時間の流れを、これほど速いと感じたことも、これほど遅いと感じたことも無い。
 つまりアイリは、完全に狂ってしまった時間感覚の中で、必死に居た堪れなさに耐えていた。
 誰も一言も発しない。
 いや、時たまフリックが、「くそ」と、相手の居ない悪態をついていたが。
 そのフリックを何気なく見て、手に巻かれた包帯に血が滲んでいるのに気が付いた。
 フリックだけではない。周囲の人間誰もが、どこかに怪我を負い、そうでなくとも泥と汗に塗れて悄然としていた。
 ロックアックスを攻略してから息もつかずに、誰からともなく、診療所の前に集まって。
 ただ、息を潜めて、少女の無事を祈っている。

「腕、血、出てるよ」
 どこか遠くを見るような目で診療所の入り口佇む少年も、当然悲惨な有様だった。目立った怪我こそ見えないものの、その疲労も、誰よりも厳しいに違いない。それでも、部屋にでも戻って休めと言える者も、それ以外の言葉をかけられる者も無く、少年はずっとそこに立っている。
 アイリが意を決して声をかけたのは、その腕の切り傷が、あまりにも生々しく血を流していることに気付いたからだった。
 何だろう。
 剣の傷?
 でも、先刻までの戦いで付いたものだとしたら、どこかおかしい。
 角度的に、トンファーの防御をかいくぐり、つけられた傷には見えなかった。
 ちょっとどこかに擦っただけ?
 いや、違う。
 それでは、こんな、見事な、一部の狂いも無い傷はできない。
「……え。血?」
 少年はキョトンとアイリを見て、それから自分の腕に視線を落とした。
「どうしたのさ、それ」
「ああ、気付かなかったよ」
「気付かなかった?」
「うん。いつの間にやっちゃったかな」
 淡々と言いながら、ただ、傷口を凝視する。



 疲れのためかいつも青白い顔色の中で、二つの目だけはいつも生気を失っていなかった。
 過去形だ。
 今は、墨を塗りこめたかのように全く光を持たない目をどこかに向けて、ひたすら剣舞のように、精緻な飾りの長剣を閃かせている。戦場からそのままの白銀の鎧は薄汚れ、それでも時折陽を反射して煌いた。
「何か、ありましたか?」
 ジルは永い沈黙の後で、何かに憑かれたかのように舞い続ける夫に声をかけた。
 かけた後で、多少後悔する。
 何か、だなんて。
 今更、何も無い日も無いであろうに。
「何も無い日なんて、在り得ないさ」
 こちらを振り返りもせず、おおよそ予想通りの返事が返ってきた。
「そうですね。申し訳ありません」
「いや、いいんだ。…色々あったから。やはり、これの扱いはまだまだだと思っただけだよ」
 これ、と、ここで初めて振り返り、長剣を指し示す。
 王家の象徴。
 ゆえに、彼が、長年使い慣れた武器を持ち替え、練習していたのはジルも知っている。
「そうですか?私には、剣のことはわかりませんが…」
 素人目にも、見事な剣さばきだと思っていたのだが。
「わかりませんが、……あ……お怪我を、なさっていませんか?」
「…え?」
「こちらの、鎧の脇の…」
「ああ、気付かなかったよ」
「早く、医者を」
「違う。大丈夫だよ、これは、僕の血じゃない」
 返り血。
 それ以上言うべき言葉を持たず、ジルは再び黙って夫の舞を見つめ続けた。
 構え、敵陣を駆け抜け、振るった一撃はきっと、ばたばたと相手を倒すのだろう。
 見つめ続けて、ふと気が付く。
 夫の横には、誰かが居た。
 共に構え、駆け抜け、一撃を振るう、誰かが。
 絶妙のタイミングで体を入れ替え、息を合わせて。
 その呼吸が、ふと、乱れた。
 剣先が揺らぐ。
 誰かの肉をかすめてしまった長剣を引き戻し、息をつき。
 構え、敵陣を駆け抜け、…繰り返し。

 ここには存在しなくとも、確かに存在はする、そんな誰かに向かって、ジルは静かに問いかける。



 気付かなかった?

 本当に?




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