保土ヶ谷宿本陣・脇本陣・大仙寺
外川神社・一里塚・茶屋本陣
樹源寺・権太坂・「投込塚之跡」の碑
境木立場跡・境木地蔵
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本陣は、勅使(天皇の意思を幕府に伝えるために派遣される特使)、皇族、貴族、院使(朝廷からの使者)、門跡(寺院に住まいする皇族)、公卿(朝廷の高官)、参勤交代の大小名、駿府、大坂、二条城の御番衆、所々目付などの公用の武家、日光例弊使、その他諸侯衆、老職(幕府で、大老・老中などの職。また、大名の家老など)の他、将軍家に献上する馬、鷹、茶、備後畳表及びその従者の宿泊を目的とする施設でした。 |
| したがって、一見して他とは異なる格式を備え、門、玄関、上段の間を構え、200坪前後の規模をもつものが多かったとされています。 大小名の参勤交代の行列が宿泊する際には、領主は料理人を連れて旅行をしていましたので、必要な食器、調理器具一式、生活用具一切まで持参していました。また、身の回りの世話は全て側近が当たるので、本陣側は、その建物を提供し、家人は、勝手居住の間に控え、専ら従者の指図に従って働きました。 こうしたことから、本陣では日常の使用人は、下男1人、手代1人、下女2〜3人に過ぎなかったのです。 |
| 本陣の仕事内容は、本陣としての旅籠業務全般の他に、松並木の手当や雪の取り方付、橋の架け替えなどの街道の維持、宿全体の火の用心、不審火の探索、人相書きや盗品・紛失物の手配、行き倒れ・病人・変死人の検死や立ち会い、無銭飲食・家出人・ケンカの仲裁、旅行手形の発行、勧化願や祭礼の世話、質地や借金の保証人、家督相続、山論地論の仲裁、宗門人別帳認めと上納、溜井普譜、堀凌え、田場水引などの農作物の差配、年貢収集と土納、本陣家作の手入れや召使い男女の任免から毎秋に大量に購入され、幾樽にも漬け込まれて一膳飯に添えられるであろう沢庵大根の手配に至るまで、名主業務と重複しいて非常に多岐に渡っていました。 |
| こうした本陣の起こりは、1363年、足利義詮が上洛のとき、その旅舎を本陣と称して宿札を掲げたことに始まる、といわれていますが、その職能をより発揮し始めたのは、参勤交代制が実施された寛永12年(1635)以降の元禄期にかけてであろうと推測されています。 旅舎に充てられた本陣職を勤めた家は、先祖が戦国武士団の系譜をひき、その土地の有力者である場合が多かったのですが、彼らが武士団の依頼に応じて宿泊の用を勤めたことに始まり、やがては大名達の定宿になっていったといわれています。 本陣職という名称は、武家は常に軍旅にあるという心構えで生活しており、その主人のいるところは、常に本陣である、という意味から転じたものなのです。 |
本陣の前を右へ進むと、左側に脇本陣があります。
| 脇本陣は、本陣の代勤をし、あわせて御用宿の順番勤めをするという点で、本陣と旅籠の両方の性格をもち、また、いずれか一方ではない、という存在でした。こうした脇本陣の起こりは、本陣の設置以降の江戸時代中期以降のことでした。 脇本陣は必要に応じて諸侯の休泊を本陣に代替して勤めるものとして呼称され、平常は通常の旅籠屋として営業を行っていました。 |
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脇本陣から、国道を渡り、更にJRの踏切を渡ると、大仙寺の境内が拡がっています。
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西方山安樹院大仙寺は、天禄年間(969)に創建され、当時は、神戸山惣院神宮寺と称していました。その後、衰退し、応永年間(1394〜1428)に法院鎮淳(ほういんちんじゅ)により中興し、現在の山号、寺号に改められました。 寛文10年(1623)2月、火災により、本堂と山門を失いましたが、元禄14年(1701)再建されました。 保土ヶ谷宿の本陣、脇本陣、茶屋本陣を勤めた者たちは、全て当寺を菩提寺としていますし、様々な歴史を伝える文物が数多く伝わっています。 |
大仙寺から脇本陣の前の戻り、更に右へ進むと、左側に今井川をはさんで外山神社があります。
| 外川神社は、保土ヶ谷宿の出羽湯殿山へ参詣する同行者を組織する先達であった清宮與一(きよみやよいち)が、湯殿・月山・羽黒の三山の霊場を参拝し、明治2年(1869)にこの地に羽黒山麓の外川仙人権現の分霊を勧請したことに始まりました。「お仙人さま」と称され、小児の虫封じのご利益として信仰を集めていました。 しかし、明治政府の神仏分離令の直後であったことから、祭神を日本武尊(やまとたける)とし、外川神社と改称しました。 |
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外川神社の周囲に一里塚、上方見付、茶屋本陣があったと伝えられています。
| 徳川幕府が伝馬制度を定めた当初は人や荷物を運ぶ駄賃銭の計算基準が曖昧でした。 それを明確にするために、江戸・日本橋を起点とした距離が解るように一里(約4キロメートル)ごとに五間(約9メートル)四方の塚が造られ、塚の上には榎や松が植えられ、一里塚と呼ばれました。 一里塚は、旅人にとっては旅の進み具合が解る目印であると同時に、塚の上に植えられた木は、夏は木陰をつくり、冬は寒風を防いでくれる格好の休憩場所にもなったのです。 そのため、一里塚の周辺には茶屋が多く建ち、立場と呼ばれる休憩場も設けられるようになったのです。 (右の画像は、品濃の一里塚です) |
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| 大小名の参勤交代制が定まると、宿場内の茶屋を本陣に充てて、専用の本陣として使用された例も少なくありませんでした。 つまり、本来の茶屋が本陣に移行したもので、茶屋、本陣の両方に呼称されていましたが、規模は本来の本陣を縮小させたものが多かったようです。 |
外川神社から更に進むと、「保土ヶ谷2丁目」の交差点に出ます。国道が二またに分かれているので、右の方へ進むと、右側に樹源寺があります。
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妙秀山樹源寺は、鎌倉時代末期まで東方山医王寺という真言宗の大寺でしたが、兵火によって薬師堂を残し、廃寺になりました。 元の医王寺は、JRの線路を越えて桜ヶ丘の方へひろがっていたと考えられ、昭和初期には、まだ、薬師堂の小字が地名に残っていました。 保土ヶ谷宿本陣初代刈部清兵衛の父・修理亮吉重の夫人が日蓮宗に帰依して心了院妙秀と号し、焼け残った薬師堂と大けやきの傍らに庵を建て、身延山久遠寺の末寺として妙秀山樹源寺を開き、善通院の日了上人を招いて開祖としました。 薬師如来は、いつしか山門の外に安置され、現在では、寺内の清正公堂の中に清正公とともに祀られ、年寄り達の眼病平癒の祈願を受けています。 |
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樹源寺の前を進み、「元町ガード」の信号を左に曲がります。すぐに、道ばたの右側に道祖神があり、道祖神の先の小径を右へ上っていきます。この小径が旧東海道で、保土ヶ谷宿の難所といわれた権太坂の入口なのです。(「元町橋交番前」の信号まで行かないように注意して下さい)
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江戸から保土ヶ谷までの東海道は、江戸湾に沿った平らな街道でした。 それだけに、元町(移転前の保土ヶ谷町)から境木まで続く長い権太坂は、旅人にとっては初めての難所となりました。 権太坂は、昔は現在の光陵高校までを一番坂、境木までを二番坂と呼んでいましたが、いつしか一番坂だけを権太坂と呼ぶようになりました。 この名の由来は、旅人が土地の老人に坂の名を尋ねたところ、耳の遠い老人は自分の名を聞かれたと勘違いし、「権太」と答えたから、あるいは、万治2年(1659)坂の改修工事に当たった藤田権左衛門の名から「権左坂」と呼んでいたものが訛って「ごんたざか」となったとも言われています。 |
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権太坂を上り始めると、すぐ左側に権太坂改修記念碑が建てられています。 この記念碑は、旧東海道権太坂は新道(現在の国道1号線)が開通した後も昔ながらの傾斜の急な旧道でしたが、昭和30年、時の横浜市長であった平沼亮三氏より、1,500坪の道路用地の寄贈を受け、拡幅と切り通しにより改修を行ったことを伝えるためのものです。 |
権太坂を上りきり、境木中学校に行き当たったら、T字路を左に進みます。少し進むと左側に「投込塚之跡」の碑があります。
| 権太坂は、約1・5キロメートルも続き、箱根につぐ難所で、行き倒れも多く、二番坂を上りきった横に死人を投げ込む井戸があったと伝えられていました。 この井戸は、権太坂を上りきり、境木中学校に行き当たったT字路を左に曲がり、少し進んだ左側でした。昭和36年(1961)の開発で発掘され、多数の人骨が発見されたことに伴い、旅人の霊を慰めようと「投込塚之跡」の碑が祀られました。 発掘された人骨は、西区の東福寺に埋葬されました。 |
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「投込塚之跡」の碑から境木中学校の前を通り、境木小学校までくると、向かいに「境木立場跡」があります。
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一般の旅人の休憩所のことを、江戸時代は、杖を立てかける場という意味から、立場と呼んでいました。こうした立場は、宿間の道ばたに設けられた掛茶屋(かけちゃや)で、武蔵と相模の国境である境木のそれは、保土ヶ谷宿から離れているために置かれました。 境木立場は、この地の旧家である若林家が代々営み、茶店で売られていたぼた餅は、街道筋によく知られていました。 |
境木立場跡から更に進むと、境木地蔵が祀られています。
| 境内に建つ地蔵堂は、1659年(万治2)の創建と言われていますが、堂内に安置されている地蔵はいつ頃つくられたものかは解っていません。 鎌倉の腰越海岸に漂着した地蔵が、漁師の夢枕に立ち、牛車で江戸へ運ぶように告げたので、漁師は地蔵を牛車に乗せて江戸へ向かったものの境木のこの地で牛車が動かなくなったため、その場へ置いて帰りました。 村人が地蔵を引き取り、堂を建立したところ、村は大変、栄えたと伝えられています。 以来、境木地蔵は、お金が集まる縁起のよい地蔵、あるいは脚気に効果がある、などの評判により東海道の名物となり、堂の前には茶店が並び、境木は賑わったといいます。この境木地蔵は、岩間町の見光寺が管理しています。 |
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境木地蔵を過ぎ、鬱蒼とした枝が頭上をおおう焼餅坂を下っていくと、次の宿場町である戸塚宿へ向かうことが出来ます。
「保土ヶ谷・宿場町の残照」は、これで終わりです。
権太坂を上りきった右側にある「境木中学校前」のバス停から、「保土ヶ谷駅」と「東戸塚駅」行きのバスが出ています。
| 参考資料 | 「横浜散歩 24コース」 山川出版社刊 神奈川県高等学校教科研究会 社会科部会歴史分科会編 |
| 「神奈川の東海道」 神奈川東海道ルネサンス推進協議会遍 | |
| 「東海道・保土ヶ谷宿とまちづくり」 東海道倶楽部編 | |
| 「神奈川の東海道(下) 〜遙かなる時代の道の賑わい〜 神奈川東海道ルネサンス推進協議会編 | |
| 「神奈川県百科事典」 大和書房刊 神奈川県百科事典刊行会編 | |
| 「保土ヶ谷ものがたり」 保土ヶ谷区制五十周年記念事業実行委員会編 |
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