中里介山とは?
明治18、4、4生〜昭和19、4、28没 59歳 (1885〜1944)介山 作「わが立処」・・・(昭和10年7月「峠」紙上に発表)
天佑を保全し 万世一系の皇師を嗣がせ賜ふ
大八洲日の本の 武蔵野の草莽の中に
いともかろけき 微中の微臣 平民の平民
大君の恵の波 平らかに 武蔵野に生まれて 武蔵野に生い立つ
平らなる野と空を見つ 中ごろ人生の航海に入り 身世の漂流に逢ひて
やや人情の転換を知る
さればこそ 官に就かず 禄を知らず もとより爵位なく
勲等なく 等級なく 名聞を絶したりき 且又 富と閥とを知らざるが故に
引く人 引かるる人の力を知らず
只に学び 只に作りて 世に拙作を送り 世の余録に養はる
我は生れ得て野の子にして 遂に野の人に養はる
草莽は わが終の住処にして 平民はその天分也
以下 略
木は地上に枝葉をのばし、花を咲かせる部分と、暗い地下に根をはびこらせて、 そこから養分を吸い上げる部分とがある。
多くの文化論は、その美しい花のみをめでる。
そしてそれが古典的で、一ばん本来の観賞法であろう。・・中略
その木の根が、地層のどこまで届いているかという見方もあるだろうと考えている。
まだくわしくは考えていないが、ごくおおざっぱにいって、 日本文化のうち西洋の影響下に近代化した意識の層があり、 その下にいわゆる封建的といわれる古風なサムライ的、儒教的な日本文化の層、 さらにその下にドロドロよどんだ、規定しがたい、 古代から神社崇拝といった形でつたわるようなシャーマニズム的なものを含む地層があるように思われる。
この層には柳田民俗学などがクワ入れをしている。
これらの層の厚さは時代とともに変わるので、 たとえば第一層は敗戦後いろいろヒヤかされながらも厚みをましており、 第三層はうすくなりつつあるようなものである。
こういう考え方が一応認められるとすると、横光の文学の根は、主として第一層にからんでいる。
そして第二層にも少し達している。
吉川英治の宮本武蔵は、横光より根深いが主として第二層から吸収している。
そして、彼が日本軍国主義の寵児でありえたということは、 第二層を軍が不可避的に近代化せねばならなかったという意味において 第一層と第二層との間に主として根をはったといえるかもしれない。
つまり私は、彼の文学(吉川)にはテラテラしたところが多いといいたいのである 『大菩薩峠』の根は、もっと深くまで達している。
しかも第一層にもかなり太い根がある。 第二層はいうまでもない。 彼の偉さは第三層からも養分を吸収していることである。
桑原武雄 氏(筑摩書房 中里介山全集 大菩薩峠 第一巻)
中里介山没後六十年に想う
世界一の長編小説「大菩薩峠」(以下『峠』と記す)の著者、中里介山が五十九歳の生涯を閉じて
今年で六十年の歳月が流れた。節目にあたりマスコミ等が若干の介山特集などを組んでいるが、
既に介山記念館は跡形も残らず雲散霧消し、月日の流れにこの世の無情を思わざる得ない。
地元当社の氏子の中ですら、既に生前の介山を知る人はめずらしくなってしまった。
但し、「峠」論の出版物は相変わらず多く、まだまだ熱心なファンも多いのも事実であるが、 同じような論調が目立ち、目新しい介山論や「峠」論は見かけない。孫引きのようなものばかりで、 この際新しい視点が必要ではないかと痛感するし、血縁者としての負い目もあるが今は他日を期したい。
中里介山が三十年の永きに亘って心血を注いで書き続けた「峠」の冒頭では、 大衆小説ではなく大乗小説であると明言したり、主人公とされつつ主人公ではないと喧伝されている魔剣を操る 甲源一刀流の盲目の剣士机龍之助が、決して終わることのない旅にさまよう姿や弁信、米友、神尾主膳、お銀 さまなどの様々な登場人物との交差等々、著者一流の熟慮と遠望の結果であり、 未完であり続けるゆえんも納得できる。神道思想に「なかいま」という考えがあるが、 過去(祖先)→現在(なかいま)→未来(子孫)へと魂の連続を重視し、父祖の生命を受け継ぎつつ魂を子孫に伝承し、 現在を正しく清く生き抜くと言う考えは、「峠」と照らして見ると終りがないという一点で妙に共鳴してしまう。 人の命はいつかは終息しても、魂だけは必ず子孫へ伝わり不滅であることは確かなことなのである。
但し、「峠」論の出版物は相変わらず多く、まだまだ熱心なファンも多いのも事実であるが、 同じような論調が目立ち、目新しい介山論や「峠」論は見かけない。孫引きのようなものばかりで、 この際新しい視点が必要ではないかと痛感するし、血縁者としての負い目もあるが今は他日を期したい。
中里介山が三十年の永きに亘って心血を注いで書き続けた「峠」の冒頭では、 大衆小説ではなく大乗小説であると明言したり、主人公とされつつ主人公ではないと喧伝されている魔剣を操る 甲源一刀流の盲目の剣士机龍之助が、決して終わることのない旅にさまよう姿や弁信、米友、神尾主膳、お銀 さまなどの様々な登場人物との交差等々、著者一流の熟慮と遠望の結果であり、 未完であり続けるゆえんも納得できる。神道思想に「なかいま」という考えがあるが、 過去(祖先)→現在(なかいま)→未来(子孫)へと魂の連続を重視し、父祖の生命を受け継ぎつつ魂を子孫に伝承し、 現在を正しく清く生き抜くと言う考えは、「峠」と照らして見ると終りがないという一点で妙に共鳴してしまう。 人の命はいつかは終息しても、魂だけは必ず子孫へ伝わり不滅であることは確かなことなのである。
平成十六年 介山忌に臨み
宮司 記

