聖書の黙想(佐野聖公教会)
36節「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」。ここにイエス・キリストからわたしたち人間に向けられた思いのすべてが込められていると感じる。わたしたちが飼い主を失って力をなくしている羊のようなものだとよくわかっているイエス。そしてその力なき羊に無関心なのではなく、深い憐れみの心、共感をもってかかわってくださる。
しかしイエスだけがわたしたちに働きかけるのではない。わたしたちもまた、イエスとともに働く者として招かれている。12人の弟子たちがあちらこちらの町や村へと派遣されたことを、わたしたちはきょうの福音書から学ぶことができる。しかしよりによってたったの12人。そして今わたしたちがイエス・キリストのために働こうとして直面するのは無関心だと思うのだが、12人の前にあったのは無関心ではなく、敵意だった。それでも行きなさいと弟子たちは言われた。
これはとても厳しい要求。そんな中には出て行きたくない。
さらにイエスは「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とも命じている。人々の中に行きなさい、そして働きなさい。ただし無償で。ボランティアのように。金品と引き換えに自分の労力、自分の力を使うのではなく、もともと神さまから命も何もただでいただいているのだから、同じようにただで働きなさいということ。ある意味では勤労意欲を殺ぐような要求。弟子なんかになるものではない、と思うが、たいへん残念なことに今ここに集まっているわたしたちは、すでにイエスの弟子として招かれてしまっている。しまった、と思っても遅い。
そんな働きには参加したくないと思うところだが、もう一度思い出したい。イエスは深い憐れみの心、共感する心をもってわたしたちに接してくださる。働けといわれているわたしたちも、あるときには飼い主を失った羊のように疲れ果てる。そのときにはイエス・キリストがわたしたちを支えてくださる。わたしたちは働くだけなのではなく、わたしたちはイエスによって支えられる者でもある。だからわたしたちは立ち上がり、イエスのために、イエスとともに働くことができる。イエスがわたしたちを深く憐れみながらいてくださるということを、わたしたちは忘れずにいたい。
BACK
聖書の黙想HOMEへ