東原ののみは、岩田裕のことが苦手である。







道化師来りて  〜ドウケシ キタリテ〜







 戦時下、甘いものはなかなか手に入らない。それでも、そのことに関して言えば、5121小隊の面々は恵まれていたかもしれない。どこからともなく「本物の砂糖」を入手してくる者たちがいれば、それを、もしくはそれがなくても代用品で、見事においしい菓子を作ってくれる者たちがいる。
 この日も、残念ながら「本物の砂糖」は無いものの、他に手に入った材料で素晴しい工夫をして、速水厚志がワッフルを作り上げた。小隊の全員分である。ふわり、と手でわってみれば溢れる甘い匂いの湯気が、ののみの頬を蕩けさせた。
「すごいのよ、あっちゃん!とってもとっても、おいしそうなの!」
「ふふ、そうでしょ?食べていいんだよ、ののみちゃん」
 会心の作であるワッフルよりも、それを見た少女の笑顔こそが嬉しい速水は、幸せそうににこにこ笑って皆に配るワッフルを1つずつ紙に包む。
 ののみは手元のワッフルを見て一瞬迷ったようだが、すぐに顔を上げた。
「うんとね、ののみは、皆と食べたいのよ。あっちゃんは舞ちゃんのところに、持って行くの?」
 幸せそうに加えて、優しく微笑む速水。
 あっちゃんは、舞ちゃんが大好き。
 舞ちゃんも、あっちゃんが大好き。
 ワッフルよりもそれが嬉しいののみ。
「僕はこれから田代さんの訓練に付き合う約束をしてるから…僕らのワッフルは、冷めないように後で焼いて、一緒に食べるよ」
「そっかぁ」
 邪魔しちゃめーなのよ、と思うののみである。速水のことも芝村舞のことも大好きなののみであったが、そして嬉しいことに、2人とも自分のことが大好きだと言ってくれるが、2人が2人きりの時間をとても大切に過ごしていることも知っている。
 もうひと組、大好きで、大好き合ってる人たちを思い浮かべる。確か今頃は、お互いに「なんでこの人と」「なんでこいつと」とブチブチ言いながら買出しに行っているはずである。時間的にそろそろ帰ってきてもいいころだ。
 「邪魔しちゃめー」と思う辺りは一緒であったが、こちらの場合は自分がいないと、たまにとんでもない真剣勝負(文字通り)に突入することがある。
 2人とも、素直じゃないのよ。
 子どもだからこそ大人なののみであった。
「ののみが、隆ちゃんと未央ちゃんに持っていっても、いいですか?」
「いいよ。…というか、お願いしていいかな。ありがとう、ののみちゃん」
「うん!他の皆にも持っていくのよ?」
「ありがとう」
 少女の優しさに、ああ、今日はずっと心から笑んでいられそうだな、と思う速水は、しかし首を振る。
「でも、僕はこれからハンガーに行くから、学校にいる皆にはすぐ会えるよ。ののみちゃんは瀬戸口君と壬生屋さんをお願い」
「うん、わかったのよ。えへへ、嬉しいなぁ。隆ちゃんと未央ちゃんも、きっとすっごくすっごく喜ぶのよ!」
「味の感想、聞かせてね」
「絶対おいしいのよ。あ、食べるとき、ブータも誘おうかなぁ。4人で食べるとね、きっともっともっとおいしいのよ」
 そうだね、と、もちろん猫の分のワッフルも作っていた速水は、もう一度、笑った。



 四つのワッフルを持って、ののみはスキップをした。
 大好きな隆ちゃんと、大好きな未央ちゃんと、大好きなブータと、大好きなおやつ。
 大好きがいっぱい。こんなに楽しいことはない。
 ののみは小隊のみんなが「大好き」であった。
 「嫌い」は悲しいな、と思う。めーなのだ。
 スキップ。
 隆ちゃんと未央ちゃんに一番早く会えるのは、どこかなぁ、と考える。買い物先に迎えに行きたいくらいであったが、入れ違っちゃう気もするし。校門から帰ってくるとも限らない。
 スキップしながら迷った末に、ののみはプレハブ校舎の屋上に上がることにした。あそこなら、2人がどこから帰ってきてもすぐに分かる。
 階段はスキップでは上れない。それでもふわふわとした足取りで、ののみは階段を一気に上った。上りきったところで、晴天の午後の日の光がぱぁっと広がった。青空。その下に、たくさんの洗濯物と一緒に、白くて細長いものが揺れている。
「!…」
 ののみ頬が強張った。
 こちらに背を向けて、屋上の端で空を見上げて揺れている白くて細長いもの。

 ひろちゃん。

 ののみは、岩田のことが苦手である。
 怖い、と言い換えてもいいかもしれない。
 大抵笑みの形に弧を描いている唇。どこを見ているのか分からない、切れ長の目。もつれた毛糸を断ち切りたいのか解きたいのか、分からない動きを続ける長い指先。
 ののみを見る眼差しは、春のように穏やかだ。はっきりと目と目を合わせたことは無いから、自信は無いけれど。
 でも、遠い記憶が警鐘を鳴らす。

 春じゃない。

 今は穏やかなその眼差しが、遠い昔、気の遠くなるような遠い昔、かつて自分をどのように見据えていたのか。

 ののみは知っている。知らないけれど、知っている。


 ののみは、岩田が苦手である。
 人を嫌いになるのはとてもとても悲しいことで、それは自分にとってもひろちゃんにとっても同じことで、だから、ののみは岩田が苦手なのである。

 反射的に、ののみの体は階段をそっと駆け下りようとした。
 それを止めたのは、両手に抱えたワッフルの暖かさだった。
 速水はハンガーに向かうと言っていた。ということは、岩田は焼きたてのワッフルをもらえない。どんなにかおいしいだろう、速水渾身のワッフルを胸に、ののみの足はなんとかその場に踏みとどまった。足を止めることにこんなに勇気を使ったのは、初めてのことだった。
「……ひろちゃん」
 呼びかける。
 決して大きくない声は、それでも岩田に届くだけの大きさはもっていた。
 岩田は動かない。
 首を傾げ、一歩、二歩と足を前に出すののみ。
「ひろちゃん?」
 ゆらゆらと揺れる背中。
 白が眩しい。  少しずつ歩みを進め、ののみはとうとう日の光が岩田で遮られる距離まで近付いた。
 息を吸い、もう一度名前を呼ぶ。
「ひろちゃん」
「…おや」
 きょとん、とした顔で、岩田がふり返る。
 弧を描く唇。
 どうしてだろう。
 その笑みが、速水と重なって見えた。


「なるほどワッフル!ワッフルとハッスルは似てますねェエ!イィ!スゴクイィイーーー!!」
 差し出されたワッフルを前に、身悶え踊る岩田が怖い。関節は何処。タコ、と言ってしまえればまだいいのだが、タコにしては、時々関節らしきものが動きを制御しているのである。さすがはあの来須銀河まで、「ひぃぃ」と叫んで逃げ出す男。ののみは「ふぇえ」と涙ぐみながら、それでもワッフルを差し出した。
「あっちゃんがね、作ったの。ひろちゃんの分なのよ」
「僕の?」
「うん」
 こっくりと頷いたののみに、ぐりぐりと回転させていた腰をピタリと止める岩田。
「メェーーーーーッッ!!」
「ふぇぇぇええぇっ!?」
 突然甲高い声で絶叫した岩田に、とうとう本格的にののみは泣き出した。
 いろいろと大間違いな羊と化していた岩田が少し慌てる。
「なぜ泣くんです!?僕はあなたの真似をしただけですよ、ののみくんっ」
「………ふぇ?」
「メェエェーーーッ!」
 もしかしてそれって「めー」のことかよ、と、もし滝川陽平がここにいたら突っ込んでくれたのかもしれないが、あいにくと彼は彼でこれから正に絶体絶命の危機に陥ろうとしていて、ここにはいない。
 結果、訳が分からず目を見開いてしゃくりあげるののみと、「ェ」の形に口を開いたまま硬直する岩田の間を、ひゅるりと風が吹くことになる。
「げっはぁ!?」
 岩田は血を吐いて倒れました。
「ひ、ひろちゃんっ!?」
 心優しいののみはそんな岩田をぼこったりはせず、しかし触って助け起こすのは怖い、という状態でオロオロと慌てた。岩田の頭の横にぺたんとしゃがみこみ、ひろちゃん、ひろちゃんと呼びかける。
「…めー、ですよ。ののみくん」
「ひろちゃん?」
 盛大にぶちまけた血のりがついた唇が、笑みの形に弧を描く。
「嘘はめーです」
「…ののみ、嘘なんかついていないのよ」
「めーです。嘘はめーだって、ののみくんがいつも言っているじゃありませんか」
「…ひろちゃん」
「ののみくんの分、瀬戸口君の分、壬生屋さんの分、…ブータの分。それで四つですねェ」
「…」
「ララララ〜ラララ・僕のワッフルは愛らしいフリフリエプロン少年が所持していることでしょう〜。僕ぁこれからワッフル・ハンターへと速変わり〜」
「…」
 歌う岩田。
 ののみはきゅっとこぶしをにぎって口を閉じ、そして開いた。
「嘘じゃないのよ。ののみは今ここでひろちゃんに会ったんだから、このワッフルはひろちゃんのなのよ」
「でもそれではハンターとして名折れですねぇ〜…ククク」
「はい。ひろちゃんの分なの」
 鼻先に突き出されるワッフルを見た岩田の目が、瞬間、歪んだ。
 ワッフルに邪魔されて、ののみからはその表情はうかがえない。
「…それは。僕の分のワッフルではありませんよ」
「ひろちゃんの分なのよ」
「違いますね…。ののみくん。電波のお告げです。瀬戸口君たちがそろそろ戻ってきますよ。具体的にはあと5分34秒03後。噴水前辺りに向かうと丁度よいでしょう」
「………」
 困った顔で、ののみはそっとワッフルをずらして岩田の顔を見た。
 どこか遠くを見ていたその目が、自分を見る。穏やかなその眼差しは、春のような、というよりも、眩しい春を見るかのように細められていた。
「…フフフ。ののみくんもアレですね。アレといえば、アレですよ。物好きですね」
「ふぇ?」
「普通僕のような名ダンサーが踊る屋上に近付いてクルなんて!そこは気付かれないうちに、靴下を脱ぎ捨てながら逃げるところですよっ!?あぁ〜面白くありませねぇえ!」
 背を向けてこちらに気付かなかった岩田。
 気付かなかった。
「…ひろちゃんも、嘘は、めーなのよ」
「僕の?僕の何が嘘ですか?」
 全身に嘘を纏った岩田が優しく笑う。
 感じた確かな嘘を、子どもの持つボキャブラリーでは言い表せずに、ののみはまた泣きそうになった。
 怖かったのではない。
 悲しかった。
「とにかく、これはひろちゃんの分なの」
「違いますねェ」
「そうなのよ。あっちゃんが皆のために作ってくれたワッフルなの。誰の分とか、決まってないのよ。皆の分なの。だからこれは、ひろちゃんの分になっていいのよ」
「…」
「ののみが決めたの。ワッフルも、暖かいうちに食べられたいのよ。ひろちゃんに、食べてもらいたいのよ」
「…」
「だから―――ふぇ」
 必死で言葉を綴るののみの頭に、ふいに暖かいものがのせられた。ぽんぽん、と二度ほど、控えめに撫ぜる。それはすぐに岩田の冷たい手に形を変えて、ひょい、とののみの手からワッフルを受け取った。
「ひろちゃん」
「ありがとうございます。ワッフルさんの頼みじゃあ、断れませんねぇ。フフフ」
 普通の動作で体を起こして座る岩田の横で、ののみは嬉しくなって自分も座りなおした。
 岩田の横に座るのは初めてだ。
 人一人分の距離を置いて、並んで座る。
「…えへへ。あっちゃんのね、自信作なの。とってもおいしいのよ」
「ちゃんともう1つ、もらいに行くんですよ?」
「はぁい」
 頷いたののみの視界の端に、プレハブ校舎前を歩く舞と滝川の姿が目に入った。呼びかけようとしたが、なにやら真剣に話し込んでいる様子に気付き、「舞ちゃん陽ちゃん」を飲み込む。そしてはたと気付いた。
「――あ。ののみ行かなきゃ…」
「そうですねぇ。瀬戸口君と壬生屋さんも、喜びますよ、きっと」
「うん!」
「…ののみくんは、お2人が大好きなんですねぇ」
「うん!ののみ、隆ちゃんも未央ちゃんも、大好きなのよ!」
「そうですか」
「うん!ののみ、皆、――――――」

 大好きなのよ

 言おうとして、笑顔のままで、ののみは空気を飲み込んだ。

 嘘は、めーなのだ。
 結局皆が悲しくなるから。

 嫌いは、めーなのだ。
 結局皆が悲しくなるから。

「…ののみ、…」
 飲み込んだ空気を吐き出そうと喘ぐののみをそのままに、すらりと岩田が立ち上がった。
 その背を苦しそうな少女に向けて、天に挿し伸ばした左手を美しく翻す。
「ののみくん。大好きは、減ると思いますか?」
「…?」
 何かを手繰り寄せるかのように、かと思えばせっかく手繰り寄せたそれを風に乗せて放ってしまうかのように。
 つま先が緩やかなステップを踏む。流れるように共に動く右手の中のワッフルから、甘い匂いが立ち込めた。
「2人に分けたら半分に。4人に分けたら半分の半分に。大好きは、減ると思いますか?」
 一瞬こちらに向けられた笑顔。
 派手な化粧で、特に笑っていなくても哂って見える。
 軽やかに変化したステップがすぐにそれを覆い隠した。
 笑っていなくても哂って見える、でも、哂うのをやめたとたんにすぐさま闇が覆い隠すであろう、儚いダンス。
 突然投げかけられた謎かけに、ののみはほんの少しだけ考えた。考えるまでも無い、すぐに答えが出るなぞなぞ。
「減らないのよ」
「…どうして?」
「ののみはずっと舞ちゃんのこと大好きだったけど、隆ちゃんや未央ちゃんのこと大好きになっても、あっちゃんのこと大好きになっても、大好きは変わらないのよ」
 岩田の指先は、もう一度、空から何かを手繰り寄せようとして途中でやめた。
 ダンスが終わる。
「大好きはいいことなの。いいことは、いくらあってもいいのよ。だから、大好きは増えるの。大好きの数だけ、どんどん増えるの」
 下からどんがらがっしゃん、と、轟音が響いた。
「おッ落ち着けって芝村!」
「放せ滝川!私は今すぐあの不逞の輩をこの手で締め上げねばならんっ!必要ならNEPも使用だ!士翼号も用意させるっ!」
 岩田とののみが会話を止めて見下ろす先で、顔を真っ赤にして暴れる舞を滝川が後ろから羽交い絞めにしている。
「なんでそんなに怒るんだよッ!?俺、速水は田代と訓練中だって言っただけだろ!?」
「だけ、だと…!?滝川…お前はそんな奴ではないと信じていたのに…」
「はぁ?」
「ふぇ?」
「おゃぁ?」
 力を緩めてほとんど泣きそうな舞の様子に困惑する滝川同様、ののみと岩田もそろって首を傾けた。
「訓練とは…訓練とはっ…その…突然耳に息を吹きかけたりっ…必要だからと言って、あちこちっ…あちこち、さわ、触ったりっ…そのあげくにか、感触の、か、か、か、かかかっ、感想を述べたりっ…」
「………うはー…」
 なんで俺速水と親友やってんだろ、と死んだ魚のような目になる滝川。
 ちなみにののみの耳は瀬戸口の代理で岩田がしっかりと塞いでいる。
「そんな行為を…あやつは田代とっ…」
 全人類(この際幻獣も含んでいいかもしれない)と速水と田代とあと自分が確実に生き残るためにはどうやって舞を説得…というか真実を伝える…?…いやいやもうどうしようとにかくなにをどうなんとかすればいいのか、いやな汗をかきながら必死に考える滝川に心の中でエールを送り、岩田はそっと、半ば抱きかかえていたののみの体を放した。
 無意識であろう、強張った小さな体。
「―――――まあアレです。特別な感情が絡む場合については、あまり大好きが増え広がるのは命取りになるものですが…」
「ふぇぇ?」
「そうですね。いくら分けても減らないものは、確かにある。この世界に、ある」
「…ひろちゃん…?」
「ねぇ、ののみくん」
「うん」
「僕は、あなたが大好きですよ」
 それだけ告げて、岩田はののみの背を押した。
 嘘はめーで、嫌いもめーなののみが、返事に困る前に。
 三つのワッフルを抱いたまま勢いで階段口まで辿り着いてしまったののみが振り返ろうとする。
「幕間のトークは終わりです。大好きな2人の元にお行きなさい」
 おどけた声が再び背を押した。
「ワッフルを持って、お行きなさい」
 抗いがたい、言葉の風。

 笑い哂ってもらうために笑う踊り手は、例え観客が笑ってくれなくても、笑い、踊りを繰り返す。

「僕はあなたが、たくさんを大好きなあなたが好きなんですよ」

 だからこそ笑ってくれるなら。
 ただそれだけが、どんなに幸福だろう。
 自分の分は無くていい。
 ただ、それだけが、どんなにか、どんなにか、幸福だろう―――――

 押されたののみは、しかし、途中で無理矢理向き直った。
 きょとんとした顔の岩田が見える。
 息を吸い込む。
 決して大きくは無いけれど、絶対に岩田には届く声を出す。
「そのワッフルはね、ひろちゃんの分なのよ」

「ののみが決めたの。ひろちゃんの分なのよ」

 優雅に一礼する岩田の表情は見えなかった。






 東原ののみは、岩田裕のことが苦手である。

「…あれ、ののみは?」
 裏マーケットで手に入れたチョコレートと、図書館で吟味した絵本を手に、瀬戸口隆之は、3日経っても両頬を赤く腫れ上がらせた速水に訊ねた。
「ていうか痛々しいな、それ」
 恭しく挿し伸ばされた瀬戸口の手を避けながら、「嫉妬って嬉しいから、まあ、いいんだけどね」と、今回ばかりはちょっとさすがに戦慄した笑みと共に、速水が答える。
「屋上じゃない?さっき、上がって行ったよ」

 東原ののみは、岩田裕のことが苦手である。

 だから人一人分だけ離れて座り、空を見る。
 傍らには、笑顔のダンス。







 戻る