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佐久間象山顕彰碑三殿台遺跡
「西洋歯科医学勉学の地」碑浅間神社総持寺
田谷の洞窟茅ヶ崎城跡鶴見神社鶴見橋関門旧跡
貞昌院天王森泉館東漸寺

佐久間象山顕彰碑

 佐久間象山は(1811〜64)は、アヘン戦争によりヨーロッパの国々の強さを知り、早くから開国、通商交易の必要性を献策した人で、吉田松陰(しょういん)、勝海舟(かつかいしゅう)らに洋学を教え、儒教を東洋の道徳、科学を西洋の芸術と称して、この二つの学問の融合をはかりました。ペリー来航時には、老中阿部正弘(あべまさひろ)に「急務十事(きゅうむじゅうじ)」を建言し、開国を論じました。ペリーの再来時、吉田松陰らが密航を企てましたが、これに象山が参画していたとされ捕らえられました。象山は開港場として横浜が最も最適と早くから主張していました。このため、「横浜開港の先覚者佐久間象山顕彰碑」が野毛山公園の高い台地に昭和29年(1954)、開港100年を記念して建てられました。
  所在……西区の下山公園内  交通……JR桜木町駅徒歩10分
佐久間象山顕彰碑

三殿台遺跡

三殿台遺跡1  三殿台は、標高50メートルほどの独立丘で、明治時代から三殿台貝塚として知られていました。
 ここが岡村小学校の拡張予定地となったため、昭和36年(1961)、日本で最初の遺跡の全面発掘調査が行われました。台地上に縄文時代中期8軒、弥生時代中期・後期151軒、古墳時代前期から後期43軒など約250軒の竪穴住居跡が掘り出され、弥生時代を中心とした大集落跡と判明しました。
 横浜市は三殿台遺跡の保存を決定し、1963年度から3カ年計画で保存事業を開始しました。
 埋め戻した縄文、弥生、古墳の各時代の住居跡はそれぞれ色分けして時代、規模、形が表示されています。一部は発掘したままの状態が保護棟で保存され、各時代1棟ずつを復元しています。出土品は正面左側の考古館に収蔵され、見学できます。正面前に道路を挟んで貝塚跡が残っています。

 所在……磯子区岡村4−11−12  交通……市営地下鉄蒔田駅徒歩20分
三殿台遺跡2(古墳時代住居内部)

「西洋歯科医学勉学の地」碑

「西洋歯科医学勉学の地」碑  アメリカ人の歯科医師エリオットが、明治3年(1870)に居留地57番のこの地に開業し、木戸孝允(たかよし)、新島襄(じょう)、西郷従道(つぐみち)ら、ときの名士も治療を受けました。1874年のエリオットの出国後は同国歯科医師パーキンスが診療所を引き継ぎ、1881年の帰米まで開業しました。両医師の門人がここで近代歯科医学を学び、伝えたことが今日の歯科医学発展の基礎を成したとして、平成7年(1995)に県歯科医師会が建立したのがこの碑なのです。
 所在……中区山下町57  交通……JR石川町駅徒歩15分

浅間神社

浅間神社1  祭神に木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)を祭る浅間神社は、社伝によると、創祀は文治2年(1186)といわれ、源頼朝が平家討伐の戦勝報賽(ほうさい)のため、関東一円の社寺修築を行った折、当地が富士山の形状の山地であったことから社殿を創建したと伝えられています。
 山腹に小さな穴があり、江戸時代には富士山まで続いている「富士の人穴」といわれ、街道沿いの名物でしたが、昭和33年(1958)の発掘調査で古墳末期の横穴古墳であることが解かりました。この調査で横穴古墳が境内に十数か所発見され、浅間神社境内古墳群と名づけられましたが、現在は埋められ、見学はできません。  所在……西区浅間町1−19−10  JR横浜駅西口よりバスで浅間下下車徒歩2分
浅間神社2

総持寺 

総持寺1  諸嶽山(しょがくさん)総持寺は、福井県の永平寺と並ぶ曹洞宗の大本山で、本尊に釈迦牟尼(しゃかむに)仏を祭っています。元亨元年(1321)、瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が能登国櫛比(くび)荘(石川県鳳至郡門前町)にあった真言宗諸嶽寺をその寺主定賢(てらじゅじょうけん)から譲り受け、改宗して今の寺号に改めたのが始まりとされています。瑩山は後醍醐天皇からの勅願と「曹洞の本山、紫衣(しえ)勅許の出世道場」の綸旨を得て、勅願大寺としました。
 2世の峨山韶硯(がざんじょうせき)は、門弟の育成を行って寺門の興隆につとめました。元和元年(1615)、徳川家康から永平寺と同格の本山に列せられ、加賀藩主前田氏400石の寺領を受け、大いに発展しました。
 
 明治31年(1898)4月13日の大火で七堂伽藍の大半が焼失しました。再建に当たり、末寺、檀信徒の中で現地再建派と東京近郊の現在地移転派とに分かれましたが、ときの貫主(かんす)石川素堂(すどう)は、本山の皇居守護の立場から現在地への移転を決めました。
 元の本山地には別院(現総持寺祖院)を建てました。現在地は鶴見が丘と呼ばれる高台にあって、移転以前にあった末寺成願寺の寺地を中心に約15万坪の境内があります。明治44年(1911)11月5日、盛大な落慶入仏遷祖式が行われました。遷祖式には本山祠堂(しどう)の位牌堂である放光堂が完成しただけで、大正4年に仏殿が建立され、昭和12年(1937)までに勅使門、鐘鼓楼、僧堂、御霊殿、常照殿、祥雲閣、紫雲台、待鳳館、香積台、天真閣などの伽藍が造営されました。
総持寺2(三門)
総持寺3(大祖堂)  伽藍の造営事業は戦後も継承され、鉄筋コンクリート造の建物、大祖堂が1965年に、三門が1969年に、宝物殿が1974年に落成し、平成2年(1990)に檀信徒研修道場の三松閣が完成しました。大祖堂は、1023坪の日本一の大きさを誇る本堂で、2世峨山禅師六百回大遠忌記念事業として、宝物殿は開山六百五十回大遠忌記念事業として絵画の提婆達多(だいばたった)像、前田利家夫人像、紹瑾和尚像(以上国重文)など多くの寺宝が保管されています。

  所在……鶴見区鶴見2−2−1  交通……JR鶴見駅徒歩10分

田谷の洞窟

 正確には、田谷山瑜伽洞(ゆかどう)と称し、もと鶴岡二十五坊の修行道場でした。真言宗の田谷山定泉寺(じょうせんじ)境内にあります。鎌倉時代初期開創と伝えられていますが、太古の古代人の横穴式住宅跡だったとも古墳の跡だったとも伝えられ、粗原型は相当、古くから存在していたようです。
 建保元年(1213)5月2日、和田義盛とその一族が、鎌倉幕府執権北条義時ににわかに反乱を起こした「和田合戦」で、和田勢につき、剛勇で知られた朝比奈三郎義秀が手勢を連れ、この洞窟の最深部にある厄除大師を安置する最深部から落ち延びた、と伝えられています。
田谷の洞窟1
 元弘3年(1333)5月8日、新田義貞が鎌倉に攻め込み、町を火の海にしたとき、避難民にまぎれた北条方の武士たちは洞窟へ逃れた、と言われています。鎌倉時代以降、この洞窟は鶴岡八幡宮を供奉する寺院である鶴岡二十五坊との関係が深まり、真言密教の三密瑜伽の行を行う修行僧にとって洞窟は掘り進められていきました。参籠参詣した幾多の僧の中に、どのような名僧知識が混じっていたかは不明ですが、弘安4年の「元寇の役」では、この洞窟内で鶴岡八幡宮の供僧による国家鎮護の祈祷が繰り返された、ということです。
 江戸時代に至るまで適時、拡張され、上下3段、延長1キロメートルの壮大な規模となりました。そして、壁や天井に刻まれた本尊一願弘法大師を始め、四国、西国、秩父、坂東各札所、両界曼荼羅諸尊、十八羅漢等数百体のみ仏が今も無言の説法を続けています。
 地質は粘板岩の巨大な一枚岩で、幾度かの大地震にも耐え続けています。また、合理性を備えた構造から、往時の土木技術の一端が窺われ、こうした点からも貴重な存在です。
田谷の洞窟2(定泉寺)  田谷山定泉寺の開山は、鶴岡二十五坊の1つ相承院の供僧中納言法印快元の弟子、隆継(りゅうけい)阿闍梨で、開創は、室町時代末期の天文初年(1532)とされています。
 定泉寺の本尊は真言寺院としては比較的、少ない阿弥陀如来ですが、鶴岡八幡宮の本地仏が阿弥陀如来であったことに由来しています。江戸時代の寛永10年に整備された「関東古義真言宗本末帳」によると、定泉寺は横浜にある三会寺の末寺と記され、終戦前までは、古義真言宗高野山派中本山三会寺の末寺でした。戦後、大覚寺派に移り、現在に至っています。
  所在……栄区田谷町1501  交通……JR大船駅からバス田谷下車4分

茅ヶ崎城跡

茅ヶ崎城跡1(空掘)  北方には早淵川が流れ、東方と南方には谷戸が連なり、西から東へ舌状にのびる標高30メートルの丘陵上に茅ヶ崎城跡が伝わっています。現在は一部分が畑地で、残りの大部分が雑木林となっています。城跡は東西に3つの曲輪(くるわ・本丸、西の丸、付属曲輪)が並び、空掘は小机城よりも小規模です。
 戦国期は小机城の支城として小机衆の座間氏が城代(じょうだい)の任に当たっていました。

 所在……都筑区茅ヶ崎町1丁目  交通……横浜市営地下鉄センター南駅徒歩10分
茅ヶ崎城跡2(曲輪)

鶴見神社

鶴見神社1  素盞鳴尊(すさのおのみこと)と五十猛命(いたけるのみこと)を祭る鶴見神社は、旧村社で、「続日本後記」の承和5年(838)の条に、武蔵国都筑郡の杉山神社が霊験により官幣を賜った記事があり、この杉山神社を当社に当てる説があります。境内から昭和37年(1962)に古墳時代から鎌倉時代に及ぶ祭祀(さいし)遺物が発見されました。仁治2年(1241)には、将軍九条頼経の参詣があったとされています。社殿は元亀3年(1572)に乱兵で焼失し、その後、明治33年(1900)にも焼失し、大正4年(1915)に再建されました。
 1920年に八坂太神(おおかみ)・杉山明神合殿(あいどの)の社名を鶴見神社と改称しました。鉄道敷設により、もとは参集殿西側付近にあった富士塚は、本殿の後ろに移されました。4月29日に「鶴見の田祭り」と称する民俗芸能が奉納されます。これは、明治4年(1871)に廃絶した杉山明神の田祭りを近年、再興したものです。
 7月の天王祭には、鶴見川に流れ着いたと伝えられている横浜最古の大神輿(おおみこし)の渡御(とぎょ)が行われます。
  所在……鶴見区鶴見中央1−14−1  交通……JR鶴見駅東口・京浜急行鶴見駅徒歩3分
鶴見神社2

鶴見橋関門旧跡

鶴見橋関門旧跡  安政6年(1859)6月、横浜開港とともに神奈川奉行は、攘夷派などが外国人に危害を加えることを防ぐため、横浜への主要道路筋の要所に関門や番所を設け、横浜へ入る者を厳しく取り締まりました。
 鶴見橋関門は、万延元年(1860)4月に設けられ、橋際に往還幅(おうかんはば)4間(約7メートル)を除き、左右へ杉材の角柱を立て、大貫を通し、黒渋を塗ったものでした。文久2年(1862)8月、生麦事件の発生により、その後の警備のために川崎宿から保土ヶ谷宿の間に20ヶ所の見張番所が設けられました。鶴見村には第5番の番所が鶴見橋際に、その出張所が付近の東海道筋の信楽(しがらき)茶屋向かいに、また第6番の番所が今の京浜急行鶴見駅前に設けられました。明治時代に入り、世情もようやく安定してきたことから、明治4年(1871)11月までに各関門は順次、廃止されていきました。第5番、第6番の番所の廃止は慶応3年(1867)でした。
  所在……鶴見区鶴見中央2−19−24  交通……JR鶴見駅東口・京浜急行鶴見駅徒歩7分

天王森泉館

天王森泉館1  この建物は、明治44年(1911)5月に清水一三によって興された清水製糸場の本館として建設されました。昭和6年ごろに本館の左側半分が約500メートル北から現在地に移築され、個人の住宅として利用されていました。平成9年の公園整備に際して製糸場本館当時の姿を再現し、「天王森泉館」と名づけられ、地域の拠点施設として活用されています。
 清水製糸場は、大正7年には釜数128を誇り、神奈川県下45社の中でも5番の規模の製糸場でした。和泉川沿いには豊富な湧き水を活かして20に上る製糸場が営まれ、中和田村(現在の泉区)には市内最古で規模も大きい持田製糸場をはじめ8社がありました。
 しかし、大正時代にピークを迎えた製糸産業は関東大震災(1923)や大恐慌(1929)で打撃を受け、またナイロンの開発も重なり、その勢いは急速に衰えました。
 建物の1階の間取りは明治期の横浜近在の農家に見られた四ツ間取りの流れをくんでいますが、玄関を入った所にある帳場が商いの場として特徴的です。当時は本2階建てが好まれ、2階には接客の場として使われた三ツ間続きの座敷があり、総掃き出しの開放的なつくりになっています。晴れた日には富士山も望めます。豊富な湧水と農業生産力を背景に成り立った旧清水製糸場本館は、当時の新興産業資本家層の住宅の典型を示しています。
 所在地……泉区和泉町300(天王森泉公園内) 
 交通……市営地下鉄「下飯田」および相鉄いずみ野線「ゆめが丘」より徒歩30分
 問い合わせ……045−804−5133
天王森泉館2

東漸寺

東漸寺1  霊桐山(れいとうさん)東漸寺(とうぜんじ)は、臨済宗建長寺派の寺院で、本尊に聖観音菩薩像を祭っています。開基は、仏殿の梁牌(りょうはい)によって、北条時政の5代孫北条宗長(定長)が建長寺を開いた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の高弟で桃渓徳悟(とうけいとくご)を迎えて正安3年(1301)に開基したと伝えています。しかし、その3年前の永仁6年(1298)に鋳造された梵鐘(国重文)の銘には、この寺は元は真言宗の寺院であったが明窓宗艦(めいそうそうかん)が禅宗に改めた、とあります。宗艦は蘭渓道隆の弟子で、「本朝高僧伝(ほんちょうこうそうでん)」に弘安4年(1281)、武蔵東漸寺に住する、とあることから当寺は宗艦が臨済宗として再興し、同じく蘭渓道隆の弟子、桃渓徳悟を開山に迎えたものと思われます。
 創建間もない元亨3年(1323)に鎌倉の円覚寺で行われた北条貞時13回忌の法会に、当寺の長老文岑(ぶんしん)ほか39名の僧が参加しており、北条氏とかかわりの深い大寺院となっていたことが推察されます。室町時代の五山十刹制度では、関東十刹第7位の寺格を有しました。小田原の北条氏から15貫940文の寺領が安堵されましたが、その後の兵火により次第に衰退し、間宮氏が再興しました。塔頭(たっちゅう)は多福院(たふくいん)など8院を数え、末寺も瑞興庵(ずいこうあん)など8寺を擁しました。
 明治維新の際、塔頭は廃され、塔頭の1つだった真楽庵が東漸寺として残りました。
東漸寺2
東漸寺3  境内正面に建つ釈迦堂(しゃかどう)は、創建以来の建物ですが、たびたびの修理で多少、改造されていました。昭和46年(1971)、県重文に指定されたのを機会に基壇・土間の発掘調査が行われ、方3間裳階(もこし)付の典型的な禅宗様式の仏殿と判明し、1982年に創建時の姿に復元修理されました。
 堂内に安置された薬師如来座像(県重文)は、もと塔頭の東光庵(とうこうあん)の本尊で、寄木造(よせぎづくり)、像高87.7センチ。運慶風の特色を持つ鎌倉前期の作で、胎内に文永5年(1268)、徳治2年(1307)の古い修理銘があります。
 山門右手の鐘楼(しょうろう)にあった永仁6年(1298)の梵鐘(現在は本堂に収蔵)は、金沢にある称名寺の梵鐘と同じ物部国光(もののべくにみつ)の作で、称名寺のそれと同形、同法量のものです。
 釈迦堂前の五輪塔3基(県重文)は、凝灰岩(ぎょうかいがん)製で、鎌倉後期の作であることが知られています。
  所在……磯子区杉田町1−9−1  交通……京急杉田駅またはJR新杉田駅徒歩5分
東漸寺4

貞昌院  

貞昌院1  天神山天照寺貞昌院は、曹洞宗の寺院ですが、平安時代初期は、天性院と称した天台宗の宿坊で、上之坊、下之坊と二つの坊がありましたが、足利時代に廃絶したと言われています。下之坊には、大宰府に左遷された菅原道真の4男で自らも播磨国に配流された淳茂(あつしげ)が起居したと伝えられています。
 天正10年(1582)、宅間藤原規富が天神社を再建するに当たり、後山田村(現在の戸塚区川上町546)曹洞宗徳翁寺の勅特賜徳光禅師を招請して、宿坊の廃跡地に3月25日に当院を創設して開山しました。それ以来、貞昌院が天神社の別当となったのです。しかし、天神社と貞昌院は山を挟んでいたことから便が悪かったため、文化14年(1814)、貞昌院を現在地に移転しました。元の堂宇跡は古寺(ふるでら)と呼ばれています。
 明治19年3月の火災により、貞昌院の諸堂はことごとく焼失してしまいましたが、山門、鐘楼、当寺の本尊である十一面観音菩薩(伝行基作)と須弥檀の両側欄間彫刻の大竜、左右の牡丹獅子、天女像は燃え盛る炎の中で、村人達の努力によって無事に搬出され、現在に伝わっています。その後の15年間は仮堂宇でしたが、明治34年3月28世源量大和尚代のときに再建がなりました。大正12年9月の関東大震災では本堂、山門が全壊し、庫裏は半壊しましたが、檀信徒の一致協力により、翌年、再興完成しました。震災前までは屋根は茅葺でしたが、再建に当たって亜鉛葺にし、昭和45年秋に銅板葺に葺き替え、翌年4月4日、本堂の屋根工事は落慶法要を迎えました。また、昭和18年に金属回収によって献納した梵鐘に代わって新鐘を昭和34年11月に撞鐘式を行いました。  所在……所在……港南区上永谷5−1−3  交通……市営地下鉄上永谷駅徒歩5分 貞昌院2



参考資料 「横浜散歩 24コース」 山川出版社刊
        神奈川県高等学校教科研究会
        社会科部会歴史分科会編
天王森泉公園パンフレット
田谷の洞窟パンフレット

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