
金沢へ・金沢山称名寺の歴史
称名寺(阿字の池・美女石・金沢氏歴代の肖像画・北条顕時、貞顕の五輪塔・金沢文庫)
薬王寺・八幡神社・町屋神社・天然寺
龍華寺・洲崎神社・「憲法草創之地」の碑・瀬戸神社・琵琶島神社
金沢八景
横浜駅の1番線ホームから京浜急行線に乗り、金沢文庫駅で下車します。金沢文庫駅は各駅停車から快速特急まで全ての種別の列車が停車します。
改札を出たら左に曲がり、東口から駅舎を出、国道16号線まで歩きます。国道に出ると、町のあちらこちらに称名寺までの道順を示した標識が出ていますので、案内に従って称名寺まで歩きます(約10分ほどです)。
閑静な住宅街を抜けると、左側に称名寺の赤門が見えてきます。
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赤門をくぐり、参道を進むと、すぐに山門が見えてきます。 山門の脇を通り、境内へ入ると、浄土式庭園の称名寺の境内が拡がります。 中世の僧侶には、いくつかの宗派を学び、幅広い知識を身につけることが求められました。 北条一族である金沢氏の菩提寺である称名寺は、弘長二年(1262)浄土教の寺院として建てられました。 文永四年(1267)、北条実時は下野国薬師寺の僧・審海を称名寺の長老にすえ、律法の寺院に改めました。実時の孫、貞顕は、二代目長老・剣阿と協力し、称名寺を鎌倉幕府のための関連祈祷所に昇格させ、剣阿は、密教寺院として整備を始めます。 |
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鎌倉幕府滅亡後は、室町幕府が関東を治めるために設置した鎌倉府の祈祷寺となります。 三代長老・湛審は、華厳教の転籍に詳しい注釈を多く残しました。このように、称名寺には、歴代の長老達の個性を反映させた様々な宗派の典籍が伝えられているのです。 |
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北条実時が計画した創建時の称名寺は、現在の金沢文庫のある位置で、西側から池を見下ろすように建てられていました。 この境内を拡張整備し、池をはさんで北に金堂、南に仁王門という南北線を中心に、壮麗な七堂伽藍が整えられたのは、三代目貞顕の時代でした。 こうした華麗な境内の中心には苑池が拡がっていました。 池の中央に中島を築き、南北の畔から四間(約7.2メートル)の平橋と反橋を架けました。大小90もの庭石を置き、水際に白砂を敷き、水鳥を放し飼いにするなど、極楽浄土を地上に再現した、見事なものでした。 昭和54年から横浜市教育委員会が学術調査を行った結果、貞顕時代の作庭の遺構が多く確認され、昭和62年10月に庭園の保存整備も完成しました。 |
| 阿字の池の西北隅に二つ並んで建っていたのが、美女石と姥石です。 昔、姫君がこの池に落ちたとき、乳母が助けようとして、一緒におぼれ、石になってしまった、あるいは、二人の供養のために建てたとも言われています。 しかし、実際には、庭園に幽寂な趣を添えるために水辺に配置された庭石ということです。 現在では、姥石は欠け、美女石一つしかありません。 |
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称名寺には北条実時、北条顕時、金沢貞顕、金沢貞将といった金沢氏歴代の肖像画が伝えられています。
実時、顕時は髪を剃り、袈裟を着た出家姿で、貞顕、貞将は武家の正装である狩衣(かりぎぬ)姿で描かれています。
称名寺では、追善供養の際に、これらの像をかけ、法養を営んでいたのでしょう。
称名寺裏手から山頂の八角堂への登り口となる山裾に、北条顕時、貞顕父子の墓が静かな木立に囲まれています。
顕時は称名寺を開いた実時の子で、引付衆、評定衆、越後守、引付頭を歴任し、54歳で亡くなるまで学問、信仰への関心が深かった武人です。
その子・貞顕は六波羅探題、越後守、武蔵守などを歴任し、執権職にも就き、新田義貞の鎌倉攻めのときに子の貞将とともに北条一族の滅亡に殉じました。父祖の遺した称名寺・金沢文庫の整備、発展に尽くし、文化的にも優れた政治家でした。
二基の五輪塔が並びますが、向かって左が顕時、右が貞顕の墓とされています。
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金沢文庫は、鎌倉時代の建治元年(1275)頃、北条実時が居館内に作った、最も古い武家文庫です。 実時は、執権・北条義時の孫で、引付衆、評定衆などの鎌倉幕府の要職を歴任し、政治ばかりではなく、学問にも関心が深く、早くから儒家・清原教隆に師事していました。 実時は政治、法制、農政、軍事、文学など広範囲に学び、晩年これらの書物を鎌倉から金沢の居館に移し、金沢文庫の基礎としました。 |
| 昭和5年に神奈川県立金沢文庫として図書館、昭和塾として復興され、文化財の保管、研究、調査を進め、昭和30年に博物館として運営、平成2年10月、装いを改めました。 | |
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称名寺の赤門まで戻り、「金沢・歴史の道」と呼ばれる赤門通りに出ると、すぐ左前方に白壁に囲まれた薬王寺があります。
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薬王寺は、三療山医王院といい、古くは三愈山遍照坊とも称し、真言宗御室派龍華寺の末寺で、鎌倉時代の創建とされています。 現在の本尊は、源範頼の念持仏で行基作の薬師如来ですが、「武蔵風土記」と「江戸名所図会」によると、古くは大日如来だったようです。 当寺には、源範頼の位牌が今も伝えられています。範頼は伊豆・修禅寺で討たれたとされていますが、その首を鎌倉に持ち帰り、首実検の後、薬王寺と関係の深い太寧寺に葬った、とする一説もあります。 また、太寧寺の寺伝では、範頼の別邸であった太寧寺まで逃れ、自害したと伝え、その墓も残っています。 |
薬王寺を出、称名寺の赤門を背にして更に進むと、旧国道16号と交わるY字路に、ケヤキに囲まれ、細長い境内をもつ八幡神社が右側に見えてきます。
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金沢文庫に保管されている古文書の中で、称名寺の二代長老・剣阿が書いた書状の一つに、 「称名寺金堂の屋根を葺くための檜皮を積んだ船が野島に着き、それを瀬戸の内海の中へ入れ、八幡宮の前で荷揚げした」 と、記載されています。 この八幡宮が明治の始めに周囲の町屋神社、洲崎神社とともに、それぞれ寺前村、町屋村、洲崎村の村社として認められました。 同時に、氏子地域を寺前に限定し、八幡宮の旧号を八幡神社と改めたのです。 |
旧国道16号をそのまま進み、寺前の交差点の右側に町屋神社があります。
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町屋神社は八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したことで名高い素戔嗚尊(すさのおのみこと)をお祀りしています。 土地の言い伝えでは、大坂城落城の頃、(元和元年〈1615〉)豊臣氏の遺臣がこの土地に土着し、人間界の罪や穢れ、病を追い払い、生活を守る牛頭天王(ごずてんのう)をお祀りしたのが起源とされています。 宝暦9年(1759)に社殿を改築、文化6年(1809)4月に町屋、洲崎両村は協議して天王社を二社に分け、それぞれをお祀りすることにしました。明治2年には正式に町屋神社と改称し、氏子区域を町屋町に限定しました。 |
町屋神社の南側、旧国道16号に沿って浄土宗の法爾山天然寺があります。
| 天然寺は、鎌倉・光明寺の末寺で、本尊は春日の作と伝えられる阿弥陀如来立像です。 創建は戦国時代の天文年間(1532〜1554)で、光明寺第19代の法蓮社然誉禅芳の隠居寺として建てられたということです。 弘法大師の御真筆と称する不動明王の画像が伝わっていますが、鎌倉の農家、横浜・南太田の増田家を経て、明治5年に当寺に伝えられたもので、明治10年にコレラが流行した際、檀家一同の篤い信仰により、鎮まったということです。 本堂右脇間に、元町屋観音堂(廃寺)にあった聖観音立像と宝ノ木観音堂(廃寺)にあった聖観音立像が安置されています。 |
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旧国道16号に沿って進むと、洲崎町北端に知足山龍華寺があります。
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龍華寺は、古義真言宗御室派で、金沢区内にある真言宗12ヶ寺の本寺格とされています。 「武蔵風土記」に記された寺伝によると、「源頼朝が瀬戸神社を造営した後、その神宮寺を建立しようと文楽上人と志を合わせ、文治年間(1185〜1189)六連(六浦)山中に浄願寺と称する仏閣を建立した」と、あります。 「六連の浄楽寺」は後に火災で焼けてしまいますが、明応8年(1499)本尊弥勒菩薩の夢告によって、六浦から東北・龍灯の松のある洲崎の地に、二町四方(約476アール)の結界をもつ寺を建立し、僧・善融が住持となって再興したものが現在の龍華寺の起源ということです。 当寺には貴重な宝物や記録類が多く伝えられ、平成10年10月5日に天平時代の脱活乾漆(だつかつかんしつ)造りの菩薩座像が発見され、愛知県以東では初めての例として注目を集めました。 |
龍華寺を過ぎると、すぐ右側に洲崎神社があります。
| 洲崎というところは、元来、町屋と野島との間の海岸に長く伸びた洲の先端をさす地名でした。したがって、この辺りにはほとんど人家もなかったそうです。 ここに集落が出来たのは、応長元年(1311)と伝えられています。 大津波により、一村流滅の災にあった長浜の住民の一部が、鎮守の第六天社を奉じてここに移住したのです。第六天とは、人間の六欲を支配し、統御する仏教の他化自在天という神で、室町時代にその信仰が盛んでした。 明治維新の際の神仏分離令によって御祭神を誉田別神(ホンダワケノミコト)と定め、社名を第六天社から洲崎神社と改めました。 |
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洲崎神社を過ぎ、「洲崎町」の交差点に出ると、右側に「憲法草創之地」の碑が建っています。
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明治維新の後、西欧の文明国と肩を並べることが出来る近代国家として、まず、憲法を創り、立憲政治を行うことが、当時の日本の理念でした。 しかし、最初の草案は欧米各国の制度の焼き直しにすぎず、日本の国情に合わない点が多かったのです。明治15年、伊藤博文らが欧州に派遣され、更に研究調査が進められ、明治17年頃より本格的な起案作業に入りました。 明治20年6月、伊藤博文、金子堅太郎、伊東巳代治、井上毅らが機密を守るため、金沢八景の東屋旅館に集まり、日夜、審議立案の構想を練りました。 8月6日に重要書類が盗まれるといった事件があり、夏島にあった伊藤の別荘で明治憲法は完成されました。夏島で完成をみたことにより、明治憲法は夏島憲法と呼ばれていますが、実は東屋の方が憲法草創の起点なのです。 当初、東屋内にあった碑石ですが、東屋が廃絶後、現在の地に移されました。 |
「憲法草創之地」の碑が建つ「洲崎町」の交差点を平潟湾に沿って右へ進み、小さな瀬戸橋を渡ります。そのまま、「瀬戸神社前」の交差点を歩道橋を使って渡り、左に折れるとすぐに瀬戸神社があります
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平潟湾の中心である瀬戸の内海の出入り口は、潮の干潮時には急流渦巻く交通の難所で、自然の力を恐れ敬わった古代人が、ここに海神を祀ったのが瀬戸神社の起源です。 鎌倉時代、源頼朝が伊豆の三島大社の御分霊を遷したことにより、瀬戸神社は更に発展しました。今日でも鎌倉時代の美術史上、重要な作品が多く伝えられ、中でも源実朝が使用したとされる抜頭面(ばとうめん)、陵王面(りょうおうめん)などの舞楽面は、後に頼朝夫人の北条政子が奉納されたものといわれています。 南北朝時代、朝廷から正一位の神階を授けられ、その神号額も現存しています。 徳川家康も慶長5年(1600)自ら参拝し、百石の社領を寄進しています。 昭和43年には、神奈川県神社庁から献幣使参向神社に指定されています。 |
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瀬戸神社の鳥居をくぐったすぐ左右に大きな石灯篭があります。この石灯篭は、金沢八景駅裏の権現山に祭られていた東照宮のもので、別当職だった円通寺に移管された後、明治11年の神仏分離令によって瀬戸神社に移されたのです。 境内から向って右側のものが、高さ302センチあり、柳沢吉保の六男の米倉保教が、正徳2年(1712)米倉昌照の養子としてその遺領を継ぎ、権現山の南麓の谷戸に陣屋を構えた享保8年の2年前の享保6年(1721)に東照宮に奉納したものです。 左側のものは、高さ278センチあり、久世広之が寛文2年(1662)若年寄となり、金沢および本牧方面に5000石の加増を受け、翌3年の老中に昇進したときに東照宮に奉納したものです。 |
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国道16号をはさんで、瀬戸神社の向かいに、平潟湾に臨み、琵琶島神社があります。
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治承4年(1180)源頼朝が伊豆の三島大社から瀬戸神社を勧請(分霊を他の場所へ移し替えること)したときに、その夫人北条政子も夫にならい、日頃、信仰する近江国の竹生島明神を勧請し、瀬戸神社社頭の海中に島を二つ築き、祀ったのが琵琶島神社です。 御祭神は水の女神である市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)で、江の島神社や広島県の厳島神社と同じ神です。 弁財天は、弁舌の神、学問の神、音楽の神とされていますが、琵琶島神社ではまっすぐに立つお姿なので、「立身弁財天(出世の神)」として信仰を集めています。 |
| 琵琶島神社の参道入口のすぐ右側に福石があります。もとは左側の海中にあったのですが、国道の拡幅工事のために現在のところに移されました。この石は服石、呉服石とも呼ばれ、源頼朝が伊豆三島大社をここに遷し祭り、日参して、平潟湾で禊(みそぎ)をしました。そのときに衣服をかけたのがこの石で、名の由来になっているのです。 「江戸名所図絵」には、この石の前で物を拾うと必ず裕福の身になるとあります。また、江の島弁才天の参道の傍らにも福石があり、ここで物を拾うと幸福になる、という言い伝えがあります。 このように、江の島にも琵琶島にも弁財天に関連して福石と呼ばれる神秘な石があり、遊訪する参拝人の信仰を集めていたのです。 |
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江戸時代の文人墨客の間で金沢八景が大いにもてはやされていた文化3年(1806)のころ、漢学者で詩人である大窪詩仏や書家の市川米庵らの一行が東屋旅館に来遊しました。同じく東屋に来泊した上野国桐生の織物商、佐羽淡斎の創った「金沢総宜楼に題す」という詩の平淡で情緒豊かなことに感激した詩仏は、早速一同にその詩を紹介し、文化5年10月、詩文を石に刻んで東屋の邸内に建てました。「総宜」とは、東屋の料理、酒、酌などの接客接遇のほかに、八景の景色、土地の人情も総(すべ)て宜(よろ)しいという意味です。 詩の内容は、 鱸(すずき)の活けづくりや真っ赤な蟹が目の前に盛られている それにもまして地酒の清らかな香りがただよってなんとも言えず楽しい 同席の友人諸君と大いに飲んだ 酔って倒れそうになるのをようやく助け起こされる人もある 自分も前後不覚となり眠ってしまったが 酔いが覚めたときはすっきりとして自然にこの詩が出来た 眠っていて知らぬ間に一雨降ったらしく瀬戸橋もすっかり濡れている 夢の中でこの詩が出来たのははげしい瀬戸の引き潮の音が自分を呼んでいたからだろうか 東屋は昭和30年に廃業し、詩碑は琵琶島神社の社殿の傍らに移されました。当初のものは、半分ほど落剥してしまったので、復元し、彫り直したものが現在のものです |
「金沢・時代の小波 金沢地区2」 は、これで終わりです。
お帰りには、琵琶島神社から瀬戸神社に向かって、左側に京浜急行線金沢八景駅があり、便利です。
駅名にもなっている金沢八景とは、中国の「瀟湘八景(しょうそうはっけい)」という、洞庭湖周辺の代表的な画題に基づいて近世初頭に選定されたものです。
金沢八景を紹介するときに必ず引用されるのが元禄年間に詠まれた明(みん)の亡命僧・東皐心越の漢詩で、八つの地名の応じた景物が詠み込まれています。
1・洲崎晴嵐……現在の金沢区洲崎町付近の海辺に、薄雲がたなびく様子。
2・瀬戸秋月……瀬戸橋付近から見上げた名月と水面に映る月影。
3・水泉夜雨……瀬戸神社の裏、手子明神の辺りに降る夜の雨。
4・乙艫帰帆……現在の海の公園にあった乙艫海岸の沖を通る帆かけ船。
5・平潟落雁……秋の平潟湾に雁が列をなして渡る情景。
6・野島夕照……野島山の西側に夕陽が当たって輝く情景。
7・内川暮雪……瀬戸橋より奥の内川入海に降りしきる暮れ方の雪。
8・称名晩鐘……海面を走って遠くまで響く称名寺の入り会いの鐘の音。
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これらの八つの景物は、平成の時代ではもはや目にすることが出来ません。 しかし、野島を西側から照らし出した夕陽だけは、元禄の時代も平成の時代も変わりません。 最後に、平潟湾に流れる侍従川の向こうに沈む夕陽をお届けします。 参考資料 「金沢ところどころ・改訂版」金沢区制五十周年記念事業実行委員会 「金沢文庫の歴史」神奈川県立金沢文庫 |
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