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ガス灯記念碑神奈川運上所跡神奈川近代文学館
神奈川県戦没者慰霊堂神奈川奉行所跡
旧居留地消防隊地下貯水槽
旧柳下邸
旧横浜居留地レンガ造下水道マンホール
久保山墓地弘明寺久良岐能舞台ゲーテ座小机城跡

ガス灯記念碑

ガス灯記念碑  明治3年(1870)に、日独のガス灯建設免許の競争に勝利した高島嘉右衛門は、フランス人技師プレグランを招いて、伊勢山下石炭蔵があったこの地に、ガス会社を設立しました。1872年9月29日、大江橋から馬車道・本町通りにかけて、わが国最初のガス灯が点火したのでした。当時はわらじにはんてん姿の点灯方が走って点火していたということです。
 ガス会社は、その後、町会所に譲渡され、横浜市瓦斯(ガス)局となり、昭和19年(1944)に東京ガス株式会社となりました。馬車道の関内ホール(中区住吉4−42)前にも「日本で最初のガス灯」碑と2基の復元したガス灯があります。
 所在……中区花咲町3−86(本町小学校正門前)  交通……JR、東急桜木町駅徒歩5分

神奈川運上所跡

 開港に際し、幕府は神奈川奉行所を設けましたが、運上所はその一つの機関で、現在の神奈川県庁本庁舎の辺りにおかれました。江戸時代、「運上」は税金を意味していましたが、運上所は単に関税事務だけではなく、幕府の外務、行政、刑事などを扱う総合的な役所でした。明治新政府は神奈川奉行所を吸収しましたが、運上所は明治4年(1871)の廃藩置県で大蔵省の管轄となり、翌年、横浜税関となりました。

 所在……中区大通り1(神奈川県庁本庁舎内)  交通……JR関内駅徒歩10分
神奈川運上所跡

神奈川近代文学館

神奈川近代文学館1  神奈川近代文学館は、県立の文学館で、神奈川ゆかりの作家の資料を保管・展示しています。常設展示では、「神奈川の風光と文学」をテーマに横浜、川崎、県央、県西、三浦、湘南、鎌倉の5地域ごとにゆかりの作品を紹介しています。横浜ゆかりの展示では、大佛次郎(おさらぎじろう)、吉川英治、中島敦(あつし)、三島由紀夫、有島武郎(たけお)などの自筆原稿、創作ノート、初版本などの資料、グラフィックパネルなどが展示されています。
 所在……中区山手110  交通……JR石川町駅徒歩20分
神奈川近代文学館2

神奈川県戦没者慰霊堂

神奈川県戦没者慰霊堂1  神奈川県戦没者慰霊堂は、講和条約締結の記念事業として造営された県営の戦没者慰霊施設です。県には、従来、戦没者慰霊施設がなかったため、昭和14年(1939)に県会で神奈川県護国神社の創建を決定し、横浜市神奈川区三ツ沢に造営を進めましたが、昭和20年5月の横浜大空襲で完成を目前にして焼失してしまいました。昭和26年に講和条約が締結されると、内山岩太郎知事はいち早く県の戦没者慰霊施設建設を表明し、県会で決定されました。
 建設地は、護国神社跡地をめぐって横浜市と競合しましたが、市が跡地に昭和28年3月に横浜市慰霊塔を建設しました。県は千手院などから敷地の寄付を受け、現在地に昭和28年11月に慰霊堂を竣工し、無名戦士の遺骨、分骨を含む5万余柱を合祀したのでした。
 慰霊堂の特色は、第一に戦没者のみならず、一般戦争犠牲者もまつったことで、内山知事の意向が強く反映されたことでした。第二は戦争の惨苦を記念し、資料を展示し、県民平和の象徴とする施設を構想したことでした。資料展示は、慰霊堂内の記念品展示台にとどまりましたが、平成7年(1995)に慰霊堂付属会館を「かながわ平和祈念館」に改め、遺品展示などを充実させました。第三に一宗一派に偏しない慰霊施設を掲げたことでした。慰霊堂独特の建物がそれを示している、ということです。また、慰霊堂での戦没者慰霊大祭は、創建時から今日まで神道、仏教、キリスト教による合同葬儀が執行され、「神奈川方式」とよばれる独特の慰霊行事が行われています。
  所在……港南区最戸2−19−1  交通……京急上大岡駅徒歩10分
神奈川県戦没者慰霊堂2

神奈川奉行所跡

神奈川奉行所跡  開港を控え、安政5年(1858)、外国奉行に任ぜられた水野忠徳(ただのり)、村垣範正(のりまさ)、堀利熙(としひろ)、酒井忠行、加藤則著(のりあき)の5人が翌年の横浜の開港後に神奈川奉行兼務を命じられ、現在の県立青少年センターのある辺りに神奈川奉行所(戸部役所)がおかれ開港事務を執りました。
 明治元年(1868)、明治新政府は横浜裁判所を設置し、神奈川奉行から行政事務を接収しました。

 所在……西区紅葉ヶ丘9(青少年センター前)  交通……JR桜木町駅徒歩10分

旧居留地消防隊地下貯水槽

 この貯水槽は、明治4年(1871)から明治32年(1899)までここを本拠地とした居留地消防隊の防火貯水槽として建造されたものです。建造年は推定、明治26年(1893)、構造はイギリス積のレンガ造、規模は底面3.19メートル×3.17メートル、高さ4.50メートル、貯水量28立方メートル。この地に居留地時代から100年以上も良好に保存され、昭和47年(1972)まで使用されました。構造物としての特徴は、内部のヴォールト(アーチ)型の天井と十字の補強用の仕切りにより4室に分かれていることで、役割を終えた現在でも地下水の流入により常時、貯水されています。 旧居留地消防隊地下貯水槽
 また、ここは居留地消防隊が本拠地として使用したこと、日本初の消防車(大正3年・1914)、救急車(昭和8年・1933)が配置されたことなど、日本における近代消防ゆかりの地とも言えます。横浜市では、自治体消防体制発足時代の横浜市消防局本部が置かれ、平成6年(1994)まで日本大通消防出張所として100年以上の歴史があるこの地の貯水槽を保存し、展示しています。
 この貯水槽は、平成15年(2003)11月、に横浜市認定歴史的建造物に認定されています。
 所在……中区日本大通14  交通……みなとみらい線日本大通り駅徒歩3分

旧柳下邸

旧柳下邸  柳下家は、明治初頭より横浜でも有数の銅鉄引取商として弁天通に「鴨井屋」の屋号で金属の輸入業を営んでいました。平次郎、達蔵兄弟の二家があり、平次郎家は丸に「加」の字を書き、達蔵家は丸に「加」の字を入れ、その下に横棒を引いて表していました。こうした柳下家が住んだ建物は、明治から大正期に建築されました。大正12年(1923)の関東大震災では、一部が倒壊したものの、大部分は損失を免れ、その後、戦争など激動の昭和史の中を柳下家の人々により、大切に守り、受け継がれてきました。
 平成8年に横浜市が敷地を取得し、建物の寄贈を受けて、可能な限り創建当時の姿を復元しました。平成14年11月には市指定有形文化財として指定され、館内では大正から昭和初期の暮らしが体験でき、また市民の文化活動の場として活用されています。
 建物は、東館、西館、洋館、蔵から構成され、周辺の町並みからは突出した高さがあり、ランドマーク的な存在があります。洋館の屋根はフランス瓦葺、東館、西館の屋根は入母屋造りの和瓦葺となっています。
 こうした柳下邸内のあちらこちらに特徴的な意匠が施されています。
 浴室の天井は、折り上げ格天井で、換気窓をかねた透かし彫りが施されています。浴槽は鉄製の風呂桶の底が熱くなっているので、直接に触れないよう、板を沈めて入るいわゆる五右衛門風呂となっています。茶の間には掘りこたつがあり、その大きさからこの邸に住まいした家族の多さが窺われます。
 客間1は、正式な客の対応に使われていたと考えられ、縦繁の格子の書院窓、やに松(黒松)の一枚ものの床板、違い棚、網代、天井、床柱脇の茶室風の袖壁など、変化に富んだつくりが見られます。
 蔵は、一般的には壁が小舞と呼ばれる竹の骨組に粘土を塗ることで防火性を高めていますが、この邸では石積みの壁となっています。洋室は、洋風の壁、天井、窓ですが、床だけは畳敷きとなっており、当時として珍しい洋間でした。
  所在……磯子区下町10  交通……JR根岸駅徒歩10分  問い合わせ……045−750−5022(財)横浜市緑の協会

旧横浜居留地レンガ造下水道マンホール

 明治14年から20年にかけて、旧関内外国人居留地(現在の山下町と日本大通りの一部)一帯で下水道改良工事が実施され、卵型レンガ管と陶管の下水道が整備されました。こうした下水幹線7本とマンホール37箇所はレンガ造で、材料のレンガは東京府小菅の東京集治監のレンガ工場に注文して築造されたものです。設計者は東京大学理学部第1回卒業生で当時、神奈川県土木課御用掛の三田善太郎で、これは日本人が設計したわが国最初の近代下水道でした。このマンホールは明治15年ごろ築造されたもので、昭和57年4月にこの開港広場の整備中に発見され、当時のままの状態で保存され、平成10年(1998)9月に下水道施設ではわが国初の国登録有形文化財に登録されました。
 所在……中区日本大通(開港広場内)  交通……みなとみらい線日本大通り駅徒歩7分
旧横浜居留地レンガ造下水道マンホール

久保山墓地

 横浜開港(1859年)以降の都市発展に伴い、都市の美観、保健衛生の理由により、明治7年(1874)に共葬墓地として造営されました。 
 墓地の一角には、生糸売込豪商の原善三郎、吉田新田開発者の吉田勘兵衛良信、昭和の名宰相吉田茂の養父、吉田健三らが葬られています。
 所在……西区元久保町付近  交通……JR桜木町駅からバス保土ヶ谷車庫行久保山霊堂前下車3分
久保山墓地

弘明寺

弘明寺1  弘明寺は、真言宗の寺院で、山号を瑞応山(ずいおうさん)、院号を蓮華院(れんげいん)と称し、本尊は、十一面観音像(国重文)で坂東三十三観音十四番札所になっています。創建については明らかではありませんが、明応5年(1496)の「弘明寺勧進帳写」には、寛徳元年(1044)光慧(こうえ)が再興し、元亨元年(1321)に浄泉比丘尼(じょうせんびくに)が堂宇を修理したとあります。本尊の十一面観音が鉈彫(なたぼり)の彫刻様式から平安後期の作といわれることから、当寺は、平安後期には成立していたと推定されています。「吾妻鏡」(あずまかがみ)には、当寺を僧長栄(ちょうえい)に管掌させ、「源家累代の祈願所」としたことが治承5年(1181)正月23日条に記されており、源頼朝の篤い信奉を受けていたことをうかがわせます。
 坂東三十三観音札所は鎌倉初期に成立したと見られていますが、その制定には弘明寺の僧長栄らの将軍家と関係のある観音寺系寺院の僧侶が関わっていたと推定されています。
 戦国時代には、北条氏綱(うじつな)から13貫700文の寺領が安堵され、江戸時代には幕府から5石を拝領しました。寛永10年(1633)の「関東真言宗古義本末帳」には堀之内村の宝生寺の末寺とあります。庶民の当寺への巡礼は盛んで、各地に寺への道標が残されています。本尊の十一面観音像は弘明寺観音とも呼ばれ、像高181.7メートル、7月8日から10日の観音四万六千日開帳には多くの参詣者で賑わいます。
 寺宝の絹本著色(けんぼんちゃくしょく)千手観音二十八部衆像(県重文、県立歴史博物館寄託)は鎌倉後期の作として知られています。  所在……南区弘明寺267  交通……京急弘明寺駅徒歩2分、市営地下鉄弘明寺駅徒歩5分  
弘明寺2

久良岐能舞台

 昭和5年ごろ、横浜・野毛山の林光寺住職であった塚越至純禅師が隠居所を県内各地に探していたところ、現在の久良岐公園のある笹堀の地に出遭い、ここに大沢庵という禅寺を建てました。そして、横浜の知名人を招き、座禅や漢文を指導していました。
 当時は、鬱蒼と樹木が茂り、池の縁では青大将がいびきをかき、小綬鶏が雛を連れて歩き回り、夕方には蛍が飛び交う地でした。禅師亡き後、妻の大井至純尼が住まっていましたが、こうした自然を残したい、残せる人にと昭和32年ごろに敷地と建物を宮越賢治氏に譲渡しました。
久良岐能舞台  宮越氏は現東京芸大から不要となった能舞台を譲り受け、昭和40年、地謡座、橋掛かり等の模様を施し、この地に復元しました。この舞台は、大正6年に俳人高浜虚子の実兄に当たる池内信嘉が囃子方養成のため社団法人能楽会として東京・日比谷の帝国ホテルの隣に造られたものです。建築は能楽研究家でもあった山崎静太郎氏(山崎楽堂)の手になるもので、この舞台から葛野流太鼓方 川崎九淵、亀井俊雄、吉見嘉樹、幸流小鼓方 小早川屋靖二氏他の多くの人間国宝が養成され、巣立っていきました。昭和6年3月、東京音楽学校(現東京芸大)能楽科に寄贈され、神田駿河台の文教所に移設されました。
 昭和39年3月に東京芸大に新たな能舞台が建てられたため、宮越氏が譲り受け、昭和60年2月、宮越氏から横浜市に寄贈され、昭和62年10月建物及び、庭園の整備工事が完成し、練習舞台として磯子区の管轄で開館しました。平成8年横浜能楽堂の姉妹施設となり、財団法人横浜市芸術文化振興財団の管理運営に移行され、日本舞踊、民謡、三曲、横笛の稽古や発表会、茶道、吟詠、句会などに市の内外から大変親しまれ、活用されています。
  所在……磯子区岡村8−21−7  利用問い合わせ……TEL045−761−3854 FAX045−754−4040

ゲーテ座

ゲーテ座跡(岩崎博物館)1  ゲーテ座のゲーテ(gaiety)は、英語で愉快、陽気、快活に由来したものでした。わが国初の本格的劇場であるゲーテ座は、明治3年(1870)12月にオランダ人のヘフトにより、本町通りの横浜居留地68番(谷戸橋北、現在のテレビ神奈川辺り)に建てられました。建坪413平方メートル、石造平屋造、ローマ神殿風の建物で、内部には、ガス灯の照明、換気装置、緞帳(どんちょう)設備もありました。1872年11月にこのゲーテ座はパブリックホールと改称して、各種の催し物に利用されましたが、1909年に焼失しています。
 その後、より広いパブリックホール建設運動が起こり、1885年4月に谷戸坂上の山手256〜257番(現在の岩崎博物館辺り)に地下1階、地上2階建てレンガ造、建坪890平方メートル350人収容のホールが完成し、1908年からゲーテ座と呼ばれ、音楽会、演劇、講演などの各種催し物に利用されました。当時は、外国人の観客が多い中で、滝廉太郎(れんたろう)、坪内逍遥(しょうよう)、北村透谷(とうこく)、小山内薫、芥川龍之介、大佛(おさらぎ)次郎らも足を運び、明治、大正期のわが国の文学に大きな影響を与えましたが、大正12年(1923)9月の関東大震災で崩壊してしまいました。
 所在……中区山手257(岩崎博物館付近)  交通……JR石川町駅南口徒歩20分
ゲーテ座跡(岩崎博物館)2

小机城跡

小机城跡(空堀跡)  文明9年(1477)1月、関東管領山内(やまのうち)上杉家の家宰(かさい)であった長尾氏の家督相続争い(景春・かげはる対忠景・ただかげ)が発端となって関東一円を巻き込む戦乱(長尾景春の乱)が起こりました。このとき、小机城には景春方に与した小机弾正左衛門昌安(まさやす)とともに武蔵の雄族である豊島一族らが篭城しましたが、これに対抗して関東管領扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家宰である太田道灌(どうかん)は、小机城の北方の亀甲山(港北区新羽町)に対陣して長期戦の構えをとりました。
 攻防戦は翌年2月から本格化し、2ヵ月後には道灌方の勝利に終わり、小机城は落城しました。
小机城跡(本丸跡)  戦国時代に入ると、小机城は北条早雲の領有するところとなり、氏綱の代には武蔵南部の中心拠点として大改修がはかられ、伊豆21家の筆頭格である笠原信為を城代に任命して、鶴見川流域の在地武士を小机衆(29人)として組織しました。
 現在、コの字をした城跡の谷間をJR横浜線が通過し、第三京浜が城山を南北に貫通してしまいましたが、本丸と考えられている正方形の西曲輪、二の丸と考えられている楕円形の東曲輪のほかに、土塁、空堀、櫓台(やぐらだい)跡などがよく保存され、「小机城址市民の森」となっています。
 所在……港北区小机町737付近  交通……JR小机駅徒歩14分
小机城跡(二の丸跡)

参考資料 「横浜散歩 24コース」 山川出版社刊
        神奈川県高等学校教科研究会
        社会科部会歴史分科会編
旧柳下邸パンフレット
「都市の記憶・改定第3版」
 横浜市教育委員会文化財課
 横浜市都市計画局都市デザイン室

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