乱歩世界の美女たち Page 38 前へ 目次へ 次へ
 木下芙蓉
「虫」<1> (昭和4年、「改造」連載)



ある晩のこと、洋装の美女が、歩道をコツコツと歩いていた。その斜め後ろから、一台の黒いボロ車が、のろのろとついて行くのだ。美人が町角を曲がるたびに、ボロ自動車もそこを曲がる。まるで紐につないだ飼い犬のように、まことに滑稽な、まことに不気味な光景であった。怪物の目玉のような二つの頭光をギラギラさせた車を運転している男は、黒い詰襟と、目まで隠れる大きな鳥打帽をかぶっていた。男は薄気味の悪い微笑を浮かべながらブツブツと歌っていたのだ。
「御令嬢、ホラ、後ろからあなたの棺桶がお供をしていますよ」
運転手・柾木愛造の歪んだ愛が木下芙蓉の身体だけでなくその生命までを奪おうとしているのだ!


【あらすじ】
27才の無為の青年・柾木愛造は、ふとしたことから小学生時代にあこがれた美少女・木下文子が浅草で女優として脚光を浴びていることを知った。今は木下芙蓉と名を変えている彼女は、その妖艶な魅力で再び愛造の心を奪った。しかし、愛造がおずおずと芙蓉の手を握ったとき、彼女は明らかな侮蔑の表情を示した。芙蓉を自分だけのものにすることを決心した愛造は車の免許証を取り、中古のT型フォードを手に入れ、タクシーの運転手に変装して芙蓉を狙うこと決心した。(次ページへ続く)

【作品の印象】
主人公たる柾木愛造は、絵に描いたような内向的青年でありながら、芙蓉の殺人を決心した途端に、自動車免許を取るために必死になるわ、自動車の改造をおこなうわ、東京中を走り回るわ、と異常に活動的になる。まさに「方法は正しいが方向が間違っている」タイプの人間。実際に愛造が芙蓉と口をきいたの三回しかないが、愛造にとって殺人を決心するにはそれだけで十分だったと納得できる描写もよい。・・・・と、前半だけを言うなら、傑作ストーカー小説。これが異様な作品となるのは後半の描写(続く)。

【木下芙蓉の印象】
愛造の3つ年下だから24才。恋人(愛造の唯一の友人)もいて、しばしばホテル通いもしている(もちろん、愛造が覗き見する)。
二匹の鯛が向き合っているような形をした、非常に特徴のある大きな眼や、鼻の下が極端に短く、その下に、絶えず打ち震えている、やや上方にまくれ上がった、西洋人のように自在な曲線性の柔らかい唇や、殊にそれが婉然と微笑んだ時の、忘れがたき魅力」といった少女時代からの特徴に加えて、円熟した女性の妖艶さをもつ。おまけに愛造が初めて芙蓉を見たのはサロメ役を演じているとき。いわゆる「男を食う女」である。人嫌いで人生経験のない愛造にとっては、とてもまともに付き合える相手ではないことは明らかであろう。

(2001・4・15掲載)