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雑記帳 77

ドア閉まりま~す(2012.2.22)

 ある日、東京メトロ銀座線に乗っていた。途中の新橋駅を発車するときのホームアナウンス。

ドア閉まりま~す
駆け込みはお辞めください。
ドア閉めま~す
危険ですから無理なご乗車はお辞めください。
ドア閉まりま~す
無理な駆け込みはお辞めください。
ドア閉めま~す
無理なご乗車は大変危険ですからおやめ下さい。
ドア閉まりま~す
危険ですので・・・・

わかったから閉めろや!

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いつもいるおじさんたち(2012.2.15)

 自分は良く喫茶店に行く。ほぼ毎日どこかの喫茶には行く。よほど急いで行動しなければならない事がなければ、午前中はまず喫茶へ行って読書をするか、イラスト仕事のアイディアを練る。
 行きつけの喫茶はたくさんある。行く地域で目的や気分によって選ぶのである。のんびりしたいとき、美味しい珈琲が飲みたいとき、本を読みたいとき、時間をつぶしたいとき、などなど。それらが複合的に合わさった理由の時ももちろんある。
 美味しい珈琲を飲むところとしては、小田急線梅ヶ丘のギャラリー喫茶ゾーエー、新宿の面影屋珈琲店、地元下北沢のやなか珈琲など。あくまで良く行くところで美味しいところである。すばらしく美味しかったけど二度と行きたくない店もたくさんある。また、美味しいから行きたいんだけど照明が暗くて本が読めないとか、全席喫煙でたまらないから行きたくないというのもある。
 味はそこそこだけど、便利だったり落ち着けるとか目的に最適なので愛用してるところは当然多い。そこそこどころかまずいけど利用するところだってある。そういう所は雰囲気が好きだったり、アイディアを練ったりなどに良い場所だったりするからである。喫茶というのは飲み物だけではなく場所も売っているのである。

 ところで、そういう良く通う喫茶の中で三軒の気になる喫茶がある。その三軒、いつも行っているわけではないのに行くとかならず姿を見るおじさんがいるのである。三軒それぞれに違うおじさんだが、こちらが時々行っても必ずいるということは一年中かならず居るということなのだ。これほど不思議なこともない。そこに住んでいるわけでもないだろうに。
 俳優の柄本明さんは下北沢の喫茶でよく一緒になることがある。別に待ち合わせているのではなく、喫茶のテリトリーと入る時間帯が似ているのだろう。でも前述の3人のおじさんたちは、それぞれの喫茶にいつも必ずいるのである。新宿のある喫茶で、一度店員に聞いてみようかと思ったこともある。「あのキタキツネみたいなおじさんは一年中毎日来てるの?」と。

 まぁ、こちらの行く時間帯がいつも同じくらいだから居るのであって、たまに違う時間だといないから、一日中いるわけではないけど、1人は午前にいたり午後にいたりする人もいる。
 単純に仕事前に寄っているだけとか、いつもその時間が休憩で毎日の憩いの場所なのだというケースもあるだろうけど、なんか3人ともそういうのとはちょっと違うんだよねえ。すごく気になる^^;;

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オイシイ(2012.1.30)

 以前、知り合いになった中国人が「富士そばのラーメン、オイシイ」と言っていた。ん、、なんか微妙におかしい^^;;
 同じく知り合いのミャンマー人は「松屋のカレー オイシイナ」と言っていた。やはりなんか微妙におかしい^^。

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木場先生(2012.1.21)

 木場と書いて「こば」と読みます。小学校3年から6年までの担任の先生でした。その当時は若い先生でも十分にかなりのおじさんおばさんに感じるものですね。木場先生はハゲていたのでかなりのおじさんだと感じていました。自分も社会へ出てかなりの年数になった頃、実は木場先生は若ハゲだったのではないか、と思ったりした。結構同じ意見の同級生もいたりした。最近先生の年齢を知ったのだが、やっぱり十分におじさんだったようだ^^;;

 昨年夏頃facebookを始めてから、少なくとも20数年は会っていなかった小中学校の同級生たちとつながった。新年に中学の小さな同窓会(10人程度)があるのを知り急遽参加することに。とても懐かしい面々で、小中と一緒だった友人も何人もいて、共通項が多くタイムスリップした気分だった。そのときに木場先生と今でも年賀状などをやりとりしている友人がいるのを知った。

 小学校のクラスは45人くらいいたが、もう一人「いとう(伊東)」がいたため、自分は先生に「良一」と呼ばれていた。姓でなく名前で呼ばれていたのは自分だけだったと思う。いつも先生には「良一!」と怒られていた^^;;
 当時、将来は絶対に漫画家になるつもりでいて、そう思っていた友人も多かったのかも。先生も漫画の力量を認めてくれていた。今見ると思っていたよりもかなり下手なのだが;;;
 卒業した後は一度だけクラス会で先生に会った記憶がある。たぶん社会へ出た頃だったかと。在学当時はほとんど生徒には見せなかった笑顔で懐かしんでいた。

 先生にいつも怒られていたのは「やればできる子なのにやらない」というのが一番大きな理由だった。でも勉強は嫌いだったし、なぜ勉強するのかもさっぱりわからなかったし・・。そんな感じで何となく勉強するようなしないような状態で学生時代を過ごしていた。なので得意不得意科目がハッキリしていたのだ。
 附属高校に進んで高校三年になるときに、行きたい学科(工学部建築学科)へ行くためには成績が足りない事がわかり、真剣に勉強をした。高校時代の成績は試験の点数をそのまま反映した10段階評価で、工学部へ行くにはトータル(3年の2学期まで)で7.5~8.0の成績が必要というガイドラインだった。自分のそれまでのトータルの成績は7.0に満たなかった(理数系や美術の成績は良かったが、社会科関係は万年赤点;;;)。他の学部に行きたいと思ってもいなかった。それほど建築学科命ではなかったのだけど、とりあえず付属の親玉の大学には他に行きたいと思う学部がなかっただけで。(卒業試験も大学に進むための試験もなく、ただトータルの成績のみが基準だった)
 真剣に勉強をした結果、一学期は全科目平均で9.0という自分でも驚くほどの好成績をあげた。試験期間中、その日が終わるたびに満足感を感じながら帰るなんて、後にも先にもあのときだけだったかと。順位表などは出されないからわからないが、学年で2番くらいの成績ではないかと思われた。常に主席のやつがクラスにいたので、1番でないことはわかっていた^^; 彼はそのとき9.3というとんでもない成績を残したのだ。
 そのとき、かつて木場先生に「やればできるのに」と怒られていた事が腑に落ちた。あぁ自分はマジになったらやるんだなと。1年から3年2学期までのトータルが8.0になり、十分ガイドラインをクリアできる成績になった。ちなみに付属校からの工学部への人気は低かったので、足りないと思っていた成績でも十分に進めたのだった;;;。もひとつちなみに、大学では単位こそ順調にとったものの、成績自体はそこそこでしかなかった。

 その後も時々木場先生の事を思い出す時があり、確かクラス会の時に胃か心臓の手術をした事を話していたと記憶していたので、もしかするともう亡くなってるのかもと思っていた。そんな月日を経て、前述の中学のクラス会で先生の消息を知った。かなり高齢だがまだ健在だと。
 友人には後日、先生の年賀状のコピーを送ってもらって住所も教えてもらった。早速自分のイラスト作品集のサンプル冊子と共に手紙を出した。少なくとも30年くらいは全く音信不通だったので覚えてくれているかどうかも不安だった。頭がどの程度ハッキリしているかもわからなかったし。
 先生からはすぐに返事が来て「良一君のことはよく覚えています。」と書かれていた。かなりの生徒を送り出しているけど、よく怒られたから少しは覚えているかな?と思っていただけにとても嬉しい。
 「すばらしい、たのもしい業績に、心から敬意を示したい気持ちでいます。とてもうれしいです。」と少し頼りなくなった筆跡で書いてくれた。片目が見えにくくなっていて、左足かかとも痛くて歩行困難なご様子が書かれている。高齢(86歳)になるとそういうのもあるだろうな、と思って読んでいたら「これまで毎日1万~2万歩程度歩いていましたが、医者から『歩き過ぎのせいだ』と言われ、今のところ5千歩程度に距離を減らして、歩き回っています」とのこと。おいおい^^;;
 先生は今でも教育研究団体に所属して「化石のような存在ですが、若い教師や活動的な子どもたちから元気をもらっています。」と、まだまだ気持ちは元気な様だった。

 近くはないので来てもらうのは無理かなぁとは思いつつ、この秋の個展の案内を出してみようかと思う。来られなくても、こちらが元気に活動している様子を伝えるだけでも先生にとっては嬉しいだろうし。住所を教えてくれた友人にも先生から、僕の事を喜んでいる手紙が届いたようだ。先生もfacebookをやっていたら友達リクエストを出すんだけどな。(ぉぃ!)

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プロは100点が最低点(2012.1.16)

 仕事というモノはその結果が最低でも100点でなくてはいけない。
 このような事をかくと、それぞれのプロの方は「何をいまさら」と感じるかと思う。 良いときは120点、150点、でもどんなに調子の悪いときや上手くいかないときでも100点以上が普通、これがプロというか職業人です。自分のようなフリーの自営でも勤め人でも一緒です。その道のプロならば当然のことです。

 毎年何度かの個展をやっていますが、あるとき駆け出しのイラストレーターの方がやってきました。作品を持ってきたので観て欲しいと言うことでした。
 他人の作品を批評するほどの自分ではないですが、率直な感想を述べました。ここはこうした方が良いんじゃないかとか、これはとても良いとか。基本的には好きな作品でした。好きで描く絵とイラストは違いますから、その辺からも感想を述べました。
 仕事に対する意識の話になったとき
 「仕事はどんなときでも100点満点が最低だよね」と言うと
 「そうしないと次の仕事が来ないからですか?」
と、彼は言った。
 ・・・・ちょっと心構えが厳しいかな(甘いかな)と思った。
 そこでなぜ100点満点が最低ラインでないといけないか、と説明するのは簡単ですが、これは自分でつかみ取らないと意味もないし本当に理解は出来ないことなので、適当にお茶を濁した記憶があります^^;;
 彼の言葉は自分のことしか考えていません。自分は最低でも100点の仕事をするというのはプライドももちろんありますが、クライアントのためや観てくれる人たちのためでもあります。
 法隆寺の宮大工棟梁だった故・西岡常一さんは

学校と違って、百点を取ったら偉いというのとは違いますのや、仕事は。
百点を取るのが当たり前なんです。
(中略)
一人前というたら百点の仕事をこなすことですわ。
それが八十点だったり、五十点ではいかんのです。一人前とはいえないんです。
学校なら八十点なら、まあ合格だし、
クラスでは平均よりいいから自分でも、まあいいかと思いますでしょうし、
先生も親も「八十点だからいいやろ」といいますな。ところが、仕事は結果に出るんです。
「この寺は八十点の出来ですから合格です」
というて一人前のお金をもらうのは間違っておりますな。

と言っていました。
 一人前というのは表面上の仕事の質はもちろん、仕事に関わる人たちや利用する人たち、いろいろな人たちの事も考えて仕事が出来る人のことだと理解しています。
 前述の彼に説明をしなかったのは、そういう事を自分でつかみ取らないと本当には理解が出来ないからです。自分がそうしないと理解できなかったから若い人には親切心で教えてやろうとしたって、それは親切心を起こした自分に酔うエゴに過ぎないと思うし。で、こんなことを書いているのも、ある種自分に酔っているエゴの部分がないとも言えなかったりして…

 ま、もちろんそのときは自分にとって100点をクリアしていても、後になって振り返ると冷や汗というのは多いですが。実力と観察眼は比例するので、後年ほど過去の自分の仕事レベルが稚拙に感じるのは当然だけど、中には実力が上がったがゆえに今の自分には作り出せない過去の良いモノもある。音楽でも文学でも駆け出しの頃のピュアな作品がいつまでも光り輝いているモノが結構あるでしょう。そんなとき、技術も大事だけどやはり残るのは感性、もっと言えば人間性だな、と改めて思ったり。

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「~~じゃぁないが」(2012.1.11)

 日本語には奇妙な言い回しがたくさんある。もちろん他国の言語でもネイティブにとっておかしな言い回しの言葉はたくさんあるだろう。
 日本語のおかしな言い回しについてだいぶ前にも書いたことがあった。よく考えるとまだまだたくさんある。「~じゃぁないが」なんてのもそのひとつだろう。

 「○○氏の言葉じゃないが、○○○」とその本人の言葉を引用する言い回しは、日本語としてごく普通に使われるが、よく考えるとかなりけったいな言い回しである。
「同じ事、何度もやっただろ!」と指摘されて「野村まさきじゃぁないけど一度だけよ」なんて言い訳するような使い方である。(古すぎる;;;)
「○○氏の言葉じゃないが」と一度否定しておきながら、その○○氏の名言などを引用するわけだが、引用するのだから否定するのはおかしいだろうに。
と、思いながらこの項を書いていたのだが、書きながら「あ、そうか」と思いあたった。
○○氏の言葉と同じ言い回しを引用しようとしているのだが「自分はその言葉を言いたかったのだけど、○○氏が同じ事を言っていてその言葉が有名になっている。別にその人が言った言葉を借りているわけじゃなくて」という意味を含めてるのね。ひとり腑に落ちた^^

 この言い回しは英語に訳すとどうなるのか?というか日本語独特で訳せないのかも?

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日本人の根っこ(2012.1.5)

 現在母上は狭山にある介護病院に入っている。介護の始まった2001年から少しずつ「認知症」が進行したが、一昨年はじめに急変して在宅介護が不可能になり、今は重度の認知症というか高度機能障害と呼ばれる状態である。

 毎週連れ合いと面会に行っているが、いつも「認知症」と呼ばれる人たちはどういう世界に生きているのだろうと不思議に思っていた(以前にその事を書いた)。 最近、それのヒントになるか?と思った本を読んでいておもしろい事が書いてあった。大井玄著「『痴呆老人』は何を見ているか」(新潮新書)という本だが、その中で日本尊厳死協会会員3500人に対するアンケートの事が書いてある。多くの会員が「痴呆状態」になったら延命措置を拒みたいと答えている。「認知症」や「尊厳死」に対する認識、誤解が一般には多々あるのでそのあたりは本書を読んでいただきたい。その辺の誤解の問題は置いといて、延命を拒みたい理由は認知症が延命努力に値しない「惨めな状態」だと思っているからなのだが、その「惨めな状態」とはどういう状態なのかというのが日米で異なるのである。

 日本人は、認知症が延命努力に値しない「惨めな状態」だという理由を「他人に迷惑をかけるから」と答えている人が圧倒的である(そう答えた人には介護経験のある人が多い)。英米、特にアメリカの文献では、認知症が怖がられるのは「自分の自立性」を失うからとなっている。
 なるほど、欧米と日本人の違いが良く現れていると思った。自分ももちろん自立性がなくなる恐怖もあるが、長年介護した経験からも「迷惑をかけたくない」と思うだろう。

 認知症に対する誤解の一番は、本書でも触れられているが「認知症」の本体(?)と、それに伴う「周辺症状」を一緒くたにしている事である。「周辺症状」はちょっと前までは「問題行動」と呼ばれていた。また誤解している人が多いが「認知症=アルツハイマー」ではない。
 周辺症状とは、たとえば徘徊、モノ盗られ妄想やいろいろな妄想、などで同じ程度の認知症の人でも周辺症状が現れる人現れない人がいる。周辺症状が出なければ、普通に老化して物忘れをするようになった老人で、周囲とも平和に暮らせる。
 筆者が琉球大学精神科(当時)の真喜屋氏と以前、沖縄県の佐敷村にて村の65歳以上の708名全員に対して精神的評価を行ったところ、明らかに「老人性痴呆」と診断できる割合が東京などと変わらないにもかかわらず、「周辺症状」を示す人は皆無に近かったという。真喜屋氏はこう考察している。

 佐敷村のような敬老思想が強く保存され、実際に老人があたたかく看護され尊敬されている土地では、老人に精神的葛藤がなく、たとえ器質的な変化が脳に起こっても、この人たちにうつ状態や幻覚妄想状態は惹起されることなく、単純な痴呆だけにとどまると考えられるのである

 自分も認知症の母を長年介護し、それにまつわる知識も増えたり他の人たちのそのような状態を見てきて、とても納得のいく考察である。
 昔は大所帯が普通だったからみんなで助け合って介護もした時代があったのだ、という意見も良く聞く。確かに人数が多いのは大いなる助けであるし、年長のモノを尊敬していたわる気持ちも現代より強かっただろう。でも「痴呆老人」は世間体が悪いと思い、見えないようにしていたのも事実で、そういうのが数字に出てこないという部分も多いはずなのだ。

 話は戻るが日本人が「他人に迷惑をかけたくないから」と思うのは、一見後ろ向きな自己の確立の仕方に見える。でも度重なる災害で再評価されてきた日本人の特質として、心の根本的なところでは自分だけで生きているのではないという精神構造があるためだろう。農耕民族の特質と言ってしまえそうでもあるけど、人と人のつながりだけではなく自然も含めたあらゆる環境ともつながって生かされているという根っこがあるのが我々なのだろう。

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経験を生かすも殺すも(2011.12.28)

 今までの仕事は、 大卒就職でのコンピューター(オンラインシステム開発のSE)。関西支店配属となって大阪勤務。 2年半で退職したあと看板屋のバイト。(大阪の人間関係の方が肌に合ったので)

 東京に戻って印刷製版の会社に再就職。 デザインで版下が作られた後、印刷用のフィルムを作る仕事で「レタッチ」と呼ばれたが、一連の作業がコンピューター化されて今は存在しない仕事。たぶん。

 印刷製版の仕事がものすごく自分向きであっという間に手に職をつけ、2年後に職人としてフリーに。
 そしてその後に絵の方面へ進んだ。ちなみに大学は建築学科。
 絵の方面へ進んでもすぐに仕事にはならないし、昼間は暇な時間が多かったので料理屋のバイトも。(料理の仕事がしてみたかった)

 今のイラストの仕事や生活にはすべての経験が役立っている。その時々は思う方向へ進まなかったこともあるけど、それがすべて良い事になった。というか本人が生かすかどうかなんだけど。
 久々に会った昔の先輩も「それはキミがそういう風にとらえることが出来るからや」と言っていたが、確かにその通りかと。
 言い換えると、過去は現在によって作り替えることが出来るとも言える。

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水戸黄門終了(2011.12.19)

 とうとうあの長寿番組「水戸黄門」が終了する。 低視聴率で打ち切りと言うよりも、世の中のドラマに対するニーズに合わなくなってきたというのが大きな理由らしい。
 そうだろうか?結局スポンサーが求める視聴者層に合わないのが理由に違いないと思うが。近年のドラマは、ストーリーが難しいものやはらはらどきどきモノが多い感じがする(テレビはほとんど見ないのでよくわからないが)。 それにジャニタレありきのドラマばかりで。

 「水戸黄門」のスポンサーは松下電器(現パナソニック)だが、最初に松下幸之助氏が注文をつけたのが
「見た人が幸せになるドラマを作って下さい」
の一言だったという。

 今は家族そろってテレビを見るということがほとんどの家庭ではなくなっているから、このようなドラマがニーズに合わないという事のようだが、一人で見ていても楽しみにしている人は大勢いるのに。
 最近では被災地でこういうドラマを楽しみにしている高齢者も多いし、意外に若年層だって好きな人は多いだろう。

 そういえば中学一年の頃、ヤンキー気味だった同級生男子が 「早く帰って水戸黄門みたいなぁ」とふてくされていたのが印象的だった。 自分も水戸黄門は、平日夕方4時からの再放送の方を多く見ていた。
 その同級生男子は別の時には 「早く帰って『パパと呼ばないで』見たいなぁ」と言ってたな^^

 自分がテレビを見ない大きな理由は、テレビの前に座っているより本を読んだり何かをしている方が好きということもあるが、見る価値のないものが多すぎるというのも理由。 制作費が削られているという事を差し引いても、番組作りが安易でレベルが下がりすぎている。 おそらく「おれたちひょうきん族」が発端となった、芸人の内輪ウケや楽屋ネタの垂れ流しも好きではないし。

 かつて山城新伍氏がバラエティで活躍していた頃 「ハッキリ断言するけど、あと3年でドラマというドラマはなくなるよ。」と言っていた。
 現実はそれとは逆にドラマが花盛りとなった。でもその質が落ちていっているのは予言通りかもしれない。一番大きな変化は、小説やコミックなどですでに世に受け入れられているモノのドラマ化ばかりになったと言うことか。テレビドラマのためのドラマ作りがほとんどなくなった、つまり冒険をしなくなったと言うことだろう。失敗するとリスクが大きすぎるからなのはわかるが。

 家族が全員そろって見なくても、普通に安心して見られるドラマはいつの世でも必要だと思うんだけどなぁ。

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自転車マナー(2011.12.11)

 サイクルブームも行き過ぎの部分が有り、暴走やブレーキ不備(付いていないか片方だけ)など刑罰が科されるようになってきた。いちいち罰則になってしまうのは良くは思わないが、バカが多いのも事実だから大いに取り締まっては欲しい。
 自分もロードバイクに乗る。スピードを出せる「状況の時」は出すがかなり安全運転である。やむなく歩道を走るときは必ず徐行する。絶対に歩行者の邪魔にならないようにする。車道を走るときは車の運転手が嫌がる走り方は絶対にしない。もちろん自転車も十分凶器になる危険なモノであるのを自覚しているからもあるが、自分が車と自動二輪(中型)の免許を持っていて運転手の気持ちも歩行者の気持ちもよくわかるというのもあると思う。また車とバイクの両方を運転するとかなり安全確認などに敏感になる気がする。もちろん性格にもよるだろうけど。

 さてさて、自分は下北沢駅から徒歩の住宅街に住んでいるが、時々勤務交代に向かうお巡りさんたちを見る。多いときは5~6人が自転車で走っている。その姿を見ていつも思う。歩道や遊歩道を徐行以上のスピードで徒党を組んで走るのは思い切り違反じゃねえのかぇ?

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