ようこそ「金沢・時代の小波 六浦地区」

いんでっくす

六浦地区コースとは
円通寺跡米倉陣屋跡泥牛庵金龍院
上行寺東遺跡復元整備地上行寺嶺松寺跡
小山犬若丸二児の墓長生寺
光伝寺常福寺跡宝樹院
山王神社諏訪神社浅間神社
白山神社豊崎稲荷神社

六浦地区とは

  本コースでは、京浜急行線金沢文庫駅を東口から出、称名寺・金沢文庫から始まり、琵琶島神社までのコースをご案内していますが、六浦地区では、琵琶島神社の先の原宿六浦線の沿って伝わる15の史跡を訪ねます。是非、散策してみて下さい。

 JR横浜駅の1番線ホームから京浜急行線に乗り、金沢八景駅で下車します。金沢八景駅は各駅停車から特急までの種別の列車が停車します。
  改札を出たら右に曲がり、すぐ右側の小さなガードをくぐると、右側に草屋根の民家がありますが、この民家は円通寺という寺院跡なのです。

円通寺跡

 日輪山円通寺は、天台宗の寺院で、「武蔵風土記」によると、「開山の僧高栄は寛文2年(1662)2月26日寂」とあることから4代将軍家綱の時代の創建と考えられます。家の中の長押(なげし)に葵(あおい)の紋の釘隠しがあり、将軍が手あぶりに使ったという火鉢や光秀作という槍なども伝わっています。その所以は権現山と呼ばれる裏山に東照宮が祭られており、円通寺がその別当職に任じられていたからです。
 東照宮は、万治年間(1658〜60)に当地の代官八木次郎右衛門が裏山を切り開き、東照大権現(徳川家康公)を祭って17石の田地を寄進したものと伝えています。
円通寺跡
 また、「武蔵風土記」には、久世大和守源広之も同様に御供料地を奉納したとし、後に領主となった米倉丹後守も享和2年(1802)、天保14年(1843)に2度、社殿を造営し、尊崇を寄せています。敷地の南東の古木に囲まれた一角には、歴代住職の墓とともに、前田玄以4代の子孫で2200石の大身旗本、寄合衆前田安芸守直勝の五輪の墓も残っており、宝永2年(1705)の年号が刻まれています。

 改札口に戻り、商店街を抜け、国道16号線まで歩きます。国道に出ると、すぐに右へ曲がり、16号線に沿って歩いていきます。「金沢八景南口」の交差点を右へ入っていく路地があり、この路地を道なりに進み、小さなガードをくぐり、さらに住宅街へ入っていくと、三方が山に囲まれた「オヤシキ」と呼ばれている谷戸があり、この谷戸全体が領主を勤めた米倉丹後守の陣屋(屋敷)跡で、米倉家代々の墓がひっそりと伝わっています。

米倉陣屋跡

米倉陣屋跡  米倉家は、もと甲斐国の武田家の一族ですが、武田勝頼の滅亡後、徳川家康に属して戦功を立て、元禄9年(1696)昌尹の代になって15000石の大名となり、丹後守と名乗りました。その子昌明のとき3000石を弟昌仲に譲りましたが、12000石の領地は、武蔵、相模、上野、下野の諸国に散在していたようです。その子昌照には跡継ぎがなく柳沢吉保の6男、忠仰を養嗣に迎えましたが、下野国皆川から、この金沢に陣屋を移したのは、この忠仰のときからです。
 12000石では城を築くことが許されず、陣屋と称し、このときの陣屋は、現在の京浜急行の線路に沿って南向きに、六浦の方角に表門を開き、小さなガードとなっている瀬戸の方角が裏門で、泥牛庵の山頂は領主の見晴台として御茶山と呼ばれていたということです。金沢での領地は、寺前村の一部、釜利谷町のうち宿村、赤井村、六浦町のうち瀬戸神社領100石以外の土地3000石でした。

 16号線に戻り、わずかに進むと、右側に石段が伸び、泥牛庵があります。

泥牛庵

泥牛庵  吼月山泥牛庵は、南山士雲の開山と伝えていますが、士雲は鎌倉の臨済宗円覚寺第11世で、建武2年(1335)10月7日に入寂していますから、鎌倉末期の創建と考えられます。そのころは、現在の米倉陣屋跡辺りにあったようですが、享保7年(1722)米倉丹後守忠仰がここに陣屋を構えたとき、今の地に移されたといいます。
 「武蔵風土記」によると、米倉氏がこの地にくる以前、泥牛庵のほかにも能仁寺、慶蔵院などの寺院があったのですが、能仁寺は早く廃寺となり、慶蔵院も移転されたといいます。永享10年(1438)、鎌倉公方足利持氏が将軍足利義教に背いて、いわゆる永享の乱が起こりますが、持氏は敗れて11月5日に称名寺へ逃れます。幕府方の長尾芳伝が称名寺に攻め寄せ、持氏方の一色直兼、上杉憲直、浅羽下総らが討ち死にしました。特に寺前、町屋町の辺りは凄惨な戦場になったことでしょう。
 「関東合戦記」「北條記」などによると、11月7日には、持氏に従って戦った海老名尾張入道が、六浦引越の道場で切腹自害したとあります。この引越の道場というのが米倉陣屋跡にあった泥牛庵だともいわれ、現在、境内に尾張入道と弟上野介の五輪塔が残っています。
 泥牛庵には、寺宝として大般若経六百巻が伝えられ、これは黄檗宗の鉄眼和尚が寛文9年から延宝6年(1669〜78)にかけて開板した大蔵経で、その版木は重要文化財として宇治の万福寺に保存されています。

 16号線をはさみ、金龍院が閑静な境内がひろがっています。

金龍院

 昇天山金龍院の山号は、昔、この寺にあった硯(すずり)から龍が昇天した、からだと伝えられていますが、本堂右側にある飛石のからとった飛石山の山号でも知られています。金龍院を開山した方崖禅師は、鎌倉の建長寺47代住職で、僧名はは元圭といい、永徳3年(1383)9月16日に入寂していますから、この寺は吉野朝時代の創立と思われます。
 本堂には、聖観音菩薩と並んで、方崖禅師の等身大の頂相(禅宗の高僧の肖像彫刻)の座像(昭和59年、神奈川県指定重要文化財)が祭られています。当初、建長寺管長の隠居寺として建てられたものともされていますが、寺内には、六浦藩主米倉丹後守の重臣を勤めた武家の墓碑も並んでいます。
九覧亭跡の聖徳太子堂
 また、この寺は、有名な九覧亭でも知られています。九覧亭は、飛石の前から石段を登りきった山頂にあり、今では埋め立てられた内川、柳町の住宅街となった入り江を隔てて夕照橋、夏島、野島方面から平潟、瀬戸、泥亀など、昔の金沢八景が一望できるほかに、もう一景、富士山まで見えるので「九覧亭」と名づけられました。
 幕末のころは、泥亀新田の埋立も進み、能見堂からの眺めよりも優れているということから、名実ともに金沢八景の中心とされ、多くの文人墨客を集め、昭和初期までは山上の茶店も賑わっていました。この茶店跡には、昭和32年に「聖徳太子堂」が建てられました。
 ※飛石、九覧亭見学を希望される方は、お寺の許可を得てください。金龍院………045−701−8823
金龍院の飛石  本堂に向って右側の庭園に、飛石と呼ばれる大石があることでも金龍院は著名です。飛び石は高さ2.85メートル、幅約3.5メートルほどあり、その上には小さな石の祠が祭られています。「新編鎌倉志」などには、「昔、オオヤマツミの神が伊豆三島から飛び来てこの石の上に降り給うた、それが瀬戸神社の起源だ」と記されています。「石の上には神様が天降(くだ)る」とか「神霊が石に宿る」という考え方は、原始時代にまでさかのぼる日本民族の古来からの伝統的な信仰で、「磐座(いわくら)信仰」と呼ばれています。磐座とは、神様の御座所となる神聖な石のことです。
 瀬戸神社の正式記録では、治承4年(1180)源頼朝が三島神社を遷したといい、一方、金龍院は南北朝時代に方崖禅師が開山した禅寺と伝えています。しかし、それよりももっと古い時代からこの地の原住民たちは、飛石を磐座として神霊を祭っていたのでしょう。それが、瀬戸の大神、平潟湾の潮の干満を司る海神だったことは明らかです。
 当時の飛石は、九覧亭があった山頂、瀬戸の入り江を見下ろす突端にあり、海上往来のよい目印でもあったことでしょう。現在の場所には、文化9年(1812)の地震で落下してきたのです。「新編武蔵風土記」には、「飛石は鳶の形をしているので鳶石(とびいし)というのが正しい」という一説を伝えています。
 称名寺にある福石、美女石、姥石にこの飛石を加えて金沢四石といいます。

  泥牛庵側へ戻り、更に16号線を進み、「六浦」の交差点で右へ曲がり、京浜急行線のガードをくぐって進んでいきます。この道が原宿六浦線で、往時の六浦津と言われています。間もなく右側に「木原整形外科」の看板が見え、看板の脇に石段がありますので、上っていきます。上りきると上行寺東遺跡復元整備地が拡がっています。

上行寺東遺跡復元整備地

上行寺東遺跡復元整備地1  昭和59年8月と12月、同61年7月から12月の発掘調査により、上行寺東遺跡は、鎌倉時代から室町時代初期にかけての「やぐら群」と「建物跡群」を主体とした遺跡であることが明らかになりました。
 発見された遺構は、やぐら43基、建物跡7基、墓礦22基、井戸2基、池状遺構とおもわれるもの1基などで、これらとともに多数の陶磁器類、石塔類、古銭・銅製品が出土しました。

 ここは、中世鎌倉における重要な外港であった六浦を見渡せる小高い丘陵の先端に位置することから、この遺跡の性格を灯明堂や龍華寺の前身・浄願寺であろうという意見など、多くの議論を呼び、保存運動も高まりました。
 横浜市は遺跡の一部を遺跡近くの現在地に移し、型どりをし、複製を創り、造形保存したのです。

 この本遺跡の傍らに、下段に位置していた3基のやぐらも造形保存されています。
 やぐらとは、鎌倉・室町時代に鎌倉をとりまく山腹を方形に掘り込んで、火葬骨を納めた墓で、主に武士や僧侶などが埋葬されたと言われています。
 床の中央には納骨のための穴が掘られ、供養のための石塔婆(五輪塔や宝きょう印塔)が残されており、壁面には、仏像を浮き彫りしたものもあります。
上行寺東遺跡復元整備地2

 原宿六浦線に戻り、少し進むと、上行寺があります。

上行寺

上行寺  六浦山上行寺は、もと真言宗で金勝寺といいました。建長6年(1254)11月、下総から鎌倉へ渡る途中の船中で富木胤継と日蓮上人との法論があり、六浦に着船した後もなおこの寺に入って討論を続けた際に、住持の普識法印も大いに日蓮の説に感服し、ついには日蓮宗に改宗したというのです。
 そのころの六浦港の船着場の位置を考えると、船中問答の伝説は、安立寺よりこの金勝寺(現在の上行寺)の法が自然かもしれません。金勝寺を上行寺と改めたのは、千葉の中山法華寺第3代の日佑上人です。日佑上人は、下総と甲州身延山を往復するとき、いつも渡し場からほど近いこの寺に立ち寄っていました。中山法華寺の「一期所修善根記録」「本尊聖教録」などの記録によると、当時の六浦港には六浦孫四郎、六浦平次郎景光、六浦松積殿などの有力信徒がいて、深く日佑上人に帰依し、法華寺にも身延山にも巨額の奉納をしています。 
 特に、六浦平次郎は入道して妙法と号し、康永3年(1344)には六浦で造らせた二尊の仏像と多宝塔を身延山に納め、応安4年(1371)には同じく釈迦と四菩薩像を法華寺に奉納しています。
 上行寺では、この六浦妙法を荒井妙法、すなわち日荷上人と伝えていますが、このようなことから日荷上人が囲碁に勝って、称名寺の仁王尊を身延山まで運んだ、という伝説が生まれたこともうなずけます。
 現在、上行寺本堂前の大きなカヤの木の下に、六浦妙法の墓がありますが、このカヤの木も六浦妙法が身延山から持ち帰って植えたものだと伝えられています。
六浦妙法の墓

 原宿六浦線に戻り、神奈川生協六浦店のすぐ右の路地を入っていくと、谷戸に囲まれた数件の民家が建っていますが、ここは嶺松寺跡で、崖下に数基の墓石や石仏が伝えられています。

嶺松寺跡

 嶺松寺は、「殿が谷」と呼ばれている上行寺の西隣の現在地に、江戸末期ころまで存続していた寺院で、寺跡の一番奥の山すそに代々の住持の墓が今でも残っており、その傍らに、北川氏と千葉氏の歴代の墓石も半ば土に埋もれながら伝わっています。
 北川氏は、昔の六浦平分村(現在の六浦町)の名主で、千葉氏は、明治維新までは鎌倉時代以来、代々、瀬戸神社の神主をしていたともに由緒ある家柄です。瀬戸神社の記録では、文和3年(1354)千葉胤義がはじめ神主になったと伝えています。また、「千葉体系図」によると、六浦に嶺松寺を建てたのは、千葉氏の娘で越後太郎(北條顕時)の妻となっていますから、北條氏と千葉氏の六浦港での強い結びつきが解かります。実地調査によると、墓石に「嶺松寺殿」とか「千葉胤通」の字が読めるものが残っています。これが、千葉氏歴代の墓地であることに間違いなく、嶺松寺殿とは、最初の神主と伝える千葉胤義のことでしょう。
嶺松寺跡

 原宿六浦線に戻り、六浦のバス停にほど近い、六浦2丁目5番地の理髪店の真上にせり出した崖の上に小山犬若丸二児の墓があります。この「小山犬若丸二児の墓」へは、理髪店のに向って左側の路地から入って行けます。

小山犬若丸二児の墓

小山犬若丸二児の墓  理髪店真上の崖に上ると、カヤと松の古木があり、根元に古い五輪の石塔が3基、並んでいます。1基はやや小さく、土地の人は乳母の墓と呼んでいます。残りの2基は子供を祭ったものと考えられていますが、その裏づけとして、「鎌倉大草子」に応永4年(1397)小山犬若丸の子供2人が、三浦左京大夫に召し捕われ、鎌倉に送られた後、六浦の海に沈められたと、記されています。「鎌倉九代記」には、犬若丸に味方した田丸庄司則義の子供で、7歳と5歳になる2人を芦名兵衛が生け捕り、鎌倉へ連れてきて六面(むつら)の沖に沈めた、と伝えています。
 小山犬若丸とは、下野国の小山義政の子で、吉野の南朝に味方し、北朝方の鎌倉公方足利氏満に攻め滅ぼされました。当時、一面、海であった六浦湊を見下ろす崖の上に、かわいそうな子供の墓をつくり、土地の人がいつまでも供養を続けたのでしょう。
二児の乳母の墓

 原宿六浦線に戻り、更に進み「西六浦」の信号を右へ入ると、左側に長生寺があります。

長生寺

長生寺  浄土真宗西本願寺派で、本尊に阿弥陀如来を祭る寿楽山長生寺は、もとは真言宗で無量院といい、釜利谷の小泉の谷戸にありましたが、康安(1361)のころこの地に移り、文明年間(1469〜86)浄土真宗に改宗したといいます。そのときの住僧、頓乗は、蓮如上人が関東遊化の折に、安房から三浦へ渡る船中で、上人の教化を受けて弟子となり、改宗して寺号も長生寺に改めたということです。頓乗から5代目の住職である桃渓和尚は、了磋和尚の弟で、延宝3年(1675)六浦で生まれ、幼いころ父に連れられ、江戸に出て、知空上人に見出され、僧籍に入り、京都で修行しました。
 宗学、漢詩に優れた桃渓和尚は、宗門の逸材と呼ばれ、本願寺で「典講」という役職にもつき、大勢の修行僧の指導にも功績を挙げた名僧で、近江の正崇寺住職も勤めていました。
 桃渓和尚は、師の知空上人が亡くなってからは、その後を受けて本願寺の第3世能化職(のうげしょく・一宗派の長老、学頭)として衆望を集めました。
 そうした桃渓和尚が自分の生まれ故郷の六浦の長生寺の中興に尽力したのはもっともなことで、現在、長生寺には、その見事な筆跡とともに明治時代の山岡鉄舟の染筆なども伝えられています。

 原宿六浦線に戻り、西へ進んでいくと、右側に光伝寺があります。

光伝寺

 光伝寺は、常見山無量院と号し、浄土宗の寺院で天正元年(1573)の創建と伝えられています。
 本尊の阿弥陀如来立像について、次のような逸話が伝わっています。創建の年に近いころ、六浦に、日ごろ剛勇で知られた長野六右衛門という者があり、ある夜、安房国白浜の海岸を騎馬で通り過ぎようとすると、馬が身震いして進まず、怪しく光るものが目の前をさえぎりました。六右衛門は、馬から降り、太刀を抜いて、光るものを一撃ちにし、そのまま近くの旅宿に帰りました。翌朝、その場へ行ってみると、昨夜、暗中で切り倒したのは、何と阿弥陀如来の御首だったことを知り、後悔した六右衛門は、御首を捧持して六浦へ帰り、草庵を建て、霊伝和尚を導師として光伝寺を開いたのでした。
 その後、間もなく六右衛門は夢告により、鎌倉の二階堂に三尺二寸の仏体があることを知り、それを譲り受け、御首を載せてご本尊を整えたといいます。こうしたことから、光伝寺のご本尊は、おくびが春日の彫刻、胴体は運慶の作と享保15年(1730)に光伝寺12世の慧通和尚が書き残しています。
光伝寺
光伝寺の柏槇(びゃくしん)  客仏の地蔵菩薩立像(県重文)は、1294(永仁2)年、増慶ら慶派仏師が制作した秀作で、もとは地運山蔵光院(ちうんさんぞうこういん)と号する地蔵堂の本尊でした。また、両頭蛇体弁才天は、2匹の蛇が絡みあった姿の宇賀神(穀物の神)で、これは、三艘の大川太郎衛門(太郎右衛門とも伝える)が宅地から掘り出したもので、伽羅(きゃら)の木の彫刻です。
 本堂の前にある立派な柏槇(びゃくしん)の古木は市の名木に指定されています。また、もとは寺の裏山にあった並木天満宮も今は境内に移っていますが、東京の亀戸天神、鎌倉の荏柄天神と同作の御像だということです。
 背後の山は、金沢八景眺望の地として知られ、1827(文政10)年に光伝寺版の金沢案内図もつくられていました。

 原宿六浦線に戻り、西へ進んでいくと侍従川を渡ります。侍従川を過ぎたら向い側の歩道へ渡り、更に進むと大道小学校があります。大道小学校を過ぎると、左側に宝樹院の入口を示す石柱が建てられていますが、一本手前の道を左へ入ります。
 突き当たりまで進んでいくと、駐車場や民家が建つ空き地が拡がっていますが、ここは明治時代まで存続していた常福寺跡で、崖下に寺院跡を思わせるやぐらが掘られています。

常福寺跡

常福寺跡  大道山常福寺は、武将、足利持氏の祈願所とされた室町時代から続く、称名寺末寺で真言律宗の寺院でした。そのころは、大道一帯が常福寺の領地でしたから、江戸時代になっても大道の辺りは六浦の寺分(てらぶん)と呼ばれていました。
 応永29年(1422)の金沢文庫古文書の中に、称名寺造営の費用にあてるため、常福寺門前に関所を設けたことが記されています。通行税は通行人が二文、荷駄が三文でした。鎌倉・六浦間の往来が激しかったことが想像されます。
 江戸時代の文政から天保のころには常福寺の寺勢は衰え、寺領も失ってしまい、領主の米倉家から阿弥陀免として塩六斗分の年貢を寄付されるだけで、1901(明治34)年に廃寺となりました。
 廃寺後は、管理を丘の上の宝樹院に移管したのでした。跡地の谷戸奧に歴代の住職らの墓石がひっそりと遺っています。 
足利持氏
室町前期の武将。鎌倉公方。満兼の子。上杉禅秀の乱を平定。のち将軍義教と対立、永享の乱を起したが、敗れて自刃。(13981439)

原宿六浦線に戻り、左側の道を宝樹院へ昇っていきます。

宝樹院

 真言宗の宝樹院は、高栄山高照寺(こうえいざんこうしょうじ)と号し、本尊には大日如来が祀られています。創建はいつであったのかは不明ですが、もとは三艘(さんぞう)の谷戸にあり、火災により1650(慶安3)年に現在の地に移転されたと伝えられています。
 阿弥陀堂の阿弥陀三尊像(県重文)は、先ほど訪ねた崖下の常福寺の本尊であったことが知られています。この阿弥陀三尊は、行基作という伝承以外、歴史的由緒も解からない秘仏でした。平成2年に和田大雅住職と檀家総代の発願により、東京の明珍昭二仏師に修理を依頼したところ、各尊の頭部から鎌倉中期の仏像修理願文、般若心経の摺経、彩色が施された印仏、仏舎利などの納入品が発見されたのでした。また、願文から三尊像は平安末期の久安3年(1147)に創建された常福寺の本尊であったこと、弘安5年(1282)に称名寺開山の審海上人が北条実時の追善供養にちなみ、女性信徒らの浄財をもとに修理し、称名寺の本尊弥勒菩薩とともに祭っていたことなどが明らかになりました。この三尊は、平成4年10月に神奈川県の重要文化財に指定されました。
宝樹院

 原宿六浦線を光伝寺側の歩道へ戻り、更に進むと、右側に神奈川県金沢警察署大道交番があります。この交番の左側の路地を入っていき、突き当りを右へ進みます。やがて左側に鳥居と石段があるので登って行くと、山王神社があります。

山王神社

山王神社  山王神社について、明治10年の三分村戸籍帳には、3152番地に所に山王社とあり、現在の高舟台1丁目30番の丘の上に相当します。大道1丁目11番の辺りで大きく蛇行する侍従川に架かる橋を「山王橋」と呼ぶのは、この道が広々とした大道耕地を貫く山王神社への参道だったからです。明治26年の神社明細帳には、祭神は猿田彦命、本殿の大きさは間口一間五尺、奥行一間三尺、境内坪数は39坪とありますから、現在とほとんど同規模だったようです。氏子戸数は32戸、その惣代人として長島喜太郎、長島太郎吉、長島実五郎の名が記されています。また、宝暦6年(1756)3月、寛政7年(1795)11月、明治26年5月の再建棟札があったと伝えていますので、古くから大道村落の鎮守として、この丘の上から村人の生活を見守ってきた古祠だったと考えられます。山王神社は明治42年に瀬戸神社に合祀されましたが、今でも毎年10月初旬には、大道町内で祭儀が続けられています。

 光伝寺の先の大道小学校まで戻り、小学校の裏手の小さな丘の上に諏訪神社があります。

諏訪神社

 諏訪神社について、明治10年の三分村戸籍帳には、「二四五〇番地、諏訪神社」とあり、同26年の神社明細帳には、祭神は建御名方命(タケミナカタノミコト)、本殿は天保元年七月建立、境内坪数は三〇一坪(所有相川文五郎)、氏子戸数は二十五戸、惣代人は相川万吉、相川藤七、長島半兵衛とあり、さらに貞享5年(1688)再建、享保14年(1729)修繕、天保元年(1830)再建の棟札が保存されていたことを記されていますので、古くから川と呼ばれるこの地の鎮守であったことが解かります。
 明治42年に瀬戸神社と合祀されましたが、今でも毎年8月末の日曜日には、町内こぞって集まり、町の平和と繁栄を祈念するお祭りが模擬店やお囃子の中で盛大に続けられています。
諏訪神社
 明治10年戸籍によると、川町内の3501番地に日光神社が存在していたと伝えていますが、これも今では瀬戸神社に合祀されています。3501番地は、光伝寺の裏山に続く六浦第5公園の辺りで、祭神は味耜高彦根(アジスキタカヒコネ)の神です。

 諏訪神社から大道小学校に沿って進み、諏訪之橋が架かる侍従川へ出、侍従川に沿って右に折れ、道なりに進み、信号を渡り、更に進むと、京浜急行の踏切があります。踏切を渡り、線路に沿って右へ進むと、左側に浅間神社があります。

浅間神社

浅間神社  浅間神社について、明治10年の三分村戸籍帳には、「一一七二番地、浅間社」とあり、同26年の神社明細帳には、祭神は木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)、本殿は間口一間三尺、奥行一間一尺、境内坪数は三五二坪(但小泉米吉所有地)、氏子戸数は三十四戸、惣代人として小泉蔵右衛門、小泉善兵衛、大川五右衛門の名が挙げられています。このころの三艘と呼ばれたこの地には36戸の集落でしたので、氏子戸数34戸はほとんど村全員ということになります。
 祭神の木花咲耶姫は、瀬戸神社の祭神大山祇(オオヤマツミ)の娘神で、高天原から降臨されたニニギノミコトの后となったと伝えられる皇室の直接の先祖に当たる女神です。富士山頂に祭られている浅間大神を始め、この神を祭る神社は多く、この三艘にある浅間神社もその一つで、明治42年に瀬戸神社に合祀されています。今でも毎年9月初めには、昔ながらに町内総出でお祭りが行われ、木やりやお囃子の賑わいの中で模擬店が出、神輿も繰り出します。

「金沢・時代の小波 六浦地区」はこれで終わりです。
 お帰りは、京浜急行線の六浦駅まで徒歩で5分ほどで行くことが出来ます。
 また、散歩コースから少し離れて、白山神社と豊崎稲荷神社があります。お時間にゆとりのある方は訪ねてみてください。


 京浜急行線逗子線の六浦駅の改札口を出、左の階段を下り、金沢八景方面へ進みます。そのまま線路に沿って進み、右側に浅間神社を通り過ぎます。浅間神社を過ぎると間もなく左側に踏切があるところを右の道へ進みます。住宅街を道なりに進み、六浦東2丁目13の小さな十字路まできたら右へ入ります。六浦東2丁目12の民家と民家の間の路地を右へ入っていくと、白山神社があります。

白山神社

 大きな欅の木が目印となる白山神社について、明治10年の戸籍帳には、「七九四番地、白山社」とあるだけですが、同26年の神社明細帳には、祭神は菊理姫(ククリヒメ)命、本殿は間口2間、奥行1間3尺5寸、但向拝は向7尺4寸、出4尺6寸、境内坪数は38坪、氏子戸数は30戸、とあり、高さ8尺、幅6尺6寸の木造の鳥居が建っていたことを伝えています。この鳥居は昭和55年に町内崇敬者の浄財を得て、新しく建て替えられています。なお、文化9年(1812)11月に社殿再建、嘉永5年(1852)5月に修繕を加えたという記録から、やはり古くからこの地の鎮守であったことが解かります。
 御祭神の菊理姫(ククリヒメ)のククルは、括る、つまり結束という意味で、物事を円満にシメククル、まとめるという御神徳を御名としたものですが、一般には白山姫と呼ばれ、石川県の霊峰、白山に祭られる旧国幣中社白山ひめ神社が全国白山神社の総本宮とされています。富士山の浅間神社と同じく、山岳信仰の一つと考えられています。
白山神社
 金沢文庫古文書には、応安4年(1371)ころ、釜利谷に白山堂が祭られていた記録があり、「しらやまだう」と仮名で書き表したものもあります。白山神社の創建が、釜利谷の白山堂に関係しているとすれば、その起源は南北朝時代までさかのぼる古い神社だということになります。

 六浦東2丁目13の小さな十字路に戻り、更に進むと京浜急行線本線の踏切があります。踏切を渡り、進むと、国道16号線に出ます。国道16号線の向かい側の歩道へ渡り、右へ進み「瀬ヶ崎小学校入口」の信号を過ぎ、「南共済病院前」の信号まできたら、瀬ヶ崎本通りと呼ばれる左の道へ入ります。瀬ヶ崎本通りを道なりに進み、消防小屋が建つ六浦東1丁目38の十字路を右へ入ります。
 六浦東1丁目33まできたら左へ入り、間もなく右側に鳥居が建つ石段があり、その石段を登りきると、豊崎稲荷神社があります。

豊崎稲荷神社

豊崎稲荷神社  明治10年の戸籍帳には、「三分村二六八番地、稲荷社」とあり、当時の瀬ヶ崎の全戸数が記されています。そのうち太寧寺(現在は片吹に移転)を除き、全戸24軒ことごとく相川姓のみで注目されます。同26年の神社明細帳には、氏子戸数27戸とあって、3軒増えているのは分家したものでしょう。氏子総代人として相川平三郎、相川新太郎、相川藤蔵の名が記されています。
 境内坪数は42坪、本殿は間口2間、奥行1間3尺5寸で、明治15年の建立とありますが、宝暦11年(1761)9月、安永6年(1777)9月などと記した再建の棟札が伝えられていますから、古くから瀬ヶ崎村の鎮守であり、相川氏一族の信仰の中心であったことが伺えます。同明細長に縦1尺8寸、幅1尺のの扁額一面が社宝となっていることを記していますが、これは、現在、社殿内正面に掲げられている「豊崎稲荷大明神」の神号額のことでしょう。明治2年1月に氏子中から奉納されたもので、この社を中心として地域が栄えていくことを祈念した立派の御神号です。

 お帰りは、国道16号線に戻ると、金沢文庫駅、金沢八景駅までいく市営バス、京浜急行バスのバス停があります。


参考資料 「横浜散歩 24コース」 山川出版社刊
        神奈川県高等学校教科研究会
        社会科部会歴史分科会編
広辞苑:第四版 岩波書店刊
「金沢ところどころ・改訂版」
        金沢区制五十周年記念事業実行委員会

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