死はとても公平なもの。わたしたちがどのような地位を築き上げてきたか、どれだけお金を稼いだか、どれだけの業績を積み上げてきたか、そのようなことにはまったく関係なく、だれの上にも等しく訪れる。どのような手段をもってしても、わたしたちは死から逃れることはできない。何の容赦もなく、公平に、死はすべてを奪う。やりかけの仕事も、大切な人も、大切な思い出も、宝物と思っているものも、すべてが一瞬のうちに失われる。
だからこわい。自分がいつか死ぬのかもしれないと気づいたとたんに、胸がどきどきしてしまうのは、あたりまえのこと。とりあえず毎日目がさめているから、明日もたぶん目がさめる。死ぬのはまだまだ先のこと。そんなことを心配していてもしかたがない。みんなそう思っているだけのことで、自分の死がどこまで自分に迫っているのかということは、実はわからない。
わからないから気楽に生きられるのかもしれない。重い病気にかかるということは「今日と同じように明日もまた目がさめるにちがいない」という考えに影を落とす。時間はあまりないのかもしれないという思いが、わたしたちの中に芽生える。「時間はあまりないかもしれない」という気づきは、わたしたちの気楽な思いを根底から揺るがせる。
そんな死を自ら望む者はいない。自らの命を絶つ人もあるが、それは死を望んでのことではない。生きる道がことごとくふさがれてしまい、最後に残された道として選ばざるを得ないもの。死はできるだけ遠くにあってほしいもの。死がいつ訪れるのかわからないということは、考えようによっては恵みなのだと思う。自分が死ぬ日付がわかってしまったら、わたしたちはそれに耐えることができるだろうか。
そんな死を自ら引き受けてくださった方があった。今から2000年ほど前のこと。かっこうのいい死に方ではなかった。人々の侮辱に囲まれ、身に覚えのない罪を着せられ、「殺せ」という大勢の声によって、十字架というおそろしい道具にその身を釘打たれた方があった。それは見世物だった。人々は血を流しながらゆっくりと死んでいくさまを喜んで見ていた。遠くから見守る人たちはいたが、近くにいて味方してくれる人はなかった。ひとりぼっちの死だった。死そのものをわたしたちは望まないが、この方の死は、こういう死に方だけはしたくないという死に方だった。そしてその死を、この方は「身代わり」として引き受けてくださった。わたしたちが今犯すちいさな過ちのためにも犠牲になろうと、この方は心を決めてくださった。
なぜなのか、なぜそこまで人間のことを考えてくださったのか、まったくわからない。自分だけは正しいと思い込み、自分のことは大切にし、他人の意見に耳を貸さず、他人の生き方を心配することもない。わたしたちはそのようなものでしかない。愛するに値するとはとうてい思えないわたしたちを、この方はあえて愛してくださる。その愛を、わたしたちは十字架の上に見えることができる。
この愛をわたしたちはどのように受けとめたらいいのだろうか。わたしたちには過ぎたるものである愛が、すでに与えられてしまっている。これからの一週間、わたしたちの死について、イエス・キリストの死について、そしてイエス・キリストの愛について、それぞれに思いめぐらせたい。
(2001年4月13日)
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