一人物ということだったのである。どうも八戸にそんなに沖縄料理の店があるとは思えなかった。

 ちなみに屋台村の方は、

立花屋(昼) 10:00-16:00
美ら亭(夜) 16:00-24:00
http://www.36yokocho.com/onde/html/tyuratei.html

 ということで、昼と夜で別の名前でやっているようです。しかし、私は未だ屋台村で呑んだことはなく、詳細は不明です。で、そんなことを書いたら、今度は別の店の話し。

 ポストコアに「わくわくわーくす」という沖縄料理店があるのだとか。ポストコアと言えば「かっぱ」しか知りませんでしたが、先日「大門」でたまたま話しが出て、店を閉めたということでした。

 で、その「わくわくわーくす」ですが、店長は昔「ピーマン」をやっていた人とのこと。「ピーマン」と言えば、あの、壁中に落書きがしてあったお店でしたよねぇ?だいぶ昔のことなのではっきり覚えていませんが、何度か行った記憶があります。

 結局最後は沖縄料理からはずれましたけど、まぁそんなもんです。

●記録者 上野大樹
●記録日 2004/1/27(火) 07:53


0712 re(1):沖縄料理〜ピーマン

そう「わくわくわーくす」(父さんの台所)です。ドライカレーがメチャうまです。かなりリーズナブル。市内の演劇軍団がよく出没します。沖縄の音楽や「森山良子」の歌なんかがかかってます。場所は、「かっぱ」のま上です。

●記録者 けいぢ
●記録日 2004/1/27(火) 15:18


0713 ありがとうございました

 御参列ありがとうございました。私どもは途中で失礼しましたが、大樹さんは翌日大丈夫でしたか?
 それにしても、余りの変化にびっくりしました。ちょっと痩せ過ぎではと思いましたが標準なんですね。

 私も明日を持ちまして17年間のKとの付き合いを終了します。まあ、引継ぎもあるので2日ぐらいは店に行くことになるでしょうが。。。様々な面で感慨深いものがありますが、今後は当面家の仕事に従事しますので、大樹さんとも顔を合わせる機会が増えるかもしれませんね。宜しくお願いします。

 ところで、悟りのことを考えておりました。また、その話かい!!と言われそうですが、、、

 仏陀が経験した悟り、つまり梵我一如を体験しないと、このことは分からないのではないかと思います。初法転輪でお釈迦様がこの悟りを7晩体験されますよね、で、その梵我一如から通常の状態に戻るときに自我に引き戻されます。この自我に引き戻される過程を観察したのが十二縁起であるわけです。

 無明もこの過程を経験しないと、その実体は分からないのではないかと思います。でも、それらを何とか理屈で説明したいという無謀な欲求を私は持っていますので、、、で、そのことを考えながら、理解してもらうためには何が不足しているのかを考えました。

 まず最大の障害は自我が「無限」「完全」「絶対」というような概念を理解し得ないということです。概念としてはありますが、あくまで概念に留まっているので、言葉としての意味しか理解し得ないということです。(でも無限とか完全とかいうものが、本当に「無い」のならば、この手の概念そのものが生まれて来そうに無いと思うのですが。。。)

 引いて、自我の思考はあくまでも「相対的思考」です。比べるものが無くなる(全一の)状態では、そこで、思考停止してしまいます。これらを説明しようとすると、結局感情的な表現しか出来ないのだということに改めて気付きました。もう信じる、信じないの世界です。

 梵我一如という体感によってしか理解できない世界を体得するのが小乗の教えですよね。誰にでも説明できるものではないですから。何か良い方法は無いもんでしょうかね?

 ということで、経過報告でした。

●記録者 くも
●記録日 2004/1/31(土) 01:41



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