
七福神とは・金沢・七福神・金沢へ
富岡八幡宮と蛭子(えびす)・長昌寺と布袋
寶蔵院と寿老人・瀬戸神社と琵琶島神社と弁財天
龍華寺と大黒天・伝心寺と毘沙門天
正法院と福禄寿
七福神とは、幸福をもたらす民間信仰の七神をいいます。
一般に、恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋をいいますが、寿老人は福禄寿と同体異名だとして、近世以降は代わりに吉祥天または猩猩(しょうじょう)をはいすることもあります。
中世末の富貴を願いしゃれ、冗談、ユーモア、おどけなどを好む世相を反映して当時、広く信仰されていた鞍馬の毘沙門天、叡山の三面大黒天、西宮の恵比寿、竹生島の弁財天などに神仏や滑稽味のある禅僧を配して七福神としました。
こうした七福神の成立年代は不明ですが、画軸や狂言の題材となり、文明年間(1469〜87)には、都に七福神の装いをした盗賊が出た、といわれています。近世以降も広く絵画、彫刻、歌舞などの題材に扱われ、江戸や関西では正月にこの神々を祭る社寺を巡拝する七福神参りの風習が生まれました。
横浜金澤七福神は、平成17年の1月から横浜金沢観光協会の主催によりスタートした、全国で最も新しく掘り起こされた七福神です。各寺社では、七福神をお参りした際にご朱印を押す色紙もあり、また子供さん向けの区内のレジャー施設である「横浜・八景島シーパラダイス」を加えた八箇所を巡るスタンプラリーもあり、楽しみながら福神巡りができるよう整備されています。
ここでは、「金沢・七福神巡り」として寺社の来歴と巡拝コースをご紹介します
横浜駅から3番線のJR京浜東北線に乗り、JR杉田駅で下車し、シーサイドラインに乗り換えます。
シーサイドラインは3回乗りますので、1日乗車券(650円)を買うとお徳です。
シーサイドラインに乗り、シーサイドライン並木北駅で下車し、改札口を出たら、右側の出口2へ進み、「並木北駅前」の信号を渡り、並木1丁目団地内を直進します。次の信号(※)を渡ったら、遊歩道を左へ進み、富岡八幡公園へ行き当たったら、園内の遊歩道を歩くと、左側に石段があり、「富岡八幡宮」があります。
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富岡八幡宮は、建久2年(1191)源頼朝が当地の民屋鎮護のため、摂津国西宮神社の蛭子尊(ひるこのみこと)を勧請したことにはじまりました。縁起によると、安貞元年(1227)6月15日の祭社の日、富岡村の一軒のあばら家に住んでいた白髪の老爺を訪ね、1人の旅の僧が食物を乞いました。しかし、老人は貧しく、祭りの日であっても恵んでやるものがありません。しかし、丁度、麦で作った酒があったので、差し出しました。旅僧は手にしていた茅の葉ですくい、うまそうに飲み干しました。そして、老人にこう言ったのです。 「吾は八幡の神である、今日から吾を祭るべし、吾を信ずる者は、必ずや厄を除け、幸福を与えるであろう」 老爺がはっと思って見上げたときには、僧の姿はなかったのでした。 |
| このときから御祭神は八幡宮となりました。富岡八幡宮の下は、今は埋め立てられましたが、元は海岸だったところに、、昔の祭神・蛭子尊も祭られており、土地の人は「西宮様」と呼んでお参りしています。 毎年7月15日前後の日曜日の富岡八幡宮の例祭には、茅の船を作って御幣を立て、それに麦団子のお供えを乗せ、お神酒(昔は麦の麹で作ったどぶろくだったようです)を捧げて海に流す「祇園舟」の神事が絶えることなく行われています。それは、このように古い由来に基づく伝統なのです。 |
| また、富岡と柴町の間にある長浜の海岸は、大昔は現在より」2キロメートルも置きに突き出た岬で、「長浜千軒」と呼ばれる大きな漁村でした。ところが、応長元年(1311)5月18日夜、突如として大津波に襲われ、長浜千軒はことごとく大波にさらわれ、壊滅してしまいました。 こうした大津波にも関わらず、富岡の部落は八幡宮のご加護によって何の被害も受けなかったのです。村民は今更ながら八幡宮の広大なご神徳を仰ぎ、「浪除八幡(なみよけはちまん)」と称し、ますます崇敬の念を篤くしたのでした。 後に、徳川家康が江戸城に入り、海岸を埋め立て、江戸の町づくりを始めたとき、高波が何度も押し寄せ、埋め立て工事が難行しました。そのとき、この富岡の「浪除八幡」の御分霊をお祭りしたころ、その霊験によって埋め立てに成功しました。これが現在の深川八幡宮のはじまりとされています。 この地の地頭、豊島刑部少輔明重も富岡八幡宮を篤く崇敬し、慶長15年(1610)立派な社殿を造営し、御神意にこたえましたが、その棟札は現在も完全な形で伝わっています。 |
| 蛭子(えびす)は正業を守り、福利をもたらす神で恵比寿三郎ともいわれ、「源平盛衰記」などにその名が見えます。事代主(ことしろぬし)神ともされていますが、農村では田の神、漁村では大漁の神とされています。 |
(※)の信号まで戻り、そのまま遊歩道を進み、「なぎさばし」という陸橋の手前の階段から車道へ降り、富岡東3丁目20から住宅街へ入っていきます。最初の角を左へ曲がると、「長昌寺」があります。
| 富岡山長昌寺は、臨済宗建長寺派の禅寺です。天正年間(1573〜92)、小田原北条氏の家臣、柳下豊後守の創建で、富岡山長昌庵と称していました。 その後の慶長年間(1596〜1615)に鎌倉の名月院から仙渓和尚を招いて開山とし、長昌寺に改められたといいますが、「武蔵風土記」には、長昌庵のままで無住の寺であったように記されています。現在、長昌寺は釈迦如来をご本尊としています。江戸時代から明治時代にかけて霊験の高かった芋神様(いもがみさま=揚柳観音)が祭られていることでも知られていました。 |
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芋神様(揚柳観音)はほうそう(天然痘)の神様で、種痘のなかった当時は、子供は必ず参拝するものとされ、開帳日には、近郷近在は勿論、横須賀、三浦、藤沢からも参詣者があったことが記録されていますし、東海道保土ヶ谷宿には、「富岡山芋神大明神えの道」と道標が建てられるほどの繁盛振りで、この道標は現在でも伝わっています。また、境内には、直木賞で名高い直木三十五の墓があり、近年、改装され、参拝しやすくなっています。 |
| 直木三十五 本名、植村宗一。明治24年(1891)2月12日。大阪市南区で生まれる。父は植村惣八、母はしづ。早稲田大学英文科予科から高等師範部に転じ中退、大正7年に出版社の経営、雑誌の運営にあったたがうまくいかず、関東大震災を期に帰郷。大阪で編集者として働く傍ら、京都で映画を制作したが、失敗。再び上京し、文筆に専念した。31歳のとき、直木三十一の筆名を用い、以後、三十二、三十三と改め、三十五で定着した。代表作に「仇討浄瑠璃坂」「南国太平記」「楠木正成」があり、歴史小説のほか現代小説、時局小説、未来小説もある。昭和9年2月24日没。44歳。 |
| 布袋は中国の後梁時代の禅僧、布袋和尚と呼ばれる契此(かいし)で、弥勒菩薩の化身といわれ、額は広く、身は太く短く、ふくよかな腹をもつ円満な相から、夫婦円満、功徳を施す神とされています。 |
シーサイドライン並木北駅へ戻り、1番線から海の公園柴口駅へ向かいます。海の公園柴口駅の出口2から柴口駅の信号を渡り、1本目の車道を右へ進み、1つ目の信号を左へ入り、住宅街へ入っていきます。2本目の路地を右へ入ると、右側に「寶蔵院」があります。
| 真言宗御室派の寶蔵院の創建年代は、安政5年(1858)に末寺西方寺が焼失したため、古文書がなく、不明です。開山、開基も伝えられていませんが、中興開山第六世法印傳宥(でんゆう)大和尚の代の延宝7年(1679)に二代目の本堂が建立されました。現在の本堂は、昭和52年中興開山第十八世慈宝(じほう)和尚の代に、三代目の本堂として再建されました。大日如来の本尊や諸仏等の作風から鎌倉時代末期の開山と思われます。 | ![]() |
| 応長元年(1311)、長浜で山津波が起こり、当山の銀杏の下でのかがり火を目標に、一部の人々がこの土地に移住し、山号の此木山の名の基である此ノ木(このき)村と称しました。寺紋の三つ葉菊を使用している檀家がないため、既に絶えた家系の家紋と思われ、昔は氏寺であったのかもしれません。以来、信仰の篤い漁民たちによって護り伝えられ、古来より理想的な一村一か寺の形態で、東京湾を一望する静かな漁村の中央に位置しています。 境内には、昭和54年に修行大師尊像が、昭和57年には弘法大師御入定1150年遠忌記念事業として水向不動尊が建立されました。平成2年には、本堂、庫裏の修復を行い、霊尊阿弥陀三尊、十三仏尊像等の修復(2度目)を元禄(1689)以来、約300年ぶりに行いました。 |
| 寿老人は、中国の老子が天に昇り、仙人となり、1500年の長寿を保ったという説と福禄寿と同様に中国の福徳、財運、長寿をかなえる南極寿星の化身、とされています。 |
シーサイドライン海の公園柴口駅へ戻り、1番線から終点の金沢八景駅へ行きます。歩道橋を渡って瀬戸交差点へ降り、交差点に面した「瀬戸神社」を訪ねます。
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平潟湾の中心である瀬戸の内海の出入り口は、潮の干潮時には急流渦巻く交通の難所で、自然の力を恐れ敬わった古代人が、ここに海神を祀ったのが瀬戸神社の起源です。 鎌倉時代、源頼朝が伊豆の三島大社の御分霊を遷したことにより、瀬戸神社は更に発展しました。今日でも鎌倉時代の美術史上、重要な作品が多く伝えられ、中でも源実朝が使用したとされる抜頭面(ばとうめん)、陵王面(りょうおうめん)などの舞楽面は、後に頼朝夫人の北条政子が奉納されたものといわれています。 南北朝時代、朝廷から正一位の神階を授けられ、その神号額も現存しています。 徳川家康も慶長5年(1600)自ら参拝し、百石の社領を寄進しています。 昭和43年には、神奈川県神社庁から献幣使参向神社に指定されています。 |
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瀬戸神社の鳥居をくぐったすぐ左右に大きな石灯篭があります。この石灯篭は、金沢八景駅裏の権現山に祭られていた東照宮のもので、別当職だった円通寺に移管された後、明治11年の神仏分離令によって瀬戸神社に移されたのです。 境内から向って右側のものが、高さ302センチあり、柳沢吉保の六男の米倉保教が、正徳2年(1712)米倉昌照の養子としてその遺領を継ぎ、権現山の南麓の谷戸に陣屋を構えた享保8年の2年前の享保6年(1721)に東照宮に奉納したものです。 左側のものは、高さ278センチあり、久世広之が寛文2年(1662)若年寄となり、金沢および本牧方面に5000石の加増を受け、翌3年の老中に昇進したときに東照宮に奉納したものです。 |
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国道16号線の瀬戸交差点をはさんで向かい側に琵琶島神社があります。
| 治承4年(1180)源頼朝が伊豆の三島大社から瀬戸神社を勧請(分霊を他の場所へ移し替えること)したときに、その夫人北条政子も夫にならい、日頃、信仰する近江国の竹生島明神を勧請し、瀬戸神社社頭の海中に島を二つ築き、祀ったのが琵琶島神社す。 御祭神は水の女神である市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)で、江の島神社や広島県の厳島神社と同じ神です。 弁財天は、弁舌の神、学問の神、音楽の神とされていますが、琵琶島神社ではまっすぐに立つお姿なので、「立身弁財天(出世の神)」として信仰を集めています。 |
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| 弁財天は、弁才天とも書き、インドの河神である梵天(ぼんてん)の妃で、万物を破壊する洪水の力を神格化したものです。琵琶楽器を持っているので、音楽、学問、芸能、商売の福徳施与を願う神とされています。 |
| 琵琶島神社の参道入口のすぐ右側に福石があります。もとは左側の海中にあったのですが、国道の拡幅工事のために現在のところに移されました。この石は服石、呉服石とも呼ばれ、源頼朝が伊豆三島大社をここに遷し祭り、日参して、平潟湾で禊(みそぎ)をしました。そのときに衣服をかけたのがこの石で、名の由来になっているのです。 「江戸名所図絵」には、この石の前で物を拾うと必ず裕福の身になるとあります。また、江の島弁才天の参道の傍らにも福石があり、ここで物を拾うと幸福になる、という言い伝えがあります。 このように、江の島にも琵琶島にも弁財天に関連して福石と呼ばれる神秘な石があり、遊訪する参拝人の信仰を集めていたのです。 |
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国道16号線の瀬戸神社前交差点を琵琶島神社を背にして右へ進み、瀬戸橋を渡り、洲崎町信号を信号を左へ折れ、道なりに進むと、右側に「龍華寺」があります。
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龍華寺は、古義真言宗御室派で、金沢区内にある真言宗12ヶ寺の本寺格とされています。 「武蔵風土記」に記された寺伝によると、「源頼朝が瀬戸神社を造営した後、その神宮寺を建立しようと文楽上人と志を合わせ、文治年間(1185〜1189)六連(六浦)山中に浄願寺と称する仏閣を建立した」と、あります。「六連の浄楽寺」は後に火災で焼けてしまいますが、明応8年(1499)本尊弥勒菩薩の夢告によって、六浦から東北・龍灯の松のある洲崎の地に、二町四方(約476アール)の結界をもつ寺を建立し、僧・善融が住持となって再興したものが現在の龍華寺の起源ということです。当寺には貴重な宝物や記録類が多く伝えられ、平成10年10月5日に天平時代の脱活乾漆(だつかつかんしつ)造りの菩薩座像が発見され、愛知県以東では初めての例として注目を集めました。 |
| 大黒天は、元はインドの摩訶迦羅(まかから)天で、三宝を守り飲食を司る戦闘の神でしたが、南中国の諸寺で台所の神となりました。日本に入ってからは農業、福徳の神である大国主神と習合し、大黒様といわれました。その円福にあやかり家内安全、勉学の神、米俵に乗っているので、山の幸の神、小槌を振り上げているので、財宝の神とされ、商売繁盛の神とされ、江戸時代より恵比寿とともに海の幸、山の幸、金銀の財を成すようにと一対で神棚に祭られます。 |
龍華寺を出て更に進みます。町屋交差点を渡り、すぐに左へ曲がり、1つ目の路地を左へ入ると「伝心寺」があります
| 本尊に釈迦如来、脇仏に普賢菩薩と文殊菩薩を配する当山は、大永峰(だいえいほう)嗣法山法蓮王坊(ほうれんおうぼう)伝心寺と呼ばれ、宝治元年(1247)執権北條時頼公の開基です。曹洞宗初祖永平寺の開山、道元禅師が宝治元年8月より翌年3月頃まで当山で説法された当山の記録にあります。寺は数回の火災等にかかりましたが、大永元年(1521)北條氏繁公が道了山(どうりょうざん)より養拙宗牧(ようせつしゅうぼく)大和尚を請じ開山としました | ![]() |
| 伝心寺から東へ500メートル離れた当山の境外墓地内に伝海さんの入定塚があります。 伝海さんとは、昔、伝心寺で修行を重ねていたお坊さんで、身体が弱かったため、なかなか思うように修行ができず、毎日、悩んでいました。町屋の入口に大切な道があったのですが、海が荒れたり、大雨が降ると、その道がすぐに壊れてしまうので、村民が困っていました。そこで、伝海さんは、自分がこの道を守ろうと、入定塚へ入り、延宝4年(1676)7月7日入定したのでした。伝海さんは今も道行く人々の安全を見守っているのです |
| 毘沙門天は、インドでは仏法守護の四天王となり、甲冑をつけ北方を守る神とされています。密教では国家鎮護の軍神で、捧げ持つ宝塔、宝棒は財産、富貴繁栄と勇気を授けるとされ、また、倶毘羅(くびら)とも称され、施福の神とされています。 |
町屋交差点に戻り、更に右へ進み、八幡神社に行き当たったら、左へ進みます。君ヶ崎交差点の歩道橋を渡り、京浜急行緯をくぐる地下道である「文庫ふれあいの道」を進みます。京急金沢文庫駅の西口に出たら谷津川に面した横浜銀行と1階に「花新」という花屋が入ったマンションの間の道へ入ります。「釜利谷東小北」の信号を過ぎると、間もなく右側に「正法院」があります。
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赤井山正法院は真言宗御室派に属し、もと洲崎町龍華寺末で、「武蔵風土記」には「本尊観音の立像を安置し、長二尺許、金沢札所第十九番なり」とありますが、現在は観音、勢至菩薩を脇侍とする阿弥陀三尊を本尊としています。大正3年、平田恒吉氏の調査では、「開山、開基は不明、文禄十一年(一六〇二、慶長七年のことか?)僧伝盛が中興した」とあります。 阿弥陀三尊の左側に不動明王、更にその左手に19番札所の聖観音立像が祭られています。寺伝には、弘法大師が関東巡ようの折、当地に至って日照りに苦しむ村人のために井戸を掘ったところ、赤い霊水が湧き出し、この水で不動明王像を描いて護摩祈祷を厳修したのが正法院の始まり、と伝えています。 |
| 弘法大師が掘ったと伝える井戸は、本堂前からいったん前面の道路に出、左隣にある住持の住まいの裏玄関にあり、鉄さび色の赤茶けた水が出るので、古くから「赤井」と呼ばれています。これが赤井山正法院の山号にもなり、また久良岐郡赤井村と呼ばれた地名の起こりでもあります。江戸時代には、金沢七井の一つにも数えられ、門前にある赤井温泉の水質も全く同じと思われています。 |
| 正法院本堂右脇にある道を登っていくと、墓地の一角に花崗岩の祠の中に、右手に剣、左手に縄を持った不動明王立像が祭られています。昔、金沢という地は、砂鉄と清水に恵まれていたことから、鎌倉時代には釜利谷付近に刀鍛冶が多く住んだ、と言われています。その子孫が、元禄元年(1688)、瀧(現在の西富岡小学校・西富岡中学校付近の旧字名)というところに軍神である不動明王を祭ったのが、この瀧の不動でした。いつのころからか、この瀧の不動に願をかけるには、御堂の小石を1つ、もらって帰ります。願いがかなったときには、小石の数を増やしてお返しするのだそうです。 時は移り、刀鍛冶は去っても、瀧の不動は一面の水田の中でこんこんと湧く清水を控え、人々の信仰を集めていました。しかし、大正の初め、この清水が枯れたのを機に、瀧の不動の護摩供養をしていた正法院にお不動様を移したのでした。護摩供養は現在も続けられ、1月、5月、9月の28日に行われています。場所は移っても、信仰は受け継がれ、今も御堂の中には、願いのこもった小石が積まれています。 |
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| 福禄寿は、北宋の道士という説と南極寿星の化身で、人が求める「福(幸福・家内安全)と禄(幸禄・収入・地位)と寿(長寿)の望みをかなえる、といわれています。 |
「金沢・七福神巡り」はこれで終わりです。
お帰りは、京浜急行線金沢文庫駅へお戻りください。
| 参考資料 | 「金沢ところどころ・改訂版」金沢区制五十周年記念事業実行委員会 |
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