
永谷天満宮、長屋門公園、名主石川氏邸
生麦事件の碑、西谷浄水場、根岸外国人墓地、根岸競馬場跡
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正式には天神社と称し、菅原道真を祭り、旧村社でした。大宰府に左遷された菅原道真が、鏡に映した自分の姿を彫ったと伝える3体の木像の1つを、当社に隣接する別当寺天神山貞昌院(曹洞宗)に祭ったことから日本三體(さんたい)永谷天満宮とも言われています。他の2体は、大宰府の安楽寺と河内国(大阪府)の道明寺に祭られています。貞昌院安置の木像は、道真の4男の淳茂(あつしげ)にあたえたもので、淳茂は始め、播磨国に配流されたが、後に関東に下向し、当地に滞在して像を朝夕拝したといいます。1寸8分(約6.3センチ)の座像で、その後、菅原文時、藤原道長、上杉金吾らを経て、永谷郷に居城を構えた藤原(上杉)乗国(のりくに)に伝わったといいます。乗国は度々、この道真像の夢を見、明応2年(1493)、当地に社殿を造営し、道真像をご神体として安置したのが始まりだということです。 | ![]() |
| 江戸時代、学問の神様として知られ、また永谷郷の鎮守として地元の崇敬を集めました。道真のご神体は祭日には社殿に安置されますが、普段は貞昌院に安置されています。例祭は、春季は3月25日、秋季は9月25日。裏山の山頂には、淳茂の遺髪を埋めたという菅秀塚(かんしゅうづか)があります。 所在……港南区上永谷5−1−5 交通……市営地下鉄上永谷駅徒歩5分 |
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| この公園は、もとは大岡家の敷地で、歴史体験ゾーンがある一角には表門、穀蔵、文庫蔵、主屋(母屋)などの屋敷がありました。裏山の遊水池からわき出た水は、屋敷前の水田を潤していましたが、明治期には隣家の北井家と共に起こした製糸工場「改良合名会社」でも使われ、阿久和川の源にもなっています。そのような、かつての風景を再現したのがこの公園です。 |
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長屋門(旧大岡家の表門)……長屋門は江戸時代、武家屋敷の表門として建てられたものでしたが、村や町の長である名主でも名字、帯刀を許された家柄では、特別に建てることが許可されていました。この長屋門は明治20年(1887)に建てられたもので、江戸時代のように権威の象徴ではありませんが、当時、輸出の花形であった生糸をつくるために2階を蚕室とし、1階を門としたので、あたかも長屋門のような形式となり、付近の人たちは大岡家の長屋門と呼んだのでした。その愛称を残して、この公園の名称としたのです。 |
| 主屋(旧安西家の主屋)……この建物はもと和泉区和泉町にあったものですが、長屋門公園を造るに当たって平成4年(1992)に寄贈していただき、屋敷の主屋としたものです。安西家は江戸時代に和泉村の名主を務めた家でしたが、この建物は間口も大きく、長屋門にもふさわしい構えです。移築して、復元した間取りは、イロリを囲んでヒロマと呼ばれる部屋が中心になっていますが、このような間取りをヒロマ型といい、江戸時代中期頃までは一般的に見られる形式でした安西家は天保年間(1830年代)名主となった頃に、この家を他所から譲り受けて、ヒロマを表と裏に仕切って四ツ間型に変え、表2室を接客用に、裏2室を家族用にしました。 | ![]() |
| この時期にこのような間取りが一般的になるのは、人々が家の格式を重んじたためです。復元された主屋には、土間境に太い3本の柱が並び、ヒロマには押板と呼ばれる床の間の古い形式が見られ、江戸時代中期の農業の特徴が窺えます。 所在……瀬谷区阿久和東1−17 交通……相模鉄道線三ツ境駅から徒歩18分 |
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代官坂は、山手の丘を越えて、本牧へ抜けるために設けられた道で、当初は箕輪坂(みのわざか)と呼ばれていましたが、坂の途中のこの地に横浜村名主石川徳右衛門が居住していたことから代官坂と呼ばれるようになりました。 幕末開港前後の石川家当主、徳右衛門は、日米和親条約締結のための応接場の設営、食料、その他の設備一切をつかさどりました。嘉永7年(1854)3月9日(太陽暦の4月6日)、ペリーが横浜村に上陸し、当地の住民の暮らしぶりを視察した折、この邸を訪れ、徳右衛門が供応した様子が「ペルリ提督日本遠征記」に記されています。その後、徳右衛門は横浜町惣年寄となり、町政を担当しました。 所在……中区元町2−108 交通……JR石川町駅南口徒歩15分 |
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文久2年(1862)8月21日(新暦9月14日)、文久の幕政改革を幕府に認めさせ、、江戸から帰途、薩摩藩主の父島津久光の行列400人余が武蔵国生麦村を通過中、騎馬で散歩中のイギリス人4人が行列を乱したとの理由で、警固の薩摩藩士奈良原喜左衛門らに殺傷された事件を生麦事件と呼んでいます。イギリス人リチャードソン(28歳)が死亡。マーシャル(35歳)、クラーク(28歳)が負傷。ボロデール夫人(28歳)が前髪と帽子を斬られました。事件発生後、薩摩藩、幕府とも迅速な処置をとらず、久光の行列はイギリス人の追撃を恐れ、神奈川の予定を保土ヶ谷宿に変更して宿泊後、京へ向かいました。 幕府も幕閣で話し合いがもたれたが、結論が出ず、イギリスとの交渉も進展せず、翌年2月、イギリスはクーパー提督率いる艦隊を横浜沖に派遣し、煮え切らない薩摩、幕府に対して(1)十分かつ正式な謝罪、(2)日本政府は謝罪のため10万ポンドを支払う、(3)薩摩藩に対し主犯の処刑と2万5000ポンドの支払いを要求しました。 |
| ようやく4月に幕府がイギリスと約定を結び、5月には賠償金を幕府が支払うことになりました。しかし、幕府やイギリスの再三の抗議にもかかわらず、犯人引渡しや賠償にも当時、攘夷(じょうい)運動の中心であった薩摩藩は応じませんでした。そこで6月、イギリス艦隊は鹿児島へ来航、示威行動をとりました。7月、薩摩藩が攻撃を開始して薩英戦争となりました。薩摩藩は敗れましたが、その後、薩摩藩は開国、対英接近の方針に転じ、幕末にはイギリスと結び倒幕運動の中心となっていきました。このように生麦事件は、薩摩藩を倒幕派の中心として転換させる契機となる薩英戦争の原因をなした事件でした。 生麦事件の碑は、明治16年(1883)に鶴見の住人、黒川荘三が当地で起こった生麦事件を記念して、生麦事件の被害者リチャードソン落命の地に遭難の碑を私費で建立したものです。撰文は中村敬宇(中村正直、東京大学教授)。 所在……鶴見区生麦1−16−2 交通……京急生麦駅徒歩10分 |
| 道志(どうし)川と相模川を水源とする浄水、配水場で、市民の使用量の約3分の1を供給しています。 日本最初の近代的水道は、明治20年(1887)に完成したイギリス人パーマーによる横浜の上水道でしたが、その後、増加した横浜の人口に対応するため、横浜水道第2次拡張工事により、大正4年(1915)に西谷浄水場が完成しました。このときの水量調整用のレンガ造の浄水室6基が記念に保存されており、場内には、横浜市の近代水道の完成まで道のりや水道の管理、運営をテーマに展示された横浜水道記念館と水道の技術的な資料の整理保存と技術の移り変わりを展示した水道技術資料館があります。 記念館の脇には、パーマーの水道が完成したときに横浜駅(現在の桜木町駅)前に設置されたイギリス製の噴水を展示しています。 |
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| 水量調整用のレンガ造の浄水室6は、公園風に整備された浄水場のほぼ中央に位置しています。 整水室は、濾過池の水を浄水管で配水池に送る施設で、濾過池に対して1基ずつ造られています。上屋は内法10フィート角の正方形平面で、花崗岩切石の土台にレンガ一枚積で外壁を造り、銅版葺の特異な宝形屋根をかけた小さいながらも建築として完結したレンガ造の上屋です。 また、濾過池の東に配水池が配され、浄水井上屋と配水井上屋が設けられています。4基の整水室上屋の東西軸線に建つ八角形のレンガ造の上屋で、平面が八角で規模は一回り大きいものの構造及び意匠は整水室上屋と共通です。 昭和48年の近代化工事で上屋6基は機能を終えましたが、一帯は幾何学的な庭園風のまま保存され、西谷浄水場のかつての姿を象徴しています。 所在……保土ヶ谷区川島町522 交通……相鉄線上星川駅徒歩20分 |
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文久元年(1861)、山手地区に設置された横浜外人墓地が手狭になり、拡張する土地もなかったことから居留外国人より、新しい墓地の開設が要望されました。明治13年9月30日、明治政府により、根岸村字中尾の地に新設することが認められましたが、墓地の管理問題や立地が不便だったこともあって、本格的に使用され始めたのは明治35年(1902)、横浜市に管理が委託され始めた以降と考えられています。 |
| この墓地は第2次大戦後、接収されていたとも言われていますが、記録類が消失したため正確なことはわかっていません。こうした中、現在1200有余人の外国人が埋葬され、墓碑は160基ほどが確認されています。また、外国人船員、関東大震災罹災者および第2次大戦後に埋葬された幼児など、埋葬者が不明なものも多く、著名人では、関東大震災で亡くなったアメリカ領事キリヤソフ夫妻、世界一流の音楽家を日本に紹介したイギリス人のストローク氏(1965年没)が埋葬されています。 また、記念碑としては、横浜市が建立した「外国人震災慰霊碑」があります。 所在……中区仲尾台7 交通……JR山手駅徒歩3分 |
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日本で最初に競馬を行ったのは居留外国人で、文久元年(1861)現在のJR桜木町駅前の弁天橋の対岸だったといわれています。しかし、翌年に生麦事件が起こると、イギリス人などが損害賠償の1つとして競馬場を造るよう幕府に要求しました。この結果、現在の中華街を囲む地域に競馬場が設けられ、同年には第1回横浜ダービーが行われましたが、翌1863年には廃止され、現在の中区大和町から港の見える丘公園にあったイギリス軍20連隊練兵場で競馬が再開されました。この様子は、チャールス・ワーグマンの漫画集「ジャパン・パンチ」に描かれています。 |
| その後、慶応3年(1867)、日本最初の近代競馬場である根岸競馬場が造られました。外周約1768メートル、幅29メートルと63メートル四方の馬見所(スタジアム)が設けられました。昭和4年(1929)には鉄筋コンクリートの新スタンドも建設され、最盛期を迎えました。しかし、太平洋戦争が起こると、1942年10月の秋季公認競馬を最後に翌年、閉場となり、海軍に徴用され、80年近い歴史の幕を閉じました。戦後は、アメリカ軍が駐車場に使ったり、9ホールのゴルフ場を造りましたが、1969年に返還され、横浜市はここに14万1000平方メートルの森林公園を造成しました。1977年には根岸競馬記念公苑が造成され、馬の博物館やポニーセンターも併設されました。 所在……中区根岸台1−3 交通……JR根岸駅・桜木町駅から市営バス21系統滝の上下車徒歩1分 | ![]() |
| 参考資料 | 「横浜散歩 24コース」 山川出版社刊 神奈川県高等学校教科研究会 社会科部会歴史分科会編 「都市の記憶・改定第3版」 横浜市教育委員会文化財課 横浜市都市計画局都市デザイン室編 「長屋門公園」パンフレット |
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