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高岡城設計した高山右近

高岡城を設計した高山右近像(高岡古城公園2008.7.6)


富山県史蹟高岡城趾
慶長3年(1598年)利家の後をついて加越能三国の太守となった前田家二代の藩主利長は慶長10年封を利常に譲り富山城に隠退したが、 慶長14年3月同城は火災にかかり、新たに高岡に築城して町づくりを行った。
設計はキリシタン大名高山南坊右近が行い、約半年後の同年9月13日入場した。
総面積71,261坪(内水濠22,400坪)あり、城内は本丸、二の丸、鍛冶丸、三の丸、明丸などに分かれていた。
慶長19年5月利長薨りしまもなく廃城となり、明治維新後民間に払い下げされんとしたが、時の高岡区長服部嘉十郎等の奔走により、 明治8年7月公園とし保存されることになった。
昭和14年7月富山県史蹟に指定、往年の水濠はそのまま遺存、水のある城趾公園として全国にも稀である。
(高岡市、古城公園を愛する会の案内板より)

高山右近とは?
キリシタン大名。諱は重友。洗礼名はドン・ジュスト。利休七哲の一人。摂津高槻城主。
山崎の合戦後,羽柴秀吉の傘下に入り、賤ケ岳の合戦、小牧・長久手の戦いや四国征伐などに参戦。蒲生氏郷、黒田官兵衛など、多くの大名が右近の影響を受けキリシタンとなる。 後に秀吉が出したバテレン追放令に従わず、改易。 天正十六年には前田利家に客分として招かれ、加賀に移り住む。
右近の持つ築城法の知識は、金沢城の修築の際に多いに役立ち、利長の隠居城である高岡城の縄張りも担当したと伝わる。
慶長19年再度の追放令を受け右近は加賀を退去。内藤如安と共にマニラに追放されるが、宣教師らの報告などにより有名となっていた右近は現地で大歓迎を受けるも、病を得て翌年死去。享年64歳。


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