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川手雪子
「悪魔の紋章」(昭和12〜13年、「日の出」連載)

窓際におかれた便箋には、「衛生博覧会」と記してあった。
もしや・・・、と名探偵・宗像隆一郎は中村捜査係長、川手庄太郎と共に、U公園の科学陳列館へ急いだ。三階全体を占める衛生博覧会場は、早朝のこととて観覧者の姿もなく、コンクリートの壁に並べられた大小さまざまのガラス張りの陳列台、医療器械、奇怪な解剖模型、義手義足、疾病模型の蝋人形などが並べられていた。
毒々しく着色された、四斗樽ほどもある心臓模型、血管を浮き上がらせた巨大な眼球模型、無数の蚤がはいまわっているような脳髄模型、長く見つめていると吐き気を催すような内蔵模型、それらのまがまがしい蝋細工の間に、ひときわ目立つ全面ガラス張りの陳列台があった。ガラス箱の中には、等身大の若い女が横たわっていた。薄暗い光線で、見分けられないほどであるが、しかし、なんとなく生きているような蝋人形である。
「どうして、こんなものを陳列するのですか。別に病気の模型らしくもないじゃありませんか。しかし、この人形は実によくできているね。それに、非常に美人だ」
宗像博士が展覧会主任をかえりみて尋ねた。
【あらすじ】
H製糖株式会社取締役・川手庄太郎は一か月まえから差出人不明の脅迫状を受けとっていた。「最初はおまえの二人の娘、そして最後はおまえの命を頂戴する」。謎の復讐鬼は、手始めに川手雪子を犠牲にした。姉の川手妙子は「八幡の藪知らず」の中にあるお化け屋敷で死体で発見された。そして川手庄太郎氏にも魔の手が・・・。もはや打つ手がないと誰もが思い至ったとき、ついに名探偵・明智小五郎が登場したのである!宗像vs明智の推理合戦の結果は?
【作品の印象】
恨みを受ける覚えのない川手氏に対して、復讐鬼は親切にも、なぜ復讐をしなければならなかったかを、わざわざ劇を演じて教えてくれるシーンは面白いが、全体に話が暗く(復讐談ということもあるが)、スピード感、爽快感も少ない。とくに後半に登場する「三重渦紋」をもつ女性のエピソードは陰惨である。 おまけにラストの文章も暗い↓。
「いつもにこやかな名探偵の顔から、微笑の影がまったく消えうせていた。そして、その青白い額に、これまでだれも見たことのないような悲痛なしわが刻まれていたのある」
(江戸川乱歩「悪魔の紋章」より)
【衛生博覧会について】
「別冊太陽・乱歩の時代(1994年)」に詳しいが、大正末期から博覧会の一部として、衛生・医療の一般大衆への指導という目的でさかんに開かれた。実際には、人々の「怖いもの見たさ」を刺激したり、エロティックな出し物として客を集めていたことが多かったらしい。U公園の科学陳列館とは上野の東京教育博物館(国立科学博物館の前身)らしい。
手塚治虫のマンガ「どついたれ」には戦後大阪でさかんに開かれたインチキ衛生博覧会が登場する。テキヤが主催し、バラック小屋に性病の写真とデパートで不要になった裸のマネキンを飾るだけであるが、そんなものでも当時の人々には刺激が強かったようだ。
(2001・3・11掲載)