いんっでくす

善了寺清源院
内田本陣・沢辺本陣問屋場
羽黒神社海蔵院八坂神社高札場
富塚八幡宮上方見附跡

善了寺

善了寺  大東山(だいとうさん)宝林院善了寺は、浄土真宗本願寺派の寺院で、古くは和泉村(現在の泉区)にあり、真言宗の寺院でしたが、天福元年(1233)親鸞聖人60歳のとき、江戸・麻布の善福寺了海の弟子、了全が浄土真宗に改めました。そのため、当寺は了善が開山となります。その後、檀家が領主の強制により、浄土宗への改宗を命じられ、残った篤信の門徒により、細々と維持される名ばかりの寺院となってしまいました。
 了全の開山から300年ほど後、武田信玄の家臣、大久保伊豆守信唯(のぶゆい)が紀州に赴任したとき、本願寺第十一世顕如(けんにょ)上人と会い、法弟となり、釈了唯(りょうゆい)と改め、号を洞庵と名乗りました。この了唯が、衰微していた当寺を訪れた際、現在の地に移し、再興したのです。
 慶応3年10月12日(1866)の矢部町の大火で本堂、石坂右上の太子堂及び庫裡を全焼し、鐘楼のみが残りましたが、明治2年に再建されました。モダンな白壁の本堂は、昭和30年(1955)に再建されたものです。

 道なりに進み、「戸塚駅東口」の信号を過ぎ、踏切を渡った「清源院入口」の信号の少し手前を右へ入ると、清源院があります

清源院

清源院1  清源院は、京都の総本山知恩院の末寺で、南向山長林寺と称します。
 源頼朝の家臣・安達籐九郎盛長の一族で長林なにがしの草創と伝えられ、元は、獅子王山長円寺と称していましたが、戦国時代以来、廃絶していました。
 その後、徳川家康の側女・お万の方によって、元和6年(1620)に開基されました。お万の方は、元和元年、四十余歳で家康の許を辞し、彦坂小刑部元正(ひこさかこびょうぶもとまさ)に預けられ、岡津の草庵(現在の西林寺といわれています)に閑居していました。
清源院2・お万の方火葬の地
 元和2年、家康が病に伏したことを伝え聞いたお万の方は、駿府城に参上したところ、家康はことのほか喜び、後白河法皇勅願で安阿弥作の阿弥陀像一体を下賜しました。
 家康が他界した後、この阿弥陀像を安置するため一寺を創建しようと勝地を求めていたところ、お万の方は偶然、当地を得たので、当寺を創建し、阿弥陀像を安置し、小石川の伝通院の四世、白誉聞悦上人(びゃくよもんえつしょうにん)を戒師として尼となり、当山の開基となりました。院号の清源院は、お万の方の法号「清源院殿閑誉理祟大禅定尼(せいげんいんでんかんよりそうだいぜんじょうに)に依ったものです。 
 お万の方が安置した阿弥陀像は、現在の本尊の歯吹阿弥陀如来像で、毎年、八月十八日の御施餓鬼会に開帳されています。また、墓地の最上部に、安政15年(1858)建立のお万の方の火葬の地の碑があります。
 境内には、芭蕉の句碑「世の人の見つけぬ花や軒のくり」や、この寺の井戸で心中した戸塚の薬屋大島屋亦四郎(またしろう)の子で18歳の清三郎と、同じ戸塚の伊勢屋清左衛門抱(かかえ)の飯盛(めしもり)で16歳のヤマの慰霊のために、当院22世躍誉上人が建てた心中句碑があります。

 清源院を過ぎ、繁華街を進み、「バスセンター前」の信号を渡り、戸塚郵便局のある辺りに内田本陣がありました。
 また、この先の戸塚消防署の先に沢辺本陣がありました。この二つの本陣の中程に問屋場(といやば)がありました。

内田本陣・沢辺本陣

 本陣は、勅使(天皇の意思を幕府に伝えるために派遣される特使)、皇族、貴族、院使(朝廷からの使者)、門跡(寺院に住まいする皇族)、公卿(朝廷の高官)、参勤交代の大小名、駿府、大坂、二条城の御番衆、所々目付などの公用の武家、日光例弊使、その他諸侯衆、老職(幕府で、大老・老中などの職。また、大名の家老など)の他、将軍家に献上する馬、鷹、茶、備後畳表及びその従者の宿泊を目的とする施設でした。 
 したがって、一見して他とは異なる格式を備え、門、玄関、上段の間を構え、200坪前後の規模をもつものが多かったとされています。
 大小名の参勤交代の行列が宿泊する際には、領主は料理人を連れて旅行をしていましたので、必要な食器、調理器具一式、生活用具一切まで持参していました。また、身の回りの世話は全て側近が当たるので、本陣側は、その建物を提供し、家人は、勝手居住の間に控え、専ら従者の指図に従って働きました。
 こうしたことから、本陣では日常の使用人は、下男1人、手代1人、下女2〜3人に過ぎなかったのです。
 大名の宿泊料は、木銭に、あとは心付けとして多少の金子が支払われるだけで、ときによると扇子一本があくまで下賜の形で与えられるだけでした。
 幕府道中方から支給される本陣下通金はわずかなもので、本陣としての体面を保つためには非常に苦しい経営でした。
 宿場の本陣は折り目正しい家柄であり、脇本陣のように株を売買したり、飯売り女をおいて客引きを行うわけにはいかず、世の変遷に連れて、「本陣ほど無益なる物今はなし」と、言われるほどに衰え、代々所有の田地・山林を手放し、半漬に瀕する家もありました。
 本陣の仕事内容は、本陣としての旅籠業務全般の他に、松並木の手当や雪の取り方付、橋の架け替えなどの街道の維持、宿全体の火の用心、不審火の探索、人相書きや盗品・紛失物の手配、行き倒れ・病人・変死人の検死や立ち会い、無銭飲食・家出人・ケンカの仲裁、旅行手形の発行、勧化願や祭礼の世話、質地や借金の保証人、家督相続、山論地論の仲裁、宗門人別帳認めと上納、溜井普譜、堀凌え、田場水引などの農作物の差配、年貢収集と上納、本陣家作の手入れや召使い男女の任免から毎秋に大量に購入され、幾樽にも漬け込まれて一膳飯に添えられるであろう沢庵大根の手配に至るまで、名主業務と重複して非常に多岐に渡っていました。
 こうした本陣の起こりは、1363年、足利義詮が上洛のとき、その旅舎を本陣と称して宿札を掲げたことに始まる、といわれていますが、その職能をより発揮し始めたのは、参勤交代制が実施された寛永12年(1635)以降の元禄期にかけてであろうと推測されています。
 旅舎に充てられた本陣職を勤めた家は、先祖が戦国武士団の系譜をひき、その土地の有力者である場合が多かったのですが、彼らが武士団の依頼に応じて宿泊の用を勤めたことに始まり、やがては大名達の定宿になっていったといわれています。
 本陣職という名称は、武家は常に軍旅にあるという心構えで生活しており、その主人のいるところは、常に本陣である、という意味から転じたものなのです。

問屋場

 江戸時代の村々には、領主、代官との折衝や村政の運営を円滑にするために名主(あるいは庄屋)、組頭(あるいは年寄)百姓代と呼ばれる村役人がおかれていました。
 同じように、宿場の運営を円滑に行うために、宿役人がおかれ、業務を行うためにつめていたのが問屋場でした。
 問屋場では、江戸と各地の間に送付される幕府の書状の継立(つぎたて)や参勤交代の大名行列が通過する際に、周囲の助郷村々から動員された人足、馬の差配を取り仕切るなど、宿場の運営上、最も重要な施設であり、街道に面した宿域の中心におかれることが多かったようです。
 また、宿場の規模によっては、問屋場は一つではなく、複数、存在していることも珍しくありませんでした。

 沢辺本陣の脇の小径の入口に「明治天皇行在所(あんざいしょ)・休泊地の碑」が建ち、この小径を入って行くと、羽黒神社があります。

羽黒神社

 羽黒神社の祭礼は8月17日に近い日曜日と11月17日で、湯花神楽神事(ゆはなかぐらしんじ)、浦安の舞が奉納されています。もと神社前にあった橋柱が境内に残っており、この橋柱の四面に戸塚宿内の宿名(上宿、中宿、台宿、天王宿、田宿、八幡宿)が刻まれており、当時の町割りを窺うことが出来ます。
 ちなみに清源院は上宿、内田本陣は中宿、沢辺本陣は台宿、八坂神社は天王宿にあり、日立製作所入口から先を田宿、富塚八幡宮から上方見付までを八幡宿と呼んでいました。
羽黒神社

 更に繁華街を進み、戸塚消防署を過ぎたすぐ右に海蔵院があります。

海蔵院

海蔵院  海蔵院は、臨済宗の寺院で、山門の横には、遍照金剛と刻まれた木食観正(もくじきかんしょう)碑(文政4年・1821)があります。山門の上部には、左甚五郎作と伝えられている龍の彫刻が掲げられています。
 本尊は釈迦如来で、堂内には薬師如来、聖観音菩薩、十一面観音菩薩、もちあがり地蔵が安置されています。墓地には、寺子屋師匠・古帆(こはん)禅師の筆小塚(正保2年・1645)、俳人志行の墓(寛政5年・1795)、旅の途次、戸塚宿で没した藩士の墓などがあります。
 左甚五郎
 江戸初期の建築彫刻の名人。日光東照宮の「眠り猫」などを彫り、多くの逸話で知られるが、伝説的人物と考えられる。一説に播磨生まれ、高松で没した宮大工、伊丹利勝(15941651)を指す。

 海蔵院を過ぎ、更に進むと、右側に八坂神社があります。

八坂神社

 通称、お天王さまと呼び親しまれている八坂神社の境内には、稲荷社、詠大御祭歌碑(文政10年・1827)、御正体出現之碑(文政10年)、明治天皇東幸碑(明治38年)が建てられています。祭日の7月14日に行われる「お札まき」は、横浜市指定無形文化財に指定されています。
 「お札まき」は、女装してタスキをかけた男子10人の踊り手が、島田髷のボテカツラをかぶり、着物の裾を短く着て、右手にウチワを持ち、音頭に合わせて歌い、翁面をつけた大幣(たいへい)を持つ人先頭にしたがって町内を歩き、町の各所で五色のお札をウチワで煽って天に舞わせるのです。
 昔は、この祭日までに田仕事を終え、周辺各地の農村から多くの人が集まり盛大でした。今も夜店などが多く出て、賑わいを見せています。
八坂神社

 この八坂神社前に高札場がありました。

高札場

高札場(神奈川宿)  高札場は、幕府や領主が定める最も基本的な法令を書き記した木の札(高札)を掲示した施設で、江戸時代6万を越える全国の村々に全て設けられていました。高札は、人の目の高さよりはるかに高い位置に掲げられ、人々は見上げて高札の文言を読まなければなりませんでした。
 それは、幕府や領主の権力の象徴を見上げる、という行為によって、無意識に畏敬の念をもつように計算されていたためです。
 そのため、高札場は多くの人の目に触れるように村の中心や主要な道が交わる交差点といった人通りの多い場所に設置されていました。
(右の画像は、神奈川宿跡に復元された高札場です。)

 八坂神社の前の道は、鎌倉道のの分岐点でした。以前、この分岐点に建てられていた鎌倉道道標は、「八坂神社前」の信号を左に曲がり、日立製作所前にある「戸塚区役所入口」の信号に移されています。
 「八坂神社前」の信号に戻り、更に進むと、「戸塚町」交差点の前に富塚八幡宮があります。

富塚八幡宮

 平安時代前期の康平5年(1062)、「前九年の役」平定のため、源頼義と義家が奥州に下る途中、富塚の森で露営をしたおりに、応神天皇と富属彦命のご神託を霊夢によって授かりました。その加護によって戦功を立てられことに感謝し、延久4年(1072)、富塚山中腹に社殿を造り、両御祭神を祭ったのが富塚八幡宮の始まりとされています。
 境内山頂には、前方後円墳があり、富属彦命の墓とされています。この塚を富塚と称し、やがて「とづか」となり、現在の「戸塚」になったと言われています。こうしたことにより、富属彦命は、戸塚に住む人々の守護神、産土神(うぶすな)として崇敬を集めているのです。
 現在の本殿は、天保11年(1840)に、拝殿は昭和9年(1934)に再建されました。
富塚八幡宮
 このように戸塚を代表するにふさわしい由緒ある神社であることから、明治6年には戸塚を鎮守する神社(郷社)に列せられましたが、これは現在の戸塚、泉、栄、瀬谷区を合わせた唯一の郷社となります。
 境内には、嘉永2年(1849)に当地の俳人達によって建てられた松尾芭蕉の「鎌倉を生きて井でけむ初松魚(はつかつお)」の歌碑や稲荷大神を祭った正一位玉守稲荷社があります。

 富塚八幡宮を過ぎ、200メートル先の「大坂下」のバス停の前に、道路を挟んで、上方見附跡があります。

上方見附跡

上方見附跡  東海道を始めとする主要な街道の宿場の出入口には、街道を挟み、見附(みつけ)と呼ばれる構造物がありました。
 一般に、江戸側の出入口にあるものを江戸見附、京(上方)側にあるものを上方見附と呼んでいました。この江戸見附と上方見附の間が宿場の範囲となったのです。
 旅人達は、この上方見附を後にし、戸塚宿を出ると、急な一番坂、二番坂と名づけられた大坂を経て、藤沢宿へと向かったのでした。

「戸塚・宿駅制度の足跡」は、これで終わりです。
 徒歩でJR戸塚駅、市営地下鉄戸塚駅へ戻ります。

参考資料 「横浜散歩 24コース」 山川出版社刊
  神奈川県高等学校教科研究会
  社会科部会歴史分科会編
「東海道・保土ヶ谷宿とまちづくり」
  東海道倶楽部編
「歩く・知る・発見する 東海道ウォーキングマップ
  神奈川東海道ルネサンス推進協議会編
「歩く・知る・発見する 東海道!STEP2
  保土ヶ谷宿・戸塚宿・藤沢宿」
  神奈川東海道ルネサンス推進協議会編
「とつか歴史ろまん探訪あんない10コース」
  戸塚区役所編
「戸塚の神社・仏閣を訪ねて」
  ケーブルテレビシースリーヨコハマチャンネルガイド
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