| ヘボン博士の記憶その2 横浜市神奈川区にあるヘボン博士の来日最初の邸宅跡及び施療所跡の記念碑です。 | |
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ヘボン博士が初来日したのは1859年(安政6)10月17日のこと、そして最初に住んだのが左の画像に在る成仏寺の本堂でした。当時の成仏寺の写真が残っていますが、門など茅葺でちょんまげの下僕らしき男性なども写っていて時代を感じさせます。 前年の1858年(安政5)7月29日に日米通商条約が締結されたばかりで、条約の上では廃止されたはずの踏み絵を居留地外ではまだやっている時代、来日した外国人達は何時刺客に襲われるかもしれないという恐怖に常にさらされていました。事実、成仏寺に住んでいる時期にヘボン夫人は夕方外出先から帰ってきたときに門前で日本人に棍棒で肩を殴打されて怪我をしています。ヘボン博士も雇う下僕は皆幕府のスパイか刺客だったといい、あるとき雇った下僕が急に辞めたいというので理由を尋ねると、自分はヘボン博士を殺そうと思ってここに来たが日々博士に接する内にその人格に感銘を覚え自分の誤りを悟ったので辞めさせて欲しい、と語ったと伝えられています。 |
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ヘボン博士が来日した頃はまだ北太平洋航路も開拓されておらず、ニューヨークからアフリカの喜望峰周りで横浜に上陸するまで4ヶ月余りかかり、ヘボン夫人は船に弱く常に船酔いに悩まされ大変だったようです。ヘボン博士は、この航海の間に覚えた日本語の「コレハナンデスカ?」を上陸と同時に誰彼かまわず連発し、出会う人から次々と日本語を学び、上陸早々に「アブナイ」「コラ」「シカタガナイ」を聞き覚えたと伝えられています。おそらく、そうやって辞書作りの準備をすることをニューヨークを出航する以前、日本での宣教を決意した時に決めていたんでしょうね。 もっとも、1841年(天保12)から1845年(弘化2)シンガポール・廈門(アモイ)で宣教活動をしていた時期に中国語を学び、論語などを日ごろから読んでいたということですから中国語の語学力はかなりのレベルにあり、全く漢字の素養のない外国人よりは日本語を学ぶ前提条件は有利だったようです。勿論それでも幕府の妨害などで日本語教師もなかなか見つけられず相当大変だったようですけれど。 1862年(文久2)9月14日生麦事件が起きた時、近くの本覚寺(当時はアメリカ領事館)に保護された怪我人2名を治療しています。おそらくリチャードソンの検死も行い、当時の日本での外国人の置かれている立場を身にしみて感じたことと思います。(リチャードソンは、刀で切られた下腹部から内臓が飛び出し、心臓は槍で一突きにされていたと伝えられています。) |
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左の画像はヘボン博士が1861年(文久2)4月頃から施療所を開設して無料で施療を行っていた宗興寺です。 横浜に在住した全期間を通して、ヘボン博士は生活費は北米長老教会ミッション本部の俸給で賄い、施療の費用については一部ミッションの援助と横浜在留外国人の寄付以外のほとんどの部分はニューヨークで病院を開業していた時代の個人の蓄財で賄っていたということです。施療は盛況で宣教師と日本人の接触を恐れる幕府の妨害で約5ヶ月で閉鎖されるまでに約3500人の施療をしたと伝えられています。一般の民衆だけでなく評判を聞いた大名やその家来・幕府の役人なども施療してもらいに横浜まで出かけていったそうです。 |
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左の画像は宗興寺にあるヘボン博士の施療所の記念碑です。 実は、施療所が閉鎖された後も来る患者は絶えなかったそうで、宗興寺であるいはヘボン博士が往診して施療は続いていたようです。ことに1862年夏にコレラが流行したときにはヘボン博士の施療が一般民衆にも知れ渡り、幕府中枢の老中や大名の間でも評判になったと伝えられています。 この時期でもヘボン博士は辞書作りに励み聖書和訳の準備を進め、幕府の干渉を避け安全を確保して目的に専念するために横浜山下居留地39番に移住を決め自らその設計図を作成しています。そして1862年(文久2)12月28日横浜山下居留地39番に引越し、準備期間を経て施療活動が再開されます。そして、閉鎖されるまでに約10000人の日本人がヘボン博士の施療を受けたのでした。 いやはや、ヘボン博士ありがとう、と感謝するしかありません。 |