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中華街の成り立ち中華街へ
西陽門延平門(西門)牌楼豆知識善隣門
玄武門(北門)朝陽門(東門)横浜媽祖廟朱雀門(南門)
関帝廟孫文と蘇曼殊の碑中華義荘

中華街の成り立ち

中華街イメージ1 中華街の歴史は、1859(安政6)年の横浜開港と同時に始まりました。
 当初、買弁(ばいべん)と呼ばれる欧米人と日本人との貿易の仲介、通訳、あるいは使用人として来日した華僑は、広州出身者が圧倒的に多く、現在でも200軒ある料理店のうち約7割が広州料理店です。
 欧米人は山手に住まいしましたが、華僑は埋立地に居留地を求めました。
 また、山下町全体の道割りに対し、中華街だけは、都のようにきちんと東西南北に区切られているのは、風水学によるものだということです。
 1870年代には約500人の華僑が住んでいたようで、関帝廟、劇場などが建てられましたが、職業は料理店に限ることなく、多種多様でした。現在のように料理業が盛んになったのは、1970年代からで、日本人との交流も深まりましたが、祖国の文化を失うことのないたくましさが華僑の魅力なのです。
中華街イメージ2

中華街へ

 400メートル四方を極彩色に彩られた料理店がびっしりと建ち並ぶ中華街へは、横浜駅から3番線の京浜東北線に乗り3つ目のJR石川町駅北口から訪ねます。石川町駅北口の改札を出、すぐに左側へ回り込むと、すぐに西陽門があります。

西陽門

西陽門  西陽門は、白虎神を祭った中華街の西門である延平門より、更に西端に位置しており、正に西の太陽に一番近いところからこの名がつけられました。
 西陽門をくぐり、6基の街路灯に案内されて進むと、純白の延平門が見えてきます。

延平門(西門)

延平門(西門)   牌楼は、関帝廟を中心に四方を四神が守る配置に建てられており、白を主とした延平門は西門で、平和と平安が末永く続くことを願う白虎神に守られています。
 白虎は、四神の一つで、天上の西方の神とされています。

牌楼豆知識

 現在、中華街には、石川町駅前に1基、関帝廟を囲む四方の門の他に、関帝廟通りに2基、市場通りに2基、合計8種10基の門が建てられています。
 四方の門は、方位にまつわる色と守護神をモチーフに、「四神相応の地」こそ理想の土地とする風水思想に基づき、東西南北に配置されました。建築様式は清時代のものです。

 四神相応とは、四神に相応じた最も貴い地相のことで、左方である東に流水のあるのを青竜、右方である西に大道のあるのを白虎、正面である南に平地のあるのを朱雀、後方である北方に丘陵のあるのを玄武とします。官位・福禄・無病・長寿を併有する地相とされています。日本では、京都がこの地相を有するとされました。古来、中国では王城を築くとき、天文学の博士に天意を伺わせ、城内に入ってくる邪気を退け、福をもたらすために城の四方の牌楼に守護神として根強く信仰された四神がこうした青竜、白虎、朱雀、玄武で、城内の人々の繁栄と安全が願われました。
 こうした、中国の智恵に裏付けされた門を訪ねましょう。 

善隣門

 延平門をくぐり、150メートルほど進むと、長安通りに面し、中華街のシンボルである善隣門が見えてきます。
 善隣門は、当初、牌楼門と呼ばれ、1953(昭和28)年、戦後の横浜復興の足がかりとして、中華街、元町、山下公園を3点セットで観光の目玉として町おこしをはかった際に中華街で最初に建てられた牌楼です。
 1989(平成元)年に建て替えられ、日中親善、共存共栄の精神である「親仁善隣」の故事から「善隣門」と名称を改めました。正に、日中親善、共存共栄の証なのです。
善隣門

玄武門(北門)

玄武門(北門)  善隣門が面した長安通りに立ち、加賀町警察の手前の道を左に少し進むと、玄武門が見えてきます。 
 北門である玄武門は、黒を基調に、子孫繁栄をもたらす玄武神に守られています。
 玄武は、青竜・白虎・朱雀と共に四神の一つで、北方に配し、水の神で、亀に蛇の巻きついた姿に表わします。

朝陽門(東門)

 玄武門から善隣門をくぐり、中華街で最も賑やかな中華街大通りを進みます。
 ここは祭りのとき、龍舞、獅子舞が練り歩くところで、普段でも、通りの左右には、料理店や衣料店が軒を連ね、観光客がごった返し、活気があふれています。
 中華街大通りを進むと、南門シルクロードに出ます。南門シルクロードに出たら、左を見ると、朝陽門があります。
 朝陽門は、中華街の東門で、青を基調とし、日の出を迎える門として、朝日が街全体を覆い、繁栄をもたらす青龍に守られています。平成15年2月1日に、春慶節にあわせ、それまでのアーチ型の門から、中華街最大の門として一新されました。
朝陽門(東門)

 朝陽門を背にし、三叉路の左側の道である南門シルクロードを進むと、右側に壮麗な横浜媽祖廟(まそびょう)があります。

横浜媽祖廟 

 「媽祖(まそ)」とは、およそ千年前の北宋時代に実在した福建省・林氏の娘です。生まれて一ヶ月も泣き声をあげないため、「林黙娘(りんもうにゃん)」と名づけられました。幼いときから才知に長け、10歳のころには朝晩欠かさず念仏を唱え、16歳で神から銅製の札を授けられたといわれています。28歳で早世するまで、札の力で悪や災いを退け病を癒す彼女を人々は、「通玄の霊女」と尊敬の意をこめて呼ぶようになりました。
 やがて、福建省・ほ田海辺の郷土神となり、宋代の元祐2年(1087)、泉州が貿易港として開港され、市舶司(貿易管理機構)を設置するようになったことから水軍、海軍の信仰が盛んになり、たちまち福建省・浙江省一帯に広まりました。
 元代に入ると、揚子江以南から現在の北京である燕京(えんきょう)への米穀輸送船の遭難を頻繁に救い、朝廷から「天妃(てんぴ)」という封号と呼ばれる贈り名を受け、航海守護神化され船ごとに祀られるようになりました。
 1405年からの西洋(南海)遠征大船団ならびに琉球冊封(さくほう)使船の往来にも神威を表し、さらに海外貿易者の進出にともない琉球、日本(薩摩、長崎、水戸など)また台湾をはじめ南洋各地にも信仰が伝わりました。清代には、朝廷から「天后(てんこう)」の贈り名を受けました。
 こうしたことから、祠廟(しびょう)」には、天妃、天后または民間の称号である媽祖を冠して名づけられることが多くなりました。近代に入ると、信仰者の願望に従い、女神でもあることから次第に誕生、育児、疾病などを祈る家庭神に変化しています。
横浜媽祖廟  横浜にも140年前には清国領事館と初代の関帝廟に祀られた記録があり、平成17年(2005)にそれまでマンション用地であった南門シルクロードの一角を有志が土地を買収し、計画通り2006年3月17日に横浜媽祖廟として開廟しました。
 この土地は、香港から招聘した風水師によると風水上願ってもない土地、であり、関帝廟と並び称される新名所として注目されています。

朱雀門(南門)

朱雀門(南門)  南門シルクロードを更に進み、バス通りに面した朱雀門を訪ねます。
 朱雀門は中華街の南門で、赤を基調に、災厄を祓い、福を招く朱雀神に守られています。
 朱雀門から南門シルクロードを少し戻ると、左側に華麗な天長門が見えてきます。
 天長門をくぐり、関帝廟通りへ入ります。
天長門
朱雀門(南門) 天長門

関帝廟

関帝廟1  関帝廟通りを進み、山下町公園を過ぎると、右手にきらびやかな関帝廟が見えてきます。
 関帝廟は、「三国志」の英雄、関羽(かんう・162〜221)を祀った廟です。
 関羽は、劉備(りゅうび)、張飛(ちょうひ)と出会い、蜀(しょく)の建国に尽力しました。
 武将として勇猛果敢であるだけでなく、義に篤く、高潔な人柄、算術に長けていたことも併せ、死後も民衆の敬愛を受け、武神、財神としてあがめられ、華僑には大切な心のよりどころなのです。
 
関帝廟2
 関帝廟は、現在、日本には神戸、横浜、函館の3カ所にあります。
 横浜の廟は開港時代の創建後、関東大震災、太平洋戦争、1986(昭和61)年の不審火と、3回も焼失し、現在のものは、1990(平成2)年に落成したものです。
 主神である関聖帝君の他に、同じように古くから民間信仰されている地母娘娘(じぼにゃんにゃん)、観音媽(かんのんまあ・菩薩)、土地公(とちこう)も祀られ、それぞれの生誕日が祭典日となっています。

孫文と蘇曼殊の碑

地久門  関帝廟通りを進み、鮮やかな地久門をくぐり、長安通りへ出ます。
 長安通りへ出たら右へ曲がると、横浜中華学院の門がありますので、この門から校庭へ入ります。
 校庭へはいると、右側に孫文(そんぶん)と蘇曼殊(そまんじゅ)の石碑が並んで建てられています。
孫文と蘇曼殊の碑
 中国近代化の父と慕われる孫文は、1866年広東省香山県に生まれ、少年時代に欧米文化に接し、19歳頃から革命を志しました。10回もの武装蜂起失敗にもめげず、1911年、辛亥革命を成功させ、中華民国臨時大統領に就任しました。
 以後、死の前年まで十数回、日本に訪れ、通算9年4か月、日本で過ごしています。このうち、横浜には6年近く滞在し、中華街に住む華僑から援助を受けました。このように、民主主義革命の先駆者である孫文は、横浜と大きな関わりをもったのです。
 蘇曼殊の父は広東省出身の買弁(欧米人と日本人との貿易の仲介、通訳をする職業)、母は日本人で、横浜に生まれました。
 幼児期は広東に預けられ、13歳で再び来日、大同学校(横浜中華学院の前身)で学び、後、早稲田大学高等予科、成城学校を経て、上海の「国民日日報」で翻訳、論説などに活躍しました。
 また、日中間だけではなく、東南アジアへも遊歴し、35歳で、上海で病没しました。

中華義荘

中華義荘1  横浜中華学院を出、長安通りを左へ進むと、バス通りに出ます。
 バス通りに出たらすぐ左側に横浜中央病院があり、病院の前に「吉浜橋」というバス停があります。この「吉浜橋」バス停から21系統の市営バスに乗り、10分も乗ると、「山元町2丁目」に着きます。
 「山元町2丁目」バス停から住宅街を2、3分も歩いたところに中華義荘という華僑の共同墓地があります。この共同墓地の中に、地蔵王廟という1892(明治25)年に建設された中国南方様式の霊廟が建てられています。
中華義荘2
 地蔵王廟は、横浜に残る、居留地時代の建築物として大変、貴重な存在であると同時に、毎年、4月5日の清明節に多くの参拝者で賑わいます。
 主要材は広東省広州から運ばれ、外壁、瓦は横浜で調達されました。1993(平成5)年に修復工事が完成しました。
 中華義荘は、当初、異国でなくなった者を故郷へ送り返す仮安置所で、3年に1度、回葬船がきていましたが、関東大震災以降はその風習も途絶え、今日では「落地生根」(その移り住んだ土地に根を生やす、という生き方)の華僑の霊を弔う廟として大切な役割を果たしています。
中華街イメージ3

 「中華街・風水が彩る街」はこれで終わりです。
 「山元町2丁目」バス停から21系統、103系統の市営バスで桜木町や横浜駅の繁華街へ行くことが出来ます。

参考資料 「横浜散歩 24コース」 山川出版社刊
        神奈川県高等学校教科研究会
        社会科部会歴史分科会編