聖書の黙想
前半のダイナミックな物語と、後半のとても日常的な物語の対比がおもしろい。前半も後半も、物語はそのどちらもイエス・キリストの特徴をよく表すといっていいのだろう。
ふつうであれば網が破れてもしかたがないほどの大漁がもたらされる。それに驚き、喜んだであろう弟子たちのために、イエスは火をおこして待っている。魚もあり、パンもある。いつもの朝食が用意してある。イエスはすでに日常生活に戻っている。弟子たちもまた、もはや「あなたはどなたですか」とたずねる者がないほどに、イエスの復活を受け入れることができるようになっている。そこにはもはや、恐れも疑いもない。
イエスは弟子たちよりもさらに一歩先にいる。あたりまえの生活に戻っている。逮捕劇も裁判も十字架上での処刑も、そして復活もなかったかのように、ごはんを食べて働く生活に戻っている。弟子たちのために炭火をおこして待つ、配慮の生活に戻っている。
他人のためには力をつかうが、自分のためには力をつかわない、それが救い主としてのイエスの生き方だった。問題になるのはいつも目の前にいる誰かであって、自分ではなかった。その生き方に、イエスはいち早く戻っている。
そしてイエスはわたしたちを待ち、招く。あたりまえの生活へと。配慮の生活へと。自分のためではなく、他者のために力をつかう生活へと。
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