「山手・洋館巡り1」タイトルバナー

ようこそ、「山手・洋館巡り1」へ!

いんでっくす

山手の丘へ
横浜共立学園(214番館本校舎・「新約聖書和訳記念の地」「S・R・BROWN」記念碑
イタリア山庭園外交官の家ブラフ18番館
山手公園カトリック山手公園聖堂カトリック横浜司教館、同別館
フェリス女学院中学校、高等学校横浜葉学園の鐘塔

山手の丘へ

  横浜駅から3番線ホームのJR京浜東北線で三つ目のJR石川町駅南口の改札を出、中村川と高速道路の高架に沿って左へ進むと、亀の橋という交差点に出ます。
  亀の橋交差点を渡り、道路の右側に出ます。その後、左へ曲がり、すぐに石川町2丁目の小さな交差点を渡って地蔵坂という坂を道なりに上っていきます。
  坂の途中に「横浜共立学園」と「横浜学院」の所在を示す標識があるので、標識の赤矢印が示す通り右方の乙女坂という石段を登ります。
  左側に蓮光寺の墓地を見ながら、登り切ると、左側に「横浜共立学園山手214番館」が木立の中に見えてきます。

横浜共立学園214番館

横浜共立学園214番館  横浜共立学園214番館は、設計、施工は不明ですが、スウェーデン領事公邸として使用されていた昭和初期の建築で、木造2階、地下1階の構造です。大きな袴腰屋根をもち、2階の窓は屋根窓の形式をとっています。玄関ホールに階段があり、左右に主たる部屋を配する中廊下型のプランを採っています。玄関ホール西側に暖炉をもつ大広間、東側に洋室が2室、2階に寝室が3室配されています。
 平成11年(1994)11月に横浜市指定文化財に指定されています。

 山手214番館の敷地に沿って左へ曲がると、横浜共立学園の校舎が左右に建ち並んでいます。

横浜共立学園本校舎・「新約聖書和訳記念之地」「S・R・BROWN」記念碑

 (※1)横浜共立学園本校舎は、昭和6年(1931)の建築で、木造2階(一部3階)の構造で、キリスト教コミュニティーの近江兄弟社を設立したW・N・ヴォーリス建築設計事務所の設計で、宮内建築設計事務所が施工に当たりました。中央の切妻をペディメント風に扱い、2階の木製の柱や窓の枠組みで表したハーフ・ティンバースタイルが特徴です。中廊下形式で、学校の管理部門、一般教室、特別教室、礼拝堂を配しており、玄関ホールに幅広い木造階段が設けられています。横浜山手の文教施設の象徴的な建造物として価値が高く、昭和63年(1988)11月に横浜市指定文化財に指定されました。 横浜共立学園本校舎
「新約聖書和訳記念之地」「S・R・BROWN」記念碑   この「本校舎」の前に、「新約聖書和訳記念之地」と米国宣教師「S・R・BROWN」の記念石碑が建てられています。S・R・BROWNは、アメリカ改革派教会の宣教師で、安政6年(1859)に神奈川に到着し、成仏寺に住まいしました。横浜英学所で教鞭をとり、1863年に横浜居留地に移り「日米会話篇」を刊行しました。また、聖書を和訳し、一時帰国後、再来日し、英語教師を歴任、新約聖書翻訳委員長となり、明治6年(1873)ヘボン訳ブラウン「馬太伝」を出版し、ブラウン塾を開きました。1878年、讃美歌改正委員となりましたが、翌年に帰国しています。
 横浜共立学園は、1871(明治4)年、アメリカ婦人一致外国伝道協会から派遣されたブライアン、ピアソン、クロスビーの3人の婦人宣教師によって、山手48番に設立された女学校が始まりでした。
 当初、アメリカン・ミッション・ホームと称し、十数人の混血児を寮に集めて教育活動を始めました。翌年、山手212番の現在地に移転し、校名を「日本婦人英学校」に改め、1875年にさらに「共立女学校」と改めました。これはアメリカ婦人一致外国伝道協会が特定の教派に属さず、「共立」的な宣教団体であることから名づけられたものでした。
 関東大震災で校舎はほぼ全壊しましたが、アメリカなどからの寄付金によって1930(昭和5)年に再建されました。

 (※1)から道の左側を、道なりにやや左へ折れ、「地蔵坂上」のバス停と「地蔵坂上」の交差点を左へ曲がります。すぐに「地蔵坂」を降りていく道と、「横浜学院テニスコート」へ行く道がありますが、「テニスコート」の方へ進みます。これが山手の丘の尾根にあたる「山手本通り」です。

イタリア山庭園

 山手本通りへ出ると、通りの左右にはエキゾチックな洋館が目立ちます。
 「イタリア山庭園」のバス停を過ぎると、すぐに「イタリア山庭園」の所在を示す標識が立っています。(※2)標識に沿って左へ入ると、間もなく「イタリア山庭園」の入口が見えてきます。
 園内へ入ると、「外交官の家」が建ち、邸内には建物左側の付属棟から入ることが出来ます。

外交官の家

 この洋館は、建築主の内田定槌(さだつち)がニューヨーク総領事やトルコ特命全権大使を勤めた明治政府の外交官であることから「外交官の家」と呼ばれています。設計者は、アメリカ人のJ・M・ガーディナーで、立教学校の教師として来日し、その後、建築家として活躍しました。施工は横田組が当たりました。 外交官の家(旧内田家住宅)
外交官の家(旧内田家住宅)調度 当初は、木造2階・塔屋付きとして、明治43年(1910)東京都渋谷区南平台に建てられました。1階はホールを中心に東側に大広間・小広間、北側に食堂を配し、2階は書斎と主寝室・寝室が配されています。塔屋の最上部は展望室となっています。この建物は、平成9年(1997)に現在地へ移築され、5月には国重要文化財に指定されています。邸内には家具や調度が再現され、当時の外交官の暮らしが体験できるようになっています。

 「外交官の家」の裏側へ回ると、視界が開け、「イタリア山庭園」が拡がります。

 イタリア山庭園は、一時期、イタリア領事館がこの地にあったことから名づけられました。花壇に噴水、小川、階段状のテラスが配置された西洋式庭園で、ここから横浜市街を展望できます。イタリア山庭園の下方に「ブラフ18番館」が建っています。 イタリア山庭園

ブラフ18番館 

ブラフ18番館(旧カトリック山手教会司祭館)内部  「ブラフ18番館」は、関東大震災(1923)の後の大正末期、山手45番に建てられた木造2階の外国人住宅でした。戦後、カトリック山手教会の司祭館として平成3年(1991)まで実際に使われていましたが、11月に解体されることになり、横浜市が解体調査後、部材の寄付を受け、現在地の旧山手居留地18番に移築復元され、資料館として保存、活用されています。平成6年(1994)11月に横浜市認定歴史的建造物に指定されています。 ブラフ18番館(旧カトリック山手教会司祭館)外観

「外交官の家」「ブラフ18番館」ご利用案内

開館時間 9時30分から17時
休館日 毎週月曜日(月曜日が休館日の場合はその翌日)
祝日の翌日(金曜日が祝日の場合は除く)
年末年始(12月29日から1月3日)
入場料 無料
お問い合わせ先 〒231 横浜市中区山手町16
横浜市緑政局中部公園緑地事務所
045-662-6318(ブラフ18番館)662-8319(外交官の家)

 (※2)へ戻り、左に曲がって山手本通りをさらに進みます。
  「三育幼稚園」の信号を過ぎると、右前方に「カトリック山手教会」の鐘塔が見えてきます。
  (※3)「カトリック山手教会」の信号の手前を右へ入り、坂を下っていくと、「ファエリス女学院大学」を左にしながら、「山手公園」に突き当たります。

山手公園

 「山手公園」は、1870(明治3)年、神奈川県庁が外国人のために貸した土地に開園した日本初の洋式公園でした。面積は2.7ヘクタール。1878年にはレディースローン・アンド・クロッケークラブ、現在の横浜インターナショナルテニスクラブが、この地に五面のテニスコートを開き、日本のテニス発祥の地となりました。「日本庭球発祥の地」碑は、これを記念したもので、園内には横浜山手テニス発祥記念館があります。 テニスコート12面のうち、6面は有料で開放され、6面は居留地時代のテニスクラブに由来するインターナショナルテニスコミュニティの占有です。第二次大戦後、アメリカに接収されましたが、昭和27年(1952)に返還されました。
山手公園管理事務所(旧山手68番館)  クラブハウスをかねた木造1階の「山手公園管理事務所」は、当初は、山手68番の奥まった位置にあり、震災後に建てられた外国人向け賃貸住宅の1つでした。平屋建で下見板張りと開放ベランダをもつバンガロースタイルの源流をとどめ、昭和61年(1986)に移築され、現在では、美しい白壁が上品なたたずまいを見せる山手公園内のテニスコートのクラブハウス、管理事務所として再利用されています。

 (※3)へ戻ると、「山手三塔」の1つである「カトリック山手教会」があります。

カトリック山手教会聖堂

カトリック山手教会1  「カトリック山手教会聖堂」は、居留地に建てられた横浜天主堂を引き継ぐ、横浜で最も古い歴史をもつ教会です。
 山手の住宅地としての発展に伴って、明治39年(1906)年に現在地に移されました。当時は双塔がそびえるゴシック洋式レンガ造の教会で、トンガリ耶蘇(やそ)と呼ばれ、親しまれました。しかし、関東大震災で倒壊し、昭和8年(1933)にチェコスロバキア人スワガーの設計、関工務店の施工で、鉄筋コンクリート造地上1階地下1階の現在の教会堂が完成しました。
カトリック山手教会2
カトリック山手教会マリア像  現在の鐘は、創建時代からのもので、半世紀以上も山手の丘に音を響かせています。また、庭のマリア像も1868(明治元)年にフランスから贈られたもので、かつては横浜天主堂の入口上部に掲げられていた貴重な文化財です。教会の設立者ジラール神父の遺骨は、祭壇左の壁におさめられています。
 平成元年(1989)3月に横浜市認定歴史的建造物に指定されています。

 聖堂に向かって右側に「カトリック横浜司教館」、左側に「カトリック横浜司教館別館」が建っています。

 カトリック横浜司教館、同別館

カトリック横浜司教館(旧相馬永胤邸)  「カトリック横浜司教館」は、明治43年(1910)、妻木頼黄設計(施工は不明)、木造2階建で専修大学創立者の1人である相馬永胤の邸宅の1部として東京戸塚に建築され、昭和12年(1927)に現在地の山手町44に移築され、山手では数少ない明治の建物でした。平成12年(2000)の建て替え時に山手本通りから見える位置に旧建物のエントランス部分を創建当初の姿に復元しました。現在の建物は、RC造2階・地下1階で設計は高垣建築総合計画、施工は大林組で、平成7年(1995)9月に横浜市認定歴史的建造物に指定されました。
 「カトリック横浜司教館別館」は、昭和2年(1927)に木造2階建として正面を山手本通りに面し、設計・施工を糸川工務店によって建てられ、大きな切妻屋根と屋根窓を巧みに組み合わせた複雑な屋根の構成が特徴です。建築主山田市太郎が外国人向けの貸家として建てたと言われ、水準の高い西洋館の1つと言われています。
 平成7年(1995)3月に横浜市認定歴史的建造物に指定されています。
カトリック横浜司教館別館

フェリス女学院中学校・高等学校

フェリス女学院中学校・高等学校  「フェリス女学院」は、メアリー・キダーによって1870(明治3)年に設立された、日本で最初の私立女学校です。フェリスの校名は、キダーを派遣したアメリカ改革派外国伝道協会のフェリス博士にちなんだものです。創設期から英語教育を重視し「小公子」の翻訳で知られる若松賤子(しずこ)らを輩出しました。 1875年に山手の現在地に校舎を建築して移転しましたが、その後の関東大震災で大きな被害を受けました。震災後再建の1号館は、1929(昭和4)年の建設で、信州産の鉄平石を外壁に用いています。 この鉄平石は、関東大震災で倒壊した校舎を建て直した際、生徒から集めた一銭募金で賄われたものでした。こうした重厚な外壁と校庭に植えられた松の緑が美しい調和をもっています。 また、屋上までの通し柱とアーチ型の縦長窓が目を引きます。

 山手本通りを進むと、右手奥に「山手三塔」の一つである緑屋根の「横浜雙葉学園」の鐘塔が見えてきます。

横浜雙葉学園の鐘塔

 「横浜雙葉学園」は、明治5年(1872)に来日したカトリックの女子修道海サン・モール会の修道女メール・マチルドによって創立されました、カトリックの女学校です。
 その起源は、1872年山手83番に設立された孤児院「仁慈堂(じんじどう)」にあります。当時、横浜は捨て子や孤児が多く、「仁慈堂」は350人もの子供と80人の乳幼児を収容し、明治8年(1875)には正式な孤児院として認可されました。やがて、孤児達に普通教育を授ける女学校に発展して、1902年菫(すみれ)女学校となりました。
横浜雙葉学園の鐘塔
横浜雙葉学園聖母子像 一方、居留地に住む外国人の子女や一般家庭の子女教育のため、サン・モール会は1900年山手88番に、日本初のカトリック女学校である横浜紅蘭(こうらん)女学校を設立しました。
 関東大震災によって菫女学校も紅蘭女学校も壊滅的な打撃を受けましたが、その後、菫女学校は東京に移り、太平洋戦争開戦によって歴史を閉じました。紅蘭女学校は震災後、現在地に校舎を復興させ、昭和26年(1951)校名を横浜雙葉学園と改称し、現在に至っています。

「横浜雙葉学園」の向かいには「元町公園」が拡がっています。(※4)

 「元町公園」は、開港当時、この地でフランス人ジェラールは、山間から湧き出る天然水を外国船に飲料水として売ったり、西洋瓦やレンガを製造、販売していました。その跡が今も水屋敷として園内に遺っています。
 昭和5年(1930)に公開された園内には、プール、弓道場、エリスマン邸、塗装発祥之地記念碑、大正映画撮影所跡碑などがあります。園内にはいると、すぐに「ベーリックホール」「エリスマン邸」が目につきます。

山手・洋館巡り1(後編)へ