
保土ヶ谷宿の歴史・保土ヶ谷へ
江戸見付・橘樹神社・旧帷子橋・神明社
香象院・見光寺・天徳院・大蓮寺・遍照寺
高札場・問屋場・金沢横町道標4基
政子の井戸・北向地蔵
| 慶長6年(1601)、徳川幕府は伝馬制度を定め、五街道の整備を始めました。 保土ヶ谷宿は、このときに神奈川宿と共におかれた宿駅でした。 宿内には、保土ヶ谷、岩間、神戸、帷子という4つの町があり、入り組んだ宿場でした。特に保土ヶ谷と神戸、帷子とは約2キロメートルも離れていたので、実際には2つの宿場があるようなものでした。 慶安1年(1648)、それまで西北の地点を通っていた東海道のルートが変更されたことにともなって保土ヶ谷が神戸、帷子のとなりに移転されました。更に、万治3年(1660)には岩間町も移転し、現在に知られる宿場の形となったのです。 400年前の繁華街の名残を訪ねてみませんか? |
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相模鉄道線の横浜駅の1番ホームから各駅停車に乗り、3つ目の天王町駅で下車します。
天王町駅の改札を出たらすぐに左に折れ、今井川にかかる帷子(かたびら)橋を渡り、シルクロード天王町と名づけられた商店街を進みます。2つ目の信号の「松原商店街」に出る直前の道を右に入った辺りが江戸見付のあったところと言われています。
東海道を始めとする主要な街道の宿場の出入口には、見付(みつけ)と呼ばれる構造物がありました。
一般に、江戸側の出入口にあるものを江戸見付、京(上方)側にあるものを上方見付と呼んでいました。この江戸見付と上方見付の間が宿場の範囲となったのです。
構造については、神奈川宿の土居跡を描いた絵図面によると、東海道に直角に設置され、その土台部を石垣で固め、土盛した頂部に柵を設けています。土台部は約2.5メートル四方、土盛りは人の背をはるかに越え、竹矢来の柵は75センチでした。
こうした造りから、見付とは、簡易な防御施設であり、また、宿域を視覚的に示す効果をもっていたと考えられています。
江戸見付から、シルクロード天王町を引き返し、天王町駅から1つ目の信号の手前の右側に橘樹(たちばな)神社があります。
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素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀る橘樹神社は、源頼朝が1186年(文治2)に京都の祇園社(現在の八坂神社)の御分霊を勧請したことに始まったと伝えられています。したがって古くは祇園社と称し、江戸時代には牛頭天王社、明治初年に橘樹社と改称され、1921年(大正10)に現在の社名となりました。 橘樹神社は、明治天皇の東京遷都にも関わりましたが、関東大震災と横浜空襲で全焼してしまい、戦後、氏子崇敬者の熱意により社殿が再興され、現在に至っています。 |
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| また、この神社の祭神は、「後ろ向き天王様」と言われています。「新編武蔵風土記稿」には、祭神が秘仏なので後ろに顔を背けてすわっており、祈願をする人は、本殿の後ろへ回って拝む、と伝えられています。 これに対し、土地の古老によると、祭神の正面には強い光が射し、とても拝めないことから後ろ向きになっており、本殿の後方から正面を拝むつもりで詣でる習慣があるということです。 |
シルクロード天王町を進み、天王町駅の改札口前を通り過ぎると、天王町駅前公園があります。この公園内に旧帷子橋が史跡として残されています。
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現在の帷子橋は、天王町駅の北側にありますが、昭和30年代の改修工事以前は、駅の南側にありました。こうした橋の歴史を残そうと、園内に橋跡が設けられたのです。 このように橋が重んじられる所以は、江戸時代、この地が頻繁に浮世絵などの題材に取り上げるほど、歌川広重を始めとする絵師の人気を集めたからです。東海道には大きな橋が少なく、珍しかったことや、人通りが多かったこともありますが、橋を渡ると、右へ東海道が曲がっているので、絵に奥行きが出、構図が面白くなるからでした。 |
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| 歌川広重 1797年(寛政9)、下級武士の跡継ぎとして江戸城近くに生まれる。 幼名は安藤徳太郎。十代で浮世絵師を志し、歌川豊広に入門。1834年(天保5)「東海道五拾三次」シリーズを完結させて人気を確立し、名所絵の第一人者となった。 叙情的な花鳥版画、清雅な趣の肉筆画でも知られた。明治維新まで間もない1858年(安政5)、病没。 |
天王町駅前公園の前面を通る環状1号線を更に進むと、「大門通り」交差点があります。この交差点を右へはいると、やがて、石の鳥居が見えて来、神明社の参道が延びています。
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天照大御神(アマテラスオオミカミ)と豊受大御神(トヨウケオオミカミ)を祀る神明社は、磯貝正が著した「榛谷御厨(はんがやみくりや)の研究」によれば、保土ヶ谷は、平安中期の辞典である「和妙抄」にある幡谷郷(榛谷郷)であろうとし、この地は、五穀の稔りがよく、住民の敬神の念も厚く、交通の便もよいということから、伊勢神宮の御領として寄進せられ、これが「榛谷御厨」と呼ばれたということです。 | ![]() |
| そして、この御厨から白布三千疋が神宮に献上され、このときに神明社が建立されたとしています。 その後、戦国時代に一時、衰退しましたが、天正18年(1590)徳川氏入国の時、社殿の造営が行われ、四石一斗の御朱印地が安堵されました。明治天皇の東京遷都に関わり、明治6年、保土ヶ谷の総鎮守に列せられ、平成10年、鎮座1030年祭などを記念して「平成の大造営」が行われ、380年ぶりに境内の12棟ある全ての建物が一新されました。 |
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神明社の参道を戻り、通りに出ると、「古東海道」の道標があります。この通りが旧東海道なのです。 「大門通り」の交差点に戻り、環状1号線を更に右へ進むと、右側に香象院があります。 |
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普賢山香象院は、真言宗の寺院で、磯貝正の墓があることで知られています。 磯貝正は、東京帝国大学文学部史学科を卒業し、「時宗の研究」「榛谷御厨の研究」の論文を発表しました。後に、県、市の史学調査官となり、「保土ヶ谷区郷土史」上下二巻の編集に心血を注ぎましたが、病により、昭和13年6月8日、32歳の若さでなくなりました。 死後、20年以上も経た昭和37年6月7日、考古学者の石野瑛氏の撰文並びに書によって「郷土愛の碑」という顕彰碑が建てられました。 |
香象院の前から環状1号線を更に西へ進むと、右側に見光寺があります。
| 浄土宗大誉山見光寺には、横浜ゆかりの文人の墓があります。 歌人・清原雄風の門人で、保土ヶ谷に移り住んでいた、柿園山平伴鹿の墓がありましたが、近年、失われてしまいました。 伴鹿には「詠歌百首」「新学異見弁」の著書があります。 「横浜地名案内」の著者、森田友昇の墓も境内にあります。 友昇は、横浜生糸商、芝屋清五郎の支配人でしたが、明治初年に芝屋を辞して、南仲通3丁目に鰹節店を開業しました。俳句をよくし、明治初期の俳壇では優れた存在となり、嘯月庵と号し、句集に「浅川集」(明治12年12月刊)があります。 |
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見光寺の境内に沿って住宅地の中の小径を進むと、古東海道に出、天徳院の前に出ます。
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曹洞宗神戸山天徳院は、保土ヶ谷の豪族、小野筑後守が華林栄公和尚に帰依して、天正元年(1573)に建立されたと伝えられています。 「東海道人物志」(享和3年・1803)保土ヶ谷の項に、眼科・宮本周司の名があります。その周司の子孫の宮本清寛は、下総佐倉(現在の千葉県)の佐藤泰然(順天堂医学校の開祖)に目の診療を学びました。 そうした宮本家代々の立派な墓が境内に伝えられています。 |
古東海道を更に西へ進むと、大蓮寺があります。
| 日蓮宗妙栄山大蓮寺は、日蓮上人が21歳で鎌倉へ遊学した際、この辺りの民家に宿泊し、教化を行い、その教えを受けた者が、後年、住まいを寺としたのが始まりと伝えられています。 山門の下に「日蓮上人帷子里霊場」の記念碑が建てられています。 また、寺内に、二代目ですが、徳川家康の愛妾であったお万の方お手植えのザクロの木が植えられています。 |
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大蓮寺の西の先に遍照寺が建ちます。
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古義真言宗医王山遍照寺は、「念仏百万遍の供養塔」という供養塚があることで知られています。 この供養塚は、足立為茂の略伝とその信心深さを述べ、祖霊始め親族眷属はもとより、無縁、溺死、焼死の三界万霊に至るまで、二世安楽を祈り、文化6年(1809)に建てられました。 書は、狂歌師として有名な「朱楽管江(あけらかんこう)」でした。管江は、江戸・四谷に生まれ、長じて幕府の御手先与力を勤め、俳号を貫立、人呼んで「貫公」と呼ばれていました。 |
遍照寺前の「反則センター」の交差点から環状1号線を右へ進みます。JR保土ヶ谷駅前に出ると、道がYの字に分かれているので、右側の商店街がある方へ入ります。商店街の右側に、小さな郵便局がありますが、この角に高札場(こうさつば)がありました。 また、高札場の向かい側には問屋場(といやば)があったと伝えられています。
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高札場は、幕府や領主が定める最も基本的な法令を書き記した木の札(高札)を掲示した施設で、江戸時代6万を越える全国の村々に全て設けられていました。高札は、人の目の高さよりはるかに高い位置に掲げられ、人々は見上げて高札の文言を読まなければなりませんでした。 それは、幕府や領主の権力の象徴を見上げる、という行為によって、無意識に畏敬の念をもつように計算されていたためです。 そのため、高札場は多くの人の目に触れるように村の中心や主要な道が交わる交差点といった人通りの多い場所に設置されていました。 (右の画像は、神奈川宿跡に復元された高札場です。) |
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| 江戸時代の村々には、領主、代官との折衝や村政の運営を円滑にするために名主(あるいは庄屋)、組頭(あるいは年寄)百姓代と呼ばれる村役人がおかれていました。 同じように、宿場の運営を円滑に行うために、宿役人がおかれ、業務を行うためにつめていたのが問屋場でした。 問屋場では、江戸と各地の間に送付される幕府の書状の継立(つぎたて)や参勤交代の大名行列が通過する際に、周囲の助郷村々から動員された人足、馬の差配を取り仕切るなど、宿場の運営上、最も重要な施設であり、街道に面した宿域の中心におかれることが多かったようです。 また、宿場の規模によっては、問屋場は一つではなく、複数、存在していることも珍しくありませんでした。 保土ヶ谷宿では問屋場は一つで、主な役職と人数は次の通りでした。 問屋1名(宿場の代表者で、村落の名主に当たる) 問屋代2名(問屋の補佐で、村落の組頭に当たる) 年寄8名、帳付役8名、迎役8名、人馬指8名 |
問屋場跡に向かって右側の露地に入ると、すぐ右側に金沢横町道標4基が伝えられています。
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保土ヶ谷宿には、金沢道や八王子道といった脇街道へ繋がる分岐点があり、この道標4基がその分岐点に建てられていました。 特に、金沢道は杉田の梅林や金沢、鎌倉、江の島という名所、旧跡を通り、藤沢宿で再度、東海道と合流するルートとして人気がありました。 当時も、観光名所を訪ね歩くことは旅の大きな楽しみで、そうした旅人達で保土ヶ谷宿は賑わったのです。 |
| 道標に向かって右側から、 天明3年(1783)建立の「圓海山之道」 天和2年(1682)建立の「かなさわ、かまくら道」 文化11年(1814)建立の「程ヶ谷の枝道曲れ梅の花、其爪(きそう)」 弘化2年(1845)建立「ほうさう神富岡山芋大明神江の島」 と、刻まれています。圓海山は、「峰のお灸」で知られる護念寺のある所、其爪(きそう)の句は、梅の名所杉田への道を示し、ほうさう神は、富岡の長昌寺(ちょうしょうじ)で、疱瘡(ほうそう)の守り神として、信仰を集めていました。 |
金沢横町の道標に従って金沢道へ入り、JRの踏切を渡り、交通の激しい国道1号線も向こう側の歩道に渡ります。
渡るとすぐに石難坂(いわなざか)がありますので、上っていきます。坂の中腹の右側に、政子の井戸があります。
| 源頼朝の妻・北条政子が通りかかったとき、この井戸の水をくんで化粧に用いたと伝えられていることから、「政子の井戸」と呼ばれています。 また、宿駅制度が定められた江戸時代、代々の将軍が、刈部氏の本陣に休息した際、御膳(ごぜん)の水として使用したと言われています。 |
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石難坂を上りきり、横浜清風高校(旧明倫学園)を右にして更に進み、信号のある交差点に出ると、右の角に北向地蔵があります。
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北向地蔵は、総高150センチメートルの道標の上に安置された高さ73センチメートルの座像です。 僧・三誉伝入(さんよでんにゅう)が享保2年(1717)に、天下泰平、国土安全と旅人の道中安全を祈念して建立したと伝えられています。 北向きにおかれているため、北向地蔵と呼ばれていますが、道標も兼ねているので、金沢と弘明寺方面の分岐となる角におかれたことで称されているとも考えられています。 角柱の道標部分には、「是(これ)より左の方かなさわ道」「是より右の方くめい寺道」と彫られています。 |
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金沢横町道標4基の前へ戻り、商店街へ出、更に西へ進み、JRの踏切を渡ります。交通の激しい国道1号線に出、「保土ヶ谷1丁目」の交差点を向かい側の歩道に渡ると、すぐに保土ヶ谷宿本陣があります。