はじめまして○○養護学校PTAの○○です。本日はこのような場で発表することになり、緊張していますが、この3年間、特別支援教育に大きな期待を持ってすごしてきた一人として精一杯その想いを伝えたいと思います。決して好事例ではありませんので、ひとつの事例として、あるいは一人の保護者の想いとして、聞いていただければと思います。


我が家の次男は現在○○養護学校の中学部3年生です。平成13年2月、今から4年ほど前のことになりますが、小学校4年生の3学期の交通事故によって脳の大部分をケガしてしまい、右手以外は動かない四肢麻痺の状態になりました。身体の障害だけでなく、感情面や空間認知など主に右の脳の機能が落ちていますので、私達はふざけ症と言っていますが、社会的な対応が難しくなってしまいました。

事故から丸一年、3カ所の病院に入院しましたが、2つ目の病院までは事故を悔やみ、次男の将来を悲観し、ただただ泣いてばかりいたように思います。9月も終わりになって3つ目の病院である埼玉県総合リハビリテーションセンターに入院することになりました。

在宅に向けてのリハビリに取り組むことになったわけですが、ちょうど入院と時期を同じくして、10月から埼玉県が長期入院中の児童生徒に対して院内訪問教育を実施するということを新聞報道で知り、県の教育委員会にお願いしたところ、□□養護学校に転籍のうえで院内訪問教育を始めていただきました。その時に養護学校の窓口になっていただいたのが今日のシンポジストでもあるU先生です。そして担当していただいたのが今も家族ぐるみのお付き合いをさせていただいていますY先生でした。

初めて接する養護学校の先生の指導に驚いたことを覚えています。当時は意識レベルが低く、いつも寝てばかりいるような次男の表情から心の動きを捉えて次男の可能性を次々と引き出してくださいました。字を書いたり、本を読んだりするのは無理だと思っていた僕達両親にとって次男が書いた「化石」という文字は今もはっきりと覚えています。音読によって記憶力も徐々にですがついてきました。ある日小学校の同級生達に手紙を書こうということになり、たどたどしい文字でしたが書き終えることができ、復学して友達のところに戻るという目標ができたように思います。


事故から一年後に元の小学校に復学しました。すんなりと復学できたわけではなく、市の教育委員会からは養護学校に転校するように指導を受けました。それでも次男が地域の元の小学校に戻ることが、当時の私達家族の目標になっていましたので、「せめて友達と一緒の卒業アルバムがほしい」とお願いし続けました。教育委員会の心配は3点でした。バリアフリーではない学校の施設、担任が一人で対応できないための保護者の付き添い、次男の身体機能訓練が減ること、でした。保護者が登下校からずっと付き添うことと、必要な訓練は午後や放課後に入れて個別に対応することは約束できましたが、学校施設は教室を1階にしていただくという運用面での対応をお願いするしかありませんでした。退院直前になってやっと復学がOKとなりました。

復学した平成14年2月5日、次男が懐かしそうに机を触る姿がとても印象的でした。復学した当初の2月3月は5年生の教室は3階にありましたので、次男を背負って3階まで上がらなければならず、父親の私が会社を休める日だけ登校することになりました。2カ月で17日間登校したわけですが、会社の配慮がなければこれだけの日数を休むことは難しかったと思います。春休みになって学校施設も工事が始まり、玄関と体育館にスロープが設置され、教室も一部倉庫を改修して6年生の教室が1階になりました。次男もようやく毎日登校できるようになったわけですが、おかげで妻は毎日学校へ付き添うことになりました。朝登校するところから、授業中も次男の隣に机を用意してもらい、教科書や筆記具を準備したり、授業に合わせて教科書をめくり、指で文字をなぞって今どこをやっているのかを教えたり、補助的な役割も果たしました。給食も次男と二人、みんなが先生よりも一番先に準備してくれ、片付けもしてくれました。校外学習や修学旅行、委員会活動なども保護者が付き添って参加することができました。担任の先生も様々な工夫や配慮を施してくれました。プリントは次男のものだけA3に拡大して見やすく書きやすいものにしてくださり、音読や算数も簡単な部分をやらせてもらい、音楽、体育、業間休み、委員会活動、とごく自然に次男が関われるようにクラス全体の雰囲気を作り上げてくれました。


同級生達も少しずつ次男の状態に慣れてきました。車椅子を押してくれることや、何かを手伝ってくれることも嬉しかったのですが、下級生が廊下で次男の車椅子とぶつかりそうになったことから「廊下は走らないようにしよう」というポスターを自主的に作ったり、自分達でルールを作ったり、同級生達が次男との接し方を通して成長している姿が見られたことが私達両親にとっては大きな励みになりました。毎日付き添うようになって当初は何もできない次男のことが不憫で授業中に涙が出てくることも度々ありましたが、同級生達から次男がただただクラスの負担になっているのではなく、次男なりの役割があるのだと教えられた気がしました。この6年生の一年間を通して次男の障害を個性として受け入れられるようになってきたのだと思います。そしてこのすばらしい一年間があるから今こうして頑張っていられると言っても言いすぎではないと思います。

中学進学にあたり、もちろん地域の中学校へ進学させるということも考えていました。と言うよりは、私は当初地域の中学校へ進学させなければならないと固執していました。ただ毎日付き添っていた妻の考えは違っていました。先生や友達の配慮によって次男なりの学校生活を送っていたものの、友達の成長を目の当たりにして、次男自身の成長に目が向き始めていたのです。個別指導で次男の回復と成長を促したい、ただ教室にいてぼーっとしているだけが次男の学校生活ではない、と思うようになっていたのです。6年生の一年間は妻ともずいぶん議論しました。養護学校の見学も数回に及び、東京都の養護学校まで足を伸ばしました。悩んでいる時に地域の中学校のPTA会長から「養護学校の生徒が地域の学校と交流している例があるようですよ」と教えてもらい、一緒に校長先生のところに相談に行きました。地域の中学校の校長先生は居住地校交流学級のことを説明してくれました。親学級を決めて、次男が交流に来るときには2階の特別教室で授業を行うというプランも教えていただき、パーッと目の前が明るくなりました。養護学校で個別指導を受けつつ、地域の学校に進学する同級生達とのかかわり、の両方を享受できるんだと思うとそれまで養護学校や普通学級のメリット・デメリットばかりで議論していたことが無駄なように思えてきました。


平成15年4月○○養護学校に入学しました。長時間のスクールバスに当初は疲れを見せていた次男も徐々に学校に慣れ、養護学校での個別指導は期待どおりのものでした。自立活動も身体障害が重度の次男にはとても助かりました。何より小学校の時には毎日付き添っていた妻も自分の時間が取れるようになり、体力・気力も充実して、より一層次男のケアに集中できるようになりました。

それでも4月5月と交流は始まりませんでした。地域の中学校の校長先生が変わったためでした。なかなか交流の話がでてこない時に、近所の友人から「6月には運動会があるけど純生くんも来るでしょ」と言われ、地域に開放している運動会に参加すればいいんだと思い一応両校に断ってでかけることにしました。そこに待っていたのは同級生達の笑顔。当初は本部テントにある来賓席にいたのですが、そのうち生徒席に移動して行くと沢山の友達が駆け寄って来てくれました。隣の小学校から進学した生徒も声をかけてくれました。すぐに小学校時代のすばらしい一年間を思い出し、この交流をきっと良いものにしたいと願いました。

7月になってようやく居住地校交流に向けての話し合いが行われました。実は居住地校交流が盛んに行われている関西地区を中心にした研究会があることを知り、大阪や福井、横浜などの実践の事例を勉強したものですから、その話し合いの場で私はいきなりこれまで何年もかかって築き上げてきた他校での実践と同様の取り組みを提案してしまったのです。最初は穏やかな表情で聞いていた教頭先生の顔色が変わり校長先生も同席して次男のためにどういう交流をしたらよいのか、という話し合いから条件面での話し合いになってしまいました。その二日後に初めての交流は実施してもらえたのですが、制度にない取組みだけに、当事者が地域の学校と話し合いではなく交渉するような形になってしまったことは良くなかったと反省しています。


次に居住地校交流の実践内容についてですが、この2年間に12回の交流を行いました。平均すると学期に2回程度になります。全国には毎週居住地校交流を実践している方もたくさんいらっしゃいますし、2年生になる時には地域のPTAの方々の後押しで受入校にも階段昇降機を設置していただいたことを考えると交流の回数が少なくて残念に思います。3年生になった今年は5月、6月、7月となんとか月一回のペースを維持しています。居住地校交流に際しては、養護学校から教員の派遣がなく保護者が付き添って進めています。従って、交流日も養護学校と受入校の行事日程を見ながら、保護者が付き添い可能な日をこちらから両校に打診して決めていくようなやり方になっていますので、どうしても月一回程度を直前に決めるというようになっています。また、受入校は玄関が二階にあるため、交流の時には一階の保健室の外から自前のスロープを使って入り、階段昇降機を使って4階の教室に移動する、というように施設のバリアは高いものがあります。特に、トイレは次男の大型の車椅子で入ることができないために排泄が始まったら交流を止めて自宅に連れて帰っています。そのため、ほぼ毎回、2時限目から給食くらいまでの半日の交流に留まっています。

居住地校交流で良かったなぁという場面をいくつかご紹介したいと思います。


第一回目の交流の日には、私から1年生全員に対して話す機会を与えてもらいました。次男の障害のことやノーマライゼーションのことなどを話しましたが皆真剣に聞いてくれました。沢山の感想文の中に次男を受け入れてくれている言葉がありとても嬉しかったです。

その後の社会科の授業では、世界の国々について調べる内容の時に、たまたま養護学校でも「オーストラリア」について調べており、他の生徒と意見交換したり、先生の質問に答えたり、スムーズに参加して、共同学習を体験することができました。


○第二回目の交流は文化祭での行事交流でした。受入校も次男が楽しめるようにと配慮して日程を決めてくれたのでしょうが、ただ文化祭をお客さんとして見学するのではなく、次男も何か展示することで参加してはどうかと考えました。養護学校の担任や呼びかけに応じてくれた受入校の友達と相談しながら準備を進め、短い準備期間ながら展示物を作りました。教室の展示の隣には友達からの色々なメッセージを貼ってもらうスペースを作りました。地域の保護者もメッセージを寄せてくださり、友達の熱い思いが私達家族だけでなく、地域の保護者の方々にも伝わったと想うととても嬉しいことでした。

10月、11月と交流が中止になってしまいましたが、せっかくの交流の芽をつぶしたくないと思い、「交流だより」というチラシを作って受入校に持っていきました。養護学校での様子や文化祭のお知らせなどを案内しました。すると養護学校の文化祭に行きたいと言って見学にきてくれた生徒もいて、相互の交流ができました。


第三回目の交流では英語と生徒達が考えた学年レクをやることになりました。交流前の週末に代表の生徒たちが自宅に来てプログラムの説明をしてくれ、交流気分を盛り上げてくれました。英語の授業は英単語のクイズ形式のビンゴゲームです。先生は視野の狭い次男用に大きな模造紙に同級生達とイラスト付きでビンゴ用紙を作ってくれていました。友達と一緒に先生の言う英単語を聞いてイラストに○をつけて楽しく参加できました。

ただ、このような想い出も交流初年度だけだったように思います。受入校の先生方もそうそう特別な配慮をする余裕もなく、偶然の共同学習が続くわけもなく、保護者も様々な努力を怠り、結果として、2年生になってからの交流は、ただ自宅から学校へ連れて行き、授業には教室の後で見学させてもらい、給食も食べたり食べなかったり、というように淡々と行われました。同級生達も次男がいることが普通になってきたのかどうかわかりませんが、以前のようにみんなで近寄ってきてワイワイ話し掛けてくるようなことはなくなりました。思春期なんでしょうか、障害のある次男に優しくしている自分を見られるのが嫌、だというような態度を見せる子もでてきました。教科学習の内容も養護学校のレベルからドンドン乖離して共同学習が遠くなってきましたし、友達との関わりも少なくなり、何のために居住地校交流をしているのか、正直葛藤を覚える今日この頃です。


地域の同級生達とのかかわりを求めて始めた「居住地校交流」は、地域の方々の支援で実現できました。そして障害のある次男が地域での居場所を確保するためには、学校という場だけの「居住地校交流」だけで実現するものではないということを教えてもらいました。学校では無愛想な子がお祭りや普段の買い物やゲームセンターなどでは話し掛けてくれたり、その逆の子がいたり、親にとっては葛藤ばかりの取り組みではあるけれども、そういう日常の先に「地域における生活基盤」があるのだと思っています。小学校ではほっておいてもふれあい交流が進みますが、中学校では交流を深めるための環境設定が必要であると感じています。行事交流もその一つですが、通常交流においても、障害特性に応じた配慮や特別な支援が必要です。受験を控えて厳しいかもしれませんが、共同学習が基本的な交流活動として定着してくれることを望みます。共同学習の中で障害のある児童生徒が自分なりのやり方で参加することで、人間性を認めてもらいお互いが尊重し合える関係が持てたらいいと思います。受入校の生徒にとっても、障害のある友達への必要な支援を自ら考えるという体験は普段にない自主的、創造的な活動であり、心のバリアフリー以上に重要な教育的要素だと思います。次男のケースのように生徒に交流の計画をさせるような取り組みは大変良かったと思います。


このように考えますと、受入校側にとってもかなり負担のかかる取り組みであると思います。それだけに受入校には、養護学校から居住地校交流でやってくる児童生徒、今後は支援籍としてやってくる児童生徒が、本来は地域の同級生達と同じ自分達の教え子だという意識をもっと高めてもらいたい、支援籍という制度になって仕方なくやるというのと、本来自分の生徒だと思ってやるのとでは、おのずと内容が変わってくるのではないかと思います。

まもなく義務教育課程を終えることになります。「居住地校交流学級」が支援籍と制度化され、その恩恵を受けられないのがとても残念ですし、小・中学校で築いたものを閉ざしてしまうこともとても残念です。地域の同級生達には「○○養護学校と学校交流している○○北高校に進学してよ」と言ったりしていますが、高等部における居住地校交流学級って、どんなイメージになるのでしょうか。より広域で選択肢が広がる高校教育では、もう「居住地校交流学級」という言葉ではカバーできない気がしています。やはり「支援籍」になるのでしょう。高等部卒業前後から行う職業訓練なども見据えると、普通高校だけでなく職業訓練校や専門学校、あるいは福祉的な施設との交流があってもいいのかもしれません。そして養護学校卒業後の地域における生活基盤を求めて進めてきた「居住地校交流」が卒業後にどんな役割を果たしてくれるのか。就労や自立生活に向けてどんな風に役立ってくれるのかまだ見えませんが、先生方や地域の方々と一緒になって家族全員で考えていきたいと思います。
(終)