埼玉師範塾発足
過半数は教育委員会推薦
塾長・理事長:高橋史朗 県教育委員
名誉会長:上田清司 県知事
会長:井原勇 元与野市長
(2006.9.23.)
埼玉師範塾
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「新しい歴史教科書をつくる会」元副会長で、県教育委員の高橋史朗氏が塾長を務める私塾「埼玉師範塾」(井原勇会長)の開塾式が二十三日、秩父市定峰で開かれ、名誉会長に就任した上田知事や塾生、来賓の栗原稔秩父市長、横田昭夫行田市長らが参加した。 塾生は二十代から五十代の公立小中高教諭三十三人。秩父と行田の両市教委からの推薦が過半数を占め、残りは自薦という。開塾式では「君が代」を斉唱した後、入塾証書が高橋氏から手渡された。上田知事は「埼玉師範塾に期待する」をテーマに講演し「一つの学校が変われば他の学校に波及する。強い教師になって学校を引っ張ってほしい」と激励した。 高橋氏が同塾を設立することに関し、教職員組合や一部の市民団体から「知事と教育委員が私塾という形で教員研修を行うのは県民として理解し難い。行政が担う課題」などと批判が出ている。 |
(2006.9.24.『埼玉新聞』)
教員研修の私塾が「開塾」
県教育委員高橋氏塾長
県教育委員の高橋史朗氏が塾長を努める教員研修のための私塾「埼玉師範塾」が23日、開塾した。秩父市であった開塾式には、名誉会長の上田清司知事らが招かれた。
塾は、高橋氏が中心となって設立し、さいたま市に事務局を置く。講義や研修を通じて、県内教員の指導力向上を目的としており、事務局によると、県内の公立小中高の教員33人が第1期塾生の認定を受けた。自薦は少なく、秩父、行田両市教委からの推薦者が多数だったという。
式典後、講師として講演した上田知事は「(戦後も)アメリカは日本人の魂というか、ここ一番の戦闘能力、パワー、精神力を恐れた。それは交渉能力でもある。教師にもそういうパワーがあったほうがいい」とし、強い教師になり、校長となって学校を引っ張ってもらいたい」と話した。
塾の設立には、県内の教職員組合などから「私塾とはいえ、県教育委員が塾長、知事が名誉会長を務め、塾生の人事が有利に進む可能性がある」と懸念の声が出ていた。
(2006.9.24.『朝日新聞』)
「新しい歴史教科書をつくる会」元副会長で県教育委員の高橋史朗氏が塾長を務める民間の教員研修機関「埼玉師範塾」の開塾式が二十三日、秩父市であった。
県内の公立小中高校の教員三十三人が入塾。高橋氏が塾生に入塾証書を手渡した後、名誉会長の上田清司知事が最初の講座の講師として壇上に立った。
上田知事は、学習塾を経営していた時に成績の良くない子どもを付きっきりで指導した経験話や、日本古来の文化が優れているとする持論を披露。「強い教師になって学校を引っ張っていただきたい」と激励した。 (池田悌一)
(2006.9.24.『東京新聞』)
県教育委員の高橋史朗・明星大教授が塾長と理事長を務める教員研修機関「埼玉師範塾」の開塾式が23日、秩父市定峰の同塾研修場で行われた。秩父、行田の市教委から推薦を受けたり、公募で選ばれた県内の公立学校の教員33人が1期生として高橋塾長から入塾証書を手渡された。
開塾式には、同塾名誉会長の上田知事も出席。続いて行われた第一講座で、「地域と家庭の教育力が弱まっているので、教師が頑張るしかない」「教育の現場でも、数字で見える形での成果が上げられないか」などと約1時間半、講演した。
学校変える強い教師へ
埼玉師範塾
教師1人1人の変革から教育現場の改革を目指す研修機関「埼玉師範塾」(理事長・高橋史朗明星大教授)が23日、秩父市で開塾式を行った。1年間のプログラムの初回は名誉会長の上田清司知事が講師を務め、1期生33人に「教育困難な時代ではあるが、学校を変える強い教師になってもらいたい」と呼びかけた。
開塾式には会長の井原勇・旧与野市長のほか、栗原稔秩父市長、横田昭夫行田市長も出席。高橋理事長は33人に入塾証書を手渡した後、あいさつで「現在の日本は必ずしも『美しい国』ではなく、和魂を取り戻す必要がある。愛国心などは、だれがそれを子供の中にはぐくむかが問題であり、問われているのは人だ」と自覚を求めた。
上田知事は「埼玉師範塾に期待する」と題して講演。「家庭や地域が悪くても、優れた教師にめぐり会えれば生徒は救われるかもしれない。学校は最後の砦(とりで)になる」と教育観を語り、知事として納税率を改善した経験などから具体的指標の重要さを強調した。
また「教師に一番大切なことは」と質問され、「自分たちの組織や立場を守ることより、子供を守り育てることに全てを出すこと」と述べた。
同塾によると、塾生は全員が県内の公立校教師で、小学校が約半数、中学校、高校が4分の1程度。公立中教諭の男性(46)は「まず教師が変わらなければ子供も学校も変わらない、という考え方に共鳴した」と入塾の理由を話していた。
(2006.9.24.『産経新聞』)