「新しい掟」があるということは、「従来の掟」とでもいうようなものがあるということ。新しい掟に先立つ掟は何かと言えば、それはユダヤ教の律法。ユダヤ教の律法にはない新しいことを、守るべきものとしてイエスは伝える。それは「互いに愛し合いなさい」ということだった。
若いころ、わたしは「愛し合う」という言葉に夢のような響きを感じた。今でも多少その響きを感じるから、若さも少しは残っていることなのかと思うが、今は別の響きも感じる。愛することについての「重い責任」というようなこと。たとえば夫婦という単位で考えれば、愛するがゆえに、目の前にいる人が泣いたり、怒ったりするのを、そのまま全部受け入れなければならないときがある。「疲れたから先に寝る」とは言えないところがある。相手の怒りによって自分が傷つくということも、受け入れなければならないときがある。愛というものは甘美なものでもないし、簡単なことではないと、気づかされるようになる。
簡単ではない愛をだれに向けるのかということも、イエスはちゃんと指示している。「互いに」と書いてある。「互い」とはだれか。自分が知っているだれかのことだろうか。自分のともだち、仲間のことだろうか。もし「互い」というときの相手が自分の知っている仲間にとどまるのであれば、そのときこの掟はどこも「新しい」ものではない。あなたがまだ知らない人、会ったこともない人と愛し合いなさい、というのがイエスの新しい掟の示すこと。それがイエスの告げた新しさ。自分の知っている仲間の輪を踏み越えて、外に出て行きなさい、そして愛しなさい、というのがイエスの告げる愛。まだ見たこともない、何とも知れない相手を愛しなさいということ。
何とむずかしいことを、と思う。しかしこの愛し方こそが、わたしたちがイエスの弟子であることを示すトレードマーク、あるいはネオンサインのようなものになるのだと、イエスはきょうの最後のところで語っている。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」という言葉はそのような意味。
このむずかしい愛をわたしたちは宿題のように与えられている。イエスの弟子となるために、わたしたちは愛し合わなければならない。まだ見ぬ人も含めて。そんな愛し方はできない。今目の前にいる人をほんとうに愛そうとすることだけでも手に余るのに、と思うわたしたちがいる。
そんなわたしたちは、もう一度きょうの物語に表れてくるイエス・キリストの姿を学ばなければならないのだと思う。今自分を裏切って外に出て行く者があり、そしてまた、やがて自分を裏切って逃げ出す者がいる。そのことまでわかったうえで、やがて逃げ出す者たちに、あらかじめ声をかけるイエスがいる。切り捨てず、あきらめず、かかわりをやめないイエスの姿がある。その姿の中に愛がある。逃げ出すような者になぜそこまで、と首をひねるしかないような深い愛と配慮が与えられる。わたしたちは自分たちが愛する前に、イエスからの大きな愛をもらってしまっている。この順番を、わたしたちは心に刻みたい。わたしたちは、自分たちが愛し合うことを始める前に、すでにイエスから愛をもらってしまっている。
愛し合うということをあなたたちもやってごらん、ためしてごらん、とわたしたちはうながしを受けている。それがなければほかの人と同じにしか見えない。イエス・キリストの弟子だとわからない。だからやってごらん。愛し合うということを。どこまでできるのか、それを毎日の生活の中で試みながら、わたしたちはともに歩んでいきたい。
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