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里見芳枝
「蜘蛛男」(昭和4〜5年、「講談倶楽部」連載)

「おやおや、蜘蛛ですか。あなたは僕よりも、こんな虫けらの方が怖いのですか。
悟りの悪い娘さんだ。
ああ青くなって震え出したね。やっとわかりかけてきたとみえるね。本当に気の毒だ。おれは冗談ではなしに、お前のために泣いてやりたいくらいだ・・・なんという因果なおれの心だろう。おれは普通の恋人のようにお前の心なんかほしくない。からだがほしいのだ。命がほしいのだ・・・ああ、おれは人間ではない。悪魔だ。野獣の化身だ・・・。
芳枝さん、僕はね、恋人を愛するだけでは満足できないのだよ。恋しければ恋しいほど、その相手を。責めさいなみたいのだよ。そして、最後には、恋人の断末魔の血みどろな美しい姿を見ないでは、どうにも気がすまぬのだよ」
やがて、なんとも形容のできぬ、不気味な叫び声が、締め切ったガラス戸の中から漏れ聞こえてきた。それがドシンドシンという、何かをぶっつけるような物音に混じって、いつまでも、いつまでも、絶えては続いていたのである。
【あらすじ】
稲垣平造と名のる美術商がビルの一室に事務所を開いた。
「女事務員募集、十七、八歳。愛嬌のある方。高給」
という新聞広告で平造に雇われた里見芳枝は、仕事の説明をするといわれて連れ込まれた空家で平造の欲望の犠牲となった。そして、それだけでは終わりにならなかった。男は、傷ついた芳枝を風呂場へ押し込め、四肢を切断して石膏像にみせかけて、学校や美術商の店頭で衆目に晒したのだ。これが稀代の<青ひげ>殺人犯・蜘蛛男の最初の仕事であった。芳枝の姉の里見絹枝から調査を依頼されたのは犯罪学者・畔柳友助博士と助手の野崎三郎だ!
(Page29へつづく)
【里見芳枝の印象】
小柄な、肉づきのよい癖に、グッと抱きしめたら、シナシナと崩れてしまいそうな感じで、顔は健康な狐色で、犬のようにオドオドした、しかし変化の烈しい眼と、ピンと上へめくれ上がった花びらみたいな唇と、狭い鼻の下と、低いけれどなんとなくj魅力のある鼻とが特徴であった。
(江戸川乱歩「蜘蛛男」より)
「洋装をした、十七、八の、それは美しい娘さんでござんしたよ。女事務員なんかにはもったいないような・・・名前なんて、知りませんけど。顔だちですか。そうね、なんといったらいいか、可愛らしい丸顔で、まあ、モダンガールっていった娘さんでございましたよ」
「大きな眼で、二重瞼で、鼻はそんなに高くなくて、鼻と上唇のあいだが非常に短くて、上唇がピンと上の方へめくれあがった形をしている・・・」
博士がニヤニヤ笑って口をはさんだ。
(江戸川乱歩「蜘蛛男」より)
乱歩の美女の中では珍しく容貌の描写が具体的である。そもそも蜘蛛男は、この手の顔に弱いようで、以後の犠牲者はすべて「芳枝に似たような顔つき」だ。 「蜘蛛男」と彼の最初の犠牲者である芳枝のやりとりを、乱歩はねちっこく描いており、蜘蛛男のいやらしさがはっきりと読者に印象づけるのに成功している。
【モガ】
芳枝は年齢ににあわず、蜘蛛男に追い詰められても比較的冷静に対応しているのには驚く。凌辱を受けた後にも、「でも、ご安心なさい。私は自分の恥をしゃべるようなことはしませんから」と吐きすてるように蜘蛛男に告げているではないか。さすが「モガ」である。また別のところでは、、「死をもって身を守るほどの潔癖もなかったので、どうせだめと決まっているなら、いっそ悪びれない方が、という気持ちになって、いつもの男性に対してたかをくくる気持ちがムラムラと湧き上がってくるのだった」と描写されている。モガという言葉が登場したのは、大正十五年で、同時に女性の断髪やハンドバックも現れた。しかし、当時のマンガによると、「モガさんの持ち物」として、「英語辞典、ラブレター、ブラジャー、チョコレート、偽名刺、精力剤、コンドーム、質札」とある。当時の大人たちがモガをどのような眼で見ていたかがわかる。
【芳枝の給料は高いか?】
芳枝は、「高給(週給15円)」で雇われた。大正末期の東大・慶応卒業生は一律75円の初任給であり、特別な教育を受けていない二十歳前の女性はせいぜい5〜10円の月給であったことを考えると、常識外れの高給といえる。ちなみに、数日後に雇った青年にはなんと月100円の手当てを約束している。蜘蛛男がいったい何で生計を立てているかは不明だが、少し気前が良すぎないだろうか?
(2001・2・4掲載)