115系は昭和31年から上野口で活躍していた80系電車の後継として、昭和38年3月にデビューした。すでに登場していた401系や111系と同じ3扉セミクロスシートの構造であるが、運用区間が上越線や日光線など寒冷地かつ降雪地にわたることから、耐寒耐雪構造となり客用扉の半自動扱いが可能である。また当時平行して開発された急行用165系と共通のメカニズムを採用したため、主電動機は出力増強形のMT54となったほか、下り勾配を一定速度で下ることのできる抑速発電ブレーキが装備されている。これによってほとんどの直流区間に入線が可能になり、後に全国各地に進出する土台になった。塗色は湘南色であるが、先頭車前面の塗り分けをUカットとして111系と区別した。(0番台)
最初の投入は宇都宮運転所の34両で、続いて新前橋電車区にも投入。東北・高崎線の中距離輸送に威力を発揮し、次第に勢力を拡大していった。昭和41年12月には中央本線新宿口にもデビュー。勾配区間への対応から編成組成が変わり、クモハとサハが追加された。またスカ色が採用され、しばらくはこの二色が標準の塗色となった。これらは昭和43年以降は混雑の続く電車急行の救済として、臨時急行(一部定期)にも用いられることもあったが、165系と性能を共通化したことで実現した珍事だった。
昭和44年10月からは混雑緩和のため上野口で15連運転がスタートし、両数も500両を超えるまでになった。しかし沿線人口の増加に輸送力が追いつかず、昭和48年10月にさらなる増強のため300番台が登場した。同車は115系初の冷房車であり、車体等に設計変更が加えられた。このグループの増備が進むと、初期の0番台車が長岡運転所、岡山電車区に転出し、地方線区進出の足がかりとなった。昭和52年からは山陽地区の旧型国電を置き換えるため300番台がさらに追加増備され、玉突きで広島運転所に0番台車が転入した。
これと平行して地方線区の新性能化が推進され、このうち長野、新潟地区用として1000番台が登場。耐寒耐雪構造をさらに強化し、クロスシートのシートピッチが拡大されるなど、以後の標準タイプを確立した。1000番台は地方線区だけでなく、上野口の輸送力増強用としても投入され、同時期に投入された岡山地区とともに車両の冷房化を推進している。
昭和53年には1000番台の耐寒設備を簡略化した2000番台を広島地区に投入。同地区に初めて新製配置された電車となった。
さらに昭和55年には御殿場線に0番台(新前橋区に1000番台を投入して捻出)、昭和56年に大糸線に1000番台、身延線に2000番台が投入され、旧型国電取り替え用の増備はひとまず終了した。身延線の2000番台はクモハが追加され、モハは低断面トンネル通過対策として屋根を一部低くしたタイプ(2600台)となった。また塗色がワインレッドとなり、地方カラーの先駆となった点でも注目される。
翌57年には伯備線電化用と高崎線増強用に1000番台が投入されたほか、10月には153系の置き換え用として新たに3000番台がデビュー、「ひろしまシティ」電車として新たなグループを形成した。同車は117系に類似した2扉転換クロスシートとなったほか、塗色もクリームとブルー帯のいわゆる瀬戸内色となったが、中間車が111系のものは冷房準備車で落成している。翌年6月にモハが6ユニット製作されたが、これが115系としては最後の新製車両になったのである。 →以下その2へ続く
その1(登場〜昭和58年まで)


残雪の残る上越路を行く1000番台車
呉線を行く3000番台車、瀬戸内色の元祖はこれだった
