
釜利谷地区とは・釜利谷へ
正法院と瀧の不動・金蔵院・満蔵院と薬師堂
手子神社と小泉弁財天社
禅林寺と荒痛文殊・自性院と宇賀山王社
東光禅寺・白山神社
白山道古道
釜利谷地区コースでは、金沢地区から京浜急行線の線路をはさんだ西隣に位置する釜利谷東町内に伝わる9つの史跡を訪ねます。見ごたえのある史跡ばかりですので、是非、散策してみてください。
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横浜駅の1番線ホームから京浜急行線に乗り、金沢文庫駅で下車します。金沢文庫駅は各駅停車から快速特急まで全ての種別の列車が停車します。
改札を出たら右に曲がり、西口から駅舎を出、谷津川を渡って、横浜銀行と1階に花新という花屋が入っているマンションの間の道を進みます。「釜利谷東小前」のバス停を過ぎ、次の「赤井」のバス停のすぐ手前を右に入ると、正法院と瀧の不動があります。
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赤井山正法院は真言宗御室派に属し、もと洲崎町龍華寺末で、「武蔵風土記」には「本尊観音の立像を安置し、長二尺許、金沢札所第十九番なり」とありますが、現在は観音、勢至菩薩を脇侍とする阿弥陀三尊を本尊としています。大正3年、平田恒吉氏の調査では、「開山、開基は不明、文禄十一年(一六〇二、慶長七年のことか?)僧伝盛が中興した」とあります。 阿弥陀三尊の左側に不動明王、更にその左手に19番札所の聖観音立像が祭られています。寺伝には、弘法大師が関東巡ようの折、当地に至って日照りに苦しむ村人のために井戸を掘ったところ、赤い霊水が湧き出し、この水で不動明王像を描いて護摩祈祷を厳修したのが正法院の始まり、と伝えています。 |
| 弘法大師が掘ったと伝える井戸は、本堂前からいったん前面の道路に出、左隣にある住持の住まいの裏玄関にあり、鉄さび色の赤茶けた水が出るので、古くから「赤井」と呼ばれています。これが赤井山正法院の山号にもなり、また久良岐郡赤井村と呼ばれた地名の起こりでもあります。江戸時代には、金沢七井の一つにも数えられ、門前にある赤井温泉の水質も全く同じと思われています。 | |
| 正法院本堂右脇にある道を登っていくと、墓地の一角に花崗岩の祠の中に、右手に剣、左手に縄を持った不動明王立像が祭られています。昔、金沢という地は、砂鉄と清水に恵まれていたことから、鎌倉時代には釜利谷付近に刀鍛冶が多く住んだ、と言われています。その子孫が、元禄元年(1688)、瀧(現在の西富岡小学校・西富岡中学校付近の旧字名)というところに軍神である不動明王を祭ったのが、この瀧の不動でした。いつのころからか、この瀧の不動に願をかけるには、御堂の小石を1つ、もらって帰ります。願いがかなったときには、小石の数を増やしてお返しするのだそうです。 時は移り、刀鍛冶は去っても、瀧の不動は一面の水田の中でこんこんと湧く清水を控え、人々の信仰を集めていました。しかし、大正の初め、この清水が枯れたのを機に、瀧の不動の護摩供養をしていた正法院にお不動様を移したのでした。護摩供養は現在も続けられ、1月、5月、9月の28日に行われています。場所は移っても、信仰は受け継がれ、今も御堂の中には、願いのこもった小石が積まれています。 |
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正法院の前の道を進み、ファミリーレストランのガストとバーミヤンがある「宮ヶ谷」の信号まできたら国道に出、更に進みます。次の「神明前」の信号まできたら、向かい側の歩道へ渡り、国道の裏側の住宅街に入った三叉路の真ん中の路地を入ると、すぐに右側に金蔵院があります。
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金蔵院は真言宗御室派に属し、もと洲崎町龍華寺末で、「武蔵風土記」には「古き草創なれど、寺伝を失ひ詳しきこと知らず」とありますが、寺伝によると、文亀2年(1502)ごろ、弘吽法印が身の丈3尺(約90センチ)の大日如来を安置したのが始まりとしています。 しかし、延宝7年(1679)の古文書によると、文明5年(1473)9月29日、伊丹佐京亮が手子明神を創建したとき、金蔵院が伊丹氏の祈願所であった関係から、手子神社の社僧となり、明応6年(1497)、大永2年(1522)、天文8年(1539)と、代々、手子神社再建のたびにその遷宮に奉仕した、とありますから、開山は寺の伝えよりも古いようです。 その後、阿闍梨融誉法印という名僧が、現在の本堂を造立し、天文22年(1553)2月18日のあけがたに仏法を護る毘沙門天の御姿を感得して、法悦歓喜のあまり、現在、祭ってある毘沙門天像を刻んだ、とあります。 |
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境内には高さ2.2メートルの宝篋印塔が2基ありますが、その1基には明和4年(1768)の銘があり、造塔願主として宿村惣右衛門の名が、当院14世現住長秀の名とともに刻まれています。 同時に、永嶋安左衛門、永嶋段右衛門のほか、久保寺、長谷川、鈴木、小林、関口、長嶋、青木、長瀬、相沢などの姓をもつ18人の名も見えますので、金沢町から釜利谷町一帯の有力な農民の結集で建立されたものと思われます。 |
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三叉路に戻り、左の道を進み、マンションに突き当たったら左へ進み、ヤクルトの専売所の右側のY路地を右へ進むと、すぐ右側に満蔵院と薬師堂があります。
| 満蔵院は真言宗御室派に属し、もと洲崎町龍華寺末で、護法山般若寺と号し、金沢札所十八番でした。本尊は身の丈2尺(約60センチ)ほどの聖観音菩薩です。 「武蔵風土記」には「開山開基詳ならず」とあり、創建については不明です。寺伝には、開山を阿闍梨尊慶(嘉元3年、1305寂)中興開山は法印宗弁(天文16年、1547寂)と伝えています。 また、「武蔵風土記」の手子神社の条に「村内満蔵院持」とありますから、手子神社の社僧は、幕末のころには、金蔵院から満蔵院に代わって手子神社を管理していたことが解ります。 寺宝には大般若経八百巻があります。寛文・延宝年間(1661〜80)の版本ですが、もとは転読して手子神社に法楽を捧げるために奉納されたものです。 |
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本堂に向って左側の石段を登ったところに、明治20年に建立された薬師堂があり、堂内には秘仏として身の丈1尺2寸(約36センチ)ほどの薬師如来が祭られていますが、これはもと手子神社のご神像でした。 もともと仏様の姿であった薬師如来が、神仏混交の時代には、神様の姿となって日本に垂迹(すいじゃく)したのが大山祇神(オオヤマツミノカミ・手子神社の御祭神)と考えられていました。それが本地垂迹説で、薬師様は、手子神社の本地仏だったのですが、明治初年の神仏分離令で、別当寺であった満蔵院に移されたのです。昔の悪疫流行の際には、この薬師様を担いで村中を回ると、疫病が鎮まるとされ、毎年3月8日には春季大祭の護摩祈祷が行われています。 |
ヤクルトの専売所の前に戻り、すぐの「宮ヶ谷」の交差点に出、金沢文庫駅に戻るように、右へ進みます。「釜利谷」の交差点まできたら、右へ入り、次の「宮下橋」の信号の手前に宮川に沿って手子神社と小泉弁財天社があります。
| 手子神社は、もと釜利谷領主伊丹左京亮(北條氏康の家臣)が、文明5年(1472)9月29日に、瀬戸神社の御分霊をもらいうけ、釜利谷の総鎮守として祭ったのが起源です。社伝では、当初、宮ヶ谷に鎮座していたので、釜利谷町の宮ヶ谷、神明前などの字名はここから起こったといわれています。 その後、明応6年(1497)、大永2年(1522)、天文8年(1539)、天正年間(1573〜91)に修造が加えられましたが、伊丹氏の子孫、三河守政富の子で当時、江戸浅草寺の智楽院忠運僧正が、延宝7年(1679)4月10日に、現在地に再興して以来、釜利谷一郷の氏子中で年々の祭祀を続けてきました。天保14年(1843)修営当時の社殿は、本殿が1.5坪(約5平方メートル)と小規模ながら、これに10坪(33平方メートル)の覆殿、4.5坪(14.85平方メートル)の幣殿、10坪の拝殿をつけた立派なものでした。明治6年には村社になりましたが、大正12年の大震災で倒壊してしまい、現在の社殿は、大正15年10月10日に再建、御屋根は昭和45年に総銅板に葺き替えたものです。 |
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| 祭神は瀬戸神社と同じ大山祇神(オオヤマツミノカミ)で、山を支配し、人々の生命の基となる水源地を守り、岩石鉱物や森林木材や、そこに住む鳥獣に至るまで一切の生活資源をお守りいただく国土神です。また、天孫ニニギノミコトの御后となった木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の御父神でもあり、皇室の外戚としても神威顕著な大明神で、古来「手子明神」と呼ばれています。 「テコ」とは、「真間の手児奈」のように、古語で「姫・娘」という意味がありますので、オオヤマツミの神とともにコノハナサクヤヒメの神も一緒に祭られていたと考えてよいでしょう。 |
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手子神社の本殿に向かい、左側に小泉弁財天社があります。以前は、瀬戸の入り江に面して建てられていましたが、昭和15年に横須賀海軍工廠金沢支廠を建設するため、山の反対側にある手子神社の境内に遷されました。現在の石窟は昭和51年4月に改装し、弁財天の尊像一躯を新造して奉安したものです。 禅林寺には、享保8年(1723)4月小泉弁財天社再興の次第を、浅草の天龍山玉宗寺第4世安山喜禅が記した「武蔵金澤瀟湘夜雨弁財天之縁起」と瀟湘夜雨弁財天一躯が伝えられています。縁起の奥には、禅林寺16世眠翁松隠が遷宮祭の導師を勤めたことが記されています。 |
| 縁起によると、金沢の奥まで入海が入っていたころ、入海の汀に琉球嶋水晶輪山と呼ばれる小さな岩山があり、そこの荒れ果てた堂内に弁財天が祭られていました。この地を遊覧のために訪れた江戸浅草の木島又右衛門尉政尚は、琉球嶋を訪れた後に見た不思議な夢を弁財天のお告げと理解し、小泉弁天庵の鷲山玄峰和尚に弁天社再興のことを話します。この話を聞いた村人の協力によって弁天社が再興され、享保8年4月に遷宮祭が行われたのでした。 鷲山玄峰和尚享保17年5月18日に亡くなり、その墓は、禅林寺境内にあります。 |
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手子神社が面した宮下橋の交差点を向かい側に渡り、そのまま宮川に沿って住宅街を進むと、右側に禅林寺があります。
| 禅林寺は、鎌倉公方足利持氏によって建てられました。その子、足利成氏は宝徳元年(1449)に鎌倉公方に就任しましたが、関東管領上杉氏と対立して康正元年(1455)下総国古河に本拠地を移し、古河公方と称しました。しかし、古河に移った後も父祖を敬う心は篤く、明応2年(1493)5月に下総国葛飾郡関宿(現在の茨城県猿島郡五霞村)の六国山東昌寺2世能山聚藝を禅林寺の開山として迎えました。禅林寺境内には、至徳3年(1386)、応永25年(1418)の年号が刻まれた宝篋印塔が残され、前身となる寺院のあったことを推測させます。 |
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| その後、管領細川氏の被官人で、摂津国河辺郷の領主伊丹氏の末裔と伝えられる伊丹三河守永親の父、伊丹左京亮経貞は、文明5年(1473)に瀬戸明神を勧請して手子神社を開いたと伝えられています。戦国時代、伊丹氏は後北条家の家臣となり、永親の子、右衛門大夫康信は永禄7年(1564)の国府台合戦で討ち死にしました。 後北條氏の時代、浅草寺は伊丹氏と遠山氏が交代で別当を勤めるしきたりになっていました。徳川家康の江戸入府以後、浅草寺別当は将軍の護持僧を勤めるようになりました。 |
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| この縁から、伊丹氏は江戸幕府と密接に結びついていきます。伊丹政富の子、忠尊は、徳川家康を祀る紅葉山東照宮の初代別当となりました。寛永9年(1632)、忠尊は禅林寺の荒痛文殊を浅草寺に移し、その賽銭を禅林寺の興隆に充てるようにしました。 しかし、忠尊の甥、、忠運は貞亨2年(1685)に将軍徳川綱吉の悪法に身をもって反抗し、浅草寺別当と紅葉山東照宮別当を解任されてしまいました。 以後、寛永寺別当凌雲院が紅葉山東照宮を管理するようになりました。 |
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昔、釜利谷の坂本村の山中に、文殊菩薩が祭られていました。ある年の夏、台風でこの文殊菩薩が山崩れに押し流され、前の沢の中に埋没してしまいました。村人達は文殊菩薩を探し出そうと、鋤や鍬で沢を掘り始めると、土の中から「あら痛や、あら痛や」という声が聞こえました。村人達が恐れおののきながら丁寧に土石を取り除いていくと、高さ4尺3寸(約1メートル42センチ)の文殊菩薩立像が現れました。この呼び声から「荒痛(あらいた)文殊」と呼ばれることになり、早速、村人達は村内の禅林寺に持って行き、住職にいきさつを話し、境内に小さな堂を建て、安置することとなりました。 |
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禅林寺が浅草寺と紅葉山東照宮の別当を兼務していたことから住職は、智楽院忠尊僧正を通じて、将軍家光の上意を請うたところ、 「武蔵国久良岐郡坂本村などという片田舎に置かれていては参詣人も少なく、文殊様も寂しかろう、江戸浅草の観音堂の中へ安置するがよい」 ということになり、浅草寺の本堂下陣に安置されることになりました。釜利谷町の相沢家に伝わる古文書に、このことを裏付ける記録が残されています。江戸時代に浅草寺に移された荒痛文殊は、33年に1度のご開帳が行われ、その折には、禅林寺住職が浅草寺に出向き、供養を行っていましたが、昭和20年(1945)の東京大空襲で焼失してしまいました。 |
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禅林寺から宮下橋の方向へ戻り、釜利谷東7丁目13と7丁目12の間の路地を入り、住宅街の中を流れるせせらぎを渡り、更に道なりに進むと、自性院と宇賀山王社があります。
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自性院は、福松山慈眼寺と号し、真言宗御室派に属し、もと洲崎町龍華寺末です。「武蔵風土記」や「金沢と六浦荘時代」などには、本尊1尺(約30.3センチ)ほどの阿弥陀如来とありますが、現在の本尊は聖観音菩薩で、阿弥陀像は脇仏となっています。 寺伝では、伊丹三河守が亀泉童子、竜珠童子という2人の子供の菩提を弔って、永正年間(1504〜20)に建立したと伝え、また寛永11年(1634)7月21日、当時、幕府御用の菓子商、大久保主水忠行の夫人蓮台院月宝尼が霊夢に感じて、釜利谷の堀之内の福松山にあった宇賀山王社を修理し、神田2反歩(約20アール)を寄付し、自性院を別当として、これを祭らせたといいます。正保元年(1644)、月宝尼は亡くなりましたが、翌2年、その子大久保忠元は香華料として、更に1反歩の田地を寄付し、元禄16年(1703)には江戸因幡町の境屋六兵衛も妻の妙心信女の菩提のために、伽藍修築用の木材や畳40畳を施入しています。 |
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自性院の本堂に向かって右側に並び建つ宇賀山王社は、「武蔵風土記」には薬師如来を本地仏とし、9尺(約2.7メートル)に2間(約3.6メートル)の社殿で、その前に鳥居が立っていたとありますが、今はありません。 現在、自性院には、本尊とは別に、焼けただれた高さ1尺ほどの十一面観音立像が黒厨子に納められていて、その厨子には天保8年(1837)十代大久保主水忠記の裏書があります。 これによると、宝暦年中(1751〜63)に盗人がこの尊像を盗み出し、近くの鍛冶屋で火床の中に打ち込んでしまいました。しかし、いくら熱しても溶けず、観音菩薩の尊容が崩れなかったので、すっかり恐れ入って寺に返しにきたものだといいます。 |
宇賀山王社に向かって右側の路地から墓地を抜け、釜利谷南4丁目の住宅街に入ります。釜利谷南4丁目1番から左に折れ、「白山道中央」の交差点に出て、右へ進みます。「白山道トンネル北」の信号を渡り、釜利谷南2丁目29と番と2丁目30番の間の路地を右へ入ります。旧白山道に突き当たり、右を見ると、東光禅寺があります。
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禅宗で、臨済宗建長寺派の白山東光禅寺の創建は、建仁年間(1200頃)と伝えられています。創建当時は鎌倉薬師ヶ谷(現在の大塔宮)にあり、薬師如来を本尊として医王山東光寺と称しました。開基は鎌倉幕府開幕の功臣、畠山重忠で弘安5年(1282)、鎌倉建長寺第6世勅諡大興禅師を請じて開山としました。 本尊の薬師如来は定朝作で、重忠の念持仏でした。脇士として日光菩薩、月光菩薩を従えた薬師三尊形をなし、さらに十二神将を従者として伴っています。東光禅寺が伽藍をもつ釜利谷付近には重忠の墓、首塚、、重忠戦死の地、その子、重保自刃の地などがあり、畠山一族にとってゆかりの深い土地であることが解かります。 こうした名刹にふさわしく、重忠愛用の馬具の他、本堂大天上に描かれた日本画僧月海豪澄法師作の大龍画、横浜市指定美術工芸文化財の絹本著色釈迦十六善神図の掛け軸など多くの寺宝を伝えています。 |
東光禅寺に向かい、左へ旧白山道を500メートルほど進み、釜利谷南2丁目44番24号の民家脇の十数段の石段を登ると白山神社があります。
| 崖をくり抜いたやぐらの中に社殿を祭られた白山神社は、「武蔵風土記」には、「例祭九月九日、村内東光寺持」と記され、江戸時代には東光禅寺が管理し、毎年の祭りを運営していたことが解かります。東光禅寺がこの地に移ってくる前、建武2年(1335)から応永31年(1424)ころまでは、称名寺の管理だったようで、このことを記した金沢文庫古文書に、「六浦荘釜利谷郷白山堂」とあることから、白山神社は南北朝時代以来の古祠と考えられています。 | ![]() |
白山神社を過ぎ、旧白山道を更に進むと、関東学院のグランドに行き当たります。グランドを囲ったフェンス伝いに左へ進むと、鎌倉街道の一つであった白山道古道を辿ることができます。
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称名寺から白山神社への道が白山道で、昔は尾根伝いに朝比奈から鎌倉へ抜ける鎌倉街道と呼ばれる古道の一つで、嘉元3年(1305)瀬戸橋ができる以前は、鎌倉と称名寺との往復にはこの道が使われていたようです。 鎌倉街道とは、鎌倉を中心にして放射線状に伸びる幹線道路のことですが、この名称は後世のもので、「吾妻鏡」には「某道」と記されています。白山道は、北条実泰から北条実時の初期にかけて北条家の本拠地と鎌倉を結んだと考えられる道で、現在は、野村住宅や関東学院によって道が解からなくなっていますが、昭和20年代までの地図には尾根道を示す破線が記されていました。白山神社の前から分かれて、鼻欠け地蔵の前に抜ける尾根道もまた高舟台住宅の開発によって現状が変わってしまいましたが、白山道奥公園に至る登り斜面には、当時を忍ばせる風情が残っています。 |
| 白山道古道を登りきり、白山道奥公園に出ると、釜利谷やぐら遺跡11号を見ることができます。 やぐらとは、鎌倉、室町時代の納骨や供養のために方形に掘られた武士や僧侶達の墓で、鎌倉やその周辺に多く見られます。11号ヤグラの現状の大きさは、奥行き0.24メートル、間口1.73メートル、高さ1.73メートルで、本来の形から見ると、前方部にかなり削られた奥壁の中央が箱型に掘られているのが特徴です。 |
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「金沢・時代の小波 釜利谷地区」はこれで終わりです。
お帰りは、東光禅寺までもどり、釜利谷2丁目29と2丁目30の間の路地へ出、「白山道トンネル北」の交差点方向へ少し歩くと、京浜急行のバス停があり、京浜急行線金沢八景駅へ戻ることができます。
| 参考資料 | 「金沢ところどころ・改訂版」金沢区制五十周年記念事業実行委員会 |
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