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呉後期の名将・私のNO.1武将

朱然
 (182〜249)


 字は義封。丹陽郡・故ショウの人。もともとの姓は施。朱治の姉の子。朱治は男子が四人いたが、朱然が13才(西暦194年)になるまでは生まれてはいなかったのだろう。ゆえに朱治は彼を養子にしようとし、孫策にこの事を願い出て許された。さらに孫策は朱然をもてなしこの事を祝ってくれたのであった。
 朱然は、孫権と同い年で学友でもあった。朱然の養父である朱治は孫策・孫権の父である孫堅からの家臣であり、孫策と劉ヨウが対立した際、孫権ら、孫一族を保護しており、さらに、孫権が15歳のとき彼を孝廉(漢の時代の官吏任用制度…郷挙里選の一項目)に推挙した事がある。この事から考えてみると孫家と丹陽の朱家の結びつきが強かった。そのため、両家は、孫権と朱然を共に学ばせたのだろう。
西暦200年、朱然十九歳の時孫策が亡くなり孫権が後を継いだが、その折、県の長を任された。その後、山越討伐、対曹戦などで功あり、順調に出世していった。
普通主君と仲が良くて出世していく人物は、能力があったとしても憎まれるのが常であるが、彼には誰かから憎まれたというような記述がない。なぜか。
 彼は他人を威圧するような体格ではない。身の長け七尺(約169cm)未満と書いているからには小柄であったのだろう。が、彼は物にこだわらないからっとした性格であったと言う。かつ、内々の生活は身を修めて清潔なものであり、武具にしか飾りをせず、それ以外は質素な用具を用いた。さらに終日まで職務に励み、緊急の場面にも動揺しなかったことは誰も真似できなかったほどだった。性格も能力も優れていたのだ。強いて一点の過ちは、周泰に嫉妬して、孫権が周泰を誉めるまで周泰の言う事を聞かなかった程度だ。
さて建安24年(西暦219年)呉と対立していた関羽は魏の領土である、荊州北部を攻めた。その期を狙い、病をおして呂蒙は荊州制圧に向かった。朱然も侵攻軍に入った。その折、潘璋と共に麦城から逃げる関羽を追撃し、臨沮で捕らえた。その功で、昭武将軍に昇進し、西安郷侯に封ぜられた。
 呂蒙は死の直前、孫権に跡をどうすべきか尋ねられたとき、決断力も実行力もある朱然に任せるべきだと言った。孫権はその遺言どおり、呂蒙の死後、朱然に仮節を与え、江陵を守らせた。劉備の呉討伐戦(221〜222)のとき、蜀漢軍の猛攻に苦しむも、陸遜の指揮の下、別働隊として、火攻めを受けている敵先鋒に猛攻を加え退路を断ち、功を上げた。また蜀漢軍を深追いするよりは魏に備えるべきだ、と陸遜に進言し受け入れられた。この功績で彼は征北将軍に出世し、永安侯に封ぜられた。
一言いっておくが、朱然は夷陵の戦いで戦死していない。これだけは言っておく。朱然の名誉のためにも、、、。
さて、魏は呉に更なる服従を求めていたが、もちろん孫権はその要求を受けない。そこで曹丕は怒り、各方面から呉を攻めた。『三国志演義』を読んだ人は、ここで濡須を守る朱桓が印象深いだろう。
 しかし、このとき江陵では激しく長い戦いがあったのだ。その江陵を守っていたのが朱然である。魏は、大将に曹真・夏侯尚・張コウ[合β]、参軍に辛ピ[田比]と言う名将ぞろいの大軍で江陵に押し寄せた。多分数万の大軍だろう。さらに曹丕も宛に駐屯し、後方から加勢をした。曹丕は濡須よりも江陵を欲したのではないか?濡須に送り込んだ将でひとかどの武将は曹仁だけ。しかし江陵は、曹真・夏侯尚・張コウ[合β]と名将ぞろい。それに長江の流れにしたがって蜀にも呉にも行ける要衝・江陵のほうが軍事的意味が大きいのではないだろうか?
 さて、その話はここまでとして、魏の軍勢は多くの陣を築き江陵を包囲した。さらに張コウ[合β]は中州の砦に立て篭もっていた呉の援軍の将・孫盛の軍を破り、砦を占領した。孫権は潘璋や諸葛謹を援軍に出したが包囲は崩れない。戦場、徳に篭城側は衛生状態が悪くなるが、江陵城中で浮腫が流行しまともに戦えるのは五千人しかいなかった。曹真達は穴を掘って突き進もうとしたり櫓を作りそこから雨の如く矢を射掛けた。兵をその攻撃にたじろいたが、朱然は臆する事もなく部下を励まし、敵陣の2つを急襲し打ち破ったほど。そうして6ヶ月過ぎた。魏軍は疲労し、またそれを見計らって、潘璋達の総攻撃の気配が出てきたので、魏軍はやむを得ず撤退し、朱然の名は魏に鳴り響いたと言う。
 229年車騎将軍・右護軍に任ぜられ、241年に樊を攻撃する。しかしこの時は救援に来た司馬懿の猛反撃を受け撤退した。246年戦功により、左大司馬・右軍師に任命された。
 
249年。2年間ほど病んでいた病が悪化し孫権の命による手厚い看護もむなしく死去。享年68。子の朱績が後を継いだ。

 また彼の墓は今の馬鞍山市にあり、多数の木簡が発見されている。


総評:なんだかんだ言われても、呉の後期において、陸遜らと共に呉を支えた名将である事は確か。演義で『関羽様を生け捕った』云々で趙雲に殺されるのは、客観的に見てもあまりにも非道である。統率力は呉の4軍師(周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜)にも決して劣らないと思う。

個人評価:
統率:92…江陵攻防戦より
腕力:82…江陵攻防戦での度胸より。
戦略眼:85…大軍を任せられるほど。
戦術眼:88…暗闇の中での殿をうまくこなす。
内政:65…うまく江陵を治めていただろう。
政治・外交力:55…複雑な政治事は苦手なのでは?
魅力:85…呂蒙に後事を託されるほどだが、周泰を嫌ったのが減点。


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