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赤田2号墳井伊直弼像伊勢山皇大神宮市ヶ尾横穴古墳群
市場一里塚稲荷前古墳群雲松院英連邦戦死者墓地荏子田横穴墓
榎下城跡(旧城寺)大塚・歳勝土遺跡

赤田2号墳

 昭和60〜63年(1985〜1988)の開発に伴う調査で、以前はこの地域は「赤田」と呼ばれ、起伏にとんだ丘陵地帯で、あざみ野南1−16、2−11付近で小型の円墳4基と横穴墓42基、また集落跡など14箇所の遺跡が発見されました。
 円墳は1〜3号墳が泥岩の横穴式石室で、4号墳は3基の墓壙(ぼこう)がありました。古墳群は、5世紀末ごろから7世紀中ごろにわたってつくられましたが、その後、宅地に開発された際に2号墳の横穴式石室のみを型取りしてガラス繊維や強化セメントで復元され、西南約450メートルの赤田西公園内に造形保存されました。
赤田2号墳  復元された赤田2号墳は、自然地形を利用して築いた径約20メートルの円墳で、北側と南西側には周溝がありました。石室は泥岩の切石を用いた両袖型の横穴式石室で、玄室は床面は3つに区切られ、川原石が敷かれていました。
 玄室の中からは、耳環や勾玉(まがたま)、切子玉、棗玉(なつめだま)等の首飾り、鈴訓(すずしろ・腕輪)、太刀、鉄鏃(てつぞく)等の武器、刀子(とうす・ナイフ)、須恵器のはそう、坏(はい)が出土しました。
 墳丘からは、須恵器の提瓶(ていへい)、甕の破片、北側の周溝からは土師器の坏が出土し、墓前祭等が行われたと考えられています。
 この赤田2号墳は、6世紀後半に築かれたもので、この地域の横穴式石室の中で最も古いものの1つです。そして、この古墳の南側斜面には42基の横穴墓があり、同じ場所に古墳と横穴墓が造られていて、それぞれの被葬者の関係を知る上で貴重な資料です。
  所在……青葉区あざみ野南3−1赤田西公園内  交通……東急田園都市線江田駅徒歩5分

井伊直弼像

井伊直弼像  井伊掃部頭直弼(かもんのかみなおすけ・彦根藩主)は、ハリスの強い通商条約調印の要求に、孝明天皇の勅許を得ぬまま調印に踏み切り、また、将軍の後継問題では徳川慶福(よしとみ・家茂)を擁立した大老でした。直弼のこうした政策に反対する人々を安政の大獄(たいごく)で弾圧しましたが、万延元年(1860)、江戸城の桜田門外で水戸藩士らの襲撃を受けて惨殺されました。
 明治15年(1882)ころから旧彦根藩の士族らは直弼の銅像造立を計画しました。市の有力者からの助力などを断り、旧藩士だけで造立し、横浜開港50年を記念して1909年に除幕式を行いました。その後、銅像は首を切り落とされたり、第2次世界大戦中の金属回収により取り払われたりと受難を繰り返しました。現在のものは、開港100年の記念行事の1つとして、昭和29年(1954)に再建されたもので、台座を含めて総高11メートルほどの像です。なお、掃部山公園は大正3年(1914)、庭園、銅像などが横浜市に寄付され、名づけられました。
 所在……西区紅葉ヶ丘9(掃部山公園内)  交通……JR、東急桜木町駅徒歩10分  

伊勢山皇大神宮

伊勢山皇大神宮1  天照皇大神(あまてらすめおおかみ)を祭る伊勢山皇大神宮は、明治3年(1870)の創建でした。ときの神奈川県権知事井関盛艮(もりとめ)は、開港地横浜への神道布教と国家鎮護のために野毛山に壮大な社の創立を告論して仮宮を建設し、翌年4月15日に正遷宮が行われました。初代の宮司には、地元の代官職を務めた石川家の龍山親祇(たつやまちかまさ)が就任し、以後、龍山氏が世襲しました。
 社格は当初、神奈川県管内宗社、ついで官幣国幣社等外別格に列せられましたが、1873年に県社になりました。関東大震災で社殿は全壊し、昭和3年(1928)に唯一神明檜造(ゆいいつしんめいひのきづくり)の社殿が再建されました。「横浜の総鎮守」「関東の伊勢さま」として広く信仰されています。例祭日は1872年の太陽暦採用後5月15日になり、戦前は市内の官公庁をはじめ、会社、工場、学校などが休日になったといいます。現在、例大祭は、5月14から16日で、1年おきに神輿の渡御が行われます。
 所在……西区宮崎町64  交通……JR、東急桜木町駅徒歩10分
伊勢山皇大神宮2

市ヶ尾横穴古墳群

 鶴見川上流の市ヶ尾周辺には、丘陵の谷間の崖面に多くの横穴墓群が造られています。
 市ヶ尾横穴古墳群はその代表的なもので、6世紀後半から7世紀後半にかけて造られたA群12基、B群7基、現存していないC群1基の計20基から成り立っています。これは、横穴墓内部から発見された副葬品などからこの地方の有力な農民達の墓地と考えられています。
 この市ヶ尾横穴墓では、前庭部と呼ばれる横穴入口に近い墓道部分からも刀、土器類が発見されました。ここで死者を悼み、祖先の霊を祭る儀式が行われていたと考えられています。また、20基の横穴の内部の造りかたにもいろいろな形式が見られ、時代とともに変化していった様子が窺えます。
 昭和8年(1933)、同31年(1956)に発掘調査が行われ、同32年(1957)に神奈川県指定史跡となりました。
市ヶ尾横穴古墳群A群  昭和57、58年(1982、1983)横穴群前面の広い前庭を発掘調査した結果、それぞれの横穴入口にいたる墓道が発見され、横穴が造られた順序なども推定できるようになりました。また、A−4号横穴の前庭部からは須恵器の甕(かめ)の破片が並べられたような状態で出土しました。このころの須恵器とは、日常用の土師器とは異なり、古墳に葬られる死者に供えられたり、墓前の儀式に使われる貴重な土器でした。
 B群横穴墓は、A群横穴墓から約40メートル離れた丘陵西側斜面に造られています。
 横穴墓群は、7基から構成され、これらは発掘調査によって6世紀後半から7世紀後半にかけて造られたことが明らかになるとともに、B−1小群(1〜5号)とB−2小群(6、7号)の2つの小群から成り立っていることが解かりました。
 また、それぞれの横穴入口部の前庭には比較的狭い前庭部がほぼ平坦に作られていました。中でも、B−6号横穴は被葬者を安置する玄室部分が方形で、複室構造という特徴的な形態をもった横穴で、市ヶ尾横穴古墳群の中では最も古い横穴です。さらに、B−2号、5号横穴からは、横穴各部から装身具、土器などの豊富な副葬品が出土し、当時の葬られた人々の姿をうかがい知ることができます。  所在……青葉区市ヶ尾町1639−2  交通……東急田園都市線市が尾駅徒歩10分

市場一里塚

  徳川幕府が伝馬制度を定めた当初は人や荷物を運ぶ駄賃銭の計算基準が曖昧でした。
 それを明確にするために、江戸・日本橋を起点とした距離が解るように一里(約4キロメートル)ごとに五間(約9メートル)四方の塚が造られ、塚の上には榎や松が植えられ、一里塚と呼ばれました。
 一里塚は、旅人にとっては旅の進み具合が解る目印であると同時に、塚の上に植えられた木は、夏は木陰をつくり、冬は寒風を防いでくれる格好の休憩場所にもなったのです。
 そのため、一里塚の周辺には茶屋が多く建ち、立場と呼ばれる休憩場も設けられるようになりました。
 市場一里塚は、江戸・日本橋から数えて5里目の塚に当たり、市内で最初の一里塚です。明治9年(1877)地租改正に当たり払い下げられ、左側の塚が現存しています。明治初期まで塚の上には榎の大木が茂っていました。昭和8年(1933)6月「武州橘樹郡一里塚」(添田坦書)の碑が建立されました。その後、永い間の風にさらされ、盛り土が崩れ流れ出るので、地元の有志がこれを惜しみ、昭和25年に大谷石をもって土留めをし、さらに昭和38年5月に補修を加えました。平成元年(1989)横浜市域文化財として登録されました。
  所在……鶴見区市場西中町4  交通……京浜急行鶴見市場駅徒歩7分
市場一里塚

稲荷前古墳群

 稲荷前古墳群は、昭和42年(1967)に宅地造成中に発見され、同年から44年(1969)にかけて発掘調査が行われました。南北に伸びる尾根400メートルの範囲に前方後円墳2基、前方後方墳1基、円墳4基、方墳3基、横穴墓9基が発見され、「古墳の博物館」と呼ばれました。このほとんどが開発で破壊されましたが、南端の15、16、17号墳の3基が保存され、昭和45年に県史跡に指定されました。
 これらの古墳は、昭和57年に保存整備事業に伴う発掘調査が一部、行われました。この結果、16号墳は市域でも珍しい前方後方墳と呼ばれる墳形の古墳であることが解かりました。
稲荷前古墳群16号墳  この前方後方墳の16号墳は、正方形をした2つの墳丘を撥形(ばちがた)をしたくびれ部でつないだ特異な形をしたもので、全長37.5メートル、後方部幅15.5メートル、前方部幅1.2〜1.4メートル、くびれ部幅10.0〜11.5メートルありました。また、周囲には幅1.2〜1.4メートルの周溝が確認されています。墳丘の上及び周辺からは底部に孔を開けた壷形土器や器台などが8個体発見されており、墳丘を造った当時に供えられた何らかの祭祀に伴う供献土器であることが考えられます。これらの遺物から、この16号墳は、4世紀後半に造られた市域でも最も古い時期の古墳であることが解かりました。
 15号墳は、16号墳の北側に隣接しており、すでに墳丘の大部分が削平されていましたが、基部が残存しており、一辺約12メートルの方墳であることが解かりました。また、周溝の切り合いから16号墳より新しい時期に造られたことが解かります。現在は、墳丘を復元しています。
 17号墳は、調査の結果、16号墳と同様に大量の盛り土で造られている方墳であることが解かり、築成方法から16号墳との関係が考えられます。

 現存しない主な古墳では、北端にあった6号墳は畿内の初期前方後方墳に似た墳形をもち、5世紀前半の1号墳は46メートルの前方後円墳で、粘土に包まれた木棺には若干の玉類しか副葬品がありませんでした。円墳の13号墳は横穴式石室をもち、7世紀に近いものでした。
  所在……青葉区大場町156−10  交通……東急田園都市線市が尾駅から青葉台駅行き水道局青葉営業所前徒歩3分

雲松院

雲松院1  臥龍山雲松院は、曹洞宗の寺院で、開基は伊豆21家の筆頭格で後北条氏の家老を勤め、また初代の小机城代の笠原信為(のぶため)で、信為が亡父信隆(のぶたか)の追善供養のために、天文年間(1532〜55)に建立しました。葵の紋所をもつ山門をくぐり、境内の中腹に至ると、宝篋印塔が建ち並ぶ笠原一族の墓所があります。
 その左隣には、都筑郡池辺(いこのべ)村の地頭(旗本)門奈(もんな)氏の墓もあります。
 所在……港北区小机町451  交通……JR小机駅徒歩3分
雲松院2

英連邦戦死者墓地

英連邦戦死者墓地  英連邦戦死者墓地は、第2次世界大戦で太平洋地域で捕虜となり、日本の収容所へ送られ亡くなった英連邦とオランダの人々を埋葬した墓地です。一部の遺骨は上海(シャンハイ)や国外の収容所から移されました。墓地内は、イギリス、インド・パキスタン、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド区などに区分されていていますが、墓石の形は全て同じとなっています。これは、「祖国のために戦い、死を遂げたものに階級はない」との理由からといわれています。昭和50年(1975)にはイギリスのエリザベス女王夫妻が、平成元年(1989)にはサッチャー首相が訪れています。

 所在……保土ヶ谷区狩場町238  交通……横浜市営地下鉄蒔田駅、京急井土ヶ谷駅から市営バス79系統児童公園下車徒歩5分

荏子田横穴墓

荏子田横穴墓1  当地は、早淵川上流南岸の丘陵南斜面に位置し、古墳時代後期から奈良時代にかけての有力者の家族墓と考えられている「横穴古墳」が2基、保存されています。これらはすでに昭和3年に学界に紹介され、同31年に発掘調査が行われました。これらのうちの1基(1号)は、内部が切妻造りの家型にかたちづくられ、天井部と側面には家屋内部を表した柱、棟木、束柱(つかはしら)、桁(けた)等が浮彫りに表現されていました。
 これは、当時の有力者の居宅を模したものとみられています。こうした形態の横穴古墳は市内では珍しく、横穴古墳が造られ始めた6世紀後半に属するものです。一方、左側に接する2号は、規模が小さく、1号よりかなり新しい時期に造られたものです。
 所在……緑区荏子田1−7−1荏子田旭公園内  交通……市営地下鉄あざみ野駅徒歩15分
荏子田横穴墓2

榎下城跡(旧城寺)

 榎下城は、上杉憲清が築いたと伝えられ、慶長年間(1596〜1615)に開かれた古義真言宗の旧城寺(きゅうじょうじ)とその周辺一帯の北方に張り出した標高30メートルの舌状台地の先端に位置しています。こうした自然の丘陵地を利用し、本丸は一段、高いところに設けられ、昭和40年より3回にわたる発掘調査で、櫓跡と城の桂跡が確認されています。
 東・西には幅15メートル、10メートル、深さともに3メートルの空掘をめぐらせ、さらに土塁を築き、大手口には侵入者をまっすぐに城内に入れないために喰い違いの虎口(こぐち)と呼ばれる独特な土塁を築いています。特に、東側の堀は谷を利用した箱堀となっています。
 上杉憲清の子、憲直(のりなお)が永享の乱(1438)で足利持氏に加担し、敗れて金沢の称名寺で自決して以後、城主については不明ですが、小田原北条氏の時代にも小机衆による小机城に対して出城の役割を果たし、山田右京進(うきょうのしん)が城代となりました。寺林は、県指定天然記念物に指定されています。  所在……緑区三保2023付近  交通……JR中山駅徒歩16分
榎下城跡(旧城寺)

大塚・歳勝土遺跡

 大塚・歳勝土遺跡は、昭和48〜51年(1973〜76)の発掘調査により、今から2000年前(弥生時代中期)にこの地方で稲作を始めた人々のムラ(大塚遺跡)とその墓地(歳勝土遺跡)を中心とした遺跡であることが解かりました。
 大塚遺跡は新旧2本の600メートルに及ぶ繭形の大規模な環濠と呼ばれるムラで、全体が発掘され、85軒の竪穴式住居跡と10棟の高床倉庫などが発見されました。竪穴式住居跡の重なり具合や分布の様子からムラは10軒前後の竪穴住居に、1〜2棟の高床倉庫を備えた人々の集団が3つ、集まって暮らしていたと考えられています。ムラの周りには幅4メートル、深さ2メートルほどの溝をめぐらし、外側に土を盛った土塁を設けて守りを固めていました。
 歳勝土遺跡は、大塚遺跡から南東に100メートルほど離れた墓地で、25基の方形周溝墓が発見されましたが、西側にまだ調査されていない部分があり、総数は30基前後と考えられています。
 両遺跡は、鶴見川の支流である早渕川筋で、本格的な稲作が開始された弥生時代中期のムラと墓地が一体として解かる貴重な遺跡として、昭和61年に国史跡に指定され、竪穴住居、高床倉庫、方形周溝墓、環濠などが復元され、大塚・歳勝土遺跡公園として、平成8年(1996)に公開され、隣接する横浜市歴史博物館とセットになって歴史学習や憩いの場として活用されています。
大塚遺跡  弥生時代中期の環濠集落を中心とした大塚遺跡は、港北ニュータウンの開発にともなう事前調査として、昭和48〜51年にかけて発掘調査が実施され、西側3分の2が失われましたが、東側が貴重な歴史的文化遺産として保存されました。
 保存整備は、調査によって発見された弥生時代の遺跡を約1.5メートルほどの盛土によって保護し、集落として生活していた様子を再現するため、遺構の直上に住居・倉庫などを復元しました。
 歳勝土遺跡からは、昭和47年度の発掘調査によって、多数の方形周溝墓が発見され、出土した土器などから大塚遺跡で生活していた人々の共同墓地であることが明らかとなりました。
 保存整備は、遺跡全体を大塚遺跡と同じように約1.5メートルの盛土によって保護しています。復元は、当時の墓の構造や配列などの様子が理解できるように、発見された方形周溝墓のうち遺跡北西部に分布する5基(S−1、4、10、16、17号)を対象に、それらの遺構の直上に3種類の方法によって行い、あわせて大塚のムラから歳勝土の墓地までの道を表示しました。
  所在……都筑区大棚西1  交通……市営地下鉄センター北駅徒歩10分
歳勝土遺跡



参考資料 「横浜散歩 24コース」 山川出版社刊
        神奈川県高等学校教科研究会
        社会科部会歴史分科会編

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