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七福神とは磯子七福神磯子へ
寶生寺と寿老人弘誓院と福禄寿寶積寺と恵比寿
密蔵院と布袋真照寺と毘沙門天
金蔵院と弁財天金剛院と大黒天
岡村天満宮

七福神とは

 七福神とは、幸福をもたらす民間信仰の七神をいいます。
 一般に、恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋をいいますが、寿老人は福禄寿と同体異名だとして、近世以降は代わりに吉祥天または猩猩(しょうじょう)をはいすることもあります。
 中世末の富貴を願いしゃれ、冗談、ユーモア、おどけなどを好む世相を反映して当時、広く信仰されていた鞍馬の毘沙門天、叡山の三面大黒天、西宮の恵比寿、竹生島の弁財天などに神仏や滑稽味のある禅僧を配して七福神としました。
 こうした七福神の成立年代は不明ですが、画軸や狂言の題材となり、文明年間(1469〜87)には、都に七福神の装いをした盗賊が出た、といわれています。近世以降も広く絵画、彫刻、歌舞などの題材に扱われ、江戸や関西では正月にこの神々を祭る社寺を巡拝する七福神参りの風習が生まれました。

磯子七福神

 磯子七福神は、大正7年(1918)に磯子区、南区の7つの寺社に祭られ、当時、近在近郷の参拝者が巡拝し、賑わいました。
 当初は、岡村天満宮、稲荷社(埋立地・磯子浜)も講中内でしたが、いつの日にか現在の高野山真言宗の7つの寺院に祭られるようになりました。
 戦中、戦後は一時、途絶しましたが、昭和53年(1978)磯子区制施行50周年を契機に、磯子区青年指導員協議会が各寺社と磯子区体育指導委員協議会の協力を得て、歴史、文化の研究保存、ふるさと意識高揚と体力、健康保持のために約9キロ、3時間の歩行順路を整備しました。

磯子へ

 横浜駅から市営地下鉄を2番線ホームで乗り、7つ目の蒔田駅2番出口から地上に出、右に折れると、「宮元町3丁目」の信号があり、この交差点を右へ入ります。「榎木町2丁目」「堀ノ内町」のバス停を過ぎ、「東蒔田町」の次の信号(※1)を右へ入り、道なりに進むと「青龍山寶生寺」と刻んだ石碑があり、石碑の左の小道へ入り石段を上ると、自然林に囲まれた閑静な「寶生寺」の境内が広がります。

寶生寺と寿老人

寶生寺1  寶生寺は、真言宗の寺院で、山号を清竜山(せいりゅうさん)、院号を宝金剛院(ほうこんごういん)と称し、本尊に大日如来像を祭っています。寺伝によると、承安元年(1171)民部卿大僧都覚清(かくせい)法印が創建し、開山は康暦2年(1380)入寺の覚尊(かくそん)と伝えられています。覚尊は、応永16年(1409)に京都の仁和寺の闕坊(けつぼう)宝金剛院を当寺の院号に請い、許されて、末寺52か寺を擁する地方有数の大寺院に発展させました。
 当寺は、久良岐(くらき)郡平子(たいらこ)郷を支配した武士団で平子氏と関係が深かったようで、3世圓鎮(えんちん)は平子氏の出でした。文明年間(1469〜87)には真言宗の学問僧堂の談義所の一つに数えられ、その後、関東真言の学林として太田道灌(どうかん)や小田原の北条氏の庇護を受けました。。
 江戸幕府からも朱印10石を拝領し、慶長14年(1609)に伊豆、相模、武蔵3カ国古義真言宗法談所34院の1つに定められ、末寺50余寺を擁する本山でした
 明治7年(1874)に本山を横浜元町の増徳院に移されて、末寺となり、次第に寺勢は衰えました。桁行5間、梁間5間、方形造、桟瓦葺の本堂は、延宝8年(1680)建立の灌頂堂を現在地に移築したもので、もとは茅葺でした。内部は前面入側を外陣とし、内陣との境に結界を設けています。本尊の大日如来座像(県重文)は鎌倉後期の作で、慶長6年(1601)に鎌倉の覚園寺から移されたものです。当寺には約1000点の古文書が所蔵され、嘉吉2年(1442)の「横濱村薬師堂免田畠寄進状」の文書は、「横濱」の地名を初見する最古の文書として貴重な存在です。
寶生寺2
 寿老人は、中国の老子が天に昇り、仙人となり、1500年の長寿を保ったという説と福禄寿と同様に中国の福徳、財運、長寿をかなえる南極寿星の化身、とされています。

 (※1)へ戻り、中村橋商店街をさらに進み、国道16号線の「中村橋」交差点に出、右へ折れます。右側の2本目のマルトクガーデンが角にある小道を右へ入ると突き当たりが「弘誓院」となります。

弘誓院と福禄寿

弘誓院  弘誓院は、妙法山観世音寺と号し、真言宗高野山金剛峰寺の末寺で、本尊に聖観音菩薩像を祭っています。
 天文5年(1536)石川帯刀源家重の開基で、家重の叔父に当たる順清法印を京都より迎え、開山した、と伝えられています。延宝元年(1673)11月24日、京都仁和寺総法務官、後大御室承法法親王から「妙法山観世音寺」の山号院号を賜り、元禄3年(1690)の寶生寺文書「定」に役寺とあり、寶生寺門徒の中で上通りの格式を備え、寶生寺の法務を執行し末寺46か寺の筆頭であったことが解かります。
 元禄16年(1703)南関東大震災で堂宇倒壊再建、明治7年(1874)横浜元町の増徳院の末寺となり、大正12年(1926)9月1日関東大震災により、本堂・庫裏が全壊しました。
 大正15年(1926)3月15日インド風の本堂と付属の位牌堂が再建され、同年6月29日金剛峰寺の直末となり、昭和4年(1929)庫裏が再建されました。
 昭和20年(1945)4月15日、戦災により一切の建物が焼失し、昭和26年(1951)6月に本堂建築、同29年に庫裏を建築し、戦災後の復興としました。
 昭和44年(1972)宗祖弘法大師誕生1200年を記念し、新本堂の建築を計画し、3年後、旧本堂を移築、新本堂完成後に釈迦堂としました。宝形造新本堂は昭和49年(1974)8月に竣工、翌年、庫裏の増改築をなし、同51年(1976)秋に落慶し現在に至っています。
 福禄寿は、北宋の道士という説と南極寿星の化身で、人が求める「福(幸福・家内安全)と禄(幸禄・収入・地位)と寿(長寿)の望みをかなえる、といわれています。

 国道16号線をさらに進み、「天神橋」交差点まできたら天神橋で掘割川を渡り、国道の向かい側の「天神橋」交差点に出、掘割川に沿った国道の左側の路地へ入り、住宅街を進みます。やがて、右側に「磯子上町公園」があり、その先の左側の路地(※2)を入ると、「寶積寺」があります。

寶積寺と恵比寿

 寶積寺は、山号を明王山、院号は不動院と号し、本尊に不動明王像を祭る高野山真言宗の寺院です。
 建保元年(1213)権僧正勝覚阿闍梨が東国巡化のさいに大寶積経の名を用いて、寶積寺を建立しました。また、永禄年中(1558頃)、僧頼順が再興した、と伝えています。明治3年(1870)根岸の白滝不動堂を再興し、寶積寺の境外仏堂としました。
 また、現住職は、子供達が健やかに育つようにと発願し、千体地蔵尊を祭り、ガンダーラ文庫や写経、写仏を行っています。また、ペットの御霊が心安らかな眠りにつくようにと動物納骨堂も運営しています。問い合わせ:045−751−4300
寶積寺
 恵比寿は正業を守り、福利をもたらす神で恵比寿三郎ともいわれ、「源平盛衰記」などにその名が見えます。事代主(ことしろぬし)神ともされていますが、農村では田の神、漁村では大漁の神とされています。

 (※2)まで戻り、住宅街をさらに進み、掘割川に沿った国道16号線の「根岸橋」交差点に出、左へ進みます。「坂下橋東詰」交差点を過ぎ、「磯子橋東詰」交差点で磯子橋を渡り、国道16号線の「磯子橋」交差点に出ます。ここから閑静な住宅街が広がる中浜町と滝頭3丁目が接しあった道へと入っていきます。右側の滝頭3丁目12(※3)の路地へ入っていくと、左側に「密蔵院」があります。

密蔵院と布袋

密蔵院  密蔵院は、山号を竜頭山、寺号を明王寺と号し、本尊に不動明王を祭る高野山真言宗の寺院です。
 開山は不詳ですが、慶長2年(1597)や同4年の墓石、同5年の印塔があり、そのころが開山と考えられます。中興開山は、慶安5年(1652)入寂の阿闍梨長慶が堂宇を整備し、寺門興隆をとげました。延享2年(1745)根岸領書上によると、子の権現、貴船大明神、山王と八幡社など10社の別当職を、明治3年(1766)八幡川のほとりの八幡宮も密蔵院もちとなりましたが、明治初年の神仏分離令で解除となりました。大正12年(1923)関東大震災で本堂と庫裏が倒壊しました。現在の本堂は、昭和55年(1980)に落慶し、その期に山号を「滝頭山」から「竜頭山」に改めました。
 布袋は中国の後梁時代の禅僧、布袋和尚と呼ばれる契此(かいし)で、弥勒菩薩の化身といわれ、額は広く、身は太く短く、ふくよかな腹をもつ円満な相から、夫婦円満、功徳を施す神とされています。

 (※3)まで戻り、中浜町と滝頭3町目が接した道をさらに進みます。「中浜町」交差点を過ぎ、北磯子住宅に行き当たったら左へ進みます。左の磯子小学校と向かい合い、「真照寺」があります。

真照寺と毘沙門天

 真照寺は、山号を禅馬山、院号は密厳院と号し、本尊に阿弥陀三尊を祭る高野山真言宗の寺院です。
 開山開基は明らかではありませんが、鎌倉時代までさかのぼると言われています。古文書によると、元暦元年(1184)当時、磯子を支配していた平子平右馬丞が再興した、といわれ平子氏が当山を開基した一族の菩提寺でした。また、毘沙門天は、平子平右馬丞の像と伝えられています。
 文明5年(1473)僧圓鎮(えんちん・寶生寺第3世)が造営を加え、郷内禅馬・根岸両村の3分の1の所領を寄進したので、三郷院という名が出た、と伝えられています。
 現在の本堂は、昭和37年(1962)に落慶したものです。
真照寺
 毘沙門天は、インドでは仏法守護の四天王となり、甲冑をつけ北方を守る神とされています。密教では国家鎮護の軍神で、捧げ持つ宝塔、宝棒は財産、富貴繁栄と勇気を授けるとされ、また、倶毘羅(くびら)とも称され、施福の神とされています。

金蔵院と弁財天

金蔵院1(観音堂)  金蔵院は、山号を海向山、寺号は岩松寺と号し、本尊に薬師如来を祭る高野山真言宗の寺院です。
 縁起によると、岡村町1丁目の薬師畑に鎌倉三代執権北条泰時が、京の明恵上人からいただいた薬師如来を安置し、霊雲山竜錫寺と号しましたが、火災で焼失し、嘉暦3年(1328)に、現在地に金蔵院として中興したのが、真言僧理空上人でした。現在の本堂は昭和39年(1964)に落慶、また、観音堂の如意輪観世音菩薩は北条泰時内室の念持仏で、発心比丘宗因が安置した、とされています。現在の堂は、昭和49年(1974)妙義山妙義神社御本地堂(約200年前の建築)を移築したものです。
金蔵院2(本堂)
 弁財天は、弁才天とも書き、インドの河神である梵天(ぼんてん)の妃で、万物を破壊する洪水の力を神格化したものです。琵琶楽器を持っているので、音楽、学問、芸能、商売の福徳施与を願う神とされています。

 金蔵院が面した磯子旧道を道なりに進み、「汐見台中学校前」「「山王台小入口」「磯子6丁目」「笹堀」の信号を過ぎて、「仲久保」バス停の次の道を左へ入り、信号のある小さな交差点を左へ進むと、右側に「金剛院」があります。

金剛院と大黒天

金剛院  金剛院は、山号を医王山と号し、本尊に薬師如来を祭る高野山真言宗の寺院です。
 元禄9年(1696)に入寂した長誉上人が開山したものともいわれていますが、古文書によると、上人が寺運を興隆し、中興したと記されていることから、それ以前に開山したものと思われます。
 大正7年(1918)隣接の火災で類焼し、仮本堂を経て、昭和50年(1975)本堂大改修を終え、平成元年(1989)薬師三尊立像を新たに安置し、「夢薬師」と命名し、現在に至っています。
 大黒天は、元はインドの摩訶迦羅(まかから)天で、三宝を守り飲食を司る戦闘の神でしたが、南中国の諸寺で台所の神となりました。日本に入ってからは農業、福徳の神である大国主神と習合し、大黒様といわれました。その円福にあやかり家内安全、勉学の神、米俵に乗っているので、山の幸の神、小槌を振り上げているので、財宝の神とされ、商売繁盛の神とされ、江戸時代より恵比寿とともに海の幸、山の幸、金銀の財を成すようにと一対で神棚に祭られます。

 「仲久保」バス停が面した道に戻り、さらに進むと、「岡村交番前」交差点に出ます。この交差点を右に入り、石の大鳥居をくぐり、坂を少し上ると、左側に「岡村天満宮」へ入る石段があります。

岡村天満宮

  創立年代は不詳ですが、土地の古老の言い伝えによると、建久年間に源頼朝の家臣が鎌倉から移り住んだ折り、家臣は鎌倉の荏柄天神を信仰していたので、菅原道真を祭る京都の北野天満宮を勧請し、創建したといわれています。
 明治43年(1910)岡村6丁目に鎮座していた天照皇大神と同3丁目に祭られていた市杵島姫の命を祭る杉山神社を合併して杉山天満宮としました。昭和5年(1930)に岡村天満宮と改称し、昭和50年(1975)現在の社殿が造営されました。
岡村天満宮

「磯子・七福神巡り」はこれで終わりです。
 「岡村交番前」交差点のすぐ前に「天神前」バス停があり、磯子、根岸方面、また、保土ヶ谷、横浜駅西口方面へ出ることができます。



参考資料 青龍山寶生寺略縁起
弘誓院略沿革
「国史大辞典」吉川弘文館刊
「磯子七福神めぐり」
 磯子区青少年指導員協議会


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