更新日:2004年10月19日火曜日

「横浜散策」で市内の史跡を訪ねる際に、背景となる歴史を知っていると、理解がより深まります。この「横浜の歴史」では、横浜開港以降の歴史を簡単にご紹介しますので、旧跡巡りの際の参考として下さい。
日米和親条約・日米修好通商条約
生糸貿易・豚屋火事
関東大震災・空襲と敗戦
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アメリカの東インド艦隊が横浜村の沖に9隻の船を浮かべ、27隻のボートに乗り込んだ500人の兵士、士官らが日本との通商を目的として上陸したのは、1854年(安政元)3月8日のことでした。艦隊司令官はペリー提督。身長190センチの大男で、一際、目立つ青の燕尾服に金筋の入ったズボンをはき、三角帽子を手にしていました。 ペリー提督らの上陸地点は現在の開港広場で、当時の面影はすっかり失われているものの、一つだけ変わらないものがあります。それは、開港資料館のペリー・スクエアーと名付けられた中庭に立つ玉ぐすの木です。 この玉ぐすの木のすぐ傍らに幕府によって「応接所」が設けられました。 |
| この日、ペリーは大統領の親書を幕府の代表者に手渡しただけで、翌1855年1月14日に再び、来日しました。 ペリーは日本の首都である江戸で交渉するのが国際的な慣習であると主張し、幕府は、いきなり異人が将軍のいる江戸市中へ入られたのでは面子が丸つぶれと考え、双方の妥協案として、当時、戸数わずか101戸ほどの半農半漁の寒村であった横浜村が交渉場所として選ばれたのでした。 |
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| ペリーとの日米和親条約が締結した5年後、ハリスと幕府の間で日米修好通商条約が結ばれ、日本は本格的に外国と貿易を行うことになりました。 貿易を始めるために、5つの港を開くことになり、開港場の一つである横浜が1859年7月(安政6年6月)に開港されました。横浜は江戸に近く、5つの港のうち、最も重要で、最初に開かれたのです。 町の入口には危険人物をチェックする関所が置かれました。関所の場所は現在の伊勢佐木町商店街の入口辺りで、海上に架けられた長大な吉田橋を渡って町へ入っていったのです。現在の市街地は埋め立てによりオフィス街が続いていますが、開港当時は忽然と現れた海上都市といった雰囲気でした。 |
| アメリカ政府初の日本領事タウンゼント・ハリスが、日本との通商条約を締結させようと、下田に上陸したのは日米和親条約調印後、2年あまりたった1856年8月23日(安政3年7月23日)のことでした。 ハリスは1年以上も下田に留め置かれ、大統領の親書を将軍に上呈したのは翌年11月でした。幕府はやっかいな通商条約などまっぴらで、先送りしようとしましたが、ハリスは1858年7月27日、小柴沖に停泊したアメリカ軍艦ポーハタン号艦上で、英仏連合軍が中国の広東を占拠した第2次アヘン戦争の情報を利用し、 「イギリスとフランスが余勢を駆って日本を占領しようと押し掛けてくる。それに先んじてアメリカと条約を結んだ方がよい」 と、交渉に当たっていた岩瀬忠震にもちかけました。震え上がった岩瀬は、大老職の井伊直弼を説得します。 井伊は朝廷の勅許も得られぬまま井上信濃守と岩瀬肥後守をポーハタン号のハリスの許へ派遣し、1859年7月29日(安政6年6月19日)、日米修好通商条約に調印したのです。アメリカに続き、7月10日オランダ、11日ロシア、18日イギリス、9月3日フランスとの修好通商条約が完了しました。 |
| こうした紆余曲折の末に開港した横浜の町は、大きく二分し、吉田橋に近い方が日本人の商人町、その向こうの入口から遠い方が外国人の居留地となりました。その中間に、運上所という税関と県庁を兼ねた役所が置かれました。現在でも、神奈川県庁本庁舎の敷地の片隅に、運上所跡の石碑が建っています。 幕府は、横浜出店の商人を全国から集め、中でも江戸の有力商人には横浜出店を命じました。開港1年後の万延元年5月、横浜商人の数は200軒、内89軒が生糸商人でした。一方、外国人達も居留地に次々に店を開きました。現在のシルクセンターの地に英一番館としてイギリスのジャーディン・マセソン商会が建ち、競争相手のデント商会も四、五番館に入り、開港を実現させたアメリカはイギリスの先を越され、米二番館としてウォルシュ・ホール商会が入りました。開港1年で外国商人は44人に上り、開港4年後には外国人居留地は、ほぼ完成した町並みとなりました。 |
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| 横浜に港が開かれても、日本人の商人達は、外人に対し一体、何が売れるのか、全く解りませんでした。生糸の取引は、開港の翌年の1860年(万延元)8月、甲州商人の伏見屋忠兵衛が横浜・本町の芝屋清五郎を介し、海岸七番のイギリス人ロスバルベルに売ったのが最初とされています。ひとたび取引が始まると、外国人達は極めて絹を好むことが解り、生糸は、戦前まで我が国の輸出の中心製品となりました。 生糸の産地は上州、甲州などで、八王子はその集散の中心地でした。現在のJR横浜線は、横浜鉄道としてシルク輸送のためにつくられた鉄道で、この路線は正に日本のシルクロードだったのです。開港2年目の1860年から6年間の横浜港の輸出のうち、生糸の占める割合は常に7割以上で、時には9割にも達していました。横浜港の発展が日本の発展であり、生糸相場に日本中が一喜一憂していた時代でした。 当時は売る側にも買う側にも山師のような商人が多く、横浜の生糸取引はあやふやな状態でしたが、生糸検査所が設立され、また、次第に本格的な生糸商人も成長しました。 |
| 中でも、中居屋重兵衛、茂木惣兵衛、若尾幾造などがあげられますが、原善三郎が本牧に買った広大な土地を、三渓園という日本庭園に仕立てた原富三郎の名は特筆されます。投機性の高い生糸取引は、多くの金持ちをつくりましたが、また、一朝にして倒産させもしました。 こうした中で原富三郎は原三渓と名乗り、自ら書画をたしなみ、美術品を収集し、三渓園に多くの日本建築を集めました。 三渓園は昭和28年に原家より横浜市へ寄付され、生糸貿易の遺産として、現在も市民に親しまれています。 |
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| JR関内駅のすぐ前に、広々とした横浜公園が拡がり、公園の中央には地表に対して少し傾いた円形の横浜スタジアムが建てられています。この地は、安政の開港時は遊郭街でした。 開港前は太田屋新田と呼ばれる沼地で、品川宿の旅籠屋佐吉と神奈川宿の旅籠屋善二郎など5人の共同事業として、遊郭街建設のため、土地の埋め立てから建築までの願書が幕府に提出されました。当初は8000坪の計画でしたが、すぐに拡張されて15000坪となりました。工事が始まると、思いもかけず費用がかさみ、他の者は手を引き、佐吉1人の事業となりました。この新町は、「港崎町」と名付けられ、当初は「みよざきちょう」と呼ばれ、後に「こうざきちょう」と呼ばれたということです。6月の開港には間に合わなかったものの、港崎町は11月11日に開業、たちまち内外人で大盛況となりました。妓楼は18軒、下級の遊女を置く局見世が84軒で、最盛時には1400人もの遊女がいたということです。こうした中で、一際、目を引いたのが岩亀楼という佐吉の店で、横浜名物の一つとなりました。 |
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| 港崎町の繁栄も、慶応2年10月21日(1866年11月26日)の豚屋火事で、わずか7年の歴史を閉じてしまいます。この大火で、関内の大半である外国人居留地四分の一、日本人町三分の一を焼いてしまったのです。 朝8時に末広町に住む豚肉営業鉄五郎方より出火(豚肉屋から火が出たので、豚屋火事)、夜10時までの14時間燃え続け、遊郭街は完全に焼け落ち、400人以上の遊女が焼け死んだということです。 この大火により、開港時に幕府が創った横浜の都市計画の欠点が見直され、火事より1ヶ月後には港崎町は第1号の洋式公園(後の横浜公園)として利用されることが決まりました。実際には、洋式公園の第1号は山手にある山手公園が明治4年に開園され、横浜公園は明治9年に開かれました。 山手公園は当初、外国人専用でしたが、横浜公園は日本人も外国人も使えることから「彼我公園」と呼ばれました。 それまで公園と言えば、築山に池を配し、遣り水が水音を立てる日本庭園しか知らない日本人は、洋式公園の使い方が解らず、結局のところ、外国人の中でも最も人数も勢力もあったイギリス人がクリケットを楽しみ、アメリカ人がその合間に野球に用いていました。 明治に入り、横浜公園は日本の野球発祥の地として名を馳せるようになります。 明治29年5月23日、初の野球の国際試合が行われました。一高(現在の東大教養学部)と横浜在住の外国人チームが戦いました。予想に反して一高は29対2という大差で圧勝。外国人チームは6月5日に、入港中のアメリカ軍艦の乗組員を加え、雪辱戦に挑みますが、再び一高が32対9という大差で勝利を収めました。 このように豚屋火事は、横浜を日本型の封建都市から、欧風の近代都市へと大きく前進させたのです。 |
| 当時、御一新と呼ばれた明治維新が行われた明治元年(1868年)には、横浜は神奈川府が置かれ、同年には神奈川県庁所在地となりました。明治11年には郡区町村編制法により横浜区となり、明治22年、市制を施行し、横浜市となりました。この間には汐留(現在の新橋)から横浜(現在の桜木町)間の鉄道の開通や横浜商人の経済力を背景にした洋式水道の導入など、国際都市化への建設が進められました。 |
| 大正12年(1923)9月1日午前11時58分、大規模な地震が関東南部を襲いました。その規模はマグニチュード7.9、震源は相模湾西北部(東経139.3度、北緯35.2度)と計測されました。地震は小田原、根府川方面が最も激烈でしたが、東京・横浜では地震による火災が加わって、最大の被害が生まれました。東京は3日未明まで燃え続け、下町一帯から山の手の一部にかけて全市街の三分の二が焼失、これに対して横浜はレンガ造の洋館などが倒壊して多くの圧死者を出したうえ、全市街がほとんど焼失、あるいは全半壊し、4日までの丸三日間、全く救援の手が届かなかったのです。この大地震により、開港以来の重厚なゴシック建築が整然と建ち並び、馬車が行き交う異国情緒漂う横浜の町は一瞬にして壊滅してしまいました。 | ![]() |
| 震災後、海岸通りに面して建ち並んでいたレンガ造や石造の建物の瓦礫の処分に困り、町の前面で唯一、開けた海岸が、その処分地に選ばれました。 それまで親しんでいた港沿いの散歩道を埋めてしまうのは外国人にしのび難く、山下町に設定された外国人の永代借地権の整理に尽力したマーシャル・マーチンより、長大な臨海公園とすることが要求されました。 こうして、外国人の力により我が国最初の美しい臨海公園(後の山下公園)が創り出されることになったのです。 |
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大地震により「全滅」と言われた横浜でしたが、海岸通り周辺には、震災を乗り越えた建物が今も現役で使われています。馬車道に面して建つ神奈川県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店)、南仲通りの横浜市開港記念会館、海岸通りでは旧英七番館などが往時の面影をしのばせています。 また、震災復興の建物でみごたえのあるものとして神奈川県庁本庁舎は佐野利器を顧問として、当時、東洋一の大庁舎とうたわれました。大蔵省により建てられた横浜税関は、塔に青いドームを乗せた南国的な建物で、国会議事堂を設計した吉武東里の作と言われています。民間の建物でも、コリント式列柱が特徴の日本郵船渇。浜支店や日本初のプロテスタント教会の横浜海岸教会などがあります。 |
| 大震災後、外国人の中には横浜を見捨て、神戸に移るものも多かったということです。それでも、横浜は大震災から立ち直り、復興を成し遂げ、山下公園で復興記念横浜大博覧会が開かれた昭和10年には、日本はもう次の戦争に突入していました。 昭和20年(1945)5月29日未明、米第21爆撃機団所属のB29編隊517機がマリアナ基地を発進し、午前9時20分頃、快晴で無風状態の横浜上空に達し、10時半頃までの約1時間に、総数438,576個(2,569.6トン)の大量の焼夷弾を高高度より投下しました。密集した家屋を焼き払うのに適したM69と呼ばれる集束焼夷弾攻撃により、中、南、西、神奈川を中心に当時97万の人口を抱える横浜の住宅地は、山手地区と山下公園周辺を除き、猛火に包まれたのです。 この空襲による被害は、直後の公式発表によれば、死者3,650人、重軽傷者10,198人、行方不明309人、罹災者311,218人とされています。 こうした5月29日の大空襲を含め、横浜市は昭和17年4月28日の初の本土空襲から昭和20年8月13日までに29回もの空襲を受けました。5月29日の大空襲による罹災住宅は10万戸に及び、約12万人の市民が一面、焼け野原となった町にかろうじて残された学校等で集団生活を送ることになりました。応急対策は遅々として進まず、防空壕や焼け跡にバラックを建て、雨露をしのぎながら、復興への道を歩み始めたのです。 8月30日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木飛行場に愛機「バータン号」で到着、以後、2000日に及ぶ日本占領の第1歩を記しました。一面、焦土と化した横浜の街に、占領部隊が続々と上陸し、横浜税関ビルには連合国軍の主力である米第8軍の司令部がおかれました。市内各所には占領部隊のためのカマボコ型兵舎が建ち並び、空襲を免れた建物は次々と接収されました。市の中心部には金網が張られ、日本人立入禁止区域となり、占領下の街の風景が出現したのです。 戦後の市民の生活は、戦時中と変わらぬ物資不足でしたが、駅には食料を買い求める雑踏でにぎわいを見せていました。昭和21年、天皇の全国巡幸がスタートしました。横浜には大口商店街や日産自動車工場などを視察し、市民に明るい話題をもたらしました。 |
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昭和24年、「復興は貿易から」をスローガンに野毛と反町の2会場で、日本貿易博覧会が開催され、翌年の朝鮮戦争の米第8軍出動により、接収解除運動も活発になりました。 昭和27年4月28日、対日講和条約が発効し、日本が独立を回復すると横浜市内の接収解除も本格化し、山下公園や大桟橋など主要施設が次々と返還されました。こうした中で、米軍住宅が延々と建ち並んでいた中区本牧の1号・2号地地区882,198.64平方メートルの接収解除は難行を重ね、実に36年ぶりの昭和57年(1982)3月31日に解除返還が行われました。 現在、横浜港は総輸出入で全国一の座を占め、更に最近は東京のベッドタウンとして開発が進み、港北ニュータウンやみなとみらい21など新たな都市づくりが目指されています。 |
| 参考資料 | 「都市ヨコハマ物語」時事通信社刊・田村明著 |
| 「横浜・中区市」中区制五十周年記念事業実行委員会 | |
| 「写真でみる横浜大空襲」横浜市総務局 | |
| 「国史大辞典」吉川弘文館 |