| 鎌倉散策 | ||||
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| 鎌倉散策をより楽しくする豆知識 | 歴代将軍・幕府の職制・執権政治・得宗・日蓮略歴・幕府の組織・参考HP紹介 |
| 第1回鎌倉散策(’04・03・02) | 主として北鎌倉周辺の北条氏縁の大寺院。加えて鶴岡八幡宮・鎌倉大仏 |
| 第2回鎌倉散策(’04・10・13) | 鎌倉駅以東の旧跡が主体 |
| 第3回鎌倉散策(’05・10・12) | 主として鎌倉駅以南の足利氏縁のお寺と旧跡が主体 |
| 第4回鎌倉散策(’06・05・09) | 鎌倉の寺院のうち3分の1は日蓮宗という、今回は主として日蓮宗の寺院を散策 |
| 第5回鎌倉散策(’07・03・23) | 極楽寺の存在と、極楽寺坂切通しの攻防及び新田義貞の稲村ガ崎伝説が中心 |
| 第6回鎌倉散策(’07・11・27) | 北鎌倉から山を越え、扇が谷に抜け旧鎌倉の北西部源氏山周辺の寺社が主体 |
| 第7回鎌倉散策(’08・04・22) | 大仏切り通し・朝夷奈切り通しの散策が主体 |
| 第8回鎌倉散策「東筑会第1回」(’08・12・9) | 鎌倉五山と鶴岡八幡宮が主体 |
| 第9回鎌倉散策「東筑会第2回」(’09・5・12) | 若宮大路を境にして、鎌倉東部の旧跡と大仏ハイキングコースが主体 |
| 第10回鎌倉散策「東筑会第3回」(’09・12・1) | 頼朝時代の御家人比企一族、三浦一族の滅びの地、北條氏の壮絶な終焉の地が主体 |
| 第11回鎌倉散策「東筑会第4回」(’10・5・11) | 天気の都合で今回は、鎌倉南部及び東部のお寺が主体となりました。 |
| 第12回鎌倉散策「東筑会第5回」(’10・11・16) | 北鎌倉の古刹を巡り、新田義貞の鎌倉攻めの要となった極楽寺切通し、稲村ケ崎を訪ねる。 |
| 第13回鎌倉散策「東筑会第6回」(’11・5・10) | 旧蹟を訪ね北鎌倉から扇谷へ、午後は五山文学の中心となった瑞泉寺を訪ねる。 |
| 第14回鎌倉散策「東筑会第7回」(’11・11・15) | 湘南四大寺院の一つ光明寺を皮切りに古刹古事を訪ね、午後は名越切通を歩きます。 |
| 第15回鎌倉散策(東京東筑会第8回) 2012年5月15日 |
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「散策コース」 午前中は今小路沿いの故事を尋ね午後は日蓮上人縁の寺を巡ります。 |
| 第14回鎌倉散策(東京東筑会第7回) 2011年11月15日 |
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![]() 総門 ![]() 山門 ![]() 本堂 ![]() 三尊五祖来迎の庭 |
光明寺「浄土宗関東総本山」 宗派・・浄土宗 創建・・寛元元年(1243年) 山号・・天照山蓮華院 開山・・然阿良忠上人 開基・・北條経時 本尊・・阿弥陀如来 この寺は四代執権経時が仁治元年(1240年)良忠を開山として、佐助谷に建てた蓮華寺をこの地に移し光明寺と改めたものである。良忠は大変徳が高く沢山の書物を著したので、没後伏見天皇から「記主禅師」の贈名を賜った。良忠のお蔭で関東から東北地方にかけて浄土宗が広まったといわれている。その後八代住職観誉祐崇上人は、後土御門天皇の命で宮中で十夜法要を行い、住職が高徳なのに感心した天皇が、明応4年(1495年)光明寺を勅願寺とし、関東総本山の称号を与え、十夜法会を許したということである。その後一時おとろえるが江戸時代徳川家康が、浄土宗学問所として十八檀林を定めたとき、芝増上寺に継ぐ学問所にえらばれた。家康から寺領の寄進を受けたり、日向延岡の内藤家からも寄進を受け、内藤家の菩提寺になってからは大名寺として栄えた。寺宝は内藤家寄進の「当麻曼荼羅縁起絵巻」(国宝)・「浄土五祖絵図」・「十八羅漢及僧像」(国重文)など絵画や彫刻が多数つたわっている。 見所:総門・・・欄間に龍の彫刻があり「勅願所」の額が掲げられている。
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![]() 本堂 |
補陀洛寺
宗派・・真言宗大覚寺派 創建・・養和元年(1181年) 山号・・南向山帰命院 頼朝が鎌倉入りした翌年(1181年)頼朝の祈願所として建てられたと伝えられ、当初は七堂伽藍を完備した大きな寺院だったらしい。この寺は、別名竜巻寺とも言われ度々竜巻や火災にあって、詳しい寺の由来は判らない。室町時代初期に復興されたが、現在の寺は大正13年に再建されたものである。寺は度々災難に会ったが往時をしのぶ仏像や貴重な品々の文化財が多くのこされている。 寺宝の中に平家の赤旗といわれるものがあり、平家の総大将平宗盛が最後まで持っていた旗を頼朝がこの寺に奉納したといわれている。 |
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![]() 本堂 |
実相寺
宗派・・日蓮宗 創建・・弘安7年(1284年) 山号・・弘延山 開山・・日昭上人 開基・・越後の太守風間信昭公 本尊・・一塔両尊四士 この場所は、曽我兄弟に父の仇として討たれた工藤祐経の屋敷跡と伝えられる。 日蓮が佐渡に在る時、日昭上人がその間、一門の教化・統率に当たった「浜土の法華堂」が寺の始まりとされる。日昭上人は、日蓮直弟子6人の筆頭で第二の日蓮と言われる人で、母親は工藤祐経の娘という。1284年法華堂を寺とし法華寺となりこれが実相寺の前身である。 一塔両尊四士・・・南無妙法蓮華経の題目が書かれた塔(一塔),釈迦・多宝如来両尊,四菩薩(上行及無辺行菩薩・浄行及安立行菩薩) |
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![]() 参道 |
五所神社
この神社は、明治41年(1908年)乱橋と材木座の両村が合併した時、八雲・三島・諏訪・金比羅・視女八坂の五つの神社を一緒にして祀ったので名も五所神社になった。祭神も多く大山祗命・天照大神・素盞嗚命・建御名方命・崇徳院霊で毎年六月の第二日曜日には、盛大なお祭りが行われている。庚申塔が十三基あり、弘長2年(1262年)の銘がある板碑が立っている。この板碑は重要文化財に指定されている。この神社には昔から歌われている「天王謡」が伝わっている。
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![]() 本堂 |
来迎寺
宗派・・時宗 創建・・建久5年(1194年) 山号・・随我山 開山・・音阿上人 ここには、もともと頼朝が三浦大介義明の菩提を弔うため建久5年に建立した真言宗の能蔵寺があったが、音阿上人が建武2年(1335年)時宗に改宗し寺の名も来迎寺となった。鎌倉三十三観音霊場第五番札所。境内には三浦義明の墓・多々良三郎重春や一族の墓がある
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![]() 帝釈堂 |
長勝寺
宗派・・日蓮宗 創建・・弘長3年(1263年) 山号・・石井山 開山・・日蓮上人 ここも松葉ヶ谷法難の跡という伝承がある。流されていた伊豆から戻って来た日蓮のために、石井藤五郎長勝が自分の屋敷内に、小庵を寄進したのが寺の始まりである。参道左手の一段高いところに、法華三昧堂といわれる祖師堂(五間堂という鎌倉時代独特の建築様式)があり、並びに新しく建てられた本師堂と呼ばれる八角堂がある。正面に帝釈天を祀る帝釈堂があり、その前に立つ日蓮上人像は台座をいれて高さ8メートルある。帝釈堂の右手には「久遠」の額がかかる小さい六角堂や報恩記念の多層塔が建っている。この寺の行事で有名なのは、二月十一日の水行である。(國祷会) |
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![]() 銚子の井 |
銚子ノ井 鎌倉十井の一つでまたの名を「石井ノ井」という。昔は近くにある「日蓮乞水」と混同されていたこともある。 枠の手前が片口のように突き出しており、この形が昔風の銚子に似ていることからこの名が付いたと思われる。 |
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![]() 日蓮乞水跡 |
日蓮乞水
鎌倉五名水の一つ、日蓮が安房の国から名越切通を越えて鎌倉入りをした時、この辺りで水が欲しいと思ったら、冷たい清水が湧き出した。これが大干ばつにも涸れることがない、日蓮乞水である。 五名水──金竜水 不老水 銭洗水 梶原太刀洗水 日蓮乞水 |
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![]() 切通し ![]() 切通し |
名越切通 この切通は史蹟になっている。鎌倉から三浦へ通じる重要な道で、名越トンネルの上に昔の古道の跡を残している。名越は古くは「なごし」と呼ばれた。その由来は「難越」にあったといわれるように、この山越えは険路であったことが、現在でも良くわかる。江戸時代後期の「鎌倉志」には、「名越切通は三浦へ行道也、此峠鎌倉と三浦の境也、甚険峻にして道狭、左右より覆いたる岸二所あり、里俗に大空洞・小空洞と云ふ峠より東を久野谷と云う三浦の地也、西は名越鎌倉の地也」と書かれている。この切通が開かれた時期ははっきりしないが、「吾妻鏡」の天福元年(1233年)八月十八日の条の名越坂の記事を素直に解すれば、この名越口はおそらく鎌倉の切通の中で最も早く整えられた可能性が大きい。周りは鎌倉を防御するに、効果的な大切岸が延々と築かれ、あたかも丘陵の全てが、鎌倉防衛の拠点とされていたという感じがする。何故なら北條氏が最も恐れていたのは、三浦一族の力であり一族が滅ぶまでは、ここは北條氏にとって三浦氏に対する一番重要な防禦地点だったと思われるからである。(鎌倉の史跡・三浦勝男氏による) 切通下の道路トンネルは、明治17年(1884年)に、次いで明治22年(1889年)横須賀線が開通し、かって葉山、衣笠を経て、横須賀から船で房総半島の安房、上総に渡り北上する古東海道の一部と見られていた名越坂の役割は終わった。 「吾妻鏡天福元年八月十八日の条」 |
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![]() 葬地面影のあるやぐら |
まんだら堂跡 普通には「まんだら」とは、神聖な領域に仏・菩薩を図絵で宇宙の真理を表したものと言われているが、ここでいう「まんだら堂」は、奈良の当麻寺の本堂を模した「曼荼羅堂」であると思われる。鎌倉時代おそらく三浦一族が滅んだ後と思われるが、名越山上が葬地とされ、その供養のためまんだら堂が造られ、その残骸が今に残っているのだと考えられる。 この広壮な墓苑が誰の供養のために、叉誰が造ったものか全く判っていない。一説には新田義貞の鎌倉攻めの時、激戦地となった乱橋の戦死者を葬った、あるいは北條氏の名越一族の菩提所であったと言われるが、その裏付けは何もない。域内に入ると周りの岸壁には約200穴に及ぶ「やぐら」群が並び、約6000㎡の広さに大小さまざまな、五輪塔や宝篋印塔が数百基あり、「やぐら」群のなかには、その中に五輪塔を横に寝かせてびっしり積み上げ、しかも同質の石で入り口を塞ぎ、塗りつぶした「やぐら」もある。まんだら堂近くにある二つの石廟も、葬地名越山と関係があると思われるが、どちらも盗掘されていて遺品は見られない(鎌倉の史蹟)。梅雨時には葬地に相応しい紫陽花がきれいである。 |
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![]() 本堂 ![]() 総門 |
法性寺 宗派・・日蓮宗 山号・寺号・・猿畠山法性寺 開基・・朗慶 開山・・日朗聖人 文応元年(1260年)松葉谷草庵を焼き討ちされた日蓮は、山王権現霊応の三匹の白猿に導かれて、当寺奥ノ院の西隣の窟に法難を避けたといわれる。日蓮は、この山を猿畠山と名付け、日朗に一寺の建立を命じたが、日朗は果たせないまま、元応二年(1320年)77歳で池上本門寺で死去し、安国論寺で荼毘に伏され、この山上の窟に葬られた。一寺建立の宿題は、日朗の弟子朗慶が果たした。ここは、日蓮第一の弟子日朗聖人の全身舎利を奉安する御廟(お墓)であり、長栄山池上本門寺、比企谷の長興山妙本寺両山の奥ノ院になっている。この管理は法性寺がしているが、一月二十一日の法要には両山からのお参りがある。 お猿畠・・・奥之院横の山、墓地を含むこの辺り一帯がお猿畠である。 大切岸・・・三浦一族の攻撃を防ぐ目的で北條泰時が、大勢の武士たちも動員して造成したと思われるが、堅固な切岸と平場が延々と築かれ、北條氏が如何に名越坂の防御を重要視していたかがわかる。 |
| 第13回鎌倉散策(東京東筑会第6回) 2011年5月10日 |
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散策コース
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![]() 亀谷坂切通し |
亀谷坂切通 鎌倉七切り通の一つで昔はもっと急で細い切り通であった。 |
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![]() 本堂
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薬王寺 宗派・・・日蓮宗 山号・・・大乗山 創建・・・永仁元年(1293年) 初めはこの寺は、梅嶺山夜光寺という真言宗の寺であったが、日像上人が日蓮宗に改めたと伝えられている。 その後三代将軍家光の弟の駿河大納言徳川忠長が1633年高崎で自刃(28歳)し、妻の松孝院殿がこの寺に夫の墓を建立し、多額のお金と広大な土地を寄進した。 見所・・・駿河大納言忠長の墓と元弘二年銘のある経文を刻んだ板碑 裏の墓地の松山城主蒲 生忠知の妻と娘の墓 |
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![]() 岩船地蔵堂 |
岩船地蔵堂 ここに祀られてる地蔵菩薩は、二体の童子立像を従えた60センチメートルほどの像で、頼朝の娘大姫の守り本尊と伝えられている。 |
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![]() 平景清牢跡 |
平景清牢跡 平家の残党上総悪七兵衛伊藤景清が死んだ土牢という伝説がある。(やぐら?) |
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![]() 本堂
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海蔵寺 宗派・・・臨済宗建長寺派 山号・・・扇谷山 創建・・・応永元年(1394年) もとは真言宗の寺であった。建長五年(1253年)六代将軍宗尊親王の命で藤原仲能が、ここに七堂伽藍を再建したが、元弘三年鎌倉幕府滅亡時に焼失した。 見所・・・雨宝殿の宇賀神(宇賀福弁財天のご神体)・「十六ノ井」・底脱ノ井 花木・・・花木が多い寺で、代表的なものをあげると、スイセン・梅・しだれ桜・海棠・キキョウ・ノウゼンカズラ・フヨウ・萩・シオン・カエデ・サザンカ・・・・ |
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![]() 相馬師常の墓 |
相馬師常の墓 相馬次郎師常は頼朝の重臣千葉介常胤の次男で下総相馬御厨(現在の我孫子市・流山市・柏市・沼南町など)の領主で相馬氏の祖となった人である。 |
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![]() 総門 ![]() 客殿 |
浄光明寺 宗派・・・真言宗泉涌寺派 山号・・・泉谷山 創建・・・建長3年(1251年) 地蔵菩薩立像(県重文)が安置されている。 裏山に「網引地蔵」とよばれる石の地蔵と国の史跡に指定された「冷泉爲相の墓」がある。 |
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![]() 泉ノ井 |
泉ノ井 鎌倉十井の一つ、この井戸の名をとってこのあたりを泉ケ谷とよんでいる。さらに細い道を登って山を越えると鶴岡八幡宮の脇に出られる。 |
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![]() 扇谷上杉管領屋敷跡石碑 |
扇谷上杉氏屋敷跡 室町時代の扇谷上杉氏は、山内上杉氏と共に、代々関東管領の職を継いだ家である。 関東管領上杉氏は当初、山内,犬懸,宅間,扇谷,の四家に分かれていたが、後に山内上杉家が主流となり、扇谷上杉家は残ったが、山内家を支える分家的存在であった。 |
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![]() 川喜多映画記念館 |
川喜多映画記念館 川喜多記念館は、哲学者和辻哲郎が住んでいた建物を、その死後譲受川喜多夫妻が移築して住んでいた。夫の川喜多長政が死亡し妻「かしこ」の遺志により、邸宅と残された映画の資料が市に寄贈された。 川喜多長政はヨーロッパ映画を、日本に多く紹介した映画実業家で「東和商事」「東和映画」という会社を作り、「自由を我らに」 「巴里祭」「会議は踊る」「天井桟敷の人々」 「第三の男」 「禁じられた遊び」などを輸入配給した。 夫妻の住まいは、海外から来日した映画監督や映画スター達を迎える場所として使用されていた。 |
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![]() 愛染堂 |
覚園寺 宗派・・・古義真言宗泉涌寺派 山号・寺号・・・鷲峰山真言院覚園寺 戌神信仰が厚かった北條義時が、戌神の夢のお告げを受けてこの地に堂宇を建て薬師三尊像を十二神将と共に安置したのが始まりである。 |
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![]() 護良親王を押込めたと伝えられる土牢 |
鎌倉宮 鎌倉宮は明治二年(1869年)に明治天皇が創建された神社で、天皇自ら創建した神社はこの鎌倉宮だけで、かっての官幣中社である。 正面には拝殿と祝詞舎が、その奥に本殿があり、南方社と村上社の二つの摂社がある。社殿背後の山の中腹に親王を押し込めたと伝える幅も深さも4m程の岩窟がある。(真実は塗籠の一室か?) |
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永福寺跡 頼朝は奥州の藤原氏征伐の後平泉の大長寿院(二階堂)に似せて永福寺を建て二階堂とも言われた。建立は建久三年(1192年)で義経・泰衡等の冥福を祈るために建てたと言う、頼朝建立三大寺院のひとつである。 |
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![]() 山門 ![]() 裏庭 |
瑞泉寺 宗派・・・臨済宗円覚寺派 山号・・・錦屏山 創建・・・嘉暦二年(1327年) この寺は二階堂道蘊が夢窓疎石のための茶室として建てた瑞泉院が始りで、足利基氏が死に当院に葬られたことから、ここが足利公方家の塔所となった。 本堂・・・正面の方形の建物大雄殿(昭和十年建立)
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| 永福寺の復元図 この写真は鎌倉市と湘南工科大学が協働で行った「国指定史跡永福寺跡」のコンピューターグラフィックによる復元図を拝借しました。 |
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| 歌碑 鎌倉のお寺には、寺縁の文学者や歌人他の歌碑が多くあります。本日は下記を見つけました。 |
![]() 久保田万太郎(瑞泉寺)
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![]() 清水基吉(海蔵寺)
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![]() 大宅壮一(瑞泉寺) 「男の顔は履歴書である」 |
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![]() 吉野秀雄(瑞泉寺)
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![]() 山崎方代
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| 第12回鎌倉散策(東京東筑会第5回) 2010年11月16日 |
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![]() 本堂 ![]() 鐘楼 |
東慶寺 宗派・・臨済宗円覚寺派 山号寺号・・松岡山東慶総持禅寺 創建・・弘安八年(1285年) 開山・・覚山志道尼 開基・・北條貞時 本尊・・釈迦如来 北條時宗の室堀内殿(安達義景の娘)は、時宗が三十四歳で他界すると、仏光国師に師事し出家して法名滝音院覚山志道尼となり、息子の貞時を開基として当寺を創建し自ら開山となった。そして九代執権であった貞時を動かして後宇多天皇から「縁切寺法」の勅許を得た。 縁切寺で知名な寺は東慶寺の外、上野世田の満徳寺が有名である。明治になって縁切法は廃止され、明治三十六年東慶寺は尼寺でなくなったが、この寺には有名人の墓が多数ある。数例を揚げると西田幾太郎・岩波茂雄・阿倍能成・和辻哲郎・鈴木大拙・高見順・太田瑞穂・田村俊子・小林秀雄・佐々木房・前田青邨(筆塚)・大松博文・・・・ この寺には四季を通じて花があるが、特に春の梅は観梅の客でにぎわう。 代表的な花・・紅梅・白梅・黄梅・花桃・マンサク・イワタバコ・ヤマボウシ・桜・彼岸花・菖蒲・白木蓮・・・・ |
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山門に向かう参道 ![]() 本堂 |
明月院 宗派・・臨済宗建長寺派 山号・・福源山 明月庵・・永暦元年(1160年) 禅興寺・・文永五年(1268年) 明月院は平治の乱で戦死した父の霊を弔うため、山ノ内経俊が建てた明月庵が起源で、北條時頼が1256年この地に最明寺を建立し、時頼の没後時宗がこの最明寺を前身として禅興寺(開山 蘭渓道隆)を創建した。その後足利氏満の命を受けた上杉憲方が、寺域を拡大し塔頭も建てゝ中興した。この時明月庵は明月院と改められ支院の首位に置かれた。上杉憲方の法名(明月院大樹道合)はこの明月院から来ている、三代将軍足利義満の時代に、禅興寺は関東十刹の一位となるが、明治初年に廃寺となり支院の明月院だけが残った。紫陽殿(本堂)には本尊が、その左手の宗猷堂(仏殿)には密室守厳像が安置されている。鎌倉十井の一つ「瓶ノ井」・憲方の墓・時頼の墓などが見ものである。 アジサイ寺で有名だが四季折々花が咲いている。 主な花・・ロウバイ・シダレ桜・レンギョウ・ボケ・モモ・モミジ・水仙・ツバキ 北條時頼の頌 業鏡高懸三十七年 一槌打砕大道坦然 (弘長三年十一月二十二日) |
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![]() 本堂 |
長寿寺
宗派・・臨済宗建長寺派 山号・・宝亀山 創建・・元享三年(1323年)~延元元年(1336年) 開山・・古先印元(伝) 開基・・足利基氏 本尊・・観音菩薩 境内は非公開 この寺は初代鎌倉公方足利基氏が、父尊氏の屋敷跡にその菩提を弔うために建立したといわれている。寺の名は尊氏の法名・長寿殿から名付られた。かっては伽藍や塔頭を備えた寺院であったらしいが、今は山門・仏殿・庫裏などがあるだけである。境内奥のやぐらには基氏が父尊氏の遺髪を埋めたと伝えられる五輪塔がある。 茶会などがよく開かれているようで、頼めば精進料理をたべさせてくれるようである。 |
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神社内非公開 |
第六天社 第六天神社は建長寺の四方鎮守の南の位置を占める社である。東・西・北の鎮守があったと思われるが不明である。建長寺境内図(延宝六年・1678年)には、四方鎮守第六天と記されており、天保二年(1831年)改築の棟札には、創建は宝永四年(1707年)とある。社殿内には第六天像が中心に祀られ、前列には四天王像が安置されている。第六天は仏教では他化自在天と称し、魔王のごとき力を持つといわれ、神道では第六天即ち第六番目の神と認識されている。神奈川県内には第六天を祀る社が180以上有り、厄除けや方位の神として信仰されている。この第六天はまた上町の氏神様でもあり、昨年国の史跡指定を受けた。例祭は毎年七月十五日~二十二日に行われている。 |
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閻魔堂 |
円応寺 この寺は閻魔堂や十王堂とも言われる。昔は荒居閻魔堂といわれ由比郷見越岩にあったものを、足利尊氏が由比の鶴岡郷に移したが、元禄16年(1703年)の地震や津波で流されて現在の位置に移された。境内には本堂・庫裏・鐘楼がこじんまり収まっている。本堂には本尊の閻魔大王(伝運慶作)を中心に、冥土の世界で死者の裁判をする秦広王・初江王・宋帝王・伍官王・変成王・太山王・平等王・都市王・伍道転輪王などの十王と奪衣婆(県重文)などの木像が並んでいる。亡者は七日毎に裁きを受け、百日目に平等王、一年目に都市王、三年目に伍道王に裁かれてようやく判決が出る。これが十王思想であり、地蔵信仰と共に鎌倉時代から広く信仰されて来た。十王のうち初江王(国重文)は、具生像・鬼卒像(県重文)・人頭杖(県重文)などと共に、鎌倉国宝館に展示されている。 見所・・・閻魔大王像(笑い閻魔) 各木像 アメリカノウゼンカズラ キンモクセイ ロウバイ |
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![]() 二十五坊跡石碑 |
鶴岡八幡宮二十五坊跡 「碑文」 鶴岡八幡宮二十五御坊舊蹟 此の地ハ頼朝時代以来 八幡宮供僧ノ僧舎二十五坊及別当坊ノ置カレシ処ナリ 彼ノ別当公暁ガ實朝ノ首ヲ手ニシテ潜ミタル 後見 備中阿闍利ノ宅モ亦此ノ地ニ在リタルナリ 応永中(1394~1428)院宣ニヨリ坊ノ称ヲ院ト改ム戦国ノ世ニ至リ鎌倉管領ノ衰微ト共ニ各院次第ニ廃絶シ 天正ノ末(1592)ニ於イテハ僅ニ七院ヲ存セルノミ 文禄中(159~1596)徳川家康五院ヲ再興シテ十二院トナセルガ 明治維新後遂ニ全ク廃壚ナレリ 大正七年三月建之 鎌倉町青年会 |
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稲瀬川石碑 萬葉ニ鎌倉ノ美奈能瀬河トアルハ 此ノ河ナリ 治承四年(1180)十月政子鎌倉ニ入ラントシテ來リ 日並ノ都合ニヨリ數日ノ間此ノ河辺ノ民家ニ逗留セル事アリ 頼朝ガ元暦九年(正しくは元暦元年1184)範頼ノ出陣ヲ見送リタルモ 正治元年(正しくは文治元年1185)義朝ノ遺骨ヲ出迎ヘタルモ共ニ此ノ河辺ナリ 元弘三年(1333)新田義貞ガ寄手ノ大将大館宗氏ノ此ノ河辺ニ討死セルモ人ノ知ル所 細キ流ニモ之ニ結バル物語少ナカラザルナリ 大正六年三月建之 鎌倉町青年会 |
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![]() 社殿 |
大太刀稲荷社 言い伝えでは、新田義貞の鎌倉攻めの合戦の時、刀を取り落とした武将が、現れた白い狐に守られたということで、その武将は攻め手の大将大館宗氏ではないかと言われている。 |
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![]() 本殿 |
御霊神社(権五郎神社)
祭神は通説では鎌倉権五郎と言われている。御霊神社というのは土地の神として、祖先を祀る神社のことで各地にある。 面掛行列・・・権五郎景正の命日に行われる祭りで、県の無形民俗文化財になっている。爺・ひょっとこ・福禄寿・おかめ・鬼・鼻長・異形・翁・烏天狗・女と十の仮面(伎楽・舞楽に用いるような)をつけて、神輿の前を練り歩く。福禄寿があることからこの神社は鎌倉七福神の一つになっている。(祭礼は九月十八日) |
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![]() 星の井 |
星月夜の井
鎌倉十井の一つで星月ノ井・星ノ井ともいう。 |
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本堂 |
虚空蔵堂
天平年間、行基が回国の際ここで虚空蔵を祭る修法を行ったところ、星月夜の井戸に三つの明星が現れた、井戸水を汲み上げると不思議な形の石であった。行基はこれは、虚空蔵さまを祭れというお告げだと思い、明鏡山円満院星井寺を建てた。元禄年間に再建されたが関東大震災で壊滅した。 虚空蔵菩薩・・・知恵と福徳の仏様。一般には十三仏の最後三十三回忌の本尊として又丑と寅年生まれの人の守り本尊、更に十三詣りの本尊とされている。虚空蔵菩薩は知恵と福徳を無限に内蔵しており、衆生の願いを叶えるために蔵から自在に取り出して救済する。密教の大日如来の働きのうち「虚空」と「蔵」という特性を持った菩薩で、虚空は何ものにも打ち破れない無能勝であり、蔵は全ての人々に利益・安楽を与える宝を収めている蔵という意味である。 十三詣り・・・京大阪では子供が13歳になった時にお詣りするのを十三詣りといゝ、十三詣りは京都の法輪寺が有名で、虚空蔵菩薩から知恵と厄除け授けていただくと、授かった知恵と厄除けが戻ってしまわないように、渡月橋を渡り終えるまで後を振り返ってはいけないと言われている。 十三仏・・・初七日─不動明王、二十七日─釈迦如来、三十七日─文殊菩薩、四十七日─普賢菩薩、五十七日─地蔵菩薩、六十七日─弥勒菩薩、七十七日─薬師如来、百ヶ日─観世音菩薩、一周忌─勢至菩薩、三回忌─阿弥陀如来、七回忌─阿閦如来、十三回忌─大日如来、三十三回忌─虚空蔵菩薩 |
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![]() 極楽寺切通し |
極楽寺切通 往時の道は今の成就院の高さくらいで傾斜が急な幅も狭いものだった。七切通しの一つで、こゝから七里ヶ浜を通って藤沢に通じる道であり、都と鎌倉を結ぶ重要な出入り口であった。北條重時が晩年この土地に極楽寺を建てゝここに住んだのは、鎌倉を守るため政治的・軍略的必要からであった。 極楽寺坂切通碑文 |
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![]() 本堂 |
成就院 宗派・・真言宗大覚寺派 山号・寺号・・普明山法立寺 創建・・承久元年(1219年) 開山・・弘法大師 開基・・北條泰時 本尊・・不動明王 こゝは弘法大師が諸国巡礼の折、数日の間虚空蔵菩薩を祭る修法を行った所と伝えられている。承久元年三代執権泰時がこの切通に、鎌倉の守りのためと北條氏の繁栄を祈ってこの寺を建てた。元弘三年の鎌倉攻めで焼失、江戸時代に再建された。本尊の外に千手観音,大日如来,地蔵菩薩,弘法大師像,文覚上人荒行の像などが安置されている。 明月院と並んでアジサイの寺として有名な寺である。 |
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![]() 上杉憲方の墓 |
上杉憲方の墓
多層塔が憲方の墓、五層塔が憲方の妻の墓といわれ、市の文化財になっている。 憲方は山ノ内上杉氏の出で、二代鎌倉公方足利氏満に仕えて関東管領を勤めた人で、晩年は出家して道合と言い山ノ内の明月院を開いた人である。 |
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![]() 山門 ![]() 本堂 |
極楽寺 宗派・・真言律宗 山号・・霊鷲山感応院 開山・・忍性菩薩 開基・・北條重時 真言律宗は釈迦在世中の教えを守り、仏の示したきまりや教えを厳しく行い、生活の上にそれを実践することで、仏に近ずけると考える真言宗の一派。重時は寺の完成を待たず世を去るが、その子長時・業時が力を合わせて継続し完成時には、七堂伽藍・四十九院を備えた大寺院であった。寺に伝わる古絵図に二重屋根の金堂、十三重の塔など沢山の塔が建つ様子が壮大に描かれている。 鎌倉攻めの戦いで寺は焼けたり壊れたりし、その後何度かの火災・地震・大風などで崩れ落ち、今は唯一つ残っている吉祥院が本堂になっているだけで、当時の広い境内の大部分は稲村ガ崎小学校や住宅地帯に変わってしまっている。 忍性上人(菩薩)・・・真言律宗を開いた叡尊の弟子で早くから布教を助け、釈迦の教えを説くことに活躍した。厳しい修行をしながら仏の道を実践するために、困った人を救うことを考え、施薬院・悲田院・療養院などを建て、盛んに社会福祉事業をおこなった。20年間に6万人の世話をしたと言われている。 極楽寺の墓地が少し離れた裏山の麓に有り、そこに良寛房忍性の墓がある。民衆に慕われ、時の執権北條時頼・時宗の帰依を受け死後に後醍醐天皇から菩薩の号を贈られた忍性に相応しい高さ約4メートルの重厚な五輪塔の墓である。 |
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阿仏尼邸旧蹟 阿仏尼は鎌倉時代の歌人で右衛門佐といった。藤原定家の子爲家の継室となり、爲相を生んだ。爲家の死後出家して、阿仏または北林禅尼といった。嫡男爲氏と実子爲相との所領争いから、阿仏尼が訴訟のために鎌倉に下った。その時の紀行文が十六夜日記である。裁きの間約4年間この月影ヶ谷に住んだといわれる。 |
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![]() 針磨橋石碑 |
針磨橋 鎌倉十橋の一つで、昔此の附近に針を磨く老婆が住んでいたとか、極楽寺の塔頭に住んでいた我入道というお坊さんが、針を磨いていたとかいわれている。海岸の近くに金山という地名があったことや、海岸に砂鉄の多い砂があることから、鉄製品の原料供給の一部になっていたと思われる。(正宗の名刀?) 鎌倉十橋・・・十王堂橋・勝の橋・裁許橋・琵琶橋・夷堂橋・歌の橋・筋替橋・逆川橋・乱レ橋・針磨橋 |
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![]() 袈裟掛けの松 |
日蓮袈裟掛の松 日蓮が文永八年(1271年)竜ノ口の刑場へ連れて行かれるとき、「いかに汚れた世の中とはいえ、この尊いお袈裟を血で汚すのは恐れ多い」といって脱ぎ、おしいただいて松の下枝に掛けて行ったということである。松は何代も植え継がれ周囲も整備され今に至っている。 |
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![]() 十一人塚 |
十一人塚 元弘三年(1333年)鎌倉攻めの時大館宗氏は新田軍の浜手の大将となり、大軍を率いて極楽寺坂の切通へ攻め込み、切通を突破して御霊神社のあたりから、由比ガ浜の方へ展開しようとしたが、北條方の新手の猛攻撃に会い最後まで残った十一共々討ち死にしたといわれる。それで此処に十一人を葬り、十一面観音の像を建てゝその霊を弔ったので「十一人塚」といわれている。 元弘三年(1333)五月十九日 新田勢大館次郎宗氏ヲ大将トシテ極楽寺口ニ攻入ラントセシニ 敵中 本間山城左衛門手兵ヲ率イテ大館ノ本陣ニ斬込ミ為ニ宗氏主従十一人戦死セリ 即遺骸ヲ茲ニ埋メ 十一面観音ノ像ヲ建テ以テ其ノ英魂ヲ弔シ之ヲ十一人塚ト称セシト云ウ 昭和六年三月 鎌倉町青年団 |
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稲村ケ崎
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新田義貞と稲村ケ崎 極楽寺方面から山が海岸まで押し出している岬の形が、稲束を積み上げたような形をしていることから稲村ケ崎といわれるようになった。往時は軍勢を通すような道は無く、波飛沫を避けながらやっと通れる危険な小道があったようである。新田義貞は極楽寺切通からの攻撃は無理だと判断し、海岸線を突破しようと考えた。しかし道は無く海上には大船がぎっしりと守りを固めており、こゝも隙がないように見えた。「義貞は皆を集め大願成就を海神に祈り腰にさした黄金造りの太刀を海に投げ入れた。するとその願いが届いたのか、月が沈む頃稲村ケ崎の海が俄かに引き、数千の兵船は遥か沖に押し流されてしまった。こを見て新田勢は干潟を渡って鎌倉に乱入した。」(太平記─11頁参照) 稲村ケ崎は、かって霊仙山と地つずきであったが、134号線のため切断され、海辺に残された島のようになってしまった。 この公園には、稲村ケ崎新田義貞徒渉伝説地の碑・明治天皇の歌碑・逗子開成中学生のボート遭難碑・コッホ博士の記念碑などがある。 大正六年三月建之 鎌倉町青年会 |
| 追加知識 |
| 山稜桝形状遺構 | |
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| 新田義貞と足利尊氏 | |
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| 離縁状 |
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| 第11回鎌倉散策(東京東筑会第4回) 2010年5月11日 |
![]() 安養院での全員写真
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![]() 本殿 |
九品寺 宗派・・・浄土宗 山号寺号・・・内裏山霊獄院九品寺 創建・・・建武三年(1336年) 開山・・・風航順西 開基・・新田義貞 本尊・・・阿弥陀如来 元弘三年の鎌倉攻めの折、義貞は材木座のこの地に本陣をを置いた。鎌倉幕府を倒した三年後、北條方の大勢の戦死者の霊を弔うためにこの寺を建てた。九品とは極楽往生を願う人の、生前の行いによって定められた、九種類の往生の有様のことをいう。上品・中品・下品のそれぞれに上生・中生・下生があり、合わせて九品とされる。山門と本堂に掲げられた「内裏山」・「九品寺」の額の文字は、義貞の筆を写したもので直筆といわれる額は、本堂にしまわれている。 |
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![]() 本殿 |
向福寺 |
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![]() 石碑 |
乱橋 妙長寺のすぐ海岸寄りに長さ一メートルほどの橋がある。道路が舗装されているので、つい見落としてしまうが、たもとに立っている案内石碑で確認できる。 この橋は小川に架かる小さな一石橋で、乱橋叉濫橋といい鎌倉十橋の一つになっている。この名の由来は、新田義貞軍が鎌倉に攻め込んだとき幕府の防御線が、この橋のあたりで崩れて乱れはじめたので、乱れ橋とよぶようになったそうである。また地名にも使われ以前はこの辺りは「乱橋材木座」と呼ばれていた。 吾妻鏡に出てくる十橋は「筋違橋」、「濫橋」の二つのみ。 鎌倉十橋・・十王堂橋 勝ノ橋 裁許橋 針磨橋 琵琶橋 夷堂橋 筋違橋 歌 ノ橋 逆川橋 乱橋 昭和四年三月 鎌倉町青年団 |
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![]() 本殿 |
妙長寺 宗派・・・日蓮宗 山号・寺号・・・海潮山妙長寺 この寺ははじめ材木座の沼浦にあったが、津波の被害を受けここへ移転した。寺伝によると、沼浦は日蓮上人が伊豆流罪になった時、船出した場所といわれ、日実上人は伊豆で日蓮の命を救った漁師、舟守弥三郎の子である。後年鎌倉を訪れ記念の場所沼浦に一堂を建立した。これが妙長寺の始まりである。山門を入ると右手に相輪塔という五重ノ塔の略塔が建っている。作家泉鏡花は、明治二十四年のひと夏をこの寺で過ごし、その時のことを小説「みだれ橋」(後に「星あかり」と改題)に書いている。 |
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![]() 本殿 |
啓運寺 宗派・・・日蓮宗 山号・寺号・・・松光山啓運寺 日澄上人は妙法寺の住職だったが、この寺を創建した後五十五巻から成る「啓運抄」という、法華経の研究書をだした学僧であった。日澄の死後は明治末年まで長勝寺の住職が住持を兼任していた。明治の中頃画家の黒田清輝がアトリエ代わりに本堂を使ったことがあるそうである。 |
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![]() 本殿
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元八幡(由比若宮) 元八幡は、相模守だった源頼義が京都の石清水八幡宮に戦勝を祈願し、前九年の役(1051~1062年)で奥州の豪族安倍頼時・貞任に勝って京に凱旋する途中鎌倉に立ち寄り、康平六年(1063年)由比郷鶴岡のこの地に、石清水八幡宮の祭神を勧請して社を建立したといわれ、その後頼義の子義家が戦勝を祈り、社殿を修理したといわれている。義家が八幡太郎と呼ばれるのはこれから来ている。社殿の前には義家旗立ての松があり、近くには石清水の井戸があって石清水八幡宮との繋がりをつけている。治承四年(1180年)頼朝がここから小林郷に移したのが現在の鶴岡八幡宮である。境内地は鶴岡八幡宮と並んで国の史跡になっている。 「碑文」 鶴ガ丘八幡宮ハ東(吾妻)鑑ニ本社ハ伊予ノ守源頼義 勅ヲ奉シテ阿部貞任征伐ノ時 丹祈ノ旨有リテ 康平六年(一〇六三)秋八月潜ニ石清水八幡ヲ勧請 瑞垣ヲ当国由比ノ郷ニ建ツ 永保元年(一〇八一)二月 陸奥守義家 修復ヲ加フトアルハ即此処ニシテ 鶴ガ丘トハ 昔時此地ヲ呼ヒタルナラム 其後治承四年(一一八〇)十月十二日源頼朝祖宗ヲ崇メンタメ 小林ノ郷北ノ山ヲ點シテ宮ノ廟ヲ構エ 由比ノ宮ヲ此処ニ遷シ奉ル 之現時ノ八幡宮ニテ吾妻鑑ニ 治承四年十月七日 頼朝先ズ遥ニ鶴ガ丘八幡宮ヲ拝シ奉ル トアルハ由比ガ浜ノ宮ナリ 遷宮ノ後モ鶴ガ丘八幡宮ト云ヒシハ旧称ニ従ヘルナリ 爾来此処ヲ元八幡ト称ス 昭和二年三月建之 鎌倉町青年団 |
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![]() 本殿 |
辻の薬師 |
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![]() 総門 |
本興寺 宗派・・・日蓮宗 山号・寺号・・・法華山本興寺 日蓮上人は鎌倉の方々の辻で、盛んに説法を行ったことは知られているが、本興寺の場所もそのひとつとされ、日蓮辻説法の碑が建てられている。江戸時代一時廃寺となるが、再興された。本堂前のサルスベリの花は見事である。
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逆川橋 鎌倉の川は山から海へ北から南へ流れている。逆川は名越の山から流れ出た細流で西北方面に流れているが、これは流れが元八幡のある砂丘に南進を阻まれて、西へ更に北へと流れの向きが逆なので逆川と呼ばれている。最後は上河原付近で滑川に合流している。鎌倉十橋の一つ
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町屋阯 この地区は町人の町であったという。 「碑文」 此邊リハ往昔ニ於ケル鎌倉繁栄当時ノ賈区ニシテ 其ノ中央ノ通街ヲ大町ト呼ビ 其他米町辻町 魚町 名越等ノ区分アリ 夫々町屋ノ在リシ所トオボシク 其称ハ 屡々東鏡に見え今ニ其ノ名ヲ存ス 昭和十一年三月建 鎌倉町青年団 |
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![]() 総門 |
上行寺 宗派・・・日蓮宗 山号・寺号・・・法久山大前院上行寺 本堂は江戸後期、肥後の細川家が作ったとされる妙法寺の法華堂を、明治十九年(1886年)に移築したものといわれている。軒の表欄間の龍の彫り物、格天井の花鳥の絵、欄間の十二支の彫刻などが見物である。瘡守稲荷の霊験はあらたかで特に婦人病に効くとの信仰が篤く、千人の女性が奉納した、生きた頭髪を戴く鬼子母神が祀られているといわれる。万延元年(1860年)櫻田門外で井伊大老を襲撃した水戸浪士の一人広木松之助の墓がある。
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![]() 本殿
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安養院 宗派・・・浄土宗 山号・寺号・・・祇園山安養院田代寺 寺の由縁・・この場所には良弁尊観が開いた浄土宗の善導寺があった。別に笹目谷には政子が頼朝の菩提寺として建てた長楽寺があったが、共に鎌倉幕府滅亡の際、戦火で焼失したので長楽寺はこの地に移り善導寺とひとつになった。時宗と浄土宗を合祀したゝめ十五代住持昌誉の時に浄土宗に一本化された。さらに、1680年寺は再度全焼し頼朝に仕え功績のあった田代信綱が建立した田代寺の観音堂を移して再建され田代寺も合祀されたという歴史がある。政子の位牌「安養院如実妙観大禅定尼」が安置されていて、寺名もこれに由来している。鎌倉三十三観音霊場の第三番札所。本堂裏には政子の供養塔がある。並んで善導寺開山の尊観上人の墓という開山塔があり徳治三年(1308年)の銘がある鎌倉最古の宝篋印塔で重要文化財に指定されている。境内の槙樹は、樹齢七百年以上で天然記念物に指定されている。 |
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![]() 本殿 |
別願寺 宗派・・・時宗 山号・・・稲荷山超世院 開山・・・覚阿公忍 「新編相模国風土記稿」では、この地には真言宗の能成寺という寺があったが、弘安5年一遍上人が鎌倉に来たとき、能成寺の住持だった公忍上人が時宗に改め寺号も別願寺したとある。室町時代には鎌倉公方代々の菩提寺として栄えた時宗の大寺院だったらしい。当時の面影を残す足利持氏の供養塔と云われる3.2メートルの宝塔が墓地の中にある。塔身にある鳥居状の模様は、持氏の怨霊封じ込めのためのものと言われている。
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![]() 釈迦堂切り通しの落石現場 |
釈迦堂切通し 生憎の落石で通行禁止となったいた。 |
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![]() 新芽が出ている大銀杏 |
鶴岡八幡宮の大銀杏 3月の強風で倒れた大銀杏に新芽が出ていた。 樹齢800年とも千年とも言われ、鎌倉幕府二代将軍源頼家の子である源公暁が 父の仇三代将軍源実朝暗殺の際この樹の陰に身を潜めていたと言う伝説のある 古木で、鶴岡八幡宮のシンボルでもある。 樹は根元から倒れたが、残された根からも多数の新芽が出ていた。 倒れた幹は上部を切断し、5メートルほど左に移植されていたが、この大木から 新芽が出ていたのには驚いた。 多少の根が付いていたのか、挿し木なのかは不明。 |
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![]() 2008年12月9日撮影 |
鶴岡八幡宮の大銀杏 倒れる前の大銀杏、写真の左テント付近に移されている。 |
| 豆知識 |
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| 第10回鎌倉散策(東京東筑会第3回) 2009年12月1日 |
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![]() 本堂
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本覚寺 宗派・・・日蓮宗 山号・・・妙厳山 開山・・・日出 |
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夷堂橋 |
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![]() 祖師堂
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妙本寺 宗派・・・日蓮宗 山号・・・長興山 創建・・・文応元年(1260年) 開山・・・日朗 開基・・・比企大学三郎能本 祖師堂・・・日蓮上人像 この谷は比企谷といい比企能員一族の屋敷跡である。能員は二代将軍頼家の舅で、頼朝の有力御家人として勢力を持っていた。 寺域の外れに頼家の室、若狭局を祀った蛇苦止明神社があり、局が入水して蛇になったといわれる蛇形の井がある。 「碑文」 能員ハ頼朝ノ乳母比企禅尼ノ養子ナルガ禅尼ト共ニ此ノ地ニ住セリ此ノ地比企ケ谷ノ名アルモ之ニ基ク 能員ノ女頼家ノ寵ヲ受ケ若狭局ト称シ 子一幡ヲ生ム 建仁三年(一二〇三)頼家疾ムヤ母政子關西ノ地頭職ヲ分チテ 頼家ノ弟千幡ニ授ケントス 能員之ヲ憤リ 密ニ北條氏ヲ除カント謀ル 謀リ泄レテ郤ツテ北條氏ノ爲一族此ノ地ニ於テ滅サル |
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日蓮辻説法跡 日蓮が房州小湊から鎌倉に来た時は、風水害・大地震・旱魃・飢饉・疫病・大火などの、天変地異が相次いで起こり、世情不安の状態であった。 日蓮はこの小町大路の辻で、邪教を信ずるから災害が起こるのだと、説法を繰り返し説き民衆の帰依を得た。 次いで「立正安国論」をまとめ、宿谷光則の手を経て時の執権北條時頼に提出し国難を説いたが、かえって松葉が谷の草庵は焼かれ伊豆の伊東へ流された。垣の中に日蓮腰掛の石がある。 当時このあたりは、武士の屋敷町と商人の町との境になっていたところで、人通りの多いところであった。 日蓮は人通りの多い辻々に立ち、正しい教えとして法華経を説いたので、鎌倉には辻説法の跡がいくつかある。 |
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![]() 本殿 |
妙隆寺 宗派・・・日蓮宗 山号・寺号・・・叡昌山妙隆寺 創建・・・至徳二年(1385年) 開山・・・日英上人 開基・・・千葉胤貞 本尊・・・日蓮上人 この辺り一帯は、鎌倉幕府の有力御家人だった千葉常胤の子孫胤貞の別邸だった。胤貞が先祖追福のため、七堂伽藍を建立して妙隆寺を創建し、下総の中山法華経寺から日英上人を開山に迎えたと伝えられている。 以後妙隆寺は鎌倉における中山門流の中心となった。二代の日親上人は本堂右手の修業の池(血の池)で、厳しい修行をしたと伝えられている。 また六代将軍足利義教に、「立正治国論」を建白したが、容れられず逆に灼熱の鍋を頭にかぶせる拷問を受けた。 それでも主張を曲げなかったので、「鍋かむり日親」の偉名がつけられた。池の奥に上人の石像を安置する日親堂がある。この寺に寿老人の像が有り鎌倉七福神のひとつになっている。 |
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宇津宮辻子幕府跡 北条政子が亡くなった後幕府移転の計画が持ち上がり、方角も良く空いていたこの地に大蔵幕府が移された。 |
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![]() 若宮大路幕府跡 |
若宮大路幕府跡 宇都宮辻子幕府から幕府が移されたのは、二度の地震により主要建物が倒壊したからだと考えられている。 三の鳥居の東側の一画が若宮大路幕府跡で、嘉禎二年(1236年)~元弘三年(1333年)の98年間政治の中心であった。 頼経から守邦王に至る六代の将軍の住居であったため、親王屋敷とも呼ばれた。 将軍は頼経、その子頼嗣、後嵯峨院の長男宗尊親王、その子維康王、後深草院の子久明親王、その子守邦王と続くが守邦王が九代将軍で最後の将軍である。 また執権は3代北條泰時・4経時・5時頼・6長時・7政村・8時宗・9貞時・10師時・11宗宣・12煕時・13基時・14高時・15貞顕・16守時と得宗中心に続いた。 |
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![]() 東勝寺跡 ![]() 東勝寺橋より見る東勝寺の石垣 |
東勝寺跡 この寺は青龍山東勝寺といって関東十刹の一つであった。創建は三代執権北條泰時で、以後北條氏の菩提寺となった。 発掘調査によると、石垣が築かれ城のような、作りになっていたようである。 焼け跡が確認され出土品には、北條氏の家紋三鱗が入った瓦や、中国製と思われる青磁の碗などの破片が見つかっている。 十四代執権北条高時は、元弘3年(1333年)新田義貞の鎌倉攻めに抗しきれず、一族郎党をここに集め、名残の宴を開き寺に火をかけ切腹した。 供をする者実に870余人、ここが北條氏・鎌倉幕府終焉の地である。 東勝寺舊跡 「碑文」 元弘三年五月新田義貞鎌倉ニ亂入スルヤ高時小町ノ邸ヲ後ニ父祖累世ノ墓所東勝寺ニ籠リ百五十年来殷賑ヲ極メシ府下邸第肆廛ノ今ヤ一面ニ焔煙ノ漲ル所トナルヲ望見シツヽ一族門葉八百七十余人ト共ニ自刃ス其ノ北條執権史終局ノ惨憺タル一齣ハ實ニ此ノ地ニ於テ演ゼラレタルナリ 大正七年三月建之 鎌倉町青年会 「太平記」は鎌倉幕府の終焉をなまなましく次のように描写している。 |
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高時腹切りやぐら このやぐらは、東勝寺で切腹した高時等の墳墓と言われている。死者があまりにも多かったので、このやぐらに入りきれず、尾根伝いに釈迦堂のやぐらに、葬られたものもあるようだ。 |
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![]() 本堂
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宝戒寺 宗派・・・天台宗 山号・・・金龍山釈満院円頓宝戒寺 開山・・・円観慧鎮 ここは北条執権屋敷の跡である。 |
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大蔵幕府跡 清泉小学校一帯の頼朝の墓の下あたりが、大蔵幕府跡である。 |
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頼朝の墓 頼朝は正治元年(1199年)53歳で他界、その死因ははっきりしない、一説には落馬が原因とも言われている。 |
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三浦氏一族の墓 北條氏との確執を巧みに避け、勢力を保って来た三浦氏も、宝治元年1247年、名越(北條)光時の謀反に加担したという理由で、安達一族と北條時頼の連合軍に攻められ、現在の横浜国大付属小学校の位置にあった屋敷で、午前中は良く善戦したが、午後は風向きが変り屋敷は焼け落ちた。 |
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島津忠久・大江広元・毛利季光の墓 島津忠久は出生は不詳であるが、母が頼朝の乳母である比企尼の長女であった関係で、頼朝の台頭と共に、摂関家に仕える武者から、頼朝の御家人になり重用された。 大江広元は初め朝廷で少外記をしていたが、元暦元年1184年従五位で頼朝に招かれて鎌倉入りし、公文所(後の政所)の別当として重用された。 |
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荏柄天神社 創建・・長治元年1104年 祭神・・菅原道真・八雲大神 雷雨と共に黒い束帯姿の天神の絵が天から?(エゴマ)の畑に降って来たので、霊験を恐れた里人は社殿を建て祀ったと言われている。 絵筆塚・・・漫画家清水崑、横山隆一が立てた供養党 カッパ筆塚・・・清水崑絵、川端康成筆 梅が鎌倉で一番に咲く梅の名所であり、見事な公孫樹は鎌倉で二番目に大きい。 荏柄天神 「碑文」倭名鈔 當所ニ荏草ト記セル郷名アリ 今其名ヲ失スレドモ 當社付近ノ舊称ナリシガ如シ 草ニかやノ故訓アレバ 江がらハ江がやノ転訛ナルヲ 後文字ヲサヘ今ノ如ク改メシモノカ 社前ノ松並木を古來馬場ト称ス 本社ハ元 中央ニ菅公束帯ノ坐像 右方ニ天拝山祈誓ノ立像 左方ニ本地仏十一面観音ノ像ヲ安置セシモ 勧請ノ年代ヲ傅ヘズ 頼朝公初メテ大蔵ノ地ニ幕府ヲ設ケシ時 當社ヲ以テ鬼門ノ鎮神トナス 爾來歴代将軍ノ尊奉セシ所 天文年間 北條氏康社前ニ關ヲ置キ 關銭ヲ取リテ社料ニ供セシメシ事アリ 徳川氏ノ世ニハ 鶴岡八幡宮造営ノ節毎ニ其ノ余材残木ヲ受ケテ 本社修造ニアツルヲ例トセシト云フ 昭和四年十二月建之 鎌倉町青年団 |
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文覚上人屋敷跡 俗名は遠藤盛遠で、鳥羽天皇の皇女上西門院に仕えていた北面の武士だった。 「碑文」 文覚俗称ヲ遠藤盛遠ト言ヒモト院ノ武者所タリシガ年十八想ヲ左衛門慰源渡ノ妻袈裟御前ニ懸ケ郤テ誤ツテ之ヲ殺シ愴恨ノ余僧ト為ル其ノ練行甚ダ勇猛ニ祁寒盛暑林叢ニ露臥シ飛瀑ニ凝立シ屡々死ニ瀕ス養和二年(一一八二)四月頼朝ノ本願トシテ弁財天ヲ江島二勸請シ之ニ参籠スル事三七箇日食ヲ断ツテ祈願ヲ凝ラセリト此ノ地即チ其ノ當時文覚ガ居住ノ舊跡ナリ |
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勝長寿院舊蹟 文治元年1185年頼朝は、父義朝とその家臣鎌田正清の霊を弔うために、この勝長寿院を建てた。 「碑文」 院ハ文治元年源頼朝ノ先考義朝ヲ祀ランガ爲ニ草創スル所一ニ南御堂又大御堂ト言フ此ノ地ヲ大御堂ケ谷ト言フハ是ガ爲ナリ實朝及ビ政子モ亦此ノ地ニ葬ラレタリト傅ヘラルレドモ 其ノ墓今ハ扇ケ谷壽福寺ニアリ |
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| 番 外 編 |
![]() 本覚寺の仁王像 |
![]() 本覚寺の仁王像 |
![]() 妙本寺参道 |
![]() 妙本寺参道より |
![]() 妙本寺ニ天門の彫刻 |
![]() 妙本寺祖師堂の彫刻 |
![]() 「新劇の団十郎」こと丸山定夫の碑(妙隆寺) |
![]() 散策風景 |
![]() 漫画家が夫々の河童を描いている(荏柄天神) |
| 第9回鎌倉散策(東京東筑会第2回) 2009年5月12日 |
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案内石碑 |
下馬四ツ角 この交差点は下の下馬と言われ、若宮大路と長谷から名越に通ずる大町大路と交差するところで、昔は八幡宮に参詣する時は身分に関わらず、ここで馬を下りることになっていた。 |
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![]() 琵琶橋 |
琵琶橋 琵琶橋は下馬四ツ角の南側にかかっている橋で鎌倉十橋の一つである。 鎌倉十橋・・・十王堂橋、勝ノ橋、裁許橋、針磨橋、夷堂橋、筋違橋、歌ノ橋 、逆川橋、乱橋、琵琶橋 |
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![]() 浜の鳥居跡 |
浜の鳥居跡 平成二年電線の埋設工事で直径1.6mの柱根が発見された。同時の出土品からみて、天文二十二年(1553年)北條氏康のときに出来たもののようである。 |
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![]() 一の鳥居 |
一の鳥居 治承四年(1180年)に最初の鳥居が建てられたといはれているが、それは木造で現在の一の鳥居より180mほど北にあった。(浜の鳥居)現在の一の鳥居は寛文八年(1668年)四代将軍家綱の寄進によるもので、高さ約8.5m、笠石の長さ約13mである。 昭和十一年九月一日 国幣中社鶴岡八幡宮宮司中島正國 |
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![]() 宝篋印塔 |
畠山重保の墓 この宝篋印塔は鎌倉時代の武将畠山六郎重保の墓と伝えられていて、明徳四年(1393年)の銘がある、総高3.4mの立派な石塔で重要美術品に指定されている。 畠山重保邸址 大正十一年三月建 鎌倉町青年団 |
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![]() 石碑 |
和田塚 この塚は元無常塚と呼ばれていたが、明治の中頃、道路工事の際塚の一部から埴輪や土器と一緒に、多くの人骨が出土した。この人骨は和田合戦の一族の戦死者と推定され、和田一族の墓ということから「和田塚」となった。
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![]() 鎌倉彫工芸館 |
鎌倉彫工芸館 昭和37年県により開所、平成八年から伝統鎌倉彫事業協同組合が運営している。ギャラリーには百点ほどの展示品があり、誰でも見学でき即売や注文も受けている。 |
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![]() 甘縄神明宮 |
甘縄神明宮 この神明宮は天照大神を祀るお宮である。 |
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![]() 案内石碑 |
足達(安達)藤九郎盛長屋敷跡 盛長は、源頼朝が旗揚げする前からの下臣で、石橋山の合戦に頼朝が敗れて房州に逃れた時も一緒だった。頼朝が鎌倉に居を構えたとき、西の押さえとしてこの地甘縄に屋敷を与えられた。 頼朝亡き後頼家の時代十三人の合議制のメンバーにも加わり、和田義盛と共に梶原景時弾劾の急先鋒であった。盛長の子景盛は、頼朝の時代から父と共に仕え幕府創業に功があり頼朝の寵をうけた。実朝将軍のとき、(1218年)出羽介となり秋田城介と称した。それ以後秋田城介は安達家の世襲職となった。 泰盛は二十五歳で評定衆となり十年後には、将軍宗尊親王廃立の重要秘密会議に参加する程になっていた。泰盛は執権政村・時宗・貞時の三代に亘って幕府内で権勢を維持した。時宗の室は、泰盛の娘(養女)時宗死後の覚山尼で貞時の母である。 この後平頼綱の権勢は大いに上がったが、後に平禅門の乱で貞時に滅ぼされる。足達家のその後は泰盛の弟顕盛の孫の足達時顕が秋田城介に補任され、鎌倉時代の末まで命脈を保った。 大正十四年三月建 鎌倉町青年団 |
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![]() 総門 |
長谷寺 宗派・・浄土宗 山号・寺号・・海光山慈照院長谷寺 開山・・徳道上人 伝承によると本尊の十一面観音の菩薩像は、奈良の長谷寺と同じ、一本の楠の霊木より彫られたという縁起をもっている。高さ9.18mは日本最大で、長谷系と呼ばれる独特の姿をしている。 新田義貞の鎌倉攻めで、どの程度の被害を受けたか判らないが、康永元年(1342年)足利尊氏が本堂を再建し観音像に金箔を施し、明徳三年(1392年)足利義満が観音像の光背を修めたと伝えられている。以後も時の権力者、北條氏康、秀吉、家康などのこの寺への関与の話が残っている。江戸時代には、長谷観音、極楽寺、七里ヶ浜、江ノ島への行楽(信仰)コースとして人気があった。 個々の堂宇、花木については拝観パンフレットが詳しく照会している。 |
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![]() 土牢 |
光則寺 宗派・・日蓮宗 山号・・行時山 開山・・日朗上人 開基・・宿谷光則 創建・・文永十一年(1274年) この寺は日蓮・日朗に深いつながりがある。 宿谷光則屋敷跡 「吾妻鏡弘長三年十一月十九日・廿日の条」 |
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![]() 大仏 |
大仏(高徳院) 宗派・・浄土宗 山号・寺号・・大異山高徳院清浄泉寺 開山・開基・・不明 本尊・・阿弥陀如来(大仏) 寺宝・・大仏(国宝) 寛元二年(1244年)僧浄光が集めた浄財で最初の木造大仏が完成するが、宝治元年(1247年)大風で倒壊、建長四年(1252年)に現在の青銅大仏が鋳造され、大仏殿も出来た。その後大仏殿は二度の大風で倒れ、その都度復興されたが、明応四年(1495年)の津波で流されて以後は、露座の大仏として今に至っている。 大仏の寸法:総高(台座共)13.35m・仏身11.312m、顔の長さ2.35m、目の長さ1.0m、耳の長さ1.90m、口の幅0.82m、膝の間9.10m、親指の周り0.85m、白毫(高さ0.15m)・直径(0.18m)、重量121トン 遠近法の法則から、五メートル位離れて拝むと、釣り合いがとれた形に見える。この大仏が立ち上がって歩いたとしたら、東京まで一時間位で行ける計算になるそうである。 |
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![]() ハイキングコース |
大仏ハイキングコース 大仏から大仏トンネルまで300mは平坦、続く350mはかなり急な階段と階段状の登り、尾根道の登り下りで約250m、急な登り約20m、普通の尾根道約350m、木の根が足場になる急な登り30m、残りの尾根道30m、生活道路、公園道路約800mで日野俊基の墓に至る。 |
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![]() 日野俊基の墓 |
日野俊基の墓 日野俊基は鎌倉時代の終わりに近い頃、後醍醐天皇を助けて鎌倉幕府を倒そうとした公家の一人である。 「案内石碑の碑文」 藤原俊基朝臣ノ朝権ノ恢復ヲ圖リテ成ラズ 元弘二年六月三日 北條高時ノ害ニ遭ヒ 秋を待たで葛原岡に消ゆる身の露の恨や世に残るらんト永キ恨ヲ留メタルハ此ノ処ナリ 大正六年三月建之 鎌倉町青年会 辞世の頌 |
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![]() 化粧坂(仮粧坂)切通し |
化粧坂(仮粧坂) この化粧坂は鎌倉七切通しの一つで、今も昔の面影を残している切通しで国の史跡になっている。 この坂の名の由来は、ここで平家の大将の首を化粧して首実験したからとか、この坂のあたりに町家があって化粧した女たちがいたからとか、木がよく生い繁っていたので木生えとか、気勢といわれたことから来ているとも言われている。 この坂道は藤沢から武蔵方面に通ずる重要な道で、元弘三年五月新田義貞が鎌倉を攻めたとき、この化粧坂に軍の主力を向けたので、激戦地になった。 「鎌倉七切通し(七口ともいう)」 鎌倉は前方を海、後方を山に囲われており、切通しは鎌倉への陸路。 大仏切通し 朝夷奈切通し 亀谷坂切通し 化粧坂切通し 極楽坂切通し 巨福呂坂切通し 名越切通し 今回は化粧坂(仮粧坂)は通らず、写真は第6回のもの。 |
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![]() 頼朝の銅像 |
源氏山 初めは武庫山といい亀ケ谷の中央にあり、景色の良い山であるので、亀ケ谷山とも呼ばれた。 |
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![]() 銭洗弁財天 |
銭洗弁財天宇賀福神社 この銭洗弁天には、次のような話が伝えられている。 |
| 散策風景 |
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| 第8回鎌倉散策(東京東筑会第1回) 2008年12月9日 |
![]() 円覚寺総門前にて参加者の記念撮影 |
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![]() 山門 ![]() 舎利殿(国宝) |
円覚寺(臨済宗円覚寺派大本山・鎌倉五山第二位) 宗派・・・臨済宗円覚寺派 山号・寺号・・・瑞鹿山円覚興聖禅寺 創建・・・弘安5年(1282年) 開山・・・無学祖元 開基・・・北條時宗(八代執権) 本尊・・・宝冠釈迦如来 寺域は約6万㎡で全体が史跡に指定されており、鶴岡八幡宮や建長寺と共に、鎌倉市が進めている世界遺産登録の候補になっている。 寺域の山之内は、創建当時山之内荘と呼ばれ、現在の大船から横浜市戸塚区の一部を含む広大な地域で、二代執権北條義時がこの地を所領としたことから、北條氏の根拠地となり北鎌倉には北條氏縁の寺が多い。 円覚寺は八代執権時宗が、文永十一年(1274年)と弘安四年(1281年)の二度に亘る元との戦いで戦死した兵士達の菩提を弔うために建てた。 寺名の由来は起工時に土中から石櫃に入った「円覚経」が掘り出されたことにより、また山号は開堂供養のとき無学祖元の説法を白鹿の群れが民衆と共に聞いていたと言う話しから命名された。 この寺は度々大火や震災に遭遇し、その都度北条氏により復興されて来たが、北條氏が滅びた後も寺勢は衰えず、盛時には七堂伽藍が整い塔頭も42院を数えた。 その後更に大火により焼失するが、今日まで存続できたのは室町幕府及び江戸幕府の力に負うところが大きい。 毎年11月3日の前後三日間宝物風通しの行事があり、拝観料を払えば多数の寺宝を見ることができる。
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![]() 甘露の井 ![]() 歴史を感じさせる参道 |
浄智寺(鎌倉五山第四位) 宗派・・・臨済宗円覚寺派 山号・寺号・・・金宝(峰)山 創建・・・弘安4年(1281年) 開山・・・南州宏海・大休正念・兀庵普寧 開基・・・北條宗政夫人・師時(10代執権) 本尊・・・三世仏(阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来)(県重文) この寺は五代執権北條時頼の三男宗政の菩提を弔うため、夫人と師時が建てた寺である。 現在は総門・山門・仏殿・方丈・客殿などこじんまりした姿になっているが、元亨3年(1323年)の北條貞時(九代執権)の13回忌の時の参加僧の数は、建長寺・円覚寺・壽福寺についで第四位となっており、この頃は堂塔もそろい塔頭も11院を数える名実共に鎌倉五山第四位の寺として栄えていた。 延文元年(1356年)の火災で当初の伽藍は焼失するが、室町時代には復旧し主な建物や塔頭も残っていたが、江戸時代にはしだいに衰退し、関東大震災でほとんどが倒壊した。 「見所」 総門の額 山門(唐様鐘楼門) 三世仏 布袋尊 甘露の井 「鎌倉十井」 瓶ノ井(明月院)・甘露ノ井(浄智寺)・底脱ノ井(海蔵寺)・棟立ノ井(覚園寺)・星月ノ井(虚空臓堂近く)泉ノ井(浄光明寺付近)・鉄ノ井(小町通りを抜けて鶴岡八幡近く)・六角ノ井(飯島バス停近く)・扇ノ井(岩船地蔵近くの飯盛山)・銚子ノ井(大町5丁目)
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![]() 梵鐘(国宝) ![]() 柏槙(樹齢750年) |
建長寺(臨済宗建長寺派大本山・鎌倉五山第一位) 宗派・・・臨済宗建長寺派 山号・寺号・・・巨福山建長興国禅寺 創建・・・建長五年(1253年) 開山・・・蘭渓道隆 開基・・・北條時頼(五代執権) 本尊・・・地蔵菩薩 建長寺建立の目的は、寺名が示すように国を興し天下泰平を目指すことにあった。 吾妻鏡には「上は皇帝の萬歳、将軍家および重臣の千秋、天下泰平を祈り下は三代の上将、二位家ならびにご一門の過去、數輩の没後を訪ひたもうと云々」と書かれている。 建長寺の建立により、頼朝の時代から続いてきた伝統的な寺院建築から禅宗様(宋様)建築が中心となった。 この寺は総門・三門・仏殿・法堂・方丈などほぼ一直線に並んでいる。この伽藍配置は開山の道隆が学んだ中国淅江省の径山万寿寺を模した本格的な禅宗様で、その後の禅宗寺院の建築に大きな影響を与えた。 当初の伽藍は度々の地震や火災により焼失再建されるが、応永21年(1415年)の大火で全山か焼失し江戸時代になって徳川幕府や諸大名の援助により盛時がよみがえった。 総門は皇族を祀る京都三味院の表門を移築、三門は道隆の五百年忌の安永4年(1775年)の再建、仏殿は芝増上寺の徳川ニ代将軍秀忠夫人崇源院の霊屋を、沢庵和尚の願いで移築したもの、法堂は文化11年(1814年)再建、関東一の大きさである。 当初植えられた柏槙は、左の中央の木一本と見られ、樹齢750年樹高13M、胸高周囲8Mで鎌倉一の巨木で神奈川の名木百選の一つである。 方丈を過ぎて奥へ進むと長い階段の上に建長寺の守護神半僧坊大権現が祀られていて、そこから見晴台を経て天園ハイキングコースへ繋がっている。 塔頭は盛時49院、現在は10院でほとんど未公開。寺宝は沢山あり円覚寺と同じ時期に公開される。 「見所」 総門 三門 梵鐘(国宝) 仏殿(国重文) 法堂(県重文) 勅使門 方丈(龍王殿) 庭園(心字池・国の名勝) 「花木」 さくら 白木蓮 ツツジ アジサイ フヨウ キンモクセイ ホトトギス カエデ紅葉 山茶花 水仙 椿・・・・ |
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![]() 太鼓橋より舞殿・大銀杏・拝殿 ![]() 大銀杏(大公孫樹) |
鶴岡八幡宮 鶴岡八幡宮は源頼朝の五代前の源頼義が石清水八幡宮を鎌倉の由比鶴岡郷に勧請したのが起源である。(元八幡)治承4年(1180年)頼朝が鎌倉入りして、これを小林郷松が岡に移したが、建久2年(1192年)火災で焼けたため翌年大臣山の現在の場所に移した。 頼朝は八幡宮を平安京の内裏の位置に見立てて鎌倉の中心とし街造りを行った。幕府の重要な儀式がここで行われ、流鏑馬や相撲の奉納なども行われた。 また明治の神仏分離令が出るまでは、神と仏が一緒に祀られていたので八幡宮寺と呼ばれ、薬師堂・護摩堂・仁王堂・二十五坊なども造られ、鎌倉幕府の中心として大きな役割を果たし、武士の信仰のよりどころとなった。 鎌倉時代は勿論、室町・江戸時代を通して源氏の氏神として、厚い信仰を受けてきたが、今でも多くの人が参詣に訪れる。 度々の火災にあってもすぐさま復興され、現在見られるものは文政11年(1828年)十一代将軍徳川家斉の命により造営されたものである。 「見所」 (太鼓橋)かっては木造朱塗りであったので、赤橋・反橋とも言われたが、正しくは神橋である。吾妻鏡には和田合戦や三浦合戦の折、赤橋の名が出ている。 (源平池)太鼓橋東側が源氏池、西側が平家池で頼朝の命で水田を掘って造られた。東池には三つの島、西池には四つの島を配し夫々の池に紅白の睡蓮を植え源氏の繁栄と平家の衰退を祈願した。源氏池の島には、旗上弁財天が祀られていて鎌倉七福神の一つになっている。平家池の辺には県立近代美術館が建っている。 (流鏑馬道)古くは矢馳馬(やばせめ)といい起源は飛鳥時代に遡る神事。鎌倉時代頼朝により盛んになった流鏑馬は、現在武田家と小笠原家に伝承され、約240Mの距離を等間隔(60M)に配置した三つの的を、射手は決められた順番で素走を行い的を射る。春の祭りには武田家が、秋には小笠原家が流鏑馬神事の奉納を行う。 (舞殿)舞殿が建造されたのは、建久4年(1193年)で頼朝が征夷大将軍に任じられた翌年である。静御前が舞を舞ったのは、旧八幡宮「現在の若宮」の回廊であった。 (本宮)社殿は本殿と拝殿を幣殿で繋いだエの字形の権現造りになっている。祭神は応神天皇・比売神・神功皇后である。本殿左の回廊には宝物殿があり、神輿(県重文)・古神宝類(国宝)・申楽面(国重文)など多くが収蔵され一部が陳列されている。 (若宮)頼朝が最初に八幡宮を建てた場所だが、現在の建物は徳川秀忠や家光が再建したもので・日光東照宮にも似た立派なものである。祭神は仁徳天皇・履中天皇・仲媛命・磐之媛命である。 (丸山稲荷社)この神社は八幡宮が出来る前からあった神社で、現在の社殿は室町時代の建造で、鎌倉の神社の中で最も古い建物である。(国重文) (白幡神社)唐破風、向拝の下にある柱は漆塗りで、黒色に金飾りの厳かな建物である。祭神は源頼朝・実朝である。以前には頼朝の立派な木像が安置ざれていたが、現在この木像は、国重文に指定され東京国立博物館にある。 (大銀杏)三代将軍実朝が右大臣拝賀の式典の帰りに、大銀杏の陰に隠れていた甥の公暁に首をはねられた。俗に別当公暁の隠れ公孫樹と言われている。この大銀杏は樹齢800~1000年と言われている。承久元年(1219年)正月27日夜、雪に中で実朝は殺された。実朝28歳、公暁20歳の若さであった。 (牡丹庭園)八幡宮創建800年記念に開園し、1~2月は冬牡丹500株、新緑5月には春牡丹2000株が咲き素晴らしい眺めである。 |
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![]() 参道 ![]() ![]() 北條政子と実朝の墓 |
壽福寺(鎌倉五山第三位) 宗派・・・臨済宗建長寺派 山号・寺号・・・亀谷山壽福金剛禅寺 創建・・・正治二年(1200年) 開山・・・栄西 開基・・・北條政子 本尊・・・宝冠釈迦如来 寺宝・・・栄西著「喫茶養生記」、木像地蔵菩薩立像などいずれも国重文に指定され、鎌倉国宝館に寄託されている。 鎌倉五山第三位の壽福寺は、頼朝の菩提を弔うために政子が建てた。盛時には七堂伽藍がそろい塔頭14を数える大寺院であった。 その後度々火災にあい現在の仏殿は寛文4年(1664年)の建立で、総門はそれ以前と言われている。 総門からの参道と、山門や前庭の柏槙(鎌倉十名木)のたたずまいは、簡素だが禅刹らしい気品がある。残念ながら現在境内は未公開である。 「見所」 墓地のやぐらに安置されている北條政子・実朝の墓(供養塔)、高浜虚子や大仏次郎、明治時代の外務大臣陸奥宗光の墓。 |
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![]() 刃稲荷と石柱 |
刃稲荷 刃稲荷と云われているが、標識は「正宗稲荷」となっている。側の石柱には「稲荷社 正宗屋舗 焼刃渡 天明壬寅(1782年)九月 浅草石工勝助」と作者ネイが読める。 正宗は幼いとき、鎌倉の父の下で刀鍛冶の修行をしていたが、ある日父に連れられて、佐渡から許された帰り夷堂に居た日蓮に教えを受けたところ、大そう可愛がられ「正宗」という名を与えられた。 これには正しい宗教という意味が込められていると云われている。 夷堂のある本覚寺に、正宗の墓と云われるものが在るのは、こういうことからだろう。 少し離れた無量寺ガ谷と言うところに、「正宗の井戸」と言われる井戸が在るが、刀鍛冶の使った井戸としては屋敷から離れすぎている。 |
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![]() 仏殿内部 ![]() 袴腰の鐘楼(県重文) |
英勝寺 宗派・・・浄土宗 山号・寺号・・・東光山英勝寺 創建・・・寛永13年(1636年) 開山・・・玉峯清因 開基・・・英勝院尼 本尊・・・阿弥陀如来 この寺は鎌倉唯一の尼寺である。またこの地は太田道灌の屋敷跡でもある。 英勝院は太田道灌の子孫太田康資の息女で、徳川家康の側室となりお勝の方と言われたが、性質は聡明にして温雅貞淑であったと言う。 家康との間に生まれた市姫が4歳で亡くなると、家康の命により徳川頼房(水戸徳川家の祖)の養母となり、家康が亡くなると尼となったが、三代将軍家光から先祖縁のこの地を拝領し、家康はじめ先祖の菩提を弔うため自分の法号をつけた英勝寺を創建したとのことである。 開山には頼房姫(小良姫)を迎え、以後住職は代々水戸家の姫が継ぎ、格式の高い寺として栄えた。総門・仏殿・祠堂・鐘楼などは、寛永の創建時のまま現存している。(山門は再建準備中) 総門は英勝院の命日8月23日だけ開けられる。 「見所」 (鐘楼)袴腰の鐘楼は県の重文で、鐘には林羅山の銘がある。 (仏殿)基本的には禅様建築であるが、銅板葺の二重屋根の勾配が直線状で軒の反りがない。このため重圧感がなく優美な雰囲気を醸している。屋根の下の差し掛け屋根の軒に、十二支の彫刻が配され細やかな意匠が目を引く。 仏殿内には徳川家光寄進の寺宝阿弥陀三尊像が安置され、格天井は極彩色の絵が美しく描かれている。 (祠堂)祠堂は水戸光圀によって建てられ寛永19年65歳で亡くなった英勝院が祀られている。(県重文) 花木・・・椿 白梅 水仙 蝋梅 マンサク 花桃 枝垂れ櫻 山吹 牡丹 紫陽花 桔梗 百日紅 彼岸花 コスモス 冬櫻 楓紅葉・・・ |
| 番外編(著名人の墓) |
![]() 清水昆(河童の漫画家)・円覚寺松嶺院 |
![]() 田中絹代(女優)・円覚寺松嶺院 |
![]() 開高健(芥川賞作家)・円覚寺松嶺院 |
![]() 阪本弁護士一家(オウム真理教事件)円覚寺松嶺院 |
![]() 高浜虚子(俳人)寿福寺 |
![]() 大仏次郎(作家)寿福寺 |
| 第7回鎌倉散策 2008年4月22日 |
| 過去6回の散策と異なり、今回は鎌倉七切り通しのうち比較的昔の面影を残している大仏・朝夷奈切り通しの散策が主体です ![]() |
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![]() 大仏切り通し
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大仏切通 大仏切通は鎌倉の西北にあり、長谷と常盤と笛田の境界付近の山中にある、 昔の鎌倉の出入口の一つである。これが何時頃造られたかは不明で、吾妻鏡にもこの切通は出てこない。深沢にもつながっているからか、古くは深沢切通とも言われていたようである。 この様に険しい道にしたのは、往時は一旦緩急あれば、切通は要害と化し鎌倉攻めの敵の軍勢通過を阻止するため、両岸の上で待ち伏せし上から岩を落としたり矢を射て、この通路を守ったであろうと思われる。 いわば砦とも考えられここを歩くとほぼ昔のままの通路を歩いている実感がある。 作家国木田独歩は「鎌倉の裏山」の中で、大仏切通は鎌倉の地質にして、造り得るというべきしろもの、左右の絶壁数十間、と描写している。叉鎌倉市制30周年記念に発行された「図説鎌倉回顧」の中で、明治18年有島生馬が藤沢から人力車4~5台を連ねて手広、笛田から大仏切通を通って長谷に着いたと述べているそうで、その難儀さは一寸想像できない。 「鎌倉七切通し(七口ともいう)」 鎌倉は前方を海、後方を山に囲われており、切通しは鎌倉への陸路。 大仏切通し(今回訪問) 朝夷奈切通し(朝比奈切通しともいう・今回訪問) 亀谷坂切通し(第6回散策で訪問) 化粧坂切通し(第6回散策で訪問) 極楽坂切通し(第5回散策で訪問) 巨福呂坂切通し(未訪問) 名越切通し(未訪問) |
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![]() 光則寺本殿 ![]() 日朗が入れられたという土牢 |
光則寺 宗派・・日蓮宗 山号・・行時山 開山・・日朗上人 開基・・宿谷光則 創建・・文永十一年(1274年) この寺は日蓮・日朗に深いつながりがある。日蓮は「立正安国論」を執権北条時頼に届ける役を、時頼の近臣だった宿谷光則に託したといはれる。 |
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![]() 甘縄神明宮本殿 ![]() |
甘縄神明宮・安達藤九郎盛長屋敷跡 この神明宮は天照大神を祀るお宮である。 盛長は、源頼朝が旗揚げする前からの下臣で、石橋山の合戦に頼朝が敗れて房州に逃れた時も一緒だった。頼朝が鎌倉に居を構えたとき、西の押さえとしてこの地甘縄に屋敷を与えられた。 |
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![]() 鎌倉文学館 |
長楽寺跡(鎌倉文学館) この谷は、長楽寺が谷という小さい谷で、嘉禄元年(1225年)北条政子が頼朝の菩提を弔うために長楽寺を建てた所である。願行律師を開山とした、七堂伽藍を備えた立派な寺であったが、元弘三年(1333年)兵火にかかり焼失した。その後同じく戦火で焼けた大町の善導寺と一緒になり、安養院として現在に至っている。 谷奥の文学館は、加賀百万石で知られる前田家が、ここに明治23年別荘を建て10年後に改築した家は、関東大震災で倒れ三度目のものが、長楽寺山荘と名を改めて昭和10年にできた。 戦後、佐藤栄作氏が別荘として使ったこともあったが、昭和58年に鎌倉市に寄贈された。敷地三万平方メートル、3階建て、延べ床面積1,030.65平法メートルと県内洋風建築としては、他に類を見ない規模である。前庭のバラ園は世界のバラ百五十種が植えられていて、見事な花が咲く。 |
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![]() 染谷太郎太夫時忠邸址 |
染谷太郎太夫時忠邸址 碑文によると染谷太郎太夫時忠は、藤原鎌足の孫の孫で、奈良東大寺を開いた良弁の父であり、文武天皇の世(697~708年)から聖武天皇の神亀四年(728年)まで鎌倉に住み、関東八ケ国の総追捕使となって関東一帯を取り締まった人で、由比の長者といわれた豪族であると説明されている。 くわしくは判らないが、奈良時代の鎌倉で記録に残っている人物の一人である。 (塔之辻にリンク) |
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![]() 主馬盛久頸座 |
主馬盛久頸座 平氏の侍大将主馬入道盛国の末子、八郎左衛門盛久は主馬判官といって名だたる豪傑だった。 |
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| 塔ノ辻 江戸時代に編纂された新編相模国風土記稿に、塔の辻の悲話が載っている。 |
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![]() 六地蔵 |
六地蔵(饑渇畠ケカチバタケ) この六地蔵はここから少し北に寄った刑場の端にあったそうで、長い間荒地になっていて、江戸時代には饑渇畠と呼ばれ耕作もしなかった。 |
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![]() 切り通し入り口 ![]() 切り通しの岩盤に掘られた仏像 ![]() |
朝夷奈切り通し この切通は昔の古道の姿を良く残しており、国指定の史跡になっている。
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![]() 熊野神社 |
熊野神社 この神社は誰が何時、熊野三社大明神を勧請したかはっきりしないが、鎌倉時代から続く由緒ある神社である。 |
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![]() 鎌倉市立御成小学校正門 |
奈良時代の鎌倉 鎌倉は頼朝が幕府を開く前から、この地方の中心として開けていたことが、発掘調査で次第に明らかになってきた。 郡衙・・・農民を治め中央と繋がる政務を行う役所で、行政・軍事・経済の中核 郡衙を統括する相模国の国府は、海老名、あるいは伊勢原にあったといわれるが、その所在は確定されていない。 |
| 第6回鎌倉散策 2007年11月27日 |
| 今回は北鎌倉から山を越えて、扇が谷に抜ける旧鎌倉の北西部源氏山周辺の寺社が主体です。 ![]()
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![]() 明月院・総門 |
明月院 宗派・・・臨済宗建長寺派 山号・・・福源山 創建・・・明月庵・・永暦元年(1160年) 禅興寺・・文永5年(1268年) 開山・・・蜜室守厳 開基・・・上杉憲方 本尊・・・聖観世音菩薩 明月院は平治の乱で戦死した父の霊を弔うため、山ノ内経俊が建てた明月庵が起源で、北条時頼(5代執権)が1256年この地に最明寺を建立した。 時頼の没後時宗(8代執権)がこの最明寺を前身として禅興寺(開山・・蘭渓道隆)を創建した。 その後足利氏満(2代鎌倉公方)の命を受けた上杉憲方が、寺域を拡大し塔頭も建て中興した。この時明月庵は明月院と改められ、支院の首位に置かれた。 上杉憲方の法名(明月院天樹道合)はこの明月院から来ている。 3代将軍足利義満の時代に、禅興寺は関東十刹の一位となるが、明治初年に廃寺となり支院の明月院だけが残った。 紫陽殿(本堂)には本尊が、その左手の宗猷堂(仏殿)には蜜室守厳像が安置されている。 鎌倉十井の一つ「瓶の井」・憲方の墓・時頼の墓などが見ものである。 アジサイ寺として有名であるが、四季折々の花が咲いている。 シダレザクラ・レンギョウ・ボケ・モモ・スイセン・ツバキ・ロウバイ等々 左の写真は方丈正面から裏庭を見たもの。 |
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![]() 明月院・本堂横出入口より見る後庭園 |
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![]() 明月院・瓶の井 |
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![]() 長寿寺・総門 |
長寿寺 宗派・・・臨済宗建長寺派 山号・・・宝亀山 創建・・・元享3年(1323年)~延元元年(1336年) 開山・・・古先印元(伝) 開基・・・足利基氏(伝) 本尊・・・観音菩薩 この寺は、初代鎌倉公方足利基氏が父尊氏の菩提を弔うために建立したと言われている。 寺の名は尊氏の法名・長寿殿から名付けられた。 かっては伽藍や塔頭を備えた寺院であったらしが、今は山門・仏殿・庫裏などがあるだけである。 境内奥のやぐらには基氏が父尊氏の遺髪を埋めたと伝えられる五輪塔がある。 茶会などがよく開かれているようで、頼めば精進料理を食べさせてくれるようである。 「境内は未公開」
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![]() 亀谷坂切り通 |
亀谷坂切り通 鎌倉七切り通しの一つで昔はもっと急で、道幅の狭い切り通しであった。 名前の由来は、建長寺の池にいた亀が抜け出して、この坂を上って行ったが頂上まで行けずに引き返したことから、亀返り坂と言われるようになり、それが亀谷坂になったそうである。 この坂の北側の谷には建長寺の僧たちの療養施設延寿堂があったことから延寿堂谷の名が残っている。
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![]() 薬王寺・本堂 |
薬王寺 宗派・・・日蓮宗 山号・・・大乗山 創建・・・永仁元年(1293年) 開山・・・日像上人(中興開山・・日達上人) 初めはこの寺は、梅嶺山夜光寺という真言宗の寺であったが、日像上人が日蓮宗に改めたと伝えられている。また梅立寺とか梅嶺寺の名も伝わっているが、江戸時代初期に日達上人により薬王寺として再興された。 その後三代将軍家光の弟の駿河大納言忠長が1633年高崎で自刃し、妻の松孝院殿がこの寺に夫の墓を建立し、多額のお金と広大な土地を寄進した。その為一時は境内に五重塔やお堂が並ぶ大きな寺になったが享保五年(1720年)火災により消失してしまった。 本堂には日蓮上人像・大黒天像・日像上人像・馬頭観世音菩薩像・観世音菩薩などが安置されている。この中で日蓮上人像は高さ90センチほどあり、上人像としては大きいほうで、口を開き上半身裸の珍しい像で、実物の法衣と袈裟が着せてある。
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![]() 駿河大納言忠長の墓と板碑 |
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![]() 岩船地蔵堂 |
岩船地蔵堂 ここに祀られている地蔵菩薩は、二体の童子立像を従えた60センチほどの像で、頼朝の娘大姫の守り本尊と伝えられている。 改築以前には床下に船形後背のある石造の地蔵があったので、この名がついたと言われている。 それが本尊であったが風化がひどく、新しく木像が作られた。 二十四地蔵霊場の十五番で、ここは海蔵寺が管理している。 |
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![]() 相馬師常の墓 |
相馬師常の墓 相馬次郎師常は、頼朝の重臣千葉常胤の次男で下総相馬御厨(現在の我孫子市・流山市・柏市・沼南町など)の領主で相馬氏の祖となった人である。 常胤は平広常と共に桓武平氏の後裔で、どちらも祖父の時代に分家した一族である。 師常は父と共に奥州平泉遠征に出陣して戦功を上げ、御家人に列せられた。 師常は晩年念仏行者となり、元久二年(1205年)67歳で端座合掌したまま極楽往生を遂げた。 |
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![]() 泉の井 |
泉の井 鎌倉十泉の一つ、この井戸の名をとってこの辺りを泉ケ谷と呼んでいる。 さらに細い道を登って山を越えると鶴岡八幡宮の脇に出られる。 |
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![]() 浄光明寺・総門 |
浄光明寺 宗派・・・真言宗泉涌寺派 山号・・・泉谷山 創建・・・建長3年(1251年) 開山・・・真阿(真聖国師) 開基・・・北条長時(6代執権) 本尊・・・阿弥陀仏三尊(重文) この寺は文覚上人が頼朝の願いで建てたお堂が前身と伝えられている。元弘三年に後醍醐天皇の勅願所となり真言・天台・禅・浄土の四つの勧学院を建て、学問の道場となった。 また足利尊氏は建武二年(1335年)この寺にこもり後醍醐天皇に対し挙兵する決意を固めたそうである。 尊氏・直義の帰依は厚く寺領や仏舎利の寄進を受けたと古文書にある。室町時代には、引き続き鎌倉公方の保護を受け栄えたようである。 客殿の後ろの階段の上の本堂には、阿弥陀・釈迦・弥勒の三世仏が安置され、横の収蔵庫には阿弥陀三尊像(国重文)地蔵菩薩立像(県重文)か安置されている。 裏山には「綱引地蔵」と呼ばれる石の地蔵と国の史跡に指定された「冷泉為相の墓」がある。 |
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![]() 浄光明寺・客殿 |
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![]() 扇谷上杉氏屋敷跡 |
扇谷上杉氏の屋敷跡 室町時代に扇谷上杉氏は、山内上杉氏と共に代々関東管領の職を継いだ家である。 南関東に勢力を持っていたが、六代定正の頃は大田道灌を重臣として大いに栄えたが、天文15年(1546年)小田原北条氏に滅ぼされた。 |
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![]() 英勝寺・仏殿 |
英勝寺 宗派・・・浄土宗 山号・・・東光山 創建・・・寛永十三年(1636年) 開山・・・玉峯清因 開基・・・英勝院 本尊・・・阿弥陀如来 この寺は鎌倉唯一の尼寺である。また寺域は太田道灌の旧屋敷跡である。 英勝院は徳川家康の側に仕えお勝の方(局)と呼ばれていた。後に水戸家初代の徳川頼房の養母となった。 家康が亡くなると尼になり、開山に頼房の姫を迎え英勝寺を完成させて、以後住職は代々水戸家の姫が継ぎ、格式の高い寺として栄えた。 総門側の袴腰の鐘楼は県重文、鐘には林羅山の銘がある。 仏殿には徳川家光寄進の寺宝阿弥陀三尊像が安置され、格天井は極彩色の絵が美しく描かれているそうである。 祠堂(県重文)は水戸光圀によって建てられ寛永十九年65歳で亡くなった英勝院が祀られている。 境内には四季折々の花が咲いている。 英勝院尼について 太田道灌の子孫太田康資の息女で、徳川家康の側室となりお勝の方と言われたが、性質は聡明にして温雅貞淑であったと言う。 家康との間に生まれた市姫が4歳で亡くなると、家康の命により徳川頼房(水戸徳川家の祖)の養母となった。 家康が亡くなると尼となったが、三代将軍家光から太田道灌の故地をもらい英勝寺を創建したとのことである。 水戸徳川家はもとより、秀忠・家光の信頼も厚かったということです。 |
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![]() 英勝寺・鐘楼 |
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![]() 阿仏尼の墓 |
阿仏尼の墓 やぐらの中の多宝塔が阿仏尼の墓と言われている。 阿仏尼は、我が子の地頭職の相続をめぐる訴訟のため鎌倉に下り、有名な「十六夜日記」を残した。 訴訟の間、幼い為相を都に残したまま、極楽寺西方の月影ケ谷(第5回の散策で訪問)に住んでいたが、勝訴を待たずに病死したそうである。 |
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![]() 海蔵寺・本殿 |
海蔵寺 宗派・・・臨済宗建長寺派 山号・・・扇谷山 創建・・・応永元年(1394年) 開山・・・心昭空外(源翁禅師) 開基・・・上杉氏定 本尊・・・薬師如来 もとは真言宗の寺であった。建長五年(1253年)六代将軍宗尊親王の命で藤原仲能がここに七堂伽藍を再建したが、元弘三年鎌倉幕府滅亡の時に焼失した。 その後応永元年鎌倉公方足利氏満の命により、上杉氏定が再建した。 それからは扇ケ谷上杉氏の保護を受けて栄え、天正五年(1577年)建長寺に属した。 本堂は龍護殿とも呼ばれ関東大震災で倒壊した後大正十四年に再建された。 本堂には心昭空外坐像・銅造釈迦如来像(伝タイ)・観音菩薩立像などが安置されている。 手前の薬師堂は安永五年(1776年)に浄智寺から移されたもので、中央に薬師三尊像(本尊の薬師如来と両側の日光・月光菩薩)その後ろに十二神将が左右に六対ずつ配され薬師如来を守っている。 見所・・・雨宝殿の宇賀神(宇賀福弁財天のご神体)・「十六ノ井」・「「底脱ノ井」 花木・・・スイセン・梅・枝垂桜・海棠・ききょう・のうぜんかずら・ふよう・はぎ・しおん・かえで・山茶花等々
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![]() 海蔵寺・本殿の裏庭 |
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![]() 景清の牢跡 |
景清の牢跡 近松門左衛門の浄瑠璃や歌舞伎で知られる、悪七兵衛景清が押し込められていた所と言われている。 景清は最後まで勇ましく戦った平家の侍大将で、平家が滅んだ後も生き延びて、1195年頼朝の命を狙い失敗して捕らえられ、鎌倉送りとなり和田義盛に預けられた。 後に八田知家に預けられると、断食して自ら命を断った言うことになっている。 |
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![]() 化粧坂切り通し |
化粧坂切り通 この化粧坂は鎌倉七切り通しの一つで、今でも昔の面影を残しているとして国の史跡になっている。 この坂の由来は、ここで平家の大将の首を化粧して首実験したからとか、この坂のあたりに町家があって化粧した女たちがいたからとか、木がよく生い繁っていたので木生えとか、気勢といわれたことから来ているとも言われている。 この坂道は藤沢から武蔵方面に通ずる重要な道で、元弘三年五月新田義貞が鎌倉を攻めたとき、この化粧坂に軍の主力を向けたので、激戦地になった場所である。 |
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![]() 源氏山公園・源頼朝の像 |
源氏山公園 初めは武庫山といい亀ケ谷の中央にあり・亀ケ谷山とも呼ばれた景色のよい山である。 源頼義・義家親子が奥州征伐の時、この山上に源氏の白旗を立てたことから、源氏山とか旗立山とか言われるようになった。 昭和四十年公園として切り開かれて以来、多くの人々に親しまれている。 中央広場に頼朝鎌倉入り八百年記念事業の一環として造られた、高さ2メートルほどの銅像が建っている。 道に沿って山を下ると寿福寺の墓地にでる。 |
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![]() 日野俊基の墓 |
日野俊基の墓 俊基は鎌倉時代の終わりに近い頃、後醍醐天皇を助けて鎌倉幕府を倒そうとした公家の一人である。 正中の変は謀が事前にもれて、京都で捕らえられ一度は許されたが、再び捕まり鎌倉送りとなり、刑場であったこの葛原岡で処刑された。 俊基は恨みをこめた辞世の句を残し、この岡に露と消えたが、翌元弘三年五月二十二日には新田義貞の大軍が、この岡を突破して鎌倉に攻め込み鎌倉幕府を倒した。 |
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![]() 葛原岡神社 |
葛原岡神社 この神社は、明治二十年に日野俊基の霊を祀る為に創建された。 現在は由比ガ浜地区の鎮守として信仰され、祭礼は六月三日である。 |
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![]() 銭洗弁財天 |
銭洗弁財天宇賀福神社 この銭洗い弁天には、次のような話が伝えられている。 頼朝は幕府を開いてから日夜神仏に祈って人々を救おうとしていた。巳の年1185年巳の月巳の日の夜中に一人の老人が夢枕に立って 「西北の方にかくれ里という谷があり、きれいな泉が湧いている、これは福の神が神仏に供えている泉である。これをお前に授けるから、この水を汲んで神仏を供養せよ、そうすればお前の命令も行き渡り、天下は平和に栄えるであろう。自分はこのかくれ里の主の宇賀福神である」と言って消えた。 翌日家来をやってその場所を探らせると、夢で知らされた通りであったので、頼朝は洞窟を掘らせ社を建てて宇賀福神を祀った。その結果世の中はうまく治まった。 その後執権北条時頼は、頼朝の心を継いでこの福の神を信仰し、辛巳の日を選んで人々を参拝させ、銭をこの水で洗い清めればきれいな福銭となり、その銭は百倍の力を現し一家は栄え子孫は安泰であろうといって、自ら銭を洗って祈った。 人々もこれに習って銭だけでなく、金銀財宝や証書までこの水で洗い清めるようになった。 その霊験があらたかだったので、いつとはなしに銭洗いの水と呼ぶようになり、鎌倉五名水の一つになり、巳の縁日には参拝者が非常に多くなった。 弁天のご神体の宇賀福神は水に神で、体は蛇、頭は老人の形をしている。 |
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![]() 銭洗弁財天・銭洗いの場所 |
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![]() 佐助稲荷神社・鳥居 |
佐助稲荷神社 昼なお暗い、人里離れたかくれ里で、静かな雰囲気に包まれている佐助稲荷には、次のような話が伝わっている。 源頼朝が伊豆の蛭が小島に流されて、病の床についている時、三晩続けて同じ夢を見た。 一人の白髭の老人が現れて「お前の病はこの草を煎じて飲めば、必ず治るであろう。治ったら兵を挙げよ、成功すること疑いなし。われかくれ里の稲荷である。」と言って消えたそうである。 頼朝がその老人の教え通り薬を飲むと、病は治りやがて鎌倉に幕府を開くことが出来た。その後家来に命じて探らせたところ、かくれ里の西に小さな祠をみつけたので、そこにお宮を建てて名前を「佐助稲荷」とつけた。 頼朝は幼少の頃「佐(すけ)殿」と呼ばれていたので、佐(すけ)が助けられたと言う意味を持たせたのだろうか。 |
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![]() 佐助稲荷神社・上社 |
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第5回鎌倉散策2007年3月23日 |
| 今回は極楽寺開山の忍性菩薩の活躍と、極楽寺坂切通しの攻防及び新田義貞の稲村ガ崎伝説が中心です。 ![]()
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![]() 御霊神社・本殿 |
御霊神社(権五郎神社) 祭神は通説では鎌倉権五郎と言われている。御霊神社というのは土地の神として、先祖を祀る神社のことで各地にある。 桓武天皇の子孫平義兼の孫、村岡五郎忠通に五人の息子があり、忠通の死後五家に分かれ、それぞれが栄えるように忠通と五家の先祖を祀り、御霊の神とか五霊の神として祀ってきたとも言われている。 鎌倉権五郎景正は、後三年の役に16歳で源義家に従い活躍した武士である。 面掛行列・・・権五郎景正の命日に行われる祭りで、県の指定無形民族文化財になっている。爺・ひょっとこ・福禄寿・おかめ・鬼・鼻長・異形・翁・鳥天狗・女・と10の仮面(伎楽・舞楽に用いるような面)をつけて、神輿の前を練り歩く。 面の中に福禄寿があることから、この神社は鎌倉七福神の一つになっている。
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![]() 星月夜の井 |
星月夜の井 鎌倉十井の一つで、星月の井・星の井ともいう。このあたりは、昔昼なお暗く山深い所で、この井戸の中を覗くと、昼でも星が輝いて見えたことから、この名がついたと言われている。 また近くに住む女の人が井戸水を汲む時に包丁を落としてしまったところ、以後星は輝かなくなたともとも伝えられている。 昔の旅人が極楽寺坂を越えてきて、一休みするには貴重な井戸水であったらしい。 鎌倉十井・・・瓶の井・甘露の井・底脱の井・扇の井・泉の井・鉄の井・棟立の井・銚子の井・六角の井・星月夜の井 |
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![]() 虚空蔵堂 |
虚空蔵堂 天平年間、行基が廻国の際ここで虚空蔵を祀る修法を行った。すると星月夜の井戸に三つの明星が現れた。井戸水を汲み上げると不思議な形の石があったが、行基はこれは虚空蔵さまを祀れというお告げだと思い、ここに明鏡山円満院星井寺を建てた。元禄年間に再建されたが、関東大震災で壊滅した。 虚空蔵菩薩・・・知恵と福徳の仏様。一般的には十三仏の最後三十三回忌の本尊として、丑と寅年生まれの人の守り本尊、さらに十三詣りの本尊とされている。 虚空蔵菩薩は知恵と福徳を無限に内蔵しており、衆生の願いを叶えるために蔵から自在に取り出して救済する。密教の大日如来の働きのうち「虚空」と「蔵」という特性を持った菩薩で、虚空は何ものにも打ち破れない無能勝ちであり、蔵はすべての人々に利益・安楽を与える宝を収めているという意味である。 十三詣り・・・子供が13歳になった時にお詣りするのを十三詣りと言い、京都の法輪寺が有名で、虚空蔵菩薩から知恵と厄除けを授けて頂く。授かった知恵と厄除けが戻ってしまわないように、渡月橋を渡り終えるまで、後ろを振り返ってはいけないと言われている。 十三仏・・・初七日ー不動明王、 二十七日ー釈迦如来、 三十七日ー文殊菩薩、 四十七日ー普賢菩薩、 五十七日ー地蔵菩薩、 六十七日ー弥勒菩薩、 七十七日ー薬師如来、 百ヶ日ー観世音菩薩、 一周忌ー勢至菩薩、 三回忌ー阿弥陀如来、 七回忌ー阿閦如来 如来、 十三回忌ー大日如来、 三十三回忌ー虚空蔵菩薩 |
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![]() 成就院・本堂 |
成就院(普明山成就院法立寺) 宗派・・真言宗大覚寺派 創建・・1219年、 開山・・弘法大師 開基・・北条泰時(伝) 本尊・・不動明王 ここは弘法大師が諸国巡礼の折、数日の間虚空蔵菩薩をまつる修法を行った所と伝えられている。承久元年3代執権北条泰時がこの切通しに、鎌倉の守りのためと北条氏の繁栄を祈ってこの寺を建てた。 本尊の他に千手観音・大日如来・地蔵菩薩・弘法大師像・文覚上人荒業の像などが安置されている。 「花」紫陽花・椿
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![]() 極楽坂切り通し |
極楽寺坂切通し 往時の道は今の成就院の高さくらいで、傾斜が急で幅も狭いものであった。鎌倉七切り通しの一つである。ここから七里ガ浜を通って藤沢に通じる道であり、都と鎌倉を結ぶ重要な出入り口であった。 北条重時が晩年この地に極楽寺を建ててここに住んだのは、鎌倉を守るため政治的・軍略的必要からであった。 新田義貞の鎌倉攻めの時は、ここは固く閉ざされ雌雄を決する古戦場となった。 攻める側は大館宗氏を大将とし、その数十万とも言われる兵で攻め掛かり、一時は北条方が敗れたが、すぐに押し返し大館一族は討ち死にしてしまう。(十一人塚) 新田義貞は、ここの守りが堅いと見て稲村ガ崎にまわったのである。 鎌倉七切通し・・・巨福呂坂切通し、亀ヶ谷切通し、化粧坂切通し、名越切通し、朝比奈切通し、大仏切通し、極楽坂切通し。 |
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![]() 上杉憲方の墓 |
上杉憲方の墓 憲方は山ノ内上杉の出で、2代鎌倉公方足利氏満に仕えて、関東管領を勤めた人物で、晩年は出家して道合と言い山ノ内の明月院を開いた。 坂道の反対側の人家の裏、山際に六つの五輪塔と永和五年(1379年)の銘ある宝篋印塔が並んでいる。 この辺りは、極楽寺内にあった塔頭の一つ西方寺の後と言われていて、この宝篋印塔は憲方の供養のため、妻が生前に建てた逆修塔と言われている。(未公開) 上杉憲方の墓は明月院にもある。 |
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熊野新宮 |
熊野新宮 ここは昔は極楽寺の境内であった。極楽寺開山の忍性が大和の出身であったので、極楽寺の鎮守の神として、熊野本宮からお迎えしたのである。 関東大震災の際、極楽寺地区にあった八雲神社・諏訪神社も壊れたので、昭和2年再建された時、三社が合祀された。 お祭りは夫々違っており、八雲神社は7月の第二日曜、熊野神宮と諏訪神社は9月8日になっている。山車や神輿が出て地域の人のレクレーションの一つになっている。 |
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![]() 極楽寺 |
極楽寺(霊鷲山感応院極楽寺) 宗派・・真言律宗 開山・・忍性菩薩 開基・・北条重時 創建・・正元元年(1259年) 本尊・・釈迦如来 真言律宗は釈迦在世中の教えを守り、仏の示した決まりや教えを厳しく行い、生活の上にそれを実践することで、仏に近づけると考える真言宗の一派。重時は寺の完成を待たず世を去るが、その子長時・業時が力を合わせて継続し完成した。七堂伽藍・四十九院を備えた大寺院であった。寺に伝わる古絵図に二重屋根の金堂・十三重の塔など沢山の塔の建つ様子が壮大に画かれている。鎌倉攻めの戦で寺は焼けたり壊れたりし、その後何度かの火災・地震・大風などで崩れ落ち、今は唯一つ残っている吉祥院が本堂となっているだけ、当時の広い境内の大部分は稲村小学校や住宅地に変わっている。 忍性上人(菩薩)・・・真言律宗を開いた叡尊の弟子で、早くから布教を助け、釈迦の教えを説くことに活躍した。厳しい修行をしながら仏の道を実践するために、困った人を救うことを考え、施薬院・悲田院・療養院などを建て、盛んに社会事業を行った。20年間に約6万人の世話をしたと言われている。極楽寺の墓地が少し離れた裏山の麓にあり、そこに良寛房忍性の墓がある。民衆に慕われ、時の執権北条時頼・時宗の帰依を受け、死後に後醍醐天皇から菩薩の号を贈られた、忍性に相応しい高さ約4メートルの重厚な五輪塔の墓である。(境内撮影禁止) 「花」桜・タイサンボク・サルスベリ |
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![]() 阿仏尼邸跡碑と戸川稲村の句碑 |
阿仏尼邸跡 阿仏尼は鎌倉時代の女流歌人で右衛門佐と言った。藤原定家の子為家の継室となり、為相・為守を生んだ。為家の死後出家して、阿仏または北林禅尼と言った。 嫡男為氏と実子為相との間の所領争いから、阿仏尼が訴訟のために鎌倉に下った。 その時の紀行文が十六夜日記である。 裁きの間約4年間この月影ケ谷に住んだといわれる。 邸跡の碑と戸川稲村の句碑がある。 句碑には 「月影の谷若葉して道清し」 と刻まれている。 |
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![]() 針磨橋碑 |
針磨橋 鎌倉十橋の一つ、昔この付近に針を磨く老婆が住んでいたとか、極楽寺の塔頭に住んでいた我入道と言うお坊さんが、針を磨いていたとか言われている。 海岸の近くに金山と言う地名があったことや、海岸に砂鉄の多い砂があることから、この地が鉄製品の原料供給の一部になっていたのではないかと思われる。 鎌倉十橋・・・十王堂橋・勝の橋・裁許橋・琵琶橋・夷堂橋・歌の橋・筋替橋・逆川橋・乱橋・針磨橋 |
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![]() 日蓮袈裟掛けの松 |
日蓮袈裟掛けの松 日蓮が文永8年(1271年)竜ノ口の刑場へ連れて行かれるとき、いかに汚れた世の中とはいえ、この尊いお袈裟を血で汚すのは、恐れ多いと言って脱ぎ、おしいただいて、この地の松の下枝に掛けて行ったということである。 松は何代も植え継がれ、周囲も整備されて今に至っている。 |
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![]() 十一人塚 |
十一人塚 元弘3年(1333年)鎌倉攻めの時、大館宗氏は新田軍の浜手の大将となり、大軍を率いて極楽坂の切通しへ攻め込み、切通しを突破して御霊神社のあたりから、由比ガ浜の方へ展開しようとしたが、北条方の新手の猛反撃にあい、最後まで残った十一人共々討ち死にしたと言われる。 そこでここに十一人を葬り、十一面観音の像を建てて、その霊を弔ったもので「十一人塚」と言われている。 なおこの塚の管理は成就院で行っているとのことである。 |
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![]() 大太刀稲荷神社 |
大太刀稲荷神社 由比ガ浜の面前に建っている稲荷神社である。 十一人塚は稲村ガ崎の近くにあるが、大館宗氏ら十一人は、極楽坂の切通しを突破して、この地まで攻め込み、ここで討ち死にしたと言われている。
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![]() ![]() 新田義貞徒渉伝説地碑と明治天皇の歌碑 |
新田義貞と稲村ガ崎 極楽寺方面から、山が海岸まで押し出している岬の形が、稲束を積み上げたような形をしていることから、稲村ガ崎と言われるようになった。往時は軍勢を通すような道はなく、波飛沫を避けながらやっと通れる危険な小道があったようである。 新田義貞は極楽切通しからの攻撃は無理だと判断し、海岸線を突破しようと考えた。しかし道はなく海上には大船がぎっしりと守りを固めており、ここも隙がないように見えた。義貞は皆を集め、大願成就を海神に祈り、腰にさした黄金造りの太刀を海に投げ入れた。するとその願いが届いたか、月が沈む頃稲村ガ崎の海が俄かに引き、鎌倉勢の数千の兵船は遥か沖に押し流されてしまった。これを見て義貞勢は干潟を渡って鎌倉に乱入した。(太平記) 稲村ガ崎は、かっては霊仙山と地続きであったが、現在は国道134号線に切断され、海辺に取り残された島のようになってしまった。 この公園には、稲村ガ崎新田義貞徒渉伝説地碑・明治天皇の歌碑・厨子開成中学生のボート遭難碑・コッホ博士の記念碑がある。 |
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第4回鎌倉散策2006年5月9日 |
| 鎌倉に実在するお寺のうち、三分の一は日蓮宗だと言う、今回は日蓮宗主体のお寺周りです。 ![]()
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![]() 本覚寺・刀工正宗の石塔 |
本覚寺(妙厳山本覚寺) 宗派・・日蓮宗、 開山・・日出 本尊・・釈迦三尊 2代目住持日朝は後に身延山久遠寺の住持になった際、日蓮の遺骨を本覚寺に分骨したので、以後本覚寺は東身延と呼ばれている。 夷堂には鎌倉七福神の一つ恵比寿様がまつられている。 「花」レンギョウ・カイドウ・サルスベリ・ロウバイ なお、本覚寺には第2回の散策でも訪問しています。 |
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![]() 常栄寺・冠木門 |
慧雲山常栄寺(一名ぼたもち寺) 宗派・・日蓮宗 創建・・慶長11年(1606年) 開山・・日詔 本尊・・三宝祖師(お題目・釈迦如来・多宝如来)他に日蓮上人像・尼の像などある。 1271年日蓮が市中引き回しの途次、ここに住む桟敷尼が日蓮にぼたもちを供養したという伝説があり、寺号は尼の法号妙常日栄からとられた。本堂横に尼と夫兵衛左衛門尉の墓がある。 |
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![]() 八雲神社・社殿 |
八雲神社 新羅三郎義光が京都祇園社の祭神を勧請した。祭神は須佐之男命・稲田比売命・八王子命で大町の鎮守として親しまれ、鎌倉最古の厄除開運の神社である。 この神社はもと祇園天王社と呼ばれていた。後ろの山道を祇園山ハイキングコースといい東勝寺跡に通じている。 |
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![]() 別願寺・足利持氏の供養塔 |
別願寺(稲荷山超世院別願寺) 宗派・・時宗 開山・・覚阿公認 創建・・弘安5年(1282年) 本尊・・阿弥陀如来 もと能成寺という真言宗の寺を覚阿上人が時宗に改宗し別願寺とした。室町時代には鎌倉公方代々の菩提寺として栄えた時宗の大寺院だったらしい。 |
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![]() 安養院・総門
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安養院(祇園山安養院田代寺) 宗派・・浄土宗 創建・・嘉禄元年1225年 開山・・良弁尊観上人 開基・・北条政子 本尊・・阿弥陀如来 寺の由縁・・この場所には良弁尊観が開いた浄土宗の善導寺があった。別に笹目谷には政子が頼朝の菩提寺として建てた長楽寺があったが、共に鎌倉幕府滅亡の際、戦火で焼失したので長楽寺はこの地に移り善導寺とひとつになった。しかし、1680年寺は再度全焼し頼朝に仕え功績のあった田代信綱が建立した田代寺の観音堂を移して再建されたという歴史がある。政子の位牌「安養院如実妙観大禅定尼」が安置されていて、寺名もこれに由来している。鎌倉三十三観音霊場の第三番札所。本堂裏には政子の供養塔がある。 「花」ツツジ |
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![]() 大宝寺・総門 |
大宝寺(多福山一乗院大宝寺) 宗派・・日蓮宗 創建・・1444年 開山・・日出上人 開基・・佐竹義盛 本尊・・三宝祖師 このあたりは佐竹屋敷跡といわれ、新羅三郎義光は1083年の後三年の役の戦勝の加護を感謝して、館の側に多福神社を建てたといわれ、後に子孫の義盛が建立した多福寺、そしてやがて廃寺となり日出により大宝寺として再興されその名が山号に残された。神社はそのまま大宝寺の守り神となった。裏山は佐竹山といい、本堂裏の墓地には新羅三郎義光の墓と伝えられる宝篋印塔がある。 |
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![]() 妙法寺・苔の石段
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妙法寺(楞厳山妙法寺) 宗派・・日蓮宗 創建・・建長5年(1253年)開山・・日蓮(中興開山日叡) 本尊・・一塔両尊四師 ここは日蓮が松葉ヶ谷焼き討ちの法難の舞台になったところで、日蓮が焼かれた草庵のあとに、建てた法華堂がもととなる本圀寺があったが、室町時代の初期に京都に移された。そのあと護良親王の遺児日叡が父の霊を弔うために、寺を再興したのがこの妙法寺のおこりといわれている。日叡の幼名は楞厳丸といい山号はこれに因んでいる。仁王門をくぐると正面に美しい苔の階段があり、鎌倉の苔寺といわれている。山の中腹に三戸家寄進の法華堂があり山上には日蓮の小庵跡や日蓮・日叡の墓と護良親王の墓といわれる宝篋印塔がある。本堂は細川家の寄進で天井や欄間の絵や彫刻は素晴しいそうである。(未公開) |
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![]() 安国論寺・総門 |
安国論寺(妙法華経山安国論寺) 宗派・・日蓮宗 創建・・建長5年(1253年) 開山・・日蓮上人 本尊・・南無久遠実成本師釈迦牟尼仏 ここは日蓮が安房の国から鎌倉に来て初めて庵を結んだ場所といわれ松葉ヶ谷法難の跡のひとつである。日蓮が鎌倉に来て、初めて道場とした岩窟を御法窟といい、「立正安国論」もここで書かれた。この法窟が寺のもとであり、開山は日蓮,寺名は立正安国論に由来している。祖師堂の前面にある御小庵は尾張徳川家の寄進で再興されたものである。法窟右手の熊王尊殿脇の階段を上ると、日蓮上人が、日々富士山に向かって法華経を唱えたという、富士見台がある。さらに行くと、法難の際に難を逃れたという、南面窟がある。そこから本堂に向かって下れば、日蓮直弟子の日朗上人の御荼毘所がある。山上には、立正安国と世界平和を祈念して造られた、鐘楼と銅鐘がある。 「花」カイドウ・サザンカ |
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![]() 長勝寺・総門 |
長勝寺(石井山長勝寺) ここも松葉ヶ谷法難の跡という伝承がある。流されていた伊豆から戻って来た日蓮のために、石井藤五郎長勝が自分の屋敷内に、小庵を寄進したのが寺の始まりである。 |
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![]() 来迎寺・三浦大介の墓 |
来迎寺(随我山来迎寺) 本尊・・阿弥陀三尊・聖観音 藤沢清浄光寺の末寺 ここには、もともと頼朝が三浦大介義明の菩提を弔うため建久5年に建立した真言宗の能蔵寺があったが、音阿上人が建武2年(1335年)時宗に改宗し寺の名も来迎寺となった。鎌倉三十三観音霊場第五番札所。 |
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![]() 五所神社・板碑 |
五所神社 この神社は、明治41年(1908年)乱橋と材木座の両村が合併した時、八雲・三島・諏訪・金比羅・視女八坂の五つの神社を一緒にして祀ったので名も五所神社になった。 祭神も多く大山祗命・天照大神・素盞嗚命・建御名方命・崇徳院霊で毎年六月の第二日曜日には、盛大なお祭りが行われている。 庚申塔が十三基あり、弘長2年(1262年)の銘がある板碑が立っている。この板碑は重要美術品に指定されている。 |
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![]() 実相寺・総門 |
実相寺(弘延山実相寺) |
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![]() 補陀洛寺・本堂 |
補陀洛寺(南向山帰命院補陀洛寺) 寺宝の中に平家の赤旗といわれるものがあり、平家の総大将平宗盛が最後まで持っていた旗を頼朝がこの寺に奉納したといわれている。 |
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![]() 光明寺・山門
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光明寺(天照山蓮華院光明寺)「関東総本山」 |
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内藤家の墓 日向延岡の城主内藤家の歴代墓地で、江戸時代初期以来の代々のものがここに集められている。 高さ3メートルに及ぶ大宝篋印塔などが多く、他に笠塔婆、仏像形、五輪塔、覚塔婆形がある。それに加えて灯篭、手水鉢があり、宝篋印塔と共に大名墓地の時間的変化を知ることのできる貴重な墓地である。 |
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第3回鎌倉散策2005年10月12日 |
今回は主として足利氏縁のお寺周りです。 ![]() 散策コース
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![]() 光蝕寺・塩嘗地蔵 |
光触寺(岩蔵山光触寺) この寺には、盗みの疑いで頬に焼印を押された法師のかわりに、焼印の痕が付いたという頬焼阿弥陀と、供え物の塩を嘗めたという伝説のある塩嘗地蔵が残っている。本堂の前にある地蔵が塩嘗地蔵である。
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![]() 大江広元邸跡 |
大江広元邸址 碑文・・・大江氏エキ世(累代)学匠として顕るかって匡房(まさふさ)兵法を以て義家に授く 広元は其の匡房の曾孫なり 頼朝に招かれて鎌倉に来り常に帷握に持し機密に参画す 幕府創定の功広元の力与りて多きに居り 相模毛利荘を食む 子孫依りて毛利を氏とす 而して因縁寄しくも此の幕府創業の元勲が七百年後の末裔は 王政復古に倡首たり 此の地即ち其の鼻祖大膳太夫の邸址なり |
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![]() 大慈寺跡 |
大慈寺跡(新御堂) 実朝は父頼朝と後鳥羽上皇への報恩をこめてこの寺を造り、実朝亡き後も創建45年後に、征夷大将軍宗尊親王により大修理が施され、伽藍は荘厳極るものであった。 |
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![]() 明王院・冠木門 |
明王院(飯盛山寛喜寺明王院)・・・通称五大堂 明王とは密教の教主。此の寺の近くに梶原景時の屋敷跡といわれるところがある。 |
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![]() 足利公方屋敷跡 |
足利公方屋敷跡 胡桃が谷の東側の街道沿い一帯が足利公方の屋敷跡である。古書によると足利尊氏がここに住み、其の子孫も関東管領として数代ここに住んだ。 管領のことを公方と言っていたので、人々は公方屋敷とよんでいた。尊氏がここに居を構えたのは、先祖の義兼が鎌倉幕府開設のとき此処に住んだからである。 御所の大きさは、四町四方で門が東西南の三方に有り、北は山で、屋敷東の山際の岩窟の内に御馬冷場と言われる水場があった。(新鎌倉志) |
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![]() 浄妙寺・本堂 |
浄妙寺(稲荷山浄妙寺)
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![]() 勝長寿院跡 |
勝長寿院跡 文治元年(1185年)頼朝は、父義朝と鎌田正清の霊を弔うためにこの勝長寿院を建てた。壮大な寺院だったので「大御堂」とも呼ばれた。それからこの谷を大御堂が谷という。 建立に際して頼朝は大仏師定朝や画師宅間爲行などを招いて、仏像を造り壁画を書かせた。盛時には五仏堂・南山小御堂・御堂御所・南新法華堂などがあったが、北条氏の衰えと共に衰退し、実朝も政子もここに埋葬されたと言われているが、何れも今は墓も残っていない。 |
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![]() 鎌足稲荷の祠 |
鎌足稲荷 浄妙寺本堂東の山腹に、藤原鎌足が創建した最古の祠の一つと言われる、鎌足稲荷社という祠がある。これが鎌倉の名の始まりという伝説がある。 |
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![]() 報国禅寺・本堂 |
報国禅寺(功臣山報国禅寺) 宗派・・臨済宗建長寺派 創建・・建武元年(1334年)開山・・天岸慧広 開基・・足利家時 本尊・・釈迦如来 室町幕府の創始者足利尊氏の祖父家時が此の寺を建立した。かっては宅間寺といわれていたこともある。足利氏縁の寺で、本堂裏の石庭奥の崖のやぐらには、足利家時・義久・足利一族の供養塔(五輪塔)が安置されている。貞和4年(1348年)鎌倉公方に、尊氏は四男基氏を派遣し関東十ケ国を治めさせた。以後九十四年間四代公方持氏まで栄えるが、持氏が六代将軍義教と跡目相続で対立し、永享の乱が起こるが、持氏は永安寺で、その子の義久(11才)は報国寺で夫々自刃させられた。 竹林で有名な寺であるが、花では三つ葉ツツジ・サンシュユ・サツキ・セッコク・十月桜などがある。 |
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![]() 杉本寺 |
杉本寺(大蔵山観音院杉本寺) 鎌倉最古の寺であり頼朝・政子・実朝もしばしば参詣したそうである。本堂は延宝五年(1677年)の再建といわれる。此の寺は坂東三十三観音霊場の一番である。二番の岩殿寺には宅間が谷を越えて行ける。観世音は三十三の姿を持っている、それで三十三間堂が建てられ三十三ケ所の観音霊場ができたのだそうである。 寺の左の段々畑は杉本太郎義宗(三浦義明の子)の館跡でこの要害の地に城を築いていたといわれている。 |
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第2回鎌倉散策
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| 今回は鎌倉駅東部の旧跡とお寺周りが主体です。 ![]() 散策コース
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![]() 鎌倉宮・土牢 |
鎌倉宮 大塔宮護良親王が祀られている。大塔の宮と言うのは、比叡山延暦寺の天台座主をつとめた親王の総称であるが、護良親王で代表されるようである。 護良親王は後醍醐天皇の第一皇子で、建武中興で征夷大将軍になったが、足利尊氏のため鎌倉に幽閉され殺害された。 社の背後にある土牢は、親王が尊氏のために幽閉されていたと伝えられているところであるが、確かな記録はない。 鎌倉宮は1869年明治天皇の命で勧請されたお宮で、毎年秋には薪能が奉納されている。 「花」ツツジ |
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![]() 覚園寺・総門 |
覚園寺(鷲峰山真言院覚園寺) 宗派・・真言宗 創建・・1296年 開基・・北条貞時(9代執権) 本尊・・薬師如来(伝運慶作) 愛染堂・・廃寺太楽寺の堂宇・本尊以下の仏像一緒に移築。 薬師堂・・当寺の前身は、北条義時(2代執権)が建てた薬師堂で、貞時が修理して寺にし、足利尊氏が再興したと言われている。 地蔵堂・・本尊の地蔵菩薩は黒地蔵(火焼地蔵)と呼ばれ、現在も8月10日の黒地蔵縁日には沢山の参拝者がある。 寺内は撮影禁止であるが、お坊さんが案内してくれる。大型の見事な仏像が何体もあり圧巻。 「花」紅葉・梅・椿・サルスベリ |
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![]() 永福寺跡 |
永福寺跡 頼朝は奥州の藤原氏成敗の後平泉の大長寿院(二階堂)に似せて永福寺を建て、二階堂とも言われた。 建立は1192年で義経・泰衡らの冥福を祈るために立てたと言う。壮麗を極めたという大伽藍も1405年に焼失した。 発掘調査の結果、当時の様子が明らかになっているが、広大な寺域を持つ大寺院であったようである。 |
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![]() 護良親王陵墓 |
護良親王陵墓 理智光寺跡に護良親王の墓がある。この寺の詳細は不明であるが、明治初年まで阿弥陀堂が残っていたが廃寺となり、阿弥陀如来像は覚園寺にうつされた。 護良親王は足利直義の命で、淵部伊賀守義博に殺害されたが、その形相があまりに凄まじかったので藪に捨てたが、この寺の住職が首を拾い手厚く葬ったと言われている。 急な石段を登った上に、石造りの玉垣に囲われて苔むした石塔が立っているとのことである。宮内庁管轄で陵墓内には入れない。 |
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![]() 永安寺跡 |
永安寺跡 足利氏満(尊氏の孫)の菩提寺で蓬莱山と号した。 氏満の孫持氏(4代目関東管領)は時の将軍足利義教を倒そうと企てたが、義教の向けた兵に破れ、一族はここで切腹した。(1439年永享の乱)その後この寺は、瑞泉寺に塔頭になるが、やがて廃寺になった。 |
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![]() 瑞泉寺・参道 |
瑞泉寺(錦屏山瑞泉寺) 宗派・・臨済宗円覚寺派 関東十刹の第二 開山・・夢窓疎石 開基・・二階堂道薀 創建・・1327年 疎石は無学祖元の4代目で、北条貞時・後醍醐天皇・足利尊氏・直義等の帰依を受け、鎌倉末期から南北朝時代にかけての代表的な禅僧で、庭園造りでも有名である。大雄宝殿・・本尊は地蔵菩薩立像・開山堂・・大正2年修復で夢窓疎石坐像があんちされている。・客殿・・横浜の金蔵院から昭和38年に移築されたもので、江戸初期の面影を伝えている。 池泉庭園・・夢窓疎石が作庭したこの庭園は、寺に残る古地図をたよりに650年前の姿が、慎重に復元されたものである。 座禅窟・・庫裏の裏に座禅窟があり、奥のやぐらには足利基氏・氏満・満兼らの石塔がある。 基氏が中興となって以後関東公方の塔所となった。 「花」マンサク・サンシュユ・シャガ・ボタン・藤・アジサイ・キキョウ・フヨウ・萩・ヒガンバナ・サザンカ・紅葉・水仙・梅・サルスベリ |
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![]() 荏柄天神・参道 |
荏柄天神社 大宰府天満宮・北野天満宮と並ぶ、日本三天神の一つ1104年の勧請、頼朝は大蔵幕府の鬼門鎮護の神として社殿を修復した。以後武士の信仰を受けたと言われている。 社宝は木造天神立像と紙本著色束帯天神像などであるが、いづれも鎌倉国宝館に寄託されている。 また、鎌倉では鶴岡八幡宮の大銀杏が有名であるが、ここの大銀杏も見事なものである。 境内には清水崑の河童の絵に川端康成が題書したかっぱ筆塚と、154人の漫画家が河童の絵を書いた絵筆塚がある 「花」ツツジ・梅 |
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![]() 頼朝の墓 |
頼朝の墓 大蔵幕府跡を見下ろす大倉山の中腹に頼朝の墓がある。 ここは頼朝の廟所である法華堂があった場所で、現在の石塔は頼朝と縁の深かった島津重豪が造ったもので、以前は1メートルほどの五輪塔であったと言われている。 右手の山道を上って行くと、頼朝の参謀であった大江広元の墓が島津忠久の墓と並んである。 |
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![]() ![]() 大江広元と島津忠久の墓 |
大江広元と島津忠久の墓 大江広元は朝廷で少外記をしていたが、頼朝に招かれて鎌倉入りし、公文所(後の政所)の別当として重用された。 対京都御所の方針立案者として頼朝を助け、諸国に守護地頭の設置や東海道駅路(傳馬)の法を献策し、幕府政治の安定に貢献した。 その功績により、相模毛利荘を治めることになった毛利氏の祖である。1225年78歳で没した。 |
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![]() 大蔵幕府跡 |
大蔵幕府跡 頼朝の墓の下あたり一帯が大蔵幕府跡である。(横浜国大付属中学東側) 1180年~1225年の46年間、武家政治の中心はここにあった。その間3回の火災にあい、政子の死を契機に3代執権泰時により、宇都宮辻子幕府に移された。 |
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![]() 宇都宮辻子幕府跡 |
宇都宮辻子幕府跡 この地は、宇都宮下野守泰綱の屋敷があったことから、この名がつけられ、1225年~1236年の12年間政治の中心となった。現在の段葛入り口から、若宮大路東側の小町1丁目一帯。 4代将軍藤原頼経が大蔵幕府から移り、若宮大路幕府に移るまで政務を遂行した。 |
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![]() 若宮大路幕府跡 |
若宮大路幕府跡 宇都宮辻子幕府から幕府が移されたのは、二度の地震により主要建物が倒壊したからだと考えられている。 三の鳥居の東側の一面が若宮幕府跡で1236年~1333年の98年間政治の中心であった。頼経から守邦王にいたる六代の将軍の居住であったため、親王屋敷とも呼ばれた。 北条氏の執権政治はこの幕府によって行われた。北条氏の邸宅は、幕府に面したところ、現在の宝戒寺のあるところにあった。 将軍は頼経、その子の頼嗣、後嵯峨院の長男宗尊親王、その子の維康王、後深草院の子久明親王、その子の守邦王と続く |
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![]() 宝戒寺 |
宝戒寺(金龍山釈満院円頓宝戒寺) 宗派・・天台宗 開基・・後醍醐天皇 本尊・・子育教読地蔵大菩薩(国重文) ここは、北条執権屋敷跡である。北条一族が滅んだ3年後、後醍醐天皇が足利尊氏に命じて、一族の霊を弔うためにこの寺を建立した。 仏像は国重文・県重文など沢山ある。中に毘沙門天もあるため、鎌倉七福神の一つになっている。 初秋の白萩が美しい寺で、萩寺としても親しまれている。 「花」サルスベリ・萩・椿・ツツジ |
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![]() 東勝寺跡 |
東勝寺跡 青龍山東勝寺といって関東十刹の一つであった。創建は3代執権北条泰時で、以後北条氏の菩提寺となった。 14代執権北条高時は、新田義貞の鎌倉攻めに抗しきれず、一族郎党をここに集め、名残の宴を開き寺に火をかけ切腹した。供をする者実に870余人、ここが北条氏終焉の地である。 |
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![]() 高時腹切やぐら |
高時腹切りやぐら 東勝寺跡の奥にやぐらがある。このやぐらは東勝寺で切腹した高時らの墳墓と言われている。 「やぐら」は鎌倉付近の山腹に残る墳墓である。その源は原始時代の横穴式墳墓であると考えられる。「やぐら」に矢倉、櫓、磐倉の字をあてる人がいて、兵器庫や望楼というわけであろうが、その多くには内部に人骨があり五輪塔、宝篋印塔、板碑などがあるので、墓窟と考えるのが妥当である。 |
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![]() 妙隆寺・本堂 |
妙隆寺(叡昌山妙隆寺) 宗派・・日蓮宗、 開山・・日英 本尊・・日蓮上人 境内には日親上人苦行の池、鍋冠日親上人石像などがある。寺宝の中に寿老人像があることから鎌倉七福神の一つである。 「花」カイドウ |
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![]() 日蓮辻説法跡 |
日蓮辻説法跡 日蓮が房州小湊から来たときは、風水害・大地震・早魃・飢饉・疫病・大火等の天変地異が相次いで起こり、世情不安の状態にあった。 日蓮はこの小町大路の辻で、邪法を信ずるから災難が起こるのだと説き、民衆の帰信を得た。 ついで「立正安国論」を宿谷光則を経て、北条時頼に提出し国難を説いたが、松葉が谷の草庵は焼かれ、伊豆の伊東に流された。垣根の中には日蓮腰掛の石がある。 |
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![]() 妙本寺・総門 |
妙本寺(長興山妙本寺) 宗派・・日蓮宗、 開山・・日朗 創建・・日蓮の俗弟子比企大学三郎、 この地は比企能員の屋敷跡である。 能員の妻はは2代将軍頼家の乳母で、娘若狭局は頼家に嫁し一幡を生んでいた。能員は頼朝に用いられ相応の勢力を持っていた上に、将軍の外戚となり、次第に勢力を増す比企氏を北条氏は警戒していた。 北条時政と将軍頼家の間は、うまく行っていなかったので時政は政子と相談の上、頼家を廃嫡隠居させ実朝を将軍に立てようとした。 能員は当然反対し、実朝と北条氏を倒そうとしたがこの計画がもれ、仏事にかこつけて呼ばれた時政の自宅で能員は謀殺された。 更に比企の屋敷に兵を送られ若狭局や頼家の長男一幡等一族は滅亡した。 この時、幼かった公暁は難を逃れ、後年実朝を襲うことになる。 山門近くに一幡の、祖師堂右の山裾に比企一族の墓がある。 |
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![]() 本覚寺・本堂 |
本覚寺(妙厳山本覚寺) 宗派・・日蓮宗、 開山・・日出 本尊・・釈迦三尊 2代目住持日朝は後に身延山久遠寺の住持になった際、日蓮の遺骨を本覚寺に分骨したので、以後本覚寺は東身延と呼ばれている。 境内には刀工正宗の墓と石塔がある。 夷堂には鎌倉七福神の一つ恵比寿様がまつられている。 「花」桜・カイドウ・ノウゼンカズラ・梅・椿 |
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第1回鎌倉散策
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第1回であり先ずは鎌倉を代表するお寺周りです。北条氏縁の寺が主体です。 ![]() 散策コース
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![]() 円覚寺・山門 |
円覚寺(瑞鹿山円覚寺) 宗派・・臨済宗円覚寺派本山 創建・・弘安5年(1282年) 開基・・北条時宗(8代執権) 開山・・無学祖元 鎌倉五山の第二位 本尊――宝冠釈迦如来 頭部は鎌倉時代作、他は江戸時代 寺域総面積約6万平方メートルで18もの塔頭が点在する大寺院。 仏日庵・・8代執権時宗・9代執権貞時・14代執権高時(鎌倉幕府最後の執権)の3代がまつられている 舎利殿・・国宝 日本で一番古い唐様建築で貴重な建物 黄梅院・・足利尊氏の創建 開山は夢窓疎石 足利氏縁の寺院 大洪鐘・・国宝、貞時の寄進で高さ2・59メートルで鎌倉で一番大きい 建長寺・常楽寺の鐘と共に鎌倉3名鐘の一つ 妙香池・・夢窓疎石作 帰源院・・夏目漱石・島崎藤村がここで参禅体験 座禅が盛んで一般参加も可能 「花」ボケ・モクレン・ボタン・タイサンボク・キキョウ・フヨウ・ヒガンバナ・紅葉・ロウバイ・梅・椿
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![]() 東慶寺・総門 |
東慶寺(松岡山東慶総持禅寺) 宗派・・臨済宗円覚寺派 創建・・弘安8年(1285年) 開基・・北条貞時(9代執権) 開山・・時宗の夫人・貞時の母覚山尼 この覚山尼が貞時をして縁切寺法の勅裁を得た。以来駆け込み寺・縁切り寺として知られた尼寺であった。 歴代住持は、後醍醐天皇の皇女の用堂尼や豊臣秀頼の娘天秀尼など、名門子女が多く松ヶ丘御所と呼ばれていたと言う。 第20代住持天秀尼は、大阪城落城後この寺に入ったが、養母千姫との関係から徳川幕府に願い出て縁切寺法を永続した。明治になって寺法は廃され以来男僧が住職となった。寺格が高いせいか有名人の墓が多い。特に梅の花がきれいだが折々の花もある。 「花」マンサク・ミツマタ・サンシュユ・モクレン・ボタン・花菖蒲・アジサイ・キキョウ・サルスベリ・萩・ヒガンバナ・水仙・梅
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![]() 浄智寺・山門 |
浄智寺(金宝山浄智寺) 宗派・・臨済宗円覚寺派 創建・・弘安4年(1281年) 開基・・北条宗政(時宗の弟)夫人と子の師時 開山・・兀菴普寧 鎌倉五山の第四位 本尊は三世仏坐像(阿弥陀、釈迦、弥勒) 昔は塔頭11を誇る伽藍があったが、現在は総門・山門・仏殿だけであるが中国風鐘楼門が特徴。 総門の手前に鎌倉十井の一つ甘露の井がある。 鎌倉七福神の布袋尊をまつる。木々や花の美しい寺である。 「花」マンサク・ミツマタ・サンシュユ・シャガ・ボタン・アジサイ・キキョウ・紅葉・ロウバイ
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![]() 明月院・総門 |
明月院(福源山明月院) 宗派・・臨済宗建長寺派 開基・・関東管領上杉憲方 開山・・密室守厳 寺宝に上杉重房像、明月院絵図、北条時頼坐像、釈迦如来坐像などがある。 もともとは禅興寺の塔頭として創建されたと言う。 現在の寺地は北条時頼(5代執権)の邸宅があったところで、仏教に帰依した時頼はこの地に最明寺を建立したが、時頼没後に寺は廃寺となった。 のちに北条時宗(8代執権)が再興し寺名を禅興寺と改めた。 禅興寺は関東十刹に名を連ねる大寺であったが、次第に衰退し明治初頭には廃寺となってしまったが、その禅興寺の一塔頭であった明月院だけが残った。 境内にある北条時頼廟の脇には時頼の墓といわれる宝篋印塔が立っている。 開山堂の横に明月院やぐらがあって、窟内には上杉憲方の墓といわれる宝篋印塔がある。(憲方の墓は極楽寺近くにもある) 初夏になると参道はアジサイの花で埋まり大勢の人がつめかける。一名紫陽花寺と言われている。 「花」ボケ・レンギョウ・イワタバコ・アジサイ・ヒガンバナ・カイドウ・ロウバイ |
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![]() 建長寺・山門 |
建長寺(巨福山建長寺) 宗派・・臨済宗大本山 創建・・建長5年(1253年) 開基・・北条時頼(5代執権) 開山・・蘭渓道隆(大覚禅師) 本尊・・地蔵菩薩 日本最初の禅寺で鎌倉五山の第一位 伽藍配置が総門・三門・仏殿・法堂など主要建物が略一直線に並んだ中国の禅様式を良く伝えている。 総門から、境内最奥の半僧坊と呼ばれる谷戸まで、歩いて20分かかると言う大寺院である 梵鐘・・国宝 円覚寺のより少し小さく高さ約2メートル
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![]() 円応寺・本堂 |
円応寺 宗派・・臨済宗建長寺派 創建・・建長2年(1250年) 開山・・知覚禅師と言われているが定かでない。別名閻魔堂・十王堂と呼ばれている。 人が死後、冥界で出会う十王をまつっている。 本尊木造閻魔王坐像は鎌倉時代の仏師運慶の作と言われ国の重要文化財(笑い閻魔) |
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![]() 鶴岡八幡宮
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鶴岡八幡宮 祭神・・応神天皇・比売神・神功皇后の三柱 幕府の儀式や行事はすべてここを中心に行われた。 康平6年(1063年)源頼義が創建した元八幡(材木座)が始まりと言われている。 現在の位置に八幡宮を移したのは頼朝であるが、二度三度の兵火により焼失し今の建物は江戸時代後期の建築である。鶴岡の名前は移る以前の由比郷の名に由来する。 宝物・・国宝 蒔絵硯箱・正恒の太刀、重文の木造弁財天坐像・舞楽面 |
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![]() 寿福寺・参道 |
寿福寺(亀谷山寿福寺) 宗派・・臨済宗建長寺派 創建・・正治2年(1200年)とされている。 創建・・北条政子 開山・・栄西禅師 鎌倉五山第三位 本尊・・釈迦如来 源義朝の屋敷跡に北条政子が創建したもので、創建当時は7堂伽藍が備わり塔頭14を数えた。
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![]() 高徳院・鎌倉大仏 |
高徳院(大異山高徳院清浄泉寺) 宗派・・浄土宗 開山や開基共に不明で一時廃寺となったが江戸時代中期に再興 大仏・・青銅製の阿弥陀如来像で国宝 |
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![]() 長谷寺・総門 |
長谷寺(海光山長谷寺) 宗派・・浄土宗 長谷観音として有名 創建・・天平8年(736年) 開基・・藤原房前 開山・・徳道上人とされているが定かではない。 本尊・・十一面観音 寺宝には国重文の銅造十一面観音懸仏・梵鐘などがある 本尊の十一面観音は日本1~2の木造像であり、足利尊氏が修理し、義満が光背を作り、江戸時代酒井忠勝が修復したと言う経緯もある。
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豆知識 |
| 歴代将軍 ()内は将軍着任時の年齢 |
源頼朝→源頼家(20)→源実朝(11)→藤原頼経(8)→藤原頼嗣(5)→宗尊親王(10)→惟康親王(2)→久明親王(13)→守邦親王(7) 頼朝没後、2代頼家は着任1年で廃嫡され、伊豆に幽閉後謀殺された。3代実朝は11歳で将軍になったが、頼家の子公暁に暗殺され、頼朝の血統は途絶えた。以後は公家・皇族より幼少の将軍を迎え、将軍職を傀儡化させた。 |
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| 鎌倉幕府の職制 | 将軍ー執権(将軍補佐)ー連署(執権の補佐)ー評定衆(政策意思決定の合議機関)ー引付衆ー侍所ー政所ー・・・・と以下も続くが、幕府141年の歴史で執権及び連署は、北条氏ならびに有力な北条一族で独占している。評定衆には、北条一族以外の御家人もいるが、得宗専制政治が進むと軽視されるようになった。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 執権北条氏 | 北条氏の初代時政は幕府の実権を握り、義娘婿を将軍に据えようとして失敗、出家して引退。2代義時が執権政治の基礎を築き、3代泰時が政子の死で自由に権力を振るい、御成敗式目(貞永式目)を制定するなど、執権政治を確立した。4代経時は意欲的であったが3年で病死し、5代時頼が最後に残った豪族三浦氏を滅ぼし、執権政治の最盛期を作った。時頼の晩年から専制的になり、権力が得宗家に集中するようになる。6代長時は時頼が後見し、7代政村は得宗家嫡男が幼少のための中継ぎ、蒙古襲来の危機に面し年少気鋭の時宗が8代執権になる。以後9~14代と北条家の執権は続くが、政治は得宗家を中心に動かされて行く。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 得宗 | 北条一門の中で、その嫡流の家督をいい、初めは執権の地位と密着していた。北条氏の中でも他と区別された特別の地位と考えられ、時宗以後は執権の地位とは関係なく、急速に権力が得宗家に集中し、やがて得宗の専制権が生まれ、政治史上重要な意味を持つようになった。 得宗は常に数国の守護を兼ね、全国に散在する得宗領を持ち、得宗家の機関として、公文所・御内侍所などを設け、御内人と称する得宗の被官者を中心に、得宗専制政治を推進した。 結局、将軍職のみならず執権職をも傀儡化したようである。 (得宗は二代執権義時の法名から来ており、三代執権泰時が義時の別称を得宗としたらしく、それから北条氏の嫡流の呼び名となった) |
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| 流 | 得宗が本家なら流は分家である。この制度を確立したのは、2代執権義時の時代であるようだ。 弟時房を佐介流・嫡男泰時は得宗・次男以下朝時は名越流・重時は極楽寺流・政村は政村流・実泰は金沢流・有時は伊具流と呼んだようである。以後この流や系が増えてゆくが、主なものは佐介流の系統には大仏流れがある。名越流の系統には、江間流・田伏流・稲瀬川流があり、極楽寺流の系統には、苅田流・普恩寺流・坂田流・赤橋流・塩田流・常盤流がある。 北条氏も決して一枚岩ではなく、得宗家に権力が集中するにつれ、得宗家に反目する流もあったようである。 |
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| 歴代執権と将軍 |
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| 日蓮上人略歴 | ・貞応元年1222年房州安房に生まれる。 ・12才で天台宗を学び16才で出家する。 ・20才で比叡山・高野山で修行、その後京都・奈良・鎌倉で念仏や禅を学ぶ。 ・31才建長五年・1253年法華経にこそ仏法の真髄があるとして故郷の清澄山上で立教開教し同年布教のため鎌倉に入る。 ・31才~38才小庵を営み辻説法による熱心な布教活動を続ける。 ・分応元年・1260年39才の時「立正安国論」を執権時頼に提出し受け入れられず逆に松葉が谷焼き討ちにあう。 ・40才で伊豆の伊東に流されたが、連れ戻され龍ノ口の刑場で斬罪になる寸前に、奇跡が起こり命は助かるが、佐渡へ流罪となる。 ・52才で赦免され一時鎌倉に身を寄せるが、身延山に去る。 ・弘安5年・1282年健康を害し初冬湯治のため、常陸の国を目指すが途中相模の国池上本門寺で60年の生涯を閉じた。 |
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| 変化する幕府の組織 玉川学園遠隔地教育推進室 「鎌倉時代の勉強をしよう」 より抜粋したものです。 著作者:玉川学園・多賀譲治先生ご了解済み |
![]() 今日,幕府といわれている組織ができた頃の組織図です.教科書や年表でもこの年に鎌倉幕府が成立したと書いてあります.頼朝が征夷大将軍になったからなのですが,頼朝自身は3年間で将軍職をやめてしまいました.. 「歴史はくり返す」といわれますが,それは私達の生きる現代にもあてはまることです.歴史を学ぶことは未来を学ぶことなのです. 余談ですが,江戸幕府を開いた徳川家康は鎌倉時代のことを詳しく書いた,吾妻鏡を政治の参考書にしていたといわれています.優れた政治家は歴史を良く学んでいるという例です. |
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| 山稜桝形状遺構 | 土塁(高さ1.5m)に囲まれ中が平らな方形の遺構が、極楽寺切り通しを挟んで南北の稜線上に存在する。北部の遺構は一升桝、南部の遺構は五合桝と言われる遺跡である。この稲村ガ崎から大仏裏へ続く稜線は、尾根道が通っていたと考えられ、この桝形遺構はいわば関所の役目を持たせる為に、西側の要として北条氏が作ったものである。泰時の成就院・重時・長時の極楽寺・極楽寺支院の仏法寺は何れも西の守りのために、北条氏が建てた寺で何れも新田勢の鎌倉攻めの折に焼失している。一升桝は約800㎡の平場、五合桝はその半分位の平場でいざと言う時は、相当の兵力を結集出来るようにしたのであろう。 仏法寺は五合桝から100m程南の、尾根線から20m位下った位置に建っていたことが、遺跡調査の跡でわかる。この位置からは由比ガ浜から和賀江島まで一望出来北条氏は、ここから船の出入りの見張りの役をこの寺に持たせたのではなかろうか。 この尾根線上で激戦があったことは間違いなく、大館宗氏率いる新田軍が稲村ガ崎よりの尾根に陣取ったと言う話が残っている。 |
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| 鎌倉七口(切通し) | 前方を海後方を山に囲まれている鎌倉への陸路の入り口である。 極楽坂切通し・大仏切通し・化粧坂・亀が谷坂・巨福呂坂・朝比奈切通し・名越切通し |
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| 鎌倉五山 | 禅宗の寺格 一位 建長寺 ・ 二位 円覚寺 ・ 三位 寿福寺 ・ 四位 浄智寺 ・ 五位 浄妙寺 |
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| 鎌倉十井 | 瓶ノ井(明月院)・甘露ノ井(浄智寺)・底脱ノ井(海蔵寺)・棟立ノ井(覚園寺)・星月ノ井(虚空臓堂近く) 泉ノ井・鉄ノ井・六角ノ井・扇ノ井・銚子ノ井 |
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| 鎌倉十橋 | 歌の橋・筋違橋・逆川橋・裁許橋・乱橋・勝の橋・十王堂橋・針磨橋・夷堂橋・琵琶橋 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 鎌倉五名水 | 銭洗水・日蓮乞水・金龍水・不老水・梶原太刀洗水 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 鎌倉を勉強するためのHP | 下記HPは鎌倉の時代背景を知るのに勉強になります。 玉川学園遠隔地教育推進室 「鎌倉時代の勉強をしよう」 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 鎌倉幕府 鎌倉時代 |
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