
日枝神社、平沼神社
豊顕寺、宝生寺、元町公園
六ツ塚、横浜市八聖殿郷土資料館
横浜天主堂跡、横浜プリンスホテル貴賓館
横溝屋敷
| 祭神に大山咋命(おおやまくいのみこと)と宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を祭る日枝神社は、正しくは山王社稲荷社と称します。 摂津出身で、江戸で材木商を営んでいた吉田勘兵衛良信が、横浜の野毛、太田、中村などに囲まれた釣鐘型の湾(大岡川河口)の埋め立て工事を明暦2年(1656)に始め、途中、大雨の被害で失敗しながらも再開し、寛文7年(1667)に現在の伊勢佐木町をはじめとした南区に渡る市街地部分に116町余りの完成に当たり、江戸の山王権現を勧請し、新田住民の守護と五穀豊穣を祈願し、寛文13年(1673)9月10日に社殿を建立しました。 また、稲荷神社(旧稲荷社)は昭和52年6月25日、日枝神社と合祀し、社殿の一部は神楽殿に改装されました。社職として、角井識部尉藤原重勝が初代神社主となり、その家筋が330年余に亘って現宮司を勤めています。社宝として、寛文13年9月10日に吉田勘兵衛自らが寄進した獅子狗1対の他、昭和9年に氏子が寄進した大神輿と神輿車があります。 所在……南区山王町5−32 交通……市営地下鉄吉野町駅徒歩5分 |
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平沼家は、常陸(茨城県)の出身で、明暦年間(1655〜1658)に保土ヶ谷宿に移って代々、造酒業を営んでいましたが、天保10年(1839)9月5日、五代目平沼九兵衛が、平沼新田と名づけられた現在の平沼1、2丁目、西平沼辺りの埋め立てを始めました。平沼神社は、その守護神として創建され、もとは水天宮と称しましたが、明治の初年に平沼神社と改称し、村社に列せられました。 言い伝えによると、この新田の住民の多くは、製塩業に従事していましたが、ある日、その1人が海水取り入れの水路に水天宮の御札(御霊)が流れ着いているのを拾い上げ、これを地主の九兵衛が神の啓示とその場所(今の平沼橋の辺り)に祠を造って水天宮を祭ったのが始めでした。 |
| 七代目九兵衛のときに埋め立て事業は完成しましたが、丈久3年(1863)、七代目九兵衛が20歳のとき平沼新田に移住し、新田開発の傍ら、製塩業を営み、明治に入っても新田の築造は続けました。 その後、市街の開発によって、3度も境内を変え、大正2年(1913)に現在の地に社殿を造営し、現在に至っています。 水天宮は「水徳の神」として安産や水難、火災除けに霊験があるとされることから、大正12年9月1日の大震災に周囲は猛火に包まれましたが、奇跡的に難を逃れと言われ、また昭和20年5月29日の横浜大空襲でも災を免れています。 大祭は、9月5日に催されますが、正月5日の「湯の花神事」(湯立行事)は特に有名です。神主が大釜の熱湯に浸した笹葉をもって参詣人の頭上に振りまき、この熱湯を浴びた者は、その年の無病息災が約束されるといわれています。祭神は天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)と安徳天皇です。 所在……西区平沼2−8 交通……相鉄線平沼橋駅下車1分 |
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法照山豊顕寺は、法華宗陣門流総本山本成寺末の寺院です。三河国多米(ため)村(現在の愛知県豊橋市多米町)の郷士で、伊勢新九郎長氏(北条早雲)に重用された多米元興(ためもとおき)は、先祖供養のため、永正12年(1515)多米村に本顕寺を建立しました。元興の父・元益は、伊勢七騎の一人でした(伊勢氏は後に北条氏と称します)。元興は、天文年間(1532〜1555)北条氏が関八州(かんはっしゅう)を領有していたころ、青木の地に城砦を構えていましたが、後に連信斉と名乗り、三ツ沢のこの地に隠棲し、本顕寺を移して豊顕寺と改称しました。元興の没後、その子・長宗は、青木城を領し、元興の隠棲の地を当寺に寄進し、堂宇を造営したので、地方にはまれな巨刹となったのです。 |
| 享保5年(1720)、本宗の檀林(だんりん)として学舎5棟、学寮25棟を建設し、開講式を挙行しました。学徒は300人を下らぬ盛況を極めた、といいます。その後も再建、増築をし、広大な規模になりましたが、明治期になり火災による焼失、大正期の地震による倒壊によって檀林は廃絶しました。 境内には、鷲津(静岡県)の本興寺から根分けした藤を記念した碑が藤棚の下にあり、また、江戸から保土ヶ谷宿に来宿し、宿内の人々に歌学を教授した山平伴鹿の歌碑があります。宝篋印塔と五輪塔などからなる多米家歴代の墓は境内左側にあります。 所在……神奈川区三ツ沢西町16−1 交通……市営地下鉄三ツ沢上町駅徒歩5分 |
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宝生寺は、真言宗の寺院で、山号を清竜山(せいりゅうさん)、院号を宝金剛院(ほうこんごういん)と称し、本尊に大日如来像を祭っています。寺伝によると、承安元年(1171)民部卿大僧都覚清(かくせい)法印が創建し、開山は康暦2年(1380)入寺の覚尊(かくそん)と伝えられています。覚尊は、応永16年(1409)に京都の仁和寺の闕坊(けつぼう)宝金剛院を当寺の院号に請い、許されて、末寺52か寺を擁する地方有数の大寺院に発展させました。 当寺は、久良岐(くらき)郡平子(たいらこ)郷を支配した武士団で平子氏と関係が深かったようで、3世圓鎮(えんちん)は平子氏の出でした。文明年間(1469〜87)には真言宗の学問僧堂の談義所の一つに数えられ、その後、関東真言の学林として太田道灌(どうかん)や小田原の北条氏の庇護を受けました。江戸幕府からも朱印10石を拝領し、慶長14年(1609)に伊豆、相模、武蔵3カ国古義真言宗法談所34院の1つに定められ、末寺50余寺を擁する本山でした。 |
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明治7年(1874)に本山を横浜元町の増徳院に移されて、末寺となり、次第に寺勢は衰えました。桁行5間、梁間5間、方形造、桟瓦葺の本堂は、延宝8年(1680)建立の灌頂堂を現在地に移築したもので、もとは茅葺でした。内部は前面入側を外陣とし、内陣との境に結界を設けています。本尊の大日如来座像(県重文)は鎌倉後期の作で、慶長6年(1601)に鎌倉の覚園寺から移されたものです。当寺には約1000点の古文書が所蔵され、嘉吉2年(1442)の「横濱村薬師堂免田畠寄進状」の文書は、「横濱」の地名を初見する最古の文書として貴重な存在です。 | ![]() |
| 宝林寺の寺林は、タブノキ、スダジイ、シラカシなどの神奈川県の主要な常緑樹によるまとまった林相が維持されています。 商店街や住宅密集地の中にあって、これほど自然度の高い樹林が残されているのは、現在の奇跡といえるほど珍しいことです。県民の科学的研究や自然教育の場として、また自然の記念物として将来に渡って保存される価値の高いものです。 所在……南区堀ノ内町1−68 交通……市営地下鉄吉野町駅徒歩15分 |
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横浜外国人墓地に隣接した公園で、開港当時、フランス人のジラールがここから湧く清水を外国船に売ったことから「水屋敷」とも呼ばれました。また、ジラールはこの地に工場を建て、フランス瓦などの製造、販売も行いました。緑の豊かな園内には、プール、弓道場、エリスマン邸、山手80番館の遺構、塗装発祥之地記念碑、大正映画撮影所跡碑などがあります。 所在……中区元町1−77−4 交通……JR石川町駅徒歩15分 |
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元久2年(1205)6月19日、鎌倉の北条時政から急ぎ、鎌倉に出頭せよ、との命を受けた畠山重忠は、菅谷の館(埼玉県比企郡)を発し、鶴ヶ峰に差し掛かるや、思いもかけず、帷子川を越えたかなたの大地(万騎が原)に数百騎の軍勢の攻められました。待ち伏せしたのは、牧の方(北条時政の後妻)と稲毛重成の謀略により、出陣した北条義時の率いる軍勢でした。重忠は、策にかかったことを知りましたが、武士としてここが決戦の場と覚悟しました。このとき重臣の1人がひとまず菅谷の館に引き返し、軍勢を整えて鎌倉方を迎え撃つように進言しましたが、重忠は「そのようなことをすれば、全く無実の我らに陰謀があったことが事実となり永久に汚名を着ることとなる」と、諭し、22日、牛の刻(正午)より数時間にわたる激戦の果てに愛甲三郎季隆の矢に当たり、遂に一族郎党134騎とともに討ち死にしました。重忠はこのとき42歳、この地に主従一同と6箇所に葬られたことから、六ツ塚と呼ばれています。 所在……旭区鶴ヶ峰本町1071薬王寺内 交通……相鉄線鶴ヶ峰駅徒歩13分 |
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本牧八王子の丘に建つ八聖殿は、熊本県出身の政治家で、逓信(ていしん)・内務大臣を歴任し、立憲民政党総裁であった安達謙蔵が建立しました。 法隆寺の夢殿を模した三層楼八角形の建物は、私財を投じ浄財を募り、昭和8年(1933)11月に完成し、同年2階講堂の演壇中央に神鏡を掲げ、右に聖徳太子、弘法大師、親鸞、日蓮、の四聖人、左に釈迦、孔子、ソクラテス、キリストの4聖人の彫像を祀りました。 昭和12年(1937)、横浜市に寄贈され、建物の周辺一帯は本牧臨海公園となり、市民の憩いの場として整備されました。 昭和48年(1973)、「横浜市八聖殿郷土資料館と、改名され、市民に郷土の歴史を伝える資料館として、幕末から明治にかけての本牧、根岸の写真や市内で使われていた農具や漁具を中心に展示されています。 平成4年(1992)、財団法人横浜市ふるさと歴史財団へ管理運営が委託され、現在に至っています。 |
| 八聖殿建立当時、周辺は海辺の絶景地として愛された場所でしたが、昭和34年(1959)から昭和46年(1971)にかけて実施された根岸湾の埋め立てにより、周辺の姿や暮らしの様子は大きく変化しました。資料館1階では、この埋め立てによって失われた漁業の姿を、この地域で収集した漁撈(ぎょろう)具を中心に展示しています。 また、農業も時期を同じくして進んだ開発により変貌を遂げましたが、市域で収集した農具や生活用具により、開発以前の生活の様子を2階に展示しています。 所在……中区本牧元町76−1 交通……桜木町駅から市営バス8、26、105、106系統「本牧市民公園前」また「本牧車庫」徒歩7分 横浜駅から市営バス8、125系統「本牧市民公園前」徒歩5分 根岸駅から市営バス54、97系統「本牧市民公園前」徒歩5分 磯子駅から市営バス58、99系統「本牧市民公園前徒歩5分 開館時間……午前9時30分から午後4時 休館日……毎月第3水曜日、祝日の場合は翌日、年末年始(12月28日から1月4日) 問い合わせ……045−622−2624 |
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横浜天主堂は、文久2年(1862)、パリ外国宣教会派遣のフランス人神父ジラールによって、居留地80番に建てられたカトリック教会でした。長崎の大浦天主堂より2年余り早く、開国後に設立されたキリスト教会としては、日本で最も古いものでした。居留地に住む外国人のための教会でしたが、入り口にマリア像を掲げた石造りの教会堂は、日本人には「フランス寺」と呼ばれ、珍しがられました。 まだ、日本人には厳しいキリスト教禁制が行われており、文久3年(1863)、教会堂を参観に来た日本人55人が神奈川奉行所に逮捕されるという事件まで起こりました。 |
| 明治6年(1873)のキリスト教解禁以降は信者も増え、フランスから来日したサン・モール会の修道女による女子教育事業も順調に発展しました。 1901年、火災によって被害を受けた天主堂は、1906年、カトリック山手教会として山手44番に移転しました。 近年まで横浜天主堂跡として本町通に面して純白のキリスト像や石碑が建てられ、親しまれていました。マンション建設によってわずかに位置が動いたものの、再びキリスト像と石碑が建てられ、往来の激しい本町通りで親しまれています。 所在……中区山下町80番 交通……みなとみらい線元町・中華街駅徒歩0分、JR石川町駅徒歩12分 |
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横浜プリンスホテル貴賓館は、戦前の一級別荘建築として横浜を代表する建築物に数えられています。欄干や柿色に葺いた屋根などの外観は和風を感じさせるものの、内観は大理石の階段やイスラム風の天井など、一転して洋風の意匠が施されています。 昭和12年に東伏見宮邦英王殿下の別荘として、施工は竹中工務店、費用は100万円で建設されました。昭和20年から26年まで、終戦連絡事務局長の鈴木九万氏官邸として使用されたり、またGHQやフランスコミッションがわずかの間、用いました。接収解除後の昭和29年10月1日、横浜プリンス会館として食堂7部屋、客室4部屋で開業、昭和35年9月、横浜プリンスホテル新館開業とともに1階はスモーガスボード(食べ放題)のレストランとして、2階は小宴会場として営業されました。 |
| 昭和39年1月にはアメリカ合衆国第7艦隊のレセプションに用いられ、昭和44年には1階部分を改装し、名称をゲストハウスとして会員制ラウンジと和食堂として営業されました。昭和62年1月31日付で休業されましたが、平成2年5月17日、横浜プリンスホテル開業に伴い、予約制の宴会場である貴賓館として営業を再開しました。平成5年8月には、横浜市認定歴史的建造物に認定されています。 貴賓館は、昭和の変遷を磯子の丘から見つめ続けるとともに、三島由紀夫の著書に取り上げられ、植木等主演の「無責任シリーズ」にも登場するなど文化面でも注目され、現在でも外国人が見学のため訪れるなど歴史的魅力にあふれる建物です。 所在……磯子区磯子3−13−1 交通……JR磯子駅徒歩10分 |
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横溝家は、16世紀末の慶長年間から獅子ヶ谷村の名主を勤めてきた家です。名主の身分は百姓で、名主という呼び方は関東地方のもので、関西では庄屋、北陸・東北では、肝いりといいました。 横溝家の初代の名前は五郎兵衛といい、代々この名前を継ぐ慣習がありました。江戸時代には村人と力を合わせて鶴見川周辺を開墾して水田にしたり、谷間に溜池を造ったりしました。明治になると、横浜港から輸出される生糸やお茶の生産を始めました。主屋の2階ではさかんに養蚕が行われました。 |
| 獅子ヶ谷村は、古くは師岡郷といい、文禄13年(1594)の文書に「師岡の内鹿ヶ谷」と見え、獅子ヶ谷村は師岡村から分村したように記録されています。 こうした獅子ヶ谷村の地名の由来は、熊野権現の獅子舞を受け持ったことに由来すると伝えられています。村の戸数と人口の移り変わりは、文政10年(1827)は38軒226人、安政2年(1855)39軒244人、明治3年(1871)では42軒278人でした。村の石高(こくだか・米の量)は正保年間では244石余、元禄では271石余、天保・明治元年では309石余と記録されています。1石は、一升瓶100本分の量となります。 |
| 横溝屋敷は、表門である長屋門、主屋、蚕小屋、文庫蔵、穀蔵からなる屋敷構えが江戸時代の農村生活の原風景を残した貴重な文化遺産で、こうした、古民家の保存と活用を図る目的で、横浜市農村生活館「獅子ヶ谷横溝屋敷」として平成元年(1989)から一般公開されています。横溝屋敷は昭和61年度に屋敷内5棟の建物が横浜市に寄贈され、教育委員会では直ちに平成元年度までの事業として建物の修復工事等の文化財整備を行いました。 昭和63年11月には、横浜市文化財保護条例に基づき、指定文化財第1号にこれらの建物が指定されました。復元された建物の中には、当時の農村生活資料を展示され、各種文化活動や農村の年中行事などの生活体験の場として広く活用されています。 所在……鶴見区獅子ヶ谷3−10−2(みその公園) 交通……JR鶴見駅から川崎鶴見臨港バス3系統で神明社徒歩8分 |
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| 参考資料 | 「横浜散歩 24コース」 山川出版社刊 神奈川県高等学校教科研究会 社会科部会歴史分科会編 横浜市八聖殿郷土資料館パンフレット 獅子ヶ谷横溝屋敷パンフレット |
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