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最初の就職
高校(京都市立堀川高校音楽コース)卒業後、進路には結構迷ったが、実力、経済事情等を考慮して、就職、と云う道を選んだ。 市立の音大(当時京都市立音楽短期大学)にならば、多分問題なく入れたと思うが、これは最初から選択肢に入っていなかった。 東京の私立の音大でも、なんとか成ったのでは、と思うが、こちらは経済的に考えて問題外。 国立、つまり芸大を受ける、と云う事も考えたが、現役で入るのは、多分、無理だろう、と云う自分自身の判断があった。 浪人すればなんとか成ったかもしれないが、これも保障の限りではないし、音大と云うものに、それほど魅力を感じなかった、と云う事もあったのだろう。
就職、と云っても、音楽専門コースとはいえ、高校を出たばかりの人間に、おいそれとクチが有るワケが無いのだが、そんな時に、学校の掲示板で、大阪市音楽団と云うところのメンバー募集の張り紙を見つけた。不覚にして、その「大阪市音楽団」の存在を、その時まで全く知らなかったのだが、とりあえず受験したところ、簡単に入団が決まった。 大阪市音楽団、と云うのは、その名の通り、市立のブラスバンドで、当時としてはかなり高度な事をやっていた方になるのではないかと思う。 待遇は市の職員と云う事に成っていたので、最初のうちは安月給だが、余計な事を考えずに、あのままずっと居れば、今頃は優雅に恩給生活、と云う事に成っていたのだろう。 でも、若い頃は中々そう云う風には考えないものの様だ。 所在地は、天王寺公園の中にある音楽堂で、仕事が有っても無くても、毎日2時間弱をかけて、京都の自宅からそこに通う事に成った。 入団した当初、それまでのメンバーで音楽の専門教育を受けた人は、一人も居なかったと思う。 一緒に入った中に、京都の音大を出たクラリネット、国立(クニタチ)音大を出た打楽器の人が居ただけで、あとは旧軍楽隊の出身、高校のブラスバンドから来た人、などが、ほとんどだったと思う。 そでも、ジャズに強い人、クラシック指向の人、写譜が上手な人、コンサートのMCが得意な人など、中々多彩な人材が揃っているようだった。 多分、その頃から、専門の音楽教育を受けた人間を入れよう、と云う方針になりかけていたのだろう。 同期で入ったのは、前述の音大出二人とわたしの他に、トランペット、クラリネット、ファゴットだっただろうか。 いずれも高校のブラスバンドの出身で、専門教育を受けたわけではないが、結構上手で、熱心な好感の持てるメンバーだった。 指揮者兼団長は、辻井市太郎さん、と云うかたで、なかなかの好人物だった。 仕事としては、月に一度、たしか三越劇場と云ったと思うが、デパートの中のホールでやっていた定期演奏会の他、色んなイベントなど、依頼があれば何処へでも出かけて行ったのだと思う。 児童、生徒の為の音楽教室の様な事も有ったし、高校野球の開会式にも、毎年レギュラーで出ていたと思う。 夏の時期には、天王寺の野外音楽堂で、たしか毎週土曜日だったと思うが、「たそがれコンサート」と云う催しでも、演奏していた。 演奏していた曲目は、クラシックの曲をアレンジしたものや、映画音楽、ジャズっぽいものなど、色々だった。 大体は、団員の誰かがアレンジしたもので、ほとんどが手書きの読みにくい楽譜で、最初の内、馴れるまでは往生したものだった。 クラシックのアレンジものは、オケでやるのとはイメージが違ってしまうし、キーがオリジナルと変わっていたりして、面食らう事が多かったが、ジャズのノリみたいな点では、吸収する点も多く、後にスタジオに入ってから、役立つ事も有ったとおもう。 あと、多分夏の時期だったと思うが、市内の高校などのブラスバンドの生徒を集めて、講習会みたいな事もやっていた。 セクションごとに集まって、指導したり、今風に云えば「クリニック」と云う事になるのだろう。 或る時、その辻井さんの指揮、編曲で、民放のラジオ曲で、演奏する事があって、小編成だったがピアノが入る事になった。 で、お前、多少は弾けるらしいから、やれ、と云われて、まあ、それほど難しい楽譜でもなかったので、へいへいと引き受けてしまった。 曲目は忘れてしまったが、もしかすると大阪市歌だったかもしれない。 ピアノで仕事をしたのは、後にも先にも、これだけだった。これは団の仕事ではなくて、いわゆる内職だったと思う。 今ではそんな事もないと思うが、当時、天王寺界隈はあまりガラの良くない地域で、公園の中なども、日が暮れると怪しげな女性が出没したりと、結構物騒な状況に成っていた様だったが、今にして思えば、色々と面白い事も有ったのかも知れない。 でも、さすがに食い倒れの大阪だけあって、食べ物は安くて美味かったし、あの辺りで食べたホルモン焼きは、今でも最高だったと思っている。 その音楽団に在籍したのは約1年弱で、その頃師事していた、曽根亮一さんに誘われて、当時曽根さんが主席を務めておられた、同じ大阪の「関西交響楽団」(後に大阪フィルハーモニー交響楽団と改称)に移る、まだ19歳だった。 |