聖書の黙想(立教新座チャペル)
「わたしたちの宣教の心構え」というようなことが、イエス・キリストによって語られている。特に、そこにどのようにたいへんなことが待っているかということ。
まず「大きな声で宣伝しなさい」と書いてある。大きな声で語ればどうなるか。今であれば無視されるだろう。これもこれでつらいが、イエスの時代、また福音書が書かれた時代には、大きな声で語ること、大きな声でイエス・キリストを語ることは、自分の命を危うくすることでもあったはず。
それでもなお御言葉を信じて語るとどうなるか。殺されることもあったはず。イエスが殺されてしまったのと同じように、弟子たちの上にも死の恐怖はつきまとった。それに対しては次のような言葉が用意されている。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」。からだは殺されてもだいじょうぶ。魂までは殺されないから。これは慰めの言葉になるだろうか。ならないと思う。冗談ではないと思う。これでは命がいくつあっても足りない。
これらの言葉はこのままでは受け入れやすいものではないだろう。むしろわたしたちが受け入れることを拒むたぐいの言葉といったほうがいいのではないだろうか。
イエス・キリストがここで語っていることは何かといえば、わたしたちの人生のもっとも深いところにあって、揺るぎなくわたしたちの人生を支えてくれるものがあるのだということ。「受け入れることができない」とわたしたちが恐ろしさに目をつぶってしまうようなこと、あるいはものにぶつかったとしてもびくともしないような、しっかりとしたもの、船をつなぎとめる錨のようなものがわたしたちの人生をつなぎとめてくれるのだということ。いや、すでにつなぎとめてくれているということ。だからだいじょうぶ。イエスが語る言葉の意味はそこにある。
ここで殉教者と呼ばれる人たちの人生を考えてみてもいいのだが、もっと身近なところで考えたい。
わたしたちのあいだには、いつも命の危機がある。たまさか今日の朝も無事に目がさめたけれど、朝目がさめるという保証はまったくいない世界にわたしたちは生きている。なんとなくだいじょうぶだと思っているに過ぎない。
そんなわたしたちを、もしかしたら治らないかもしれない病が襲うことがある。そのときわたしたちはどうするか。絶望して自らの命を絶つことを考えるだろうか。ほとんどの場合そのようなことは決断しない。わたしたちは病と向き合う道を選ぶ。なぜそのようなことが可能なのだろうか。ほとんど絶望としか思えないような中で病と向き合うことができるのだろうか。それしか道がないからだろうか。
そうではないと思う。やはり与えられている力というものがあるのだと、わたしは考える。そこで折れることなく、避けられないものは抱きとめながら先に進もうという力が与えられている。先日人間ドックに行ったときに、ストレスをチェックするアンケートを受けた。その中に「宗教を信じているか」という問いがあった。ドックの結果を聞いたときにそのことについて質問したら、宗教を信じることはストレスを避けること、あるいは和らげることと関係があると考えられているとのことだった。
いや、そんなに深く神さまを信じているわけではないのだけれど、と思うようなわたしたちかもしれない。しかしそんなわたしたちであったとしても、そこにすでに与えられているものがある。今日の朝目がさめたということをいちいち意識していないのと同じように、意識の外ですでに与えられている恵みといったものがたしかにある、そのことを今日の福音書は教えてくれている。
だからわたしたちはきょうの聖書の言葉を受け入れることができる。過酷な運命が待ち受けるかもしれないこれからの人生に、わが身をゆだねることができる。自分で決断して入るのではない。神の恵みがあるから入ることができる。
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