更新日:2002年5月13日

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神奈川宿の歴史
神奈川へ
長延寺と土居跡笠のぎ稲荷神社良泉寺
能満寺と神明宮金蔵院熊野神社
高札場成仏寺

神奈川宿の歴史

  東海道五十三次の始発である日本橋から数え、3番目の宿場町が神奈川宿でした。
  この神奈川湊(みなと)に面した風光明媚な宿場町が一躍有名になったのは、安政元年(1854)の日米和親条約締結の舞台となってからでした。その6年後に結ばれた日米修好通商条約で、神奈川が開港所と定められました。
  開港当初、宿場町に建つ本覚寺がアメリカ領事館に、長延寺がオランダ領事館にと、多くの寺が諸外国の領事館に充てられました。
  このように、神奈川宿は近代都市横浜への架け橋となったのです。 

青海波  神奈川宿跡を対象として神奈川通公園から上台橋の約4キロが「神奈川宿・歴史の道」として整備され、要所に青海波のタイルが敷かれ、亀を模したガードレールで結ばれています。
  横浜のルーツを訪ね歩いてみませんか?
亀さんガードレール

神奈川へ

  横浜駅の2番線ホームから京浜急行線に乗り、神奈川新町で下車します。神奈川新町には特急、急行、各駅停車の列車が停車します。
  東口の改札を出たら、左に曲がり、更にすぐ左へ入った右側に神奈川通公園があります。
  この神奈川通り公園はかつては神奈川宿の江戸側の入口で、現在は「神奈川宿・歴史の道」の始点となっており、かつては長延寺土居(どい)がありました、

長延寺と土居跡

長延寺……神奈川通公園には、寛永8年(1631)から昭和40年までの330年余、浄土真宗長延寺がありました。この寺は開港当時、オランダ領事館に充てられ、当時の狂歌の一節に「沖の黒船歴史を変えて、オランダ領事は長延寺」とありました。
昭和40年の国道拡幅に伴う、区画整理により、長延寺は緑区へ移転し、跡地は公園となりました。今はわずかに石碑を残しています。
土居跡……江戸時代、宿場町の入口には土居(どい)と呼ばれる砦が造られました。神奈川宿にも街道の両側に2.5メートルほどの方形の盛り土がされ、その上に75センチの竹矢来が設けられたことが知られています。
オランダ領事館跡

  神奈川新町駅に戻り、そのまま線路づたいに仲木戸駅方向に歩いて行くと、間もなく線路を挟んだ右側に笠のぎ稲荷神社があります

笠のぎ稲荷神社

笠のぎ稲荷神社2   宇迦之魂命(うかのみたまのみこと)を祭神として祭る笠のぎ稲荷神社は、社伝に寄れば、平安時代の天慶年間(938〜947)に、淳和(じゅんな)天皇勅願所浦島院勧福寿寺の僧侶が、現在の浦島が丘の稲荷山の中腹に社殿を建立し、京都の伏見稲荷大社の分霊を勧請して創祀しました。元寇の際には北条時宗より神宝が奉納されました。
  元禄2年(1689)に山麓にうつされ、霊験ますますあらたかとなり、社前を通行する者の笠が自然と脱げ落ちるということから笠脱稲荷大明神とも呼ばれ、後に、別当寺能満寺の阿砂利が笠のぎ稲荷神社と改称し、、明治2年に現在地に祀られました。
笠のぎ稲荷神社1
 明治2年(1869)、旧社地が鉄道敷設用地に接収されたため、現在地に移り、1884年村社に列格されました。関東大震災、横浜大空襲で社殿を失い、現在の社殿は昭和54年(1979)に新しい形式で再建されたものです。例祭日は8月8・9日に近い土・日曜日。また、この神社には土団子を供えれば病気が治るという特殊信仰もあります。

  笠のぎ稲荷神社の石段を降り、そのまままっすぐに第1京浜まで歩いて行きます。交通の激しい第1京浜に出ると、右側に良泉寺があります。

良泉寺

良泉寺.   海岸山良泉寺は、浄土真宗大谷派に属し、本願寺第八世蓮誉(れんよ)上人が小机付近の旧街道沿いに草創したことに始まり、慶安元年(1648)に亡くなったこの寺の第四世・良念の代に、徳川幕府より境内地の施入を受け、現在地に移転したと伝えられています。
  開港当時、諸外国の領事館に充てられることを拒んだこの寺の住職が、本堂の屋根をはがし、修理中であることを口実に、幕府の命令を断ったといわれています。

  笠のぎ稲荷に戻る途中の最初の角を左に曲がると、間もなく右側に能満寺神明宮があります。

能満寺と神明宮

  能満寺……海運山能満寺は、古義真言宗に属し、正安元年(1299)内海新四郎光善というこの地の漁師が、海中より高さ15センチほどの木造の虚空蔵菩薩座像を拾い上げました。この仏像が光善の娘に託した言葉にしたがって建てた寺が、この能満寺であるといわれています。
  かつては、隣に建つ神明宮の別当寺で、同じ境内にあったものが、明治初期の神仏分離令で分かれ、今日に至っています。


  神明宮……この社の起こりについては定かではありませんが、「新編武蔵風土記稿」には別当能満寺の草創と同じ正安元年(1299)の勧請とされ、双方は密接な関係であったようです。
  かつて、境内を流れていた上無川に牛頭天王のご神体が現れたことから、神明宮と洲崎大神に祠を建て、牛頭天王を祀ったという伝承があります。
能満寺1
能満寺2.

  神明宮を過ぎ、神奈川小学校の校庭に行き当たると、グランドの壁に興味深い神奈川宿の絵図があります。絵図に沿って右へ曲がり、道なりに進むと、京浜急行線仲木戸駅前の交差点を過ぎます。京浜急行線の線路伝いに進むと、左側に金蔵院があります。

金蔵院

金蔵院   金蔵院は、京都の山科にある醍醐寺・三宝院の開祖・勝覚僧正(しょうかくそうじょう)によって、平安末期の開かれた古刹です。その後、徳川家康から十石の朱印地を許されています。
  本堂前には今でも徳川家康の御手折の梅と言われる梅の古木があり、かつては毎年一月に、当院の住職がこの梅の一枝を携え、江戸城に登城しるしきたりがありました。

  金蔵院の東隣に熊野神社が建っています。

熊野神社

  熊野神社は、平安末期に紀伊の熊野権現を祀り、今も「権現様」として親しまれています。もとは、付近の権現山にあったのですが、江戸中期に金蔵院境内に移り、明治初頭の神仏分離令によって金蔵院から分かれました。
  現在の社殿は戦後の再建ですが、境内には、イチョウの古木が今もそびえ立っています。
熊野神社.

  金蔵院と熊野神社の間の道を進むと、間もなく左側に高札場が復元されています。

高札場

高札場   神奈川宿のほぼ中央を流れる滝ノ川のすぐ脇に高札場(こうさつば)がありました。高札場とは、幕府の定めた法度や掟(例えば、キリシタン禁止令や道徳規範など)と呼ばれる法令を、庶民に周知徹底させるために風雨を避け、屋根をかぶせた施設です。
  神奈川宿の高札場を当時の寸法通りに復元し、街道を往来する際の荷物の大きさや運賃を列記してあります。

  高札場の前を過ぎ、まっすぐに進むと、右側に成仏寺があります。

成仏寺

  正覚山成仏寺は、鎌倉時代の永仁年間(1293〜99)に心地覚心の開基と伝えられる浄土宗の寺院です。もとは深厚山と号し、四宗を兼ねたといいます。応永年間、(1394〜1428)には後小松天皇から後小松の院号を受け、栄えたといいます。
  三代将軍徳川家光の上洛に際し、宿泊所の神奈川御殿造営のため、寺地が現在地に移されました。
  安政6年(1859)の開港当初は、アメリカ人宣教師の宿舎の充てられ、ヘボンは本堂に、ブラウンは庫裡(くり)住んだということです。
  ヘボンはヘボン式ローマ字で知られ、日本最初の和英辞典を完成させました。また、ブラウンは、聖書や賛美歌の邦訳に力を尽くしました。
成仏寺.

  成仏寺を過ぎ、滝ノ川に沿った次のT字路(※1)を右に曲がります。京浜急行線の高架をくぐると、右側に慶運寺があります。

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