呆れるほどの快晴だった。
 雲ひとつ無い、という言葉が比喩じゃない。
 プレハブ校舎の鬱陶しい雨漏りや、灰色の雲を眼光に閉じ込める幻獣を思えば、さんさんと照る太陽は悪いものではないのだが、ただ、困るのは…。
 「……眠い」
 低く呟いたことで、よりいっそう眠気が増す。
 平日の午後。真面目に仕事をしようとしたら、これだ。
 瀬戸口はグラウンドわきの木陰に足を投げ出して座り込んだ。
 顔にあたるのは柔らかい木漏れ日、身体に降り注ぐのは直射日光の暖かさ。
 望ましい環境下の午睡。







コーリング 〜こーりんぐ〜







 名残惜しくまどろみつつも、目を開ける。
 気だるい身体を寝転んだまま伸ばし、喉の奥で唸った。
 勢いをつけて半身を起こす。こきりと首の付け根を鳴らし、両手の指を組んでもう一度、伸びをする。
 そこでやっとはっきりした視界は、しかし、はっきりとはしていなかった。
 建物の中?
 外?
 いや、外ではない。
 何かの中。そんな、イメージ。
 ほら、その証拠に、空気は動いていない。
 耳鳴りと、静寂と、そして。
 「目が覚めましたか?」
 唐突に掛けられた声は、すぐ近く、斜め後ろからだと思った。
 思った時には背後に気配。
 首を回さなくても顔が見える。
 彼女は軽く目を細めるような表情だけで笑みを作った。
 次の瞬間には、振り返った覚えも無いままに、彼女の正面に向き直っている自分がいる。
 彼女は背筋だけはしゃんと伸ばし、あとは、そう、豊な黒髪の一筋すらも重力に逆らわせないようにゆったりと座り込み、自分と視線を合わせている。
 その彼女を縛りつける、細い、金の鎖。

 人族の代表者、シオネ・アラダ。

 「おはよう」
 「ああ…ちょっと、寝すぎた」
 今度こそ顔中で微笑まれ、返した返事に違和感を感じる。
 そうだ、違う、当然だ。だって、シオネがいるんだぜ?
 俺は、この俺じゃなくて。
 「たまには、休息も必要よ」
 「んん……そうか?」
 「そうよ」
 何気ない会話の中で、彼女の瞳に映る自分は、いつしか人ではない異形の姿になっていた。
 「童子、あなたの気持ちは嬉しいけれど、そんなに気を張らなくても大丈夫。あなたがこうしてここにいてくれるだけも、私は嬉しいのよ」
 『嬉しいか?嬉しいなら、おでも、嬉しい』
 そう、この声。この口調。
 異形の声で、異形の姿で嬉しそうに笑う俺は、祇園童子。
 悪しき夢、鬼でありながらシオネを慕い、シオネに従う異形の戦士。


 ああ、これは夢だ。
 混乱も戸惑いも、ひとひらの驚きすらなく、瀬戸口隆之は悟った。
 帰らない日々。
 先代のシオネ・アラダは今は亡く、自分は人の肉体に寄生して、人として過ごしている。
 今この時は、在り得ない時。
 愛しい、懐かしい、大切な、でも今はもう在り得ない時。
 すなわち、夢。


 「…どうしたの、童子?」
 『なんでも、ない。おでのこどより、足、いだぐないか?手、いだぐないか?』
 シオネが喋るたびに、ちゃりちゃりと鳴る手首の鎖が痛々しかった。
 どうせ夢なら、都合よく消えちまえ。
 そう念じてみても、非現実的な設定のわりに妙なところで現実味を帯びたこの夢は、言うことを聞かなかった。あのころ自分が痛々しいと泣いた時のままに、金の鎖が彼女を縛る。
 「自分のことより、なんて言わないで。あなたこそ、この前の戦いで負った傷はもういいの?」
 『おで、傷、すぐ治る。そっぢごぞ、自分のこどより、おでの心配、いらない』
 「……そうね、おあいこだったわね。…ふふ。あなたと話していると、新しいことがたくさん分かるわ」
 『?……おでには、わがらない。でも、とにかく、大丈夫。みんなど戦っでいる。おで、ひとりじゃ、ない』
 いつの間にか横にいた猫が、誇らしげに首を傾けた。
 戦いの日々を思い出す。
 思い出すと同時に、それは夢の中での現在進行形の現実となった。
 名前も知らない人と共に。神々と共に。
 行軍。
 朗々と響く歌。
 たぶん人を殺すためにあるのだろう鋭い爪で、人を殺すためにある悪しき夢を引き裂く。
 老いてなお勇ましい老猫が、にゃーと鳴いて術を使う。
 若い猫たちがそれに唱和し、彼を援護した。
 たくましい胸板に散った返り血はすぐに霧散し、残らない。
 そして、高らかに吠えた彼の背後に、力強い地響きを立てて鉄の侍が降り立った。
 「行きましょうか、みなさん。総員配置!」
 「士魂号全機、出撃できます」
 「行くぞ、速水!」
 「うん!」
 サイレンの音。
 整備員が走り、司令が右手を掲げる。
 速水と呼ばれた少年が、優しい眼差しをこちらに向けた。

 「行こう、瀬戸口くん!」

 ずどん、と音でも立てそうな勢いで、視界が縮まった。
 目を見開き、そこに映った自分の手からぽとぽとと爪が抜け落ちる。
 体が一瞬にして灰色のウォードレスに包まれた。
 「……あ……」
 細い呟き声は、耳に心地よい、人の声。
 「………がぅ…」
 「瀬戸口くん?」
 「違う!今は、俺は、『違う!!』
 変化はまたも、一瞬。
 歯を食いしばって叫んだと思ったら、鉄の侍も少年も消えていた。
 祇園童子が立ち尽くす。
 「童子…?」
 『なんでも…ない』
 突然現れた戦場の中に、座り込んだままで不自然なほどに溶け込んでいるシオネが、不思議そうに声を掛けてきた。
 そう、今の俺は、祇園童子。
 夢の中でだけ帰れる場所。
 鋭い爪を立てないように気をつけて、シオネの白い頬にそっと手を伸ばす。
 その手を横から、小さな手がきゅっと握った。
 「たかちゃん、もうよるになっちゃうよ?」
 小さな少女が空を仰ぎ見る。
 「…ののみ?」
 思わずその手を握り返しながら、見上げた空は夕焼けだった。
 戦場が消える。
 代わりに広がった青いトタンの地面。清潔な洗濯物が風に揺れた。
 白い制服がオレンジ色に染まる。
 少女と繋いだ手は人の手で、少女の瞳に映る姿もよく整った人の顔。
 変わらずその場に座り込んだままのシオネに視線を戻そうとして、はっと目を閉じる。
 「たかちゃん」
 「…ののみ、違うんだ。俺は<たかちゃん>じゃない」
 「どうして?どうして、たかちゃんじゃないの?」
 「……ここは、夢の中で…あの人の瞳に映るのは、<たかちゃん>じゃないから…」
 「…………」
 困ったような顔をしたまま、ののみが消えた。
 シオネと童子以外の、何もかもが、消える。
 二人きりの空間で、シオネが真っ直ぐに童子を見た。
 座ったままで、目線だけが同じ高さに、真っ直ぐに通る。
 『…あ……』
 「どうしたの?瀬戸口くん」
 『!…違う、それ、違う!!』
 「…違わないわ。ほら、これが今の、あなた」
 最早それは変化ではなかった。
 童子が消える。
 シオネの眼前に立った瀬戸口は、震える人の声を絞り出した。
 「俺を…あなたが、その名で、呼ぶのか…」
 「………」
 「ここは、夢だ。あなたがいる、夢だ。あなたがいるなら、瀬戸口隆之はいないだろう?」
 「………」
 シオネは黙したまま、ただ真っ直ぐに瀬戸口を見た。
 当然だ、と瀬戸口は思う。
 これは俺の夢だから。
 泣きそうな顔で俺にこんなことを言われたら、彼女がどんな反応を返すのか。
 俺は、知らないから。
 ここにいるのは俺の夢の彼女。
 現実じゃない。真実じゃない。
 「でも、何も永遠に夢から覚めたくないだなんて、思っていないんだ。今は…夢の中でくらい、あなたの隣に、あの時の俺でいたいと…」
 やっと触れたシオネの頬が、冷たい。
 その冷たさの中に自分の熱が移り、すぐに火照るのを瀬戸口は感じた。
 「瀬戸口くん…」
 また、呼ばれる。
 何もなかった二人の周囲に、プレハブ校舎が、士魂号を収めたテントが、だだっぴろいグラウンドが広がった。
 「その名を、呼ばないでくれ…あなたが、その名を、呼ばないでくれ…」
 手に手を重ねられる。
 鎖は、今度は音を立てない。
 「瀬戸口くん」
 三度呼ばれたときには、周囲はすっかり、日常のものになっていた。
 ヨーコと遠坂が洗濯物を干し、ブータがただの猫のように喉を鳴らす。
 滝川と茜がぎゃあぎゃあと何やら言い合いをし、芳野がそれを止めようと四苦八苦していた。
 速水がののみから花の首飾りをもらって微笑み、田辺は新井木と内緒話、来須が黙々と訓練に勤しんで…
 そして、目まぐるしく現れる仲間たちの中に、一番うるさい黒髪の少女だけが現れないことにぼんやりと瀬戸口が気付いたとき、姿はそのままにシオネの気配がすぅと遠ざかった。苦笑してそれを追う。
 「……やれやれ。せっかく懐かしくていい夢だったのにな。もう終わりか」
 「…瀬戸口くん」
 「その名は………はは、もういいか。…なんだい?」
 「思い出の中で、夢の中で、もっとたくさんの、どこかで。どこかから。私や、あなたと共に戦ったたくさんのものたちは、今のあなたをも、はげますことができる。癒すことができる。力づけることができる。あなたが思い出すことで、あなたが夢に見ることで、私たちはあなたの隣に存在できる」
 全てがゆっくりと薄れ始めた。
 意識が覚醒していく。
 まどろむ隙も与えられずに、瀬戸口は急速に目覚めようとしていた。その中でただ、彼女の言葉を聞こうと必死に耳を欹てる。
 「でも私には、私たちには、たったひとつ、どうしてもできないことがあるみたい…」
 「……それは?」

 「<あなた>の名を、呼ぶことよ」



 「え…?」
 何を。
 何を、言っている?
 あんなにはっきりと、呼んだだろう?

 「瀬戸口くん」

 ほら、また。

 「瀬戸口くん!」

 ああ、もう、いいかげんに…

 「瀬戸口くんッ!!」
 「あいたッ!?こら、いきなり何を………」
 額をぺしりと叩かれて悲鳴をあげた瀬戸口は、吹いた風の冷たさに身を縮めた。
 半分沈んだ太陽を背にして座り込んだ人影が、不服そうに身動ぎした。
 「そんなに強く叩いていません!」
 長い黒髪。しゃんと伸びた背筋。
 「…シ………、…壬生屋」
 「まだ寝ぼけているんですか?もう、いったいいつから寝ていたんです?」
 年下の癖にお姉さんぶって言う壬生屋を見上げながら、起き上がる。
 随分長く寝ていたらしいことは、冷え切った体からもよく分かった。
 「お前さんにゃ関係ないだろ」
 「ッ……関係、はないですけれど!風邪を引いたらいけないから、起こそうと思って…ののみさんも、速水くんたちも、心配していたんですよ!?あなたが何をやっても起きないから!」
 「え?」
 強張った身体を解しながらグラウンドを見ると、仕事の合間か、速水たちとボール遊びをしているののみと目が合った。
 「あー!たかちゃん、やっとおきたぁ!おはよーう!」
 「師匠、寝すぎだって!」
 大声で叫んで手を振るののみの横で、滝川が笑う。舞は遠目に見ても分かるほどの呆れ顔だ。
 「……壬生屋」
 「……何ですか」
 「俺、いつから寝てたんだ?」
 「知りません!!」
 きッと、感情のままに睨みつけられた。
 「おー、怖。ヒステリーは美容によくないぞ」
 「不潔です!」
 「さーて、仕事でもしますかね」
 「今ごろ……何時だと思ってるんですか?瀬戸口くん!」

 瀬戸口くん

 「…………………なあ…壬生屋」
 「何…ですか?」
 「お前さん、いつから俺の名前呼んでたんだ?」
 「…いつ、って…」
 吹きっさらしの木の下に座り込んで。
 額に一瞬触れたてのひらは、冷たかった。
 「ずっと、起こそうとして、呼んでてくれたのか?」
 「そんな…ずっとでもないです!…な、なんで私が、そんな、こと…」
 ひときわ冷たい風が吹いた。
 乗じて、目を閉じる。
 色あせず、薄れもせず、まぶたの裏に映るシオネは、微笑み、時に懐かしい声で語り。
 「そんなこと……!…瀬戸口くん、また寝る気ですか!?」
 「だとしたら、どうする?お嬢さんが添い寝でもしてくれる気か?」
 「!!!…ふ・け・つ・ですーーー!!!!」
 「おわっと!た、退散ーーー!」
 「あっ、お待ちなさい!成敗します!」
 いつでも俺の傍に。俺の隣に。
 俺をはげまし、力づけ。
 思い出の中で、夢の中で、現と比べても全く遜色無い、その存在。

 …できないことは、たったひとつ。

 「瀬戸口くん何やってるのさ」
 「構うな速水。瀬戸口に付き合っていたら時間がいくらあっても足りん」
 「たかちゃん、みおちゃんとおにごっこ?」
 「師匠危ない!右!いや、今度は左!!」

 声が聞こえる。

 「瀬戸口くん、もう逃げられませんよ!?」

 俺の名前を呼ぶ声が。

 「何をニヤニヤしてるんですか!不潔ですッ!!」
 「え?あ、ちょっ……ストップ、待て、勘弁してくれーー!!」


 思い出の中からでも、夢の中からでもない。
 呼ぶ声が、聞こえる。



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