その日、舞は朝から変だった。 短いポニーテイルを揺らし、大きな目を見開いて、ずっと岩田の顔を見つめている。 男性として平均的な身長を持つ岩田と、まだ五歳にもならない舞とでは、顔の高さの差が激しい。 それでも舞は、首の痛さにたまにしかめ面をしながら、延々岩田の顔を見つめ、もとい見上げていた。 「…舞、私の顔がどうかしましたか」 たまりかねて聞いたのは、二人きりの、午後一番の診察室で。 直後に検査を控えての簡単な診察を行いながら聞いた岩田に、イスに腰掛け背中に聴診器を当てられながら首を回して見あげていた舞が、あっさりと答えた。 「裕の顔を、忘れないように見ているのだ」 「…………………………………は?」 白い仮面 〜シロイカメン〜 「舞は、まだ私の顔を覚えていなかったんですか?」 聞きながら、間抜けな問いだと岩田裕は思った。ボタンを外した白衣の襟元を直す。 あまり芳しくない肉体を持って生まれた彼女の治療を、ずっと行ってきたのは岩田であり、最近の教育係も岩田であり、さらに舞は高い知能を持っている。記憶力もいいはずだ。 普段の世話係はよく変わっているから、舞の記憶に残らないこともあるかもしれない。しかし、主治医とも言うべき岩田は別である。 「いいや、覚えている。でも、万が一があるだろう?念のために、もっと覚えておくのだ」 「…………」 きっぱりと言い切った舞に、岩田は何やら嫌な予感を覚えた。 回転式のイスをくるりと回して舞と向き合い、背をかがめて目線を合わせる。それでやっと、舞は首を戻して一息ついた。 「なぜですか?あなたなら、私の顔を忘れることもないでしょう?」 「…でも、裕は白い服を着ているから…」 「はぁ?」 本格的にわけがわからない。 思わず着ていた白衣を見下ろすと、しゅんと俯いていた舞がぴくりと肩を震わせた。 「舞、始めから、順番に、話してくれますか」 「……うん。昨日、久しぶりに父が帰ってきた」 がたたん。 デスクから肘が滑って、危うく岩田は顎を打ちかけた。 「裕?」 「大丈夫です。…それで?」 あの野郎。いつの間に?娘のところにだけ顔をだして、とっとと次の任地に向かったな。 「それで、色々な話をしてくれた。その中に、裕や、他の人たちがいつも着ている白い服の話があったのだ」 「ほほぉう」 確かに、舞の周りには岩田も含め、白衣の人間がうろうろしている。 必要時以外は着なくてもいい、というか、衛生面を考えれば着ない方がいい白衣だが、大抵皆着放しだ。というか大抵、何着もの白衣を用意して、状況に応じて着分けている。 岩田もその例に漏れなかった。 「皆、同じ白い服を着ているわけを教えてくれた」 「どう教えてくれたのですか?」 沈黙。 「舞」 「……………突然入れ替わって、いなくなっても、私に気付かれないように……………」 「…え?」 「私が、いなくなるなと駄々をこねないように。私に分からないように、こっそり次の白い服の人と、入れかわるのだろう?」 舞は顎を落して、じっと上目遣いに岩田を見上げた。 世話係はもちろん白衣など着ていない。 世話係が変わるとき。 舞は泣いたりこそしないものの、いつも寂しげに、ふくれてしまう。 でも、それは仕方がないでしょう!? 岩田は想像の中で、舞の「父」の胸倉を掴みあげた。想像の中の彼は、委細構わず尊大に、岩田を見下ろしていた。 聞き分けの無い(いや、十分にあるのだが)舞への仕置きとして、そのようなホラを吹いたわけではないだろう。 「…また、面白がって…」 毎回決まって悪趣味だが、今回はきっちり岩田をも当事者として巻き込んでいる。 しかも、同じ服を着ているから分からなくなるなどと。舞なら、冷静になって少し考えれば、それが無茶苦茶な論理であることは分かったはずだ。それが、こうもすっかり信じきって。どんな話術を使ったのやら。 ……なんとまあ、やっかいな。 「あのですね、舞」 とにもかくにも誤解を解こうと、岩田は優しく語りかけた。 「この白い服、白衣はですね、簡単に言うと、白い服を着ることで…」 「裕」 「はい?」 「私は、もう駄々をこねないぞ。誰がいなくなっても寂しがらない。いつも通りにしゃんとする。」 「あの、舞、だからですね」 「だから」 舞は、急いで岩田の白衣をぎゅっと掴んだ。 「だから、いなくなる時には、はっきり教えろ。黙って行くな」 最後まで言ってから、掴んだ白衣を引き寄せて顔を埋める。 その強い言葉と弱々しい仕草に、岩田はそれ以上言葉を続けられずに動きを止めた。 体の震えは伝わってくるものの、舞はしゃくりあげすらしなかった。 岩田の体の中を、熱い何かが駆け抜けた。 出口を見失った舞の涙かもしれないと、瞬間、真剣にそう思った。 世界を救う少女。 世界が必要とするであろう少女。 しかし、まだほんの、少女なのだ。 「……分かりました、舞。もし、いなくなる時が来ても、私は黙っていなくなったりしませんよ。大丈夫、約束しますから」 「本当かっ!?」 弾けるように上がった顔が、笑顔で輝く。 「芝村に二言はありません」 …ホラは、吹くかもしれませんがね。まったくほんとに、あの野郎。 「そうだったな。そうだった。でも、なるべく顔は覚えておかねば。そうだ裕、今度1度白い服以外の服を着て来い!」 興奮して喋る舞に相鎚をうちながら、岩田は腕時計に目をやった。 「そろそろ検査の時間ですね。第二検査室です。そろそろ、行きましょうか」 「うん」 イスから飛び降りて、舞は扉へとスキップした。白衣は掴んだままだ。岩田は前かがみになって、後を追った。 「…なあ、裕」 「なんです?」 「……いなくなっても駄々はこねないが、……いなくならないほうがいいと、私は思っているぞ」 急にゆっくり歩き出し、顔を岩田からそらしながら、舞は小さな、小さな声で呟いた。 その声に含まれた、絶対の信頼。 それを聞き取って、岩田は先ほど駆け抜けた熱い何かが、急速に冷えていくのを感じた。 いけない。 私などに、その信頼を、向けてはいけない。 あなたはほんの、小さな少女。 しかし あなたは、世界を救う。 その小さな体で。 その時あなたの隣にいるのは、唯一無二のパートナー。 あなたを守り、共に戦い、運命を共にする。 そして、それは私ではない。 運命を歯車に例えるならば あなたの未来に向かう運命の中で、私は小さな、ひとかけらの部品に過ぎない。 あなたは 私などに 正直に言った方がよいのは分かりきっていた。 いつか必ず、自分と舞には別れが訪れる。 そのことを、はっきり告げるべきであると。 ……舞は、嘘を、望んでいない。 「はい。…私は、いなくなったりしませんよ」 告げられて、ぱっと勢いよく舞は振り返った。 浮かべた取って置きの笑顔は、しかし、その瞬間に凍りつく。 自分を見おろす岩田の目。 岩田の目の奥は、どこか遠くに向けられていた。 青白い顔。その中で、うっすら光る一対の目がどこか遠くを見据えている。 自分を通り越し。 自分を通して、どこか遠い未来へと。 握ったままだった白衣が、するりと手から逃げていった。 きっちり、三歩。 距離を保って後ろを歩く舞からは、かすかな絶望が感じられた。 それでいいと納得しながら、岩田は白衣の前を合わせて握り締めた。 舞、舞、小さな舞。 私は歯車の中の、ほんの小さな、ひとかけらの、目にも見えないひとつの部品。 だから。だけど。 もしもあなたの運命に、暗い影がさしたなら。 あなたの未来のために、歯車の中の小さな部品は、小さな反旗をひるがえす。 真っ白い霧が記憶を溶かし、あなたが私を忘れていても。 |