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市街地の歴史

 安政六年六月二日(西暦一八五九年七月一日)開港し、急速に発展した横浜でしたが、慶応二年十月二十日(一八六六年十一月二十六日)の大火で日本人街三分の一、外国人居留地四分の一を焼失してしまいました。
 横浜は都市計画を見直され、海岸通りと日本大通りには整然とルネサンスやバロック様式の銀行や官公庁が建ち並びました。
 重厚なルネサンスやバロック建築が建ち並んだ理由は、19世紀末から20世紀初頭の建築技法は、大地震等の建築災害に対し、ヨーロッパ渡来のレンガ造から鉄筋レンガ造を経て、鉄筋コンクリート、そして日本独自の鉄骨鉄筋コンクリート構造が確立する急激な変革期でした。
  鉄筋コンクリート工法は、明治二十八年頃、日本に紹介されており、三十六年には、浅野セメントが廻転窯を使ったセメントの量産を始めています。
 東京大学では、三十六年に鉄骨構造、三十九年には鉄筋コンクリートの講義が開講されました。
 一方、諸外国の建築デザインは、依然としてネオ・クラシシズムやネオ・バロック様式の銀行や図書館、役所、駅舎、学校が建てられていました。

 こうした時代に、横浜中心部の建築物の設計を依頼された遠藤於菟(えんどう おと)や妻木頼黄(つまき よりなか)を始めとした建築家達は、諸外国から学んだ建築技術と生糸産業にわく建築主の思いを巧みに融合させ、今日もなお、海岸通りや日本大通りなどの市街地で活躍を続ける建築物、あるいはその設計の基礎を手がけたのです。

 こうして整備された横浜の中心部も大正十二年(一九二三)の関東大震災で壊滅しましたが、震災に耐えた建築物や、倒壊後、再建し、面目を一新したもの、また、築後、70数年を経過し、老朽化によって改築しながらも旧観を忠実に復元したものもあります。
 「西洋建築を訪ねて」では、こうした震災や、昭和二十年の横浜大空襲を乗り越え、今なお現役で活躍し続ける建物や旧観に復しつつ、新しい時代に即した活用をされている建築をご紹介します。
 バロック建築に求められた重厚な量感、ドラマチックな表現、豊かな装飾、光と錯視を利用した無限感の演出も、生糸貿易で潤い、日露戦争後、急速に発展した横浜商人達に受け入れられるよう、建築家の手により、巧みに「調和」がはかられました。

 こうした理由により、「西洋建築を訪ねて」では、存在感あふれる建物とその背景を紹介する「海岸通り紀行」「日本大通り散策」、そして珍しい外装を訪ねる「外装拝見」の3つのコースに分けました。

  3つのコースに共通した建築物もありますので、必要に応じてお楽しみ下さい。


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「日本大通り散策」タイトルバナー

「外装拝見」タイトルバナー