「過労です」
「……かろう」
「知らない言葉でしたか?」
「いえ、知ってます。ただなんだか、おかしいな、って」
 言って、口元だけで小さく笑みを浮かべる少年を見て、ユウは意識してわざとらしいため息を吐き出した。
「何がおかしいんですか。立派な病人ですよ。病人」
「おかしいですよ」
「だから何が」
「今、戦争中なのに」
 戦士には過労という言葉は似つかわしくないと言いたげに、とうとうクスクスという息遣いで笑いを伝える少年に、ユウは今度も意識して、怖い顔を向けた。
 同時に左肩に手を置き、軽く握る。
「ッ…」
「痛みますね、まだ」
「傷口はとっくに消えてます」
「知っています。でも、痛む。そうでしょう」
「…」
「あと、腹部。左脚…利き腕どっちですか?たぶん生まれついては右なんでしょうね。かばう癖がある。左足首。珍しく右上腕」
「全部、治って」
「知ってます。でも痛むんでしょう」
「差し支えるほどじゃない」
「医学的にどうこう言える現象ではないんで、私も確信をもっては言えませんが」
「だから」
「あなたの紋章は、内側からあなたを傷つけている節がある。外からの治療では治しきれない何かがあるんでしょう、きっと」
「…」
「…その貧血は間違いなく過労によるものですが。私としては、その過労の出所を知りたいですね」
「最近戦闘が続いて」
「その度に痛む体。休もうとしても休める度合いではないはずですよ。ちゃんと寝れていますか?食事は消化できてる?」
「…」
「触られて痛いとか、そういう度合いでもないでしょう。体のどこも、全く痛まない時間が1日にどのくらいありますか?」
「…」
「答えなさい。これは問診です」
「ユウ先生」
「なんですか」
「過労でしょう?部屋に戻って食事でもとって、ゆっくり休むことにします」
「…」
「血を生き返らせる薬、まだありますか。それ飲んで、ゆっくり」
「…」
「明後日、作戦開始です。それまでにはとりあえず、皆の前でふらつかないようにしておかないと」
「…」
「ユウ先生」
 沈黙と饒舌(あくまで日ごろ無口なこの少年的には、だが)が完全に入れ替わり、それでもなおしばらく沈黙した後に、ユウは椅子を立ち戸棚から赤茶の粉末を取り出した。
「……薬、というわけではありませんよあれは。鉄分補充を助ける薬草です。…一応ありますが」
「あ。よかった」
「煎じてはあるので、日に五度、なるべくたくさんの水と一緒に、一包みずつ飲んでください。今包みます」
「ありがとうございます」
「前にも言った気がするんですけど、効果がちゃんと出てくるには、早くても10日以上はかかりますけれどね。無いよりはマシでしょう」
 1つ頷き、あとはまた沈黙して椅子の上で足をぶらつかせる少年にもう目はやらず、ユウは手早く粉末状の薬草を紙に包んだ。
 深夜の医務室。
 夕方に一旦閉じて自室に戻り、仮眠を取ってからカルテを片付けに戻ってきていた。診察修了の札が下がり、鍵のかかった医務室。万が一急患が出ても、まずはユウの自室へ赴くだろう。そして余程の事態でも起こらない限り、基本的に豪快な者が多い船の上。多少の怪我や体調不良なら、朝まで待つ者がほとんどだ(治し難くなるから軽いうちに来て欲しいものではある)。
 しかし少年は、迷い無い足音で医務室までやってきて、ノックを3回。扉を開けたユウに「ちょっと目眩がする」と告げる。
 そんなことがあったのも、実はもう3回目。
「今度は昼間にどうぞ。夜更かしは毒ですよ」
「先生こそ」
「あなたとは仕事も立場も違います…はい、3日分。どうぞ」
「ありがとうございます。…『先生』」
「…」
 去り際に、そこだけ妙に力をこめて呼びかけられて、ユウは開きかけていた口をゆっくりと閉じた。
「このこと。誰にも言わなくていいですから」
「…軍師とオベル王くらいには報告したらどうですか」
「ただの貧血だし。要りません」
「そうですか」
「訊かれても、答えなくていいですから」
「……まあ、私は医師ですし、」
「…それは、ええと…」
「守秘義務がありますから」
「そう、それです」
 言葉少なに、笑って。

「…僕にもそれが、あるんです」

 船団の長、少年軍主は医務室を後にした。




 ため息ひとつ。
 今度は意識していない。
 雄雄しく前線で戦う、逞しき軍神のような軍主の姿を遠目で見る度、その命の限界を計りだしたのはいつからだったか。
 あのような肉体の使い方をしていて、もつはずが無い。
 「罰の紋章」の呪いがいかようなものかを詳しく知るわけではないが、その力を行使したときの少年の苦しみを間近で見たことは何度か、ある。
 昏倒、昏睡。
 までは至らずとも、激痛、鈍痛、そして消えず残る内の傷痕。
 呪いなど知らない。
 しかし、物理的な死の匂いを、小さな幾つかのヒントから嗅ぎ取ることは、できる。
 彼が人前であまり食事をとらなくなったのはいつからだったか。
 矢傷の包帯を取り替えたとき、治りかけのはずの傷口から、微かな腐臭が漂ったのはいつのことだったか。
 廊下の端でうずくまっていた。声を掛けたら、ボタンを落としたと俯き加減の顔で笑っていた。あれはいつだった?

 こと紋章に関しては、医学は無力だと。
 机を最後に叩いたのは、いつのことだったか。
 それでも過去の研究書をめくる手が止まらないのはどうしてか。

 外見上は平然とした少年が医務室のドアを叩くのは、きっと、薬草をもらうためばかりではない。




「…ゴホッ…」
「!?」
 と、突然響いた遠慮がちな咳の音に、ユウは椅子を蹴倒す勢いで戸口をかえりみた。
「…こんばんは…ゴホゴホッ」
「ト…リスタンさん…」
 見れば、医務室のドアの隙間から、顔半分だけ覘かせた青年剣士がいつものように咳をしている。
 気付かなかった。
 そういえば、鍵をかけていなかったから。
 促すまでもなく、「失礼します」と慣れた足取りで入ってきたトリスタンは、ドアを閉めてから気まずそうに棒立ちになっている。いや、背を丸めているから棒でもないのだが。
「どうしました。こんな夜中に」
「ゴホ、…今夜は咳が苦しくて眠れなかったんで…ゴホッ、ちょっと散歩に出ていて…」
「それで、薬が切れて、ここに?」
「違います。なんとなく通りかかって、なんとなくドア押したら…ゴホゴホッ、ゴホッ…開いていたんで…その」
「………………まあ、どうぞ」
 呆れが過ぎて、完全な無表情でユウは椅子を勧めた。
 薬物…のみならず、このなんちゃって病弱青年剣士が自分に依存しているのは分かっている。このままではいけないなぁとは思いつつ、戦乱の最中、思い切った精神治療の類ができるわけでもない。とりあえず放置しているような現状で、それでもなお依存、というか既に懐く域に入っている青年剣士に申し訳なく思わないでもなかったが、でも自分にいったいどうしろと。まあいいか。そんな状況。
「ゴホッ…ゴホゴホゴホッッ…」
「喉薬、塗っときますか?」
 何が原因(というかなんというか)であれ、今夜咳が酷いのは本当らしい。声帯を傷つけなければいいけれど、と一応医師らしく思って立ち上がりかけたユウを、しかしトリスタンが止めた。
 がっしりと両手で肩をつかんで、押さえつける。
「トリスタンさん?」
「俺はいいです。…ゴホ…先生、何かありましたか?」
「は?」
「ゴホ…いつもと、様子が、違って見えて…それで」
「…」
 きょとんと見返す。
 別に意識した演技ではなかった。
「…いえ、別に」
「でも」
「今ね。オベル王のカルテを探していたんですよ」
「え」
「先日フレア王女の矢が刺さって…ほら、急いで治療したんで、カルテもどこかに混ざってしまって。まずいなぁ、と」
「は」
「セツさんあたりに知られたら、クビにされそうですね」
「ゴホッ…先生、意外とそそっかしいですね」
「まさか。初めてですよそんなミス。それで悩んでいたわけです」
 別に、嘘でもなかったし。
 ただ、冷たい汗を瞬間流した内面を覆い隠すのに適した話題を、勝手に口が持ってきた。
 苦笑は心の中だけで。
 私は医師だ。
 患者の前で不安を、絶望を、…慟哭を。流していったい何になる。
 知られなくていい。
 そんなことは、秘密でいい。
 辿り着ける者がいなくて構わない。
 むしろ辿り着くなと、微笑むことだけが多くなる。


  「守秘義務がありますから」
  「そう、それです」

  「…僕にもそれが、あるんです」


「ゴホ…先生」
「薬、取りますね。分かったら手をどけてください」
「先生」
「何です?」
「でも、先生、俺にはやはり、いつもと違って見える」
「トリス…」
「どこが、とは言えないけれど」
「だから、別に」
「でも」
「私は」
「…先生は」

「先生は…。俺は。先生がいてくれるおかげで生きているし」

「病気だけじゃなくて、例えば、…怪我したときも。先生がいてくれると思うと、戦えるんです」

「先生。何か悩んでて、俺にできることだったら、先生、俺にできるなら、言ってください。…カルテ探しとかだと、きっと苦手ですけど」

 何度か言葉を選び文章を往復しつつも、一気に言い切った彼は、果たして自分が咳をしていないことに気付いたろうか。
 別に私は、あなたにとって絶対必要な何かではない。
 そんなに大層な人間じゃあない。
 自分の力だけでも、今咳をしていないように、いつでも健康になれる貴方に多少の力を与えているだけ。
 それなのに。
 絶対の信頼がこれほどまでに疎ましいのは、たぶん医師失格なのだろう。
 医学に自信があっても、救えないものがある。
 無自覚に救いを求め、医務室を訪れる少年に何もできないように。
 精神的な疾病を、依存という形でともすれば悪化させているように。

 こんな私を信頼しても、ねえ、トリスタンさん。

「…全く。カルテのこと以外で、別に悩んでいませんよ。」
「嘘だ」
「どこに証拠がありますか」
 剥きになってきた青年剣士を、同じ高さの視線で見下ろすように、見る。
 せめて。
 せめて、こんな私でも、医師の立場を貫けるように。
 痛みを隠して笑う、軍主の立場の少年のように。
 辿り着けなくていい。
「証拠。…は、ありませんけど」
「でしょう?ほら、いい加減手離してください。馬鹿力なんですから、貴方は」
「ありませんけど」
「けど?」
「いつも見てますから分かります」
「は?」
「…なんとなく、ですけれど」
「なんとなくって」
「でも先生」
「トリスタンさん、だから、…」

「先生、でも、そんなものでしょう?」

 まるで年若い少女の告白台詞のような前半から、あっけらかんとした後半へと。
 ついていけずにポカンと固まったユウの耳に、今日は多すぎる深夜の来訪者を継げるノックの音が届いた。
 続いて開けられたドアからは、ぞろぞろと若者たちが流れ込んでくる。
 真っ先に、恐ろしい顔をしたジュエル。
 どこか殺気だった雰囲気のケネスとポーラが早足で続き、年長者のタルが珍しくも年長者らしく、落ち着けお前ら、と宥めながら続く。
 最後にスノウが、遠慮がちに失礼しますと小声で呟き、ドアを閉めた。
「ごめんなさい先生、診察中だった?」
 謝る台詞に反してどこか挑みかかるようなジュエルに、
「いえ、全然」
 思わずトリスタンの手をペシッと軽く振り払って、真顔で答える。
「先生っ!?ゴホゴホッ…ゴホホッ」
 実際何の診察をしていたわけでもないのに、なぜか傷ついた表情のトリスタンはついでに咳を復活させてうずくまって悶絶してしまった。まあいいか、と放っておく。
「どうしました?誰か、怪我でも?」
「…違います」
 ポーラに背を擦られるトリスタンに目をやってから、ケネスが答えた。
 スノウに視線を移すと、軽く俯く。
 病気でも怪我でもないのに、彼がここにこうしてやってくるのは、彼にとっては決して長くない船旅の最中、果たして何度目だったろうか。
「さっき、ここからあいつが出てくるところを見て。なんでもないって笑っていたけど気になって、皆に訊いてみたんです。そうしたら」
 彼らしくない憤りを見せているケネスの言葉を、大きな一歩で前に出たスノウが引き継いだ。
「先生。初めてじゃないでよすね。こういうことは」
「………」
「前に同じように訊いて。でも何度訊いても教えてもらえなくて」
「スノウ君。医師には、」
「何度も聞きました。守秘義務でしょう?でも、限界です。僕だけじゃない」
 トリスタンが何かを言いたげに、首を回した。目と目が合って、そしてそらす。そらしたのは、自分のほうだった。
「僕たちだけじゃないんです。アカギさんたちも。チープーも。バジルも。皆。…フンギは、最近ちょっと食が細くなったって」
「…ちょ…と、待ってください。皆が、どうしたんです?」
「だってあいつ、体の調子がおかしいんだろ?」
 あっさりと言い切ったタルの台詞に、今度こそ隠せずに驚いた。
「知って…」
「見た目平気そうだし、何も言わないけど、でも、でも、…」
 ジュエルは言いながらもう泣きそうだった。
「でも」
 嗚咽に変わった言葉を、今度もスノウが引き継いだ。
 どこか気弱げで、おどおどした雰囲気の青年だと思っていたのにどうだろうか、この力強い眼光は。
 譲れないものを守るように。
 大切なものを。
「でも、分かるんです、なんとなく」
 その次に続く言葉を、ユウはもう知っていた。
 なんという陳腐な。
 あっけらかんとした、単純な。

「だって、そういうものでしょう?」




 そんな一言で、諸共に、突き崩される。

 しん、と重い沈黙が落ちた医務室内に、小さく波の音が響いた。
 泣きながら、怒りながら、ただただ、それでも真剣に。
 そろって自分を見つめる若者たちの視線に、しかしユウは必死に緩む口元に力を入れていた。
「…ゴホ…せん…せい…?」
 小刻みに震える肩に、気遣わしげな青年剣士の暖かな掌が乗せられたところで、我慢の限界が来る。
 はじめは小さく、徐々に大きく。
 医務室に響き渡ったユウの笑い声は、止まらなかった。
「何笑ってるんですかッ!?」
 ばかー!と拳を振り上げるジュエルから
「こッこら、先生に何を!」
 必死にユウを庇うトリスタンから、またあの咳が消える。
 それがまたおかしくて、またなんとも言えず胸を刺し、笑う。
 こんなに笑ったのはいつ以来だろう。
 世界中の病人を治したいと、無邪気な夢を描いていた頃以来か。
「は、はははは……いや…っくく…軍主失格、医師失格、ですね…」
「…先生?」
 ポーラが首を傾げた。
「…それともこの件に関しては、失格でいいのか」
「先生」
 もう一歩前に出たスノウを、笑顔で制する。
「私は医師です。医師には、守秘義務がある。彼の体のことについて、貴方たちに話すわけにはいきません」
「だけど」
「でも」
 肩に乗せられたままの手の甲を、ぽんぽんと二度叩いた。
 それだけで何か安心したらしい青年剣士の手が離れる。
 たったこれだけでも辿り着く。
 伝わり、届く、何かがあるのに。

 隠せると、思ってしまうのは何故だろう。

「でも、今度伝えておきますよ、彼のほうに。貴方たちのことを。もうバレてる観念しろって」
 言って。
 思い出して苦笑し、付け加える。
「伝われば、もう黙って1人で抱えて無理しようとは思いませんよ。大丈夫」
「本当に?」
 スノウを押しのけ、ジュエルが念を押す。
「本当に。…私が保障します」
 最後の台詞は、背後に立っていて顔が見えない青年剣士へ。
 直後にゴホ、と小さく復活した咳の音を聞き、ユウは笑った。




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