「日本大通り散策」タイトルバナー

いんでっくす

日本大通りの成り立ち日本大通りへ
横浜公園岩亀楼の灯篭ブラントンの胸像
旧日本綿花横浜支店(横浜地裁)刑事庁舎三井物産横浜支店日東倉庫
旧横浜商工奨励館(横浜情報文化センター)
旧横浜市外電話局(横浜都市発展記念館・横浜ユーラシア文化館)
「外国郵便創業の局」のパネル
「電話交換創始の地」の碑旧イギリス領事館(横浜開港資料館)
神奈川県庁本庁舎横浜開港記念会館旧本町旭ビル(綜通横浜ビル)
横浜地方裁判所・横浜簡易裁判所「電信創業の地」の碑

日本大通りの成り立ち

 慶応2年10月20日(1866年11月26日)に運上所、改所、官公庁等が建ち並ぶ日本人街3分の2と英一番館などの居留地4分の1を焼失した豚屋火事が契機となり、「横浜居留地改造及び、競馬場、墓地等約書」(第3回地所規則)が同年の11月23日に締結されました。
 約書には、居留地と日本人街に区画整理を行い、その中央に延焼を防ぐ目的で広さ120フィート(36メートル)の街路を海岸から新造の公園(現在の横浜公園)まで通すように規定しましたが、履行できず、明治政府に引き継がれました。
 明治4年(1872)英国人ブラントンの設計により、工事が進められ、中央車道60フィート、歩道及び植樹地帯を左右各30フィートからなる近代的な道路として誕生したのが日本大通りでした。広々とした通りの左右には、重厚な官公庁が建ち並び、明治12年には町名にも採用され、現在に至っているのです。

日本大通りへ

 日本大通りへは、JR横浜駅3番ホームから京浜東北線下り普通電車に乗り、2つ目の関内駅で下車します。
 関内駅の南口を横浜市庁舎の方へ出、「関内駅南口」の信号を横浜スタジアムのある横浜公園側に渡ります。
 横浜公園に入ったら、横浜スタジアムの建物に沿って左側へ(レフト側外野席からライト側外野席)歩いていきます。

横浜公園

横浜公園  横浜公園は、開港直後に形成された港崎遊郭(みよざきゆうかく)が慶応2年10月に豚屋火事で焼けた後、外国人の要求に従い、横浜市街地を造ったブラントンの設計により、明治9年(1876)に造られた面積6万平方メートルの洋式公園です。
 外国人と日本人が共同使用するという意から「彼我(ひが)公園」とも呼ばれました。関東大震災の折には、多数の市民がここに避難し、助かったのでした。1890年には日本初の気球が上げられたり、1896年には、初の国際親善野球試合が行われたり、西洋花火大会の記録も残るなど、歴史的足跡を残しています。

岩亀楼の灯篭

 横浜公園の東側には日本庭園が造られ、その中に、岩亀楼の灯篭が保存されています。
 岩亀楼は、横浜公園が造られる以前、この地は港崎(みよざき)町といい、横浜で最初の遊郭があり、遊女500人が働く一大歓楽街でした。中でも大店で、外国人・日本人相手の遊郭である岩亀楼はよく知られ、後の世に名を残した遊女喜遊(きゆう)の存在は抜きんでていました。
 外国人に抱かれるのを嫌い、「露をだに、いとふ倭(やまと)の 女郎花(おみなえし) ふるあめりかに袖はぬらさじ」という辞世の句を残し、自害したのでした。
 事実は不明ですが、攘夷派(じょういは)にとっては格好の宣伝材料となったのでした。
岩亀楼の灯篭

ブラントンの胸像

ブラントンの胸像  横浜公園の大通り側の出口にブラントンの胸像が建ちます。

 イギリス人のブラントン,R,Hは、御雇外国人で、明治元年(1868)に来日しました。日本各地に灯台を設置し、灯台の父と呼ばれました。
 横浜では、都市計画に関与し、居留地の下水道、日本初の鉄の橋の1つとなった吉田橋の架け替え、日本大通りと横浜公園の設計を行いました。

 胸像は横浜公園内にありますが、レリーフが吉田橋近くにあります。

 ブラントンの胸像がが見つめる日本大通りへ出ます。
 日本大通りに向かって、まず右側の歩道を進みます。通りに出るとすぐに旧日本綿花横浜支店が建っています。

旧日本綿花横浜支店(横浜地裁刑事庁舎)

旧日本綿花横浜支店1  現在は、横浜地方裁判所刑事庁舎を経て、ZAIM(ザイム)という横浜市が所有し、アーティストやクリエイターの制作・発表の場として、また、市民サポーターの場としても活用されているこの建物は、当初は日本綿花横浜支店と隣接の旧倉庫として建てられました。横浜支店部分は、鉄筋コンクリート造、地下1階、地上4階建、昭和2年完成、延べ床面積1940平方メートル、敷地面積745平方メートル。倉庫部分は、鉄筋コンクリート造、地上4階、地下1階、延べ床面積1006平方メートル、敷地面積730平方メートル。 旧日本綿花横浜支店2
 施工は、佐伯組(現在の佐伯建設工業)、設計はボリスという外国人、工費は倉庫部分を合わせて40万円。外壁はほぼ建設当初のままですが内部は相当改修されているとのことです。
 昭和20年(1945)8月末、進駐してきた極東空軍司令部幕僚部に接収され、29年4月、国が日本綿花から買収し、34年10月に国へ正式返還されました。以後、中区野毛の旧陸軍横浜連帯区司令部跡へ入居していた横浜財務部が移転し、更に横浜地方裁判所刑事庁舎として使われていました。

 旧日本綿花横浜支店の前をから朝日新聞横浜支局を過ぎると、三井物産横浜支店があります。

三井物産横浜支店

三井物産横浜支店1  三井物産横浜支店は、地下1階、地上4階建で、明治43年(1910)8月に着工し、翌年8月に竣工して、現在に至る日本におけるごく初期の鉄筋コンクリート建築です。
 生糸及び雑貨の輸出入を扱う事務所でしたが、建築当初は例のない高層建築として近代的事務所建築の先駆けとなりました。
 設計は遠藤於菟(おと)、酒井祐之助が行い、配筋図は佐野利器が検討したと言われ、施工は請負分業の形を取りました。
 欧米の新建築運動の影響を強く受けていた遠藤於菟は、この建物でも窓を大きくとり、隅柱に丸みをつけ、腰回りには花崗岩を用い、壁面には薬掛白色タイルを用いるなど、外国人ですら絶賛する斬新なデザインを打ち出しました。構造的にも従来の耐震上の弱点と考えられていた軒周りの補強についても工夫を凝らし、帯鉄で鉢巻をしたような安全蛇腹を用いました。これは軒樋を兼ねたもので、「遠藤蛇腹」と称されるスマートなものでしたが、後の増築の際(建物に向かって左側が増築部分)、増築部分の軒蛇腹にそろえられたので、現在では異なる形の物がつけられています。 三井物産横浜支店2

日東倉庫

 三井物産横浜支店に並ぶ日東倉庫は、明治42年(1909)11月に起工し、翌年7月に落成した地下1階、地上3階建、建坪約180坪の倉庫です。
 屋根、柱は鉄筋コンクリート造ですが、壁はレンガ造で床は木製です。大正12年(1923)の関東大震災当時は、アメリカ輸出用の生糸がこの倉庫一杯に格納されていて、しかもその量が日本政府の財政を左右するほどのもので、無事が確認されたとき、関係者が非常に喜んだというエピソードがあります。

 三井物産横浜支店の右隣に横浜情報文化センターが建っています。、日本新聞博物館と放送ライブラリーを中心として、情報関連産業のオフィスや多目的ホールを備えた複合施設として、平成12年(2000)にオープンした横浜情報文化センターですが、その低層階部分は、旧横浜商工奨励館(日本大通り側)と旧横浜市外電話局(大桟橋通り側)を保全・活用したものなのです。

旧横浜商工奨励館(横浜情報文化センター)

旧横浜商工奨励館1  大正12年(1923)9月1日の関東大震災により、開港時代からの多くの施設を失った横浜市でしたが、この地にあったアメリカ領事館も全焼してしまいました。
 その跡地に横浜商工業界の復興と発展の拠点として、横浜市が横浜商工奨励館を昭和4年(1929)4月20日に竣工させました。以後、横浜の経済復興、地場産業の発展に多大な功績を残したのでした。
 内部は1階と2階が国内外の商工業製品を紹介する商品陳列所が設けられ、3階と4階は、横浜商工会議所を始めとする市内の商工団体の事務所として利用されました。
 昭和50年(1975)横浜商工会議所の移転により、46年間に渡る歴史の幕は閉じられましたが、建築様式が近代的ルネサンス洋式であり、正面玄関から中央階段、3階の貴賓室にかけて東洋風のデザインを特色とする震災復興期の代表的な建築物であることから、平成11年(1999)2月に「横浜市認定歴史的建造物」の認定を受け、翌12年(2000)改修工事を終えて、横浜情報文化センターとして生まれ変わったのです。
 
旧横浜商工奨励館2
旧横浜商工奨励館3  特に、3階の旧貴賓室は、竣工3日後の昭和4年4月23日、横浜市街地の復興状況の視察に訪れた天皇陛下が立ち寄られた場所であり、この日を横浜復興記念日と定めるとともに、室内木部、飾り金物及び天井照明器具を創建時からのものを修復・再利用し、天井画は創建時のものを忠実に模写して一般に公開しています。

お問い合わせ先 〒231−0021横浜市中区日本大通11
横浜情報文化センター7階・管理事務所
TEL 045−664−3737
FAX 045−664−3788

 「大さん橋入口」交差点側に旧横浜市外電話局(横浜都市発展記念館・横浜ユーラシア文化館)があります。

旧横浜市外電話局(横浜都市発展記念館・横浜ユーラシア文化館)

旧横浜市外電話局1  旧横浜市外電話局は、昭和4年(1929)に、横浜中央電話局として建設されました。設計者は、横浜出身の逓信省技師中山広吉で、外壁には濃茶色のタイルを全面に貼り、装飾を控えた堅実なゼザインでありながら、2階から4階をまとめる柱型や頂部の石のコーニスに古典主義様式の細部を残すなど、昭和戦前期の逓信省建築特有の意匠が認められます。各階の床から天井までの高さは異なり、1階と3階は高く、それぞれ営業室、、交換室として使用されました。2階には局長室、技師官室などの業務スペースが、4階には女子職員のための休憩室や食堂、宿直室が設けられていました。その後、横浜市外電話局、NTT横浜情報案内センターを経た後、NTTの移転を機に横浜市の施設として保存、活用されることになり、本町通り側と大桟橋通り側の外壁と玄関を創建当時のまま残し、平成15年(2003)3月15日に横浜都市発展記念館と横浜ユーラシア文化館として生まれ変わりました。 旧横浜市外電話局玄関

 日本大通りに戻り、更に進み「港郵便局前」の信号を渡ると、港郵便局の前に出ます。郵便局のエスカレーターの乗り口に「外国郵便創業の局」のパネルが掲げられています。

「外国郵便創業の局」のパネル

「外国郵便創業の局」のパネル  明治新政府になると、近代的統一国家建設のために、様々な制度の改革が考えられました。
 郵便制度もその一つで、それまでの飛脚制度と比べ、国が経営して全国規模で行うこと、送達の所要日数が比較的、正確であること、料金が安く、多くの人が利用できること、差し出す際には、取り扱うところまで出向かなくても、切手を貼り、ポストに投函するすることで郵送できること、といった多くの長所がありました。
 明治4年(1871)3月1日、まず、東海道の各宿駅で取り扱いを開始しました。東京・大坂の両地から1日1回、リレー式で運び、所要時間は78時間でした。
 翌年7月1日には北海道の一部を除き全国実施、6年4月1日には全国均一料金制の採用になりました。
 外国郵便の取り扱いは、開国当初は外国商館や各国領事館によって行われていましたが、明治8年(1875)にこの郵便局で取り扱いが開始されたのでした。

 港郵便局の隣に建つアーバンネットビルの「大さん橋入口」交差点に面した側に「電話交換創始の地」の碑があります。

「電話交換創始の地」の碑

 明治18年12月、電信事業は、それまでの工部省から新設の逓信省に移管されました。これによって、郵便局(あるいは郵便電信局)で電報業務の取り扱いが始まります。このころには、既に電話機も輸入され、通話実験も進んでいました。
 公衆用の電話を官営にするか民営にするか、長い論争の末、逓信省は官営と決定し、23年12月23日、東京と横浜(両市内および両市間)の電話の交換が開始されたのです。
 33年には、電信法が公布・施行され、電信・電話は政府が専掌することが明記されました。電話の効用は、当初は理解されず、加入者は少なかったのですが、年を追って認められていき、36年度までには、全国主要都市で電話が開通し、加入者も3万人に達しました。
「電話交換創始の地」の碑

 「港郵便局前」の信号に戻り、更に進むと、旧イギリス領事館を用いた横浜開港資料館があります。

旧イギリス領事館(横浜開港資料館)

旧イギリス領事館(横浜開港資料館)   旧イギリス領事館(横浜開港資料館)が建つこの地は、関東大震災以前はレンガ造のイギリス領事館がありましたが、被災して壊滅、震災で犠牲となった外国人の仮墓地となったこともありました。
  現在のRC造3階、地下1階の建物は、昭和6年(1931)、英国工務省の設計、昭和土木建築の施工で建築されました。昭和47年9月に東京の総領事館に統廃合され、業務閉鎖、建物は昭和54年4月に横浜市が買い取り、55年に「横浜開港資料館」として多くの収蔵資料の展示、閲覧のために増築、保存されています。
 平成12年(2000)11月に横浜市指定文化財に指定されました。
 また、ペリー・スクエアと名付けられた中庭には、玉ぐすの木が生い茂っていますが、この木はW・ハイネが描いた「ペルリ提督 神奈川上陸図」(東京国立博物館蔵)の右端にも描かれています。
 玉ぐすは関東大震災で焼けましたが、幹の回りから芽を出し、今も横浜の歴史の生き証人として港を見つめているのです。
ペリー・スクエアの玉ぐすの木

「横浜開港資料館」ご利用案内

開館時間 午前9時半から午後5時
(入館は午後4時半まで)
休館日 月曜日、祝日の翌日、年末年始
入館料 大人200円、小中学生100円
団体(30名以上)大人150円、小中学生80円
※障害者手帳、横浜市の「長寿のしおり」等をお持ちの方、学校行事等で
利用の場合、入館料の減免制度がありますで、お尋ね下さい。
お問合せ 〒231-0021 横浜市中区日本大通3
045-201-2100

 「開港資料館前」の信号に出たら、日本大通りの向かい側に渡り、横浜公園の方へ引き返します。すぐに堂々とした神奈川県庁本庁舎があります。

神奈川県庁本庁舎

  神奈川県が置かれた明治元年(1868)9月、庁舎は本町一丁目にありましたが、明治15年12月に真砂町より出火した際に類焼、とりあえず町会所内(現在の横浜開港記念会館)に仮庁舎を設け、翌年8月に横浜税関を買い入れ、ここに移転しました。 
 その後、明治43年(1910)に本格的な庁舎が着工、3年後に地下1階地上3階建ルネサンス風レンガ造の「神奈川県庁」が完成しました。この建物も関東大震災で崩壊し、大正15年、建築設計を一般公募し、小尾嘉郎の設計、大林組の施工により、SRC造5階、地下1階の構造をもつ当時としては東洋一ともうたわれた現在の庁舎が昭和3年(1928)10月に竣工しました。中央には、日本風の印象を取り入れたキングの愛称で48.6メートルの塔をもち、その威風堂々とした姿は、「我国風」の建築を目指した帝冠洋式で、後の官庁建築に大きな影響を与えました。また、敷地内には神奈川運上所を記念する碑があります。平成8年(1996)12月に国登録文化財の指定を受けています。 神奈川県庁本庁舎

 「港郵便局」の信号を右へ曲がり、「県庁前」の信号を向かい側へ渡ると、横浜開港記念会館があります。

横浜開港記念会館

横浜開港記念会館1  「開港記念横浜会館」は、明治42年(1909)の横浜開港50周年を記念し、建築設計が公募されました。その後、いくつかの変遷の後、大正6年(1917)6月に中央の公会堂等として竣工しました。レンガ、鉄骨レンガ及びRC造2階、地下1階、塔屋付きのフリークラシックスタイルの建築で、赤いレンガの外壁に、白い石をアクセントに用いた優美な外観が特徴です。
 関東大震災では、一部損壊で済み、昭和2年6月に再開、横浜大空襲でも被害を免れたものの、戦後は13年間に渡り米軍に接収され、婦人将校の宿舎などに用いられ、昭和35年、正式に市民の手に戻り、「横浜開港記念会館」となりました。ジャックと呼ばれる35メートルある時計塔は、平成元年(1989)9月に再建された際に国重要文化財に指定され、今も親しまれています。
 内部は、ギリシャ洋式をもつ柱や重厚なシャンデリアがあり、2階には、ペリー来航時の黒船(ポーハタン号)や渡し船などのステンドグラスも復元されています。開館当初は、ビリヤード室などがあり、横浜政財界のサロンや文化施設としても利用され、著名音楽家のコンサートも行われました。
横浜開港記念会館2
「横浜商工会議所発祥の地」碑  また、敷地内には、岡倉天心生誕の地碑や「横浜町会所跡」碑、「横浜商工会議所発祥の地」碑があります。
 横浜商工会議所は、明治13年(1880)4月13日、本町1丁目5番地の町会所内に生糸商人の原善三郎や小野光景(みつかげ)らが、外国商人に対抗して、横浜商人の結束と自立を図る目的で設立し、発足当初は横浜商法会議所と呼ばれ、後に横浜商業会議所(1895)と改称し、昭和3年(1928)横浜商工会議所となりました。

 横浜開港記念会館の本町通りをはさんだ真向かいに「旧本町旭ビル(綜通横浜ビル)」があります

旧本町旭ビル(綜通横浜ビル)

 旧本町旭ビルは、RC造5階、地下1階の構造で、昭和5年(1930)に設計は不明ですが、大林組の施工で建設されました。コンクリート造の表面にタイルを張った昭和初期の典型的なオフィスビルでした。F・L・ライトの影響を感じさせるテラコッタが、建物全体の表情を豊かにしています
 平成7年(1995)にファサードを保全活用し、日建設計の設計、鹿島・内外建設JVの施工により、SRC造10階、地下2階の綜通横浜ビルとして生まれ変わりましたが、貴重な存在から平成5年(1993)6月に横浜市認定歴史的建造物に指定されました。
旧本町旭ビル(綜通横浜ビル)

 「港郵便局」の信号に戻り、横浜公園の方へ進みます。すぐに横浜地方裁判所・横浜簡易裁判所があります。

横浜地方裁判所・横浜簡易裁判所

横浜地方裁判所・横浜簡易裁判所  関東大震災で倒壊した中区北仲通りの旧庁舎に代わって現在の建物が竣工したのは、昭和4年12月でした。当時、建設中だった神奈川県庁と見劣りがしないよう、大蔵省では特に力を入れ、RC造3階(1部4階)、大蔵土木の施工によりこの庁舎を建てたといわれています。
 大正12年制定の陪審法を受けて、新庁舎には広い陪審法廷と立派な陪審員用の宿舎も造られました。戦前は4階が大会議室、3階が地裁、2階が区裁、1階に供託局が置かれました。2階中央部の陪審法廷は検事、弁護士の席が裁判長席と同じ高さにあり、広さ約200坪に約70人の傍聴席があります。全国に陪審法廷が残っているのは、京都、神戸、横浜だけで貴重な存在です。
 昭和20年、敗戦と同時に庁舎の接収が始まり、主な法廷は米軍の軍事法廷となり、横浜地裁は横浜裁判に用いられ、戦時下に残虐行為を指揮したB級、実行したC級戦犯が裁かれ、死刑51人、終身刑86人を始めとして、次々と重い判決が言い渡されました。昭和53年春から建設当時の面影を残すことに重点が置かれて、2年半かけた改修が行われ、建物本体や1階ホール、特別法廷と呼ばれる陪審法廷は当初のままの姿を伝えていました。
 平成13年(2001)新庁舎への建て替えが行われた際、大成・間・東亜JVの施工により、左右対称の日の字型の平面やスクラッチタイルの外壁など、昭和初期の公共建築の典型的な意匠を低層部に復元され、平成11年(1999)3月に横浜市認定歴史的建造物に指定されています。

 横浜地方裁判所・横浜簡易裁判所の入口脇に「電信創業の地」の碑があります。

「電信創業の地」の碑

 イギリス人ギルバート技師を招き、横浜から東京まで、電信の架設工事が開始されたのは明治2年(1869)9月19日で、この日が後に電信電話記念日に定められました。
 同年12月25日、東京の築地と横浜間に公衆電報の取り扱いが開始されました。翌3年8月には、大坂・神戸間に電信が開通、6年2月には東京・長崎間にまで達しました。既に、長崎からは上海及びウラジオストックとの間にデンマーク大北電信会社によって海底線が敷設されていました。
 電信事業の管掌は工部省で、各地に電信局に建設し、明治10年には九州の果てから北海道の小樽にまで通じたのでした。
「電信創業の地」の碑

「日本大通り散策」は、これで終わりです。
 横浜公園からは中華街も近く、おいしい食事を楽しんでみませんか?


参考資料 「残照・神奈川の近代建築」朝日新聞横浜支局編
「横浜散歩24コース」神奈川県高等学校教科研究会
  社会科部会歴史分科会
「国史大辞典」吉川弘文館
「神奈川県建築史図説」(社)神奈川県建築士会編

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