東京公演    高山公演

Vox One プロフィール

(2003年 各メンバー執筆、松岡和訳)


 

Jodi Jenkins(ジョディ・ジェンキンズ)略歴

1971年4月ルイジアナ州南部の敬虔なバプテスト派一家に生れる。曾祖父母、祖父母及び母親がみな音楽家であったこともあり(主に教会で演奏)、4歳でピアノを弾き始め、6歳から10年間に渡りレッスンを続ける。母親いわく「彼女はよちよち歩きができる以前に歌うことができた」ため、幼少の頃から教会でゴスペルを歌い、マヘリア・ジャクソン、アレサ・フランクリンなどを聴き親しむ。小学校から高校時代を通して合唱、ボーカルグループなど積極的に参加。
アカペラとの出会いは、高校時代にGlad(クリスチャン・バンド)の出したアカペラアルバムの一枚目を聴いた時。1989年、バークリーへ進学したところで今度はTake6の音楽に打ちのめされる。バークリーへ来るまで正式な声楽レッスンを受けたことがなかったジョディだが、刺激的な音楽環境の中、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ボーン、ビリー・ホリデイなどジャズボーカルの頂点にあるアーティストの作品に触れることで大きく成長し、ゴスペルのみならずポップ、ジャズと様々なスタイルをこなせるボーカリストとして名を馳せる。そのような状況下、1991年にソプラノを探していたVox Oneとの出会い。それは彼女の人生における最大の転機だったといえる。ジョディのゴスペル経験がグループのジャズサウンドに新たなる側面を増し加えたことはいうまでもない。CASA(米国アカペラ連盟)のCARAS(アカペラレコード大賞)では1994年にレーベル未契約プロバンドの最優秀ソリスト部門で次点入賞、1996年にも最優秀女性ボーカリスト部門の次点入賞をとげた。この時の寸評は以下の通り。「ジョディは同年代の歌手の誰よりも深い響きのある声を持ちながらも、なお明るく若々しいサウンドを提供してくれる。あまりにもゴージャスな声質なため、苦しみ痛みの表現想像しがたく、ジャズには心地よすぎるかなと思われるが、なんのその。エラ・フィッツジェラルドはペーソスに寄りかかることなく50年もの輝かしいキャリアを積んだではないか。ブルース歌手はいくらもいるが、ジョディの歌声は今後も長く我々を楽しませてくれるであろう。」ビリー・ジョエルやマンハッタン・トランスファーがバークリーを訪問した際ジョディは学生バンドの一員として演奏。またVox Oneメンバーとしてレイ・チャールズ、シカゴ、パースエイジョンズなどの前座をもつとめる。さらにはコマーシャル参加も多くあり、テレビではシアーズ(デパート)、アイスクリームのTCBY、公共放送機関の告示など。ラジオでは電話会社ベル・アトランティックやBoston.comのコマーシャルで声の出演。リチャード・ルイス主演の映画"Game Day"に流れるバック・ボーカルの一員でもある。
1998年からは母校バークリーの声楽科で教えはじめるが、1999年テネシー州ナッシュビルに移動。アレグロ・ミュージックスクール及びメロディ・ミュージックスタジオにてピアノ、ボーカル、ハープを教えるほか、地元のファンクバンド Skyline Drive のボーカリストとして活動。2003年夏ボストンへ戻り、再びバークリーの声楽科で教鞭をとる。


 

Paul Stiller(ポール・スティラー)略歴

1963年3月バージニア州生。父の仕事に伴い、家族はニューヨーク州、ミネソタ州と移り住む。ポールは3歳でピアノを弾き始め、小学生の頃にはすでにラジオから流れる音楽のピアノパートを耳でコピーするほどのめりこんでいた。正式なレッスンを受けたわけではないため全て耳からの学習であったが、ピアノは幼い彼にとって何にもまさる宝物だったといえる。9歳になってからは学校のオーケストラでチェロを弾き始める。歌に興味を持ち始めたのもこの頃で、イーグルス、アース・ウィンド&ファイヤ、スティーリー・ダンなど70年代の優れたポップ・ボーカルグループから多大な影響を受け、中学高校ではコーラスやミュージカルに参加した。80年代初め、歯科医を目指してウィスコンシン州立大学オー・クレア校に入学後、初めてバンドに加わる。J.D. and theBack-AlleyMadmenという10人編成のR&Bバンドでポールはキーボード及びバックコーラス担当。このバンドで活動した三年の間に和声や理論を体で覚えた他、貴重なアンサンブル演奏の基礎も学ぶことができた。国内ツアーでスティービー・レイ・ボーン、ドワイト・ヨーカム、アトランタ・リズムセクションなど著名なバンドの前座をつとめる。その一方、ポールは学内でアカペラグループ The Innocent Men を結成し、ボーカル・インプロビゼーションやボーカル・パーカッションに挑戦。この頃はもっぱらインストルメンタル及びフュージョン・ジャズを聴いていた。特に好んで聴いたのはハービー・ハンコック、マイルス・デービス、マッコイ・タイナー、ウェザー・リポート、ブレッカー・ブラザース、タワー・オブ・パワー、チック・コリア・エレクトリック・バンドなど。
自分の音楽家としての可能性を試すべく1987年春バークリ−音楽院に入学したポールは、同校でボーカル・ジャズ及びインプロビゼーションに興味を持つ学生仲間に出会う。キーボード・プレーヤーとして忙しい日々を過ごすかたわら、インプロビゼーションを中心とする学内アンサンブルボーカル・サミットのメンバーとして活動。Vox Oneが結成されたのはちょうどこの頃で、グループに加わることによりボーカル・アレンジ及びタイトなジャズ・ハーモニーを歌うことの楽しさを発見する。また、80年代以来ボーカル分野で画期的な活動をしているボビー・マクファーリンと共に一週間歌う機会を与えられたことも、その後の彼の活動に大きな影響を及ぼしている。
1995年秋よりバークリーの聴音学科で教鞭をとっているポールは、Vox One以外でもClub D'Elf, Sal DiFusco Band, Mark Shilansky Groupなど地元のバンドでキーボード、ボーカル、パーカッションなどで参加する他、RhythmSlamのメンバーとして国内をツアーした。Vox Oneのアルバムプロデュース経験が評価され、ここ数年はその方面での依頼も多く、地元のバンドやフロリダ州を基盤とする Toxic Audioなどのアルバムプロデュース担当。韓国など海外からの問い合わせも来始めている。


 

Tom Baskett (トム・バスケット)略歴

1968年4月、ミズーリ州カンザス・シティの音楽一家に生まれる。カンザス・シティは米国で発達したブルースの中でも特徴あるスタイルの発祥地であり、トムの祖父は当地に住み着く以前、プロのギタリストとして Jewell Gospel Trioというグループと共に全米を回った経験があった。祖母はピアノとオルガンを弾き、母はプロのゴスペル・シンガーとして子供の頃から姉妹と共に The Jones Sisters として国内をツアーしていた。そういう環境下、トムはゴスペル音楽を聴きつつまた歌いつつ育ったわけである。彼の最初のソロ演奏は4歳の時。おじがドラムを叩き、家族の古くからの友人がベースを弾くのを見たトムはそれらの楽器に魅せられ、自分も5歳からドラムを叩き始めた。
ゴスペルと並んでトムが聴き込んだのは70年代初頭から中盤のファンク及びR&Bバンド(アース、ウィンド&ファイヤ、ジェームズ・ブラウン、ジョー・テックス、ビリー・プレストン、ジャクソン・ファイブなど)、またジョージ・ベンソン、ピーボ・ブライソン、ルーサー・ウ"ァンドロスなど70、80年代の優れた男性歌手たち。また、ラップ、ヒップホップの先駆者たちも彼の音楽形成に大きな影響を及ぼした。
トムにとって正式な音楽教育はまず8歳でコロラド州コロラド・スプリングスに引っ越した時だといえる。小学校で譜面に落とされた音楽の読みと和声の基本を学び、卒業前には高校でのミュージカルに端役で出ないかとの誘いを受けるまでになった。中学でも音楽プログラムへの勧誘を受け、7年生(日本の中一)の時には課外活動として Maestosoという12声編成の室内楽アカペラ・アンサンブルを仲間と共に結成。この他にも学内での選抜アカペラ・アンサンブルに加入。
高校では学校始まって以来の最年少シンガーとして室内楽アンサンブル及びボーカル・ジャズアンサンブル両方からお呼びがかかる。これらのグループは様々なアカペラ及び伴奏付きの曲をレパートリーに持ち、コンテストなどでも何度も受賞している有数のアンサンブルであり、トムは必要に応じてテナーもベースも歌いこなすことができた。さらにこの頃彼はマーチング・バンドのドラム隊に加わる他、ミュージカル三本に参加。高校締めくくりの役はウェスト・サイド・ストーリーのトニー。また、その歌唱力、初見力及び全体的な音楽性が買われて全コロラド州のコンテストで最優秀テナーに選ばれた。
17歳の時にはコロラド・スプリングス市主催で行われたミュージカル「ザ・ウィズ」のかかし役に抜擢され、その演技を賞賛した記事を発端として6回の売り切れ公演、のべ13,000人が駆け付けたという経験もあった。
1986年、18歳の時授業料全額分の奨学金を受け、バークリー入学。パフォーマンス及びスタジオ・プロダクションとエンジニアリングを専攻する。コンサート、レコーディング・セッション、ジャム・セッションなど多岐にわたって参加。一年目にしてマサチューセッツ州主催宝くじのためのラジオ・コマーシャルの録音に携わる。在学二年目の終わりには松岡由美子から誘いを受け、Vox Oneの一員となる。
音楽家となる夢の他に、トムにはもう一つ長年の夢があった。敬虔なクリスチャンとして、アフリカのどこかにおいて宣教師を育てる仕事につくこと。それをかなえるための一歩として、1996年よりボストン近郊の神学校で修士課程をはじめる。あいにくVox Oneとの両立はならず、1995年末をもってグループ脱退。しかしその間も教会における音楽活動は続け、礼拝での音楽リーダーとして活躍。修士号取得後は同教会において副牧師的な存在でもあった。
1999年から2年間は母校バークリーに講師として戻り、松岡、スティラ−と並び聴音学科で教えた。2001年夏、妻の進学志望に伴いテキサス州ダラスへ移る。最初の1年は地元のコミュニティ・カレッジで声楽を教え、いうまでもなく教会でも活発な音楽活動を続けている。2003年夏、ボストンへ戻り、地元の教会でフルタイムの仕事につくかたわらバークリーでも聴音を再び教えている。


 

Paul Pampinella (ポール・パンピネラ)略歴

1968年5月ニュー・ジャージー州生。6歳の時ピアノのレッスンを始め、8歳から15歳の頃まではバーガー・キング、ケロッグ、ナビスコ、フォルクスワーゲンなど多くのコマーシャルを子役として歌う。12歳でギターを弾き始め、その頃から将来プロのバンドに入って演奏する夢を持ちはじめる。ギターレッスンは14歳の頃から三年続ける。中高を通してロックバンドでギターとベースを弾き、ボーカルも担当。16歳の時から2年間音楽理論と和声、聴音のレッスンを受ける。好きなバンド・アーティストはレッド・ツェッペリン、ピンク・フロイド、ポリス、スティーリー・ダン、ザ・フー、デペッシュ・モード、デイビッド・ボウイー、U2、トマス・ドルビー、ハワード・ジョーンズ、ジェネシス、ピーター・ゲイブリエルなど。
1986年バークリ−入学。同校では編曲専攻。各種アンサンブル、また他の学生のプロジェクトなどを歌う機会に多く恵まれる。そういう中でVox Oneのオリジナルメンバーとして選ばれる。グループではバリトンを歌い、オリジナル曲及びアレンジを数多く提供する他、マネージャー、エージェント、会計係も担当。
在学中から写譜にも携わり、ボストン・ポップス、ゲーリー・バートンなどのアーティスト及び地元の出版会社のための仕事を引受ける。
1997年末Vox One活動停止宣言直後に、同じくボストンを拠点とする男声グループ Five O'Clock Shadow (FOCS)に加入。以来グループの中心メンバーとして活躍。音楽的には、ロックバンドのギタリストやベーシストが使うエフェクターなどを声に駆使したサウンドが特徴。楽器がなくともガンガンのロックができることが売り物で、いわゆるアカペラというよりボーカル・バンドという呼称の方がふさわしい。国内では演奏活動の他「ボーカル・チャレンジ」と称するプログラムを掲げ、高校、大学で若い世代に発声から編曲、公演、リハーサルの仕方に至るまで肉声の可能性を教えるワークショップを開催。ジェームズ・ブラウンやパティ・ラベルの前座をつとめ、ボストン・ポップスとの共演も果たした。日本へも1998年と1999年の間に三回行っている。2004年にも来日の話が出ているとのこと。テレビ出演も数多くあり、VH-1という音楽ビデオ番組専門のチャンネルにおける "//break.through/"という番組で最優秀レーベル未契約バンドの一つに選ばれた。ポールが加入した後の発表アルバムは、1998年の "So There"、1999年のクリスマス向けEP "Misfit Toys"及び2001年の"Wonders of the World"。
2002年の夏からはバークリーの講師陣に加わり、声楽科で教鞭を執っている。


 

松岡由美子とVox One略歴

1957年10月 東京生。
1960 - 62 父の仕事に伴い英国ロンドンで生活。
1962 帰国後ピアノのレッスン開始。この時受けた聴音の訓練が後の音楽活動に多大な影響を及ぼす。でもピアノの練習はあまり好きではない。
1969 - 71 二度目のロンドン暮し。現在の英語力の基礎が固まる。サマーキャンプでビートルズの音楽に出会い、英米のポップ/ロック音楽に目覚める。
1971 帰国。公立の中学になじめなく、母の苦心の末玉川学園中学部編入。第一日目の朝礼で四部合唱の歓迎を受け、一気に玉川っ子となる。ラジオで音楽を真剣に聞き出したのがこの頃。
1973 玉川学園高等部入学。ブラスバンドをやりたいと思いつつも、吹奏楽器の経験皆無のため断念。合唱部のコンサートでそのハーモニーに魅了され、入部。一年目の終わりにはピアノ伴奏者としての地位を確立。
1975 父三度目の英国赴任辞令。中三の妹と高三の姉(私)は祖母と共に卒業まで日本に残ることになる。12月、高等部展(学園祭)における演劇部のミュージカル"Godspell"のバンドメンバーとしてピアノ、キーボードを担当。バンドはその後トマトビートと名乗り、都内で何回か演奏。この時に紹介された音楽は後々までも自分の作編曲に深い影響を与えている。冬休みにラジオでSingers Unlimitedのクリスマスアルバムを聞き、アカペラの魅力に圧倒される。いつの日かこんな音楽をやりたい、と思う。彼等の音楽を耳コピー(transcribe)することが趣味のひとつとなる。
1976 両親と共に英国で生活したいと思いつつも、受験に合格したので国際基督教大学(ICU)入学。夏休みに家族を訪ね英国に遊びに行く。ロンドンのヒースロー(Heathrow)空港に着いた時点で休学を決意。
1976 - 78 Guildhall School ofMusicでピアノのレッスンを受ける他、スペイン語、フランス語、モダンダンスとフラメンコダンスを勉強。この間に英国での永住権を入手。
1978 ICU復学。日本語学専攻(日本語教授法を含む)。クラスメートの間でGodspellを上演する案が出、ICU Musical Association (IMA)結成。かつてのバンド経験がある故、唯一Godspellを知っている者としてディレクターに推される。
1979 演出経験の無さが裏目に出、ディレクター退任。スタッフとして残るが、この時の失敗は後々まで自負心(というかself-esteem)に悪影響を及ぼす。一方Godspellそのものは成功に終わる。
1980 友人(うち何人かはGodspell関係者)がマンハッタントランスファーのコピーバンドを結成、学内外で演奏。自分がやりたいことを他の者が目の前で行う悔しさを味わう。いつの日かGodspellでの苦い思い出とこの悔しさを乗り越えるぞと自分に誓う。IMA二本目のミュージカル"The Wiz"にキャストとしてオーディションを受け、Tin Man (ブリキ男)の役を手に入れる。この経験は自身回復にかなり役立つが、自分が演劇に向かないことをも認識。
1981 The Wiz上演。その後学内で友人の組んだEast Side Lineというバンドでバックボーカルを歌う。
1982 ICU卒業後、外務省外郭団体国際交流サービス協会(IHCSA)に勤務。何らかの形で音楽を続けるべく、杉並の飯田ジャズスクールにて理論(その後編曲)の勉強を始める。編曲の講師にボストンのバークリー音楽院(Berklee College of Music)への進学を勧められる。高三の冬に受けた衝撃と、その時に抱き始めた夢が実現可能となるかもしれないことを自覚。
1985 IHCSA退社。休暇のつもりで英国に残った妹を訪ねるが、IHCSA時代の関係者を通して日本語を教える仕事を入手。居候先にあるピアノ(ほぼ半音低く調律されてあった)を時々弾きながらバークリー進学を考える。
1986 バークリー入学。編曲専攻(Commercial Arranging)を目指す。学内の合唱アンサンブルCollege Singersに入る。
1987 - 88 念願のVocal Group Arrangingのクラスをとるかたわら、初見力を生かし他の学生のプロジェクトを片っ端から歌う。これらのプロジェクト録音及びCollege Singersで知り合った仲間に自分の中間プロジェクトを歌ってもらい、後のVox Oneメンバーが出会う。Singers Unlimitedの編曲者ジーン・パーリング(Gene Puerling)がバークリーを訪れた際、学生グループの一員として彼から指導を受ける。編曲専攻の優秀学生に贈られるQuincy Jones賞受賞。88年5月、卒業生のためのコンサートで自分の編曲した曲を指揮。
1988年11月 Vox One結成。当初のメンバーはソプラノに以後独立してソロ活動を行っているPaula Cole、テナーPaul Stiller、バリトンPaul Pampinella、ベースTom Baskett及びアルトに松岡。
1989 初の学内公演で大成功をおさめる。北コロラド大学教授でボーカルジャズ教育の第一人者Gene Aitkenがバークリーを訪れた際、指導を受ける。後に同大ジャズプレス(出版社)より自分の編曲の数々が売り出されるようになる。Duke Ellington賞(作編曲専攻の優秀学生向け)受賞。5月、Summa Cum Laudeで卒業、直後にバークリーで知り合ったアメリカ人ギタリストTom Youngと結婚、永住権確保。バークリーのCareer Resource Centerスタッフとして働き始める。
1989-91 Vox Oneは何回かのメンバー交替を経るが、ソプラノJodi Jenkinsが加わった時点で安定。
1992 CRC退職、音楽と全く無関係のソフトウェア会社Interleafに秘書として就職。一日目にしてこの仕事が自分の生涯をかけるものではないことを深く認識。Vox Oneの活動は継続。12月31日のFirst Night(大晦日にボストンの街中をあげて行われるお祭り)に初参加、以降95年まで毎年このイベントで大好評を博す。
1993 Interleafに就職一年後、バークリーのEar Training Department(聴音学科)から招きを受け、助教授として復帰。Vox Oneは91年以来安定したメンバーでグループ初のアルバム(タイトル同名)を録音。地元のインディレーベルMelville Park Recordingsより発売。ボストンの名門ジャズクラブRegattabarでアルバム発表コンサート。以後このクラブは Vox One を年二回レギュラーとして迎えるようになる。Boston Magazine誌主催のベストオブボストン賞ジャズアカペラ部門で受賞。
1994 サンフランシスコに拠点を置くContemporary A Cappella Society of America (CASA - 米国アカペラ連盟)が主催するContemporary A Cappella Recording Awards (CARA - アカペラレコード大賞)で、"Vox One"が無契約のプロバンド部門のAlbum of the Yearとして選ばれる。1月、International Association of Jazz Educators (IAJE - 国際ジャズ教育者協会)全国大会がボストンで開催され、そこで演奏。3月、アカペラコンテストHarmony Sweepstakesの地区予選を勝ち抜き、5月サンフランシスコでの決勝戦で二位受賞。4月、コロラド、ユタ州演奏旅行。市内、近郊での仕事も増える。
1995 4月、ペンシルバニア州で開催のEast Coast A Cappella Summit(東海岸アカペラサミット)にて演奏。春、日本のレコード会社バップと契約、6月"Vox One"が日本で発売される。米国向け二枚目"Out There"録音開始後、日本向けの二枚目"Say You Love Me"を同時期に録音。8月、ロックバンドChicagoの前座をつとめる。Boston Music Awards (ボストン音楽賞)地元ジャズアーティスト部門候補に挙がる。9月よりテナーStillerがバークリーの聴音学科講師陣に加わる。11月"Say You..."のプロモーションのため来日。ラジオ、テレビ、新聞など数々のイベントをこなす。帰国後"Out There"の発売記念コンサートをRegattabarで行う。First Night公演後ベースのBaskett脱退。
1996 "Out There"がCARAのプロ部門でAlbum of the Year受賞。Baskettに代わってデンマーク出身のBenni Chawes加入。東海岸の数々の音楽フェスティバルで公演。地域の学校における指導活動も活発。ボストンではRay Charlesの前座として演奏。11月、カナダのオタワ市へ演奏旅行。一方松岡はvocal arranging(以降コース名がvocal writingと変わるが)をこの年の春学期から教え始める。夏、イギリスに旅行の際、Liverpool Institute of Performing Arts でvocal arrangingのワークショップを行う。
1997 4月、ミネソタ、ウィスコンシン州演奏旅行。7月、四枚目のアルバム"Chameleon"録音。金銭上、また人間関係上のきしみが解決できぬ状態に陥り、11月"Chameleon"発表コンサート後カリフォルニアでの西海岸アカペラサミットでの演奏を最後にVox Oneは活動を停止。バリトンPampinellaはその直後にボストンを基盤とする男声アカペラバンドFive O'Clock Shadow (FOCS)加入。以後その中心人物として活躍。
1998 Vox Oneの人気は解散後も衰えず、"Chameleon"がCARAのベストジャズアルバムを受賞する他、グループそのものがArtist of the Yearの栄誉を受ける。日本では大学でのアカペラ熱が高じるにつれて名声が高まり、慶応、筑波などの大学生との接触が97年冬以降一気に増える。3月、アカペラコンテストHarmony Sweepstakesの地区予選審査員として奉仕。4月、Stillerと松岡はメーン州高校ボーカルジャズフェスティバルの審査員として招かれ、以後ほぼ毎年続けることになる。また、ニューヨークを基盤とするアンサンブルWestern Windから松岡が招きを受け、ジャズファカルティとして夏のワークショップに参加。この時の思いがけぬ成功が再びアカペラ活動を始めるきっかけとなる。その後このワークショップ指導は毎年恒例のものとなる。松岡はVox Oneとは異なるメンバーで新たなバンドを組み(In the Mixと命名)編曲、演奏活動に入る。9月、Jenkinsがバークリーの声楽科講師として就任。FOCS新アルバムSo There発表。彼等はもはやアカペラバンドと名乗らず、楽器音を声でまねるボーカルロックバンドとしての路線を固める。
1999 米国内の他のアカペラグループ(及び高校、大学など)からの編曲もしくは指導依頼に応じる日々が続く。2月、テナーStillerのバンドでJenkins, Baskett及び松岡がバックコーラスメンバーとして演奏。この時ボストン訪問中だった慶応大学アカペラサークルKOE (Keio OfficialEntertainment)のメンバーに与えた影響は大きく、当サークルにおけるVox Oneの人気はゆるがぬものとなる。3月、上記4人で地元の作曲家Walter Robinsonの書いたゴスペル組曲"Moses"初演にて演奏。夏、Jenkinsがテネシー州ナッシュビルへ引っ越し。9月、Baskettがバークリーの講師として聴音学科に就任。Stillerは助教授に、松岡は準教授にそれぞれ昇格。11月、上記4人がVox Oneとして Indy Racing League (インディアナポリスのオートレース連盟)授賞セレモニーにゲスト出演。テレビでも放送される。FOCSクリスマス用ミニアルバムMisfit Toys発表。
2000 4月、ニューヨークのリンカーン・センターで行われた大学対抗アカペラ全国大会の審査員に招かれる。一方、In the Mixの活動はやや停滞ぎみ。自分にはやはりVox Oneしかなかったと気付いた時点で脱退。8月、東京荒川のスタジオアルシス(代表順井宏子)の招きにより、初めて日本でのアカペラワークショップ開催。9月末CASA日本代表犬飼將博の招きで、岡山アカペラフェスティバルの一環として行われたワークショップにも講師として参加。全国各地からアカペラファンが集合。年末にはVox Oneを招いて岡山後楽園で演奏との話が持ち上がるが、予算等の都合で通らず。
2001 1月、アルシス主催のワークショップに再び招かれる。以後このイベントは定期的なものとして定着。2月、Western Windの冬期ワークショップに招かれる。これも定期的なものとして定着。3月、アカペラコンテストHarmony Sweepstakesの地区予選審査員として再度奉仕。夏、正岡子規没後100年記念イベントの一環として松山市からの委嘱で「病床六尺」の冒頭を英訳したものを合唱曲として作曲。10月に松山で初演。8月、Baskettがテキサス州ダラスへ引っ越し。この頃からStillerと松岡はVox Oneで再び活動できないかとの夢を語りはじめる。まずクリスマスアルバムの録音を企画するが、時間と準備の関係上、1年見送ることとなる。秋冬にかけて近郊各地でアカペラ指導にあたる。FOCS新アルバムWonders of the World発表。
2002 1月、アルシスのワークショップの他、母校ICUにてAlumni Open Lecture Series(同窓生公開講演シリーズ)の一環として講演。音楽講座、松岡の作品を歌うワークショップも含む9時間の大規模な企画となった。夏、三日に渡り、クリスマスアルバム用に書かれた新しい編曲の読みと練習のため久々に5人が集う。Pampinellaバークリーの声楽科講師として就任。クリスマス時期にはBaskett, Stiller、Jenkinsと松岡の4人がそろってキャロリング活動。
2003 1月、神戸にて周辺9大学のアカペラサークルメンバーを対象に、編曲法を中心とする1日ワークショップ開催。アルシスのワークショップともども、好評のうちに終わる。夏にはBaskett, Jenkinsともボストン及びバークリーに戻り、グループの再結成が確実なものとなる。
2004 2月、バークリーにて再結成後初の演奏。松岡は高山市郊外の上宝村にある中学校が合併されるのにあたり、校歌を作曲。6月、ボストン郊外で公演を控える他、11月末から12月にかけて上宝村閉村記念コンサートへの招待が確定している。


 

Vox OneのContemporary A Cappella Recording Awards (アカペラレコード大賞)受賞一覧

1994年(1993年発売のものに対し授賞。以下同様)
Unsigned Professional Best Album (レーベル未契約プロバンド最優秀アルバム):Vox One
寸評「ポップと異なり、ジャズの才能はその発達に時間がかかる。何年もの練習や演奏活動も単なる技術以上の可能性があって初めて花開くものだ。バークリー音楽院卒業生である彼等は、そうやって優れたレパートリーを作り上げ、ファン層を少しずつ増やしてきた。数名のすばらしいリード・ボーカル、珠玉のブレンド、最高のボーカル・パーカッションと気品を備えたこのバンドはデビューアルバムから察するに今後の成り行きが注目される。」
Unsigned Professional Best Song (レーベル未契約プロバンド最優秀曲): Move On 寸評 「ジャズとポップはなかなか相容れないものだ。コードがサビの邪魔をしたり、はたまたポップ感覚がジャズの非対称的サウンドを破壊したり。ところが、Vox Oneはこの曲においてそれを見事に乗り越えている。ジャズ・サウンドをうまく融合させた先輩バンドTotoやSteely Danからヒントを得て。」
Unsigned Professional Best Soloist Runner-up (レーベル未契約プロバンド最優秀ソリスト次点):Jodi Jenkins(寸評上記)
1996年Album of the Year(最優秀アルバム): Out There
寸評 「最優秀アルバム候補は軒並み強豪ぞろいであったにもかかわらず、さして派手な宣伝すらなかったVox OneのアルバムOut Thereが受賞。これはひとえにこのアルバムには全てが包括されているから、といえるだろう。ひときわ優れた曲づくり、強烈なアレンジ、すばらしいソロ、超一流のプロデュース。これはまぎれもなく1995年の掘り出し物だ。Vox Oneはポップ、ロック、ブルース、ジャズそれぞれの要素を妥協することなくやすやすと交えた音楽を作ることで、聴き手にとって完璧かつたまらない作品を提供してくれた。Out Thereはコンテンポラリー・アカペラの頂点に立つアルバム、といってもおかしくない。」
Best Contemporary Song Runner-up(最優秀コンテンポラリー曲次点): Whisper When I Speak
寸評 「どんなスタイルであろうともVox Oneにかかればすべてがすばらしくなる。"Whisper When I Speak"は結婚式をテーマとした美しいバラードで、一般受けする要素を十分持ちながらも彼等特有のサウンドに仕上がっている。今後あまたの結婚式でこれが最初のダンスに使われるであろうことは想像に難くない。」
Best Female Vocalist Runner-up(最優秀女性ボーカリスト次点): Jodi Jenkins(この時の寸評は1994年のものとほぼ同一)
Best Male Vocalist Runner-up(最優秀男性ボーカリスト次点): Tom Baskett寸評 「トムはカメレオンのようなボーカリストだ。リードを歌うと、ベースにはとても聞こえないという、アカペラ界では珍しいベース。ボビー・マクファーリンの膨大な音域を彷佛とさせるような、伸びのあるテナー声だが、残念ながらこのアルバム以降彼はグループを脱退している。」
Best Jazz Song (最優秀ジャズ曲): Searching for You (Real Group の What are you doing the rest of your life と同点首位)
ウェイン・ショーターの"Footprints"を原曲とする"Searching for you"は、そのあまりのスケールに普通のジャズアカペラグループなら尻込みするような曲である。しかし、Vox Oneのバージョンはオリジナルの雰囲気を見事に再現している。ポール・スティラ−の歌詞も手伝って、7分にわたり、不協和音に満ち気難しいハード・バップとジャズの心髄に突き進んで行く。
Best Doo-Wop/R&B Song (最優秀ドゥー・ワップ/R&B曲): That which you loveジャズグループとして知られているVox Oneがこのカテゴリーにおいても受賞。多才というほかないだろう。まあ、彼等の場合、たとえ電話帳を開いて名前を歌として読んだとしても、おそらく彼等独特のサウンドを作り上げたことだろう。人気の秘密はそこにある。"That which you love"においても、Vox OneをVox Oneたらしめる才能と声の一つ一つが見事に統合している。
1998年Artist of the Year (最優秀アーティスト)
寸評 「活動停止宣言をしてしまったVox Oneだが、その遺産は末永く残ることだろう。アメリカ最高のアカペラ・ジャズグループとして、安っぽいアレンジとけばけばしくも中身のないスキャットに長年悩まされていたボーカルジャズという分野に新しい息吹を与えてくれたその業績は大きい。ゆるがぬ気品と多岐に渡る音楽性を基盤としたVox Oneの音楽はコンテンポラリー・アカペラにおけるハーモニーの複雑さの先端を行くものだといえる。メンバー交替を経ながらも、彼等は常に先駆者として新しいサウンドをもたらしてくれた。97年発表の"Chameleon"は間違いなくジャズ部門での最優秀アルバムだったし、95年発表の"Out There"も最優秀アルバム賞のみならずいくつもの関連部門で受賞。ほぼ10年間の活動後、メンバー二人の脱退を機に、グループは活動停止宣言。ベースBenni Chawesは母国デンマークに戻ってソロ活動を行う予定。また、バリトンPaul Pampinellaは同じボストンのアカペラ仲間Five O'Clock Shadowに加入。しかし、Vox Oneのファンにはまだ希望が残されている。テナーPaul Stiller、アルト松岡由美子及びCARA複数受賞に輝くソプラノJodi Jenkinsは今でも音楽業界で活動しており、グループの再生がいつ起るかもわからない。それまでは彼等のレコーディングがアカペラ界で輝き続けることだろう。」
Best Jazz Album (最優秀ジャズアルバム): Chameleon
寸評 「波打つ最初のコードを聴いただけで、このアルバムがいかにワイルドな冒険になるか、想像が付くというものだろう。一曲目の表題曲でスケールの大きい多拍子のアレンジにまず打ちのめされ、そこから最終曲"'Round Midnight"最後の一音に至るまで、息つく暇もないほどだ。ベースBenni Chawesの声、すばらしい編曲の数々など、これまででも最高の出来といえる。いつの日かまた彼等の音楽を楽しむことができることを願うものだが、仮にそうならないとしてもなんという輝かしい退陣ぶりであることか。」
Best Jazz Song(最優秀ジャズソング): Chameleon
寸評 「退陣を控えてもなおVox Oneはその画期的な音楽をもって数多くの賞をかっさらっていく。表題曲"Chameleon"はまさにVox Oneの真髄の結晶である。信じられないようなボーカル・ギター、めくるめくテンポ変換、そして非のうちどころないプロデュース・スタイルは今後多くのバンドがまねるに違いない。これが彼等の最後の作品かと思うだけで涙するボーカル・ジャズファンがどれほど数多くいることだろう。」



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