「速水、パスパァス!!」
 滝川が叫びながら走っている。進行方向を全く見ていない。ついでに手まで、大きく振り回していた。
 そのうち絶対転びそうだと呆れながら、速水はちらりと右後方を見た。
 珍しく、昼休みのサッカーに加わった来須が、黙々と距離を縮めてきている。
 普通に走り比べたならば、簡単に負けない自信はあった。しかし、今はボールをキープしたままなのだ。
「はーやみーー!!」
 元気に走りつづける滝川以外に、周囲に味方の姿は見えなかった。
 いきなり、横に威圧感。一気に距離を詰めた来須が、帽子の下でにやりと笑った。
「滝川、行くよ!」
 叫んで速水はパスを出す。
「…!」
 来須の反応は素早かった。走ったまま、器用にパスボールに足をかける。ボールは大きく軌道をそらされて、滝川のはるか頭上を飛んでいった。
 さすがだね、と速水が来須に顔を向けたとき、
「バッカ滝川!前、前ッ!!」
 響いた絶叫は、ゴールキーパー中村の声。
「うっ…わああああッ!?」
 続く悲鳴は、当然………







太陽の笑顔 〜タイヨウノエガオ〜







 何の前触れも遠慮も無しに、思い切り扉が開かれた。
 整備員詰め所。
 包帯の在庫を確認していた石津萌は、少なからずびくりとして、戸口を振り返った。
「あ、わりぃ。驚いた?へへッ、よかったー、石津がいて」
 悪いと言う割に、底抜けに明るい笑顔を浮かべて、滝川陽平がそこに立っている。
 右足の膝小僧からだらだらと血が流れ、制服の右腕が擦り切れて、そこも血で汚れていた。
「手当て、してくれる?一応足は、土が入ってたから水で洗ったんだけどさ」
 石津は指を指された濡れた右足を、まじまじと見た。
 裸足だ。
 靴と靴下は、洗ったときに脱いだのだろう。でも
「…靴…は、どうし……たの?」
「あ。やっべ。水飲み場に置きっぱなしだ」
 慌てて、飛び出していった。



 木のイスに腰をかけて、滝川は物珍しげに詰め所の中を見回した。
 石津は黙って、消毒液を脱脂綿に湿らせている。
「いやー、まいった。サッカーやっててさ、前を見ずにボール追ってたら、ゴールポストに気付かなくって。激突はしなかったけど、思い切りこけちまっ……!!!!」
 陽気に喋っていた滝川は、足の傷口に脱脂綿を押し当てられた瞬間、口をつぐんだ。
 目の端に涙が浮かんでいる。
「は、ははは……喋ってたら、分かんないかと思ったけど。やっぱ、ッててっ…しみる〜〜〜ッ!!」
「…がまん……して…動…くと、…治療…できない…」
「………………」
 滝川は歯を食いしばった。
 先ほどまでとうってかわって、静かになる。
 石津も喋らないので、詰め所の中はシンと静まり返った。
「………はい…消毒、終わり………」
「…ッはぁーーーーッ!!!苦しかった…」
 何も息まで止めなくても。
 ガーゼを当て、傷口を避けるように湿布を貼る。
 滝川はまた一人で喋りだした。
「あー、速水たち、勝ってるかな。速水は付き添うって言ったんだけどさ、どーせなら試合結果とか、あとで知りたいじゃん?速水まで抜けたらもともと人数少ないってのに、試合なんかできなくなるから、断ったんだ」
 包帯を巻く。関節部分は何度やっても加減が難しい。
「今日はさ、えーと俺と、速水と、遠坂と、岩田と。あと、キーパーが坂上先生で、一チームね。で、来須先輩と、若宮さんと、田代と、茜と、キーパー中村で一チーム。そりゃ、田代は女だけどさ。すげー強くて。あっちスカウトが二人じゃん?卑怯だって思ったんだけど、こっちも速水はうまいっつーか頭いいし、岩田が意外に役に立つしでさ」
 石津は、頷くでもなく黙々と包帯を巻いた。
 それでも滝川は、気を悪くした風でもなく喋りつづける。消毒による痛さが去ったからか、笑顔も戻ってきていた。
 包帯の端を止めながら、思わず石津は滝川の顔を見上げた。
 眩しかったのは、錯覚ではないだろう。太陽の下で、太陽のような笑顔で、生き生きと泥だらけになって走り回る。陽平という名前は、彼にぴったりだと思えた。
「ん、何?」
「なんでも…ない…の。終わった……わ」
 自分には、太陽は似合わない。喋ることすら、上手く出来ないのだから。



 次に滝川は、恐々と制服の上着を脱いだ。顔をしかめながら、中のシャツの袖をまくる。
「…あー、よかった。こっちは土とか入ってないや。実は、水で洗うのもけっこう痛くてさ。……あ、だけどこっちも、洗ってきたほうがいい?」
 不安げな上目遣い。
「いい…わ。本当……は、あまり、洗…わないほうが……いい、の。傷……悪くなる、かも…」
「げ。マジ!?膝、思いっきし洗っちゃったんだけど!」
「大丈夫……土……たくさんついていた…なら、しかたが…ないし…」
「そっか。今度から気をつけよ。……ッ!?」
 今度は腕に付けられた消毒液付き脱脂綿に、滝川の呼吸が再び止まる。
 腕の消毒はすぐに終わった。助かったと言うように、滝川は大きなため息をついて、にっこり笑った。
「怪我、気をつけないとなー。戦場でならさ、始めから薬使ってるし、大怪我とかしたらまず気絶するし麻酔もあるし、平気だと思ったんだけど。あれ、でも、医療物資から足りなくってきてるって、芝村が言ってたっけか。……そうなのか?」
 こちらはガーゼをテープでとめながら、少し迷って、石津はこくりと頷いた。
 深刻な不足では、まだ、無い。
 しかし、注文した物資が届くスピードは明らかに遅くなっていた。
 気付いたときには、届かなくなっているかもしれない。それは避けたいことだった。
「…じゃあ、ホント、こういう小さな怪我もしないようにしないとな。…あれ?だから石津、昼休みなのにここで仕事してたのか?」
「………」
 この問いには、首を縦にも横にも振れなくて、石津は困ってテープを切った。
 確かに、気になって在庫を調べてはいたけれど。
 皆とわいわい弁当を食べることができない石津は、昼休みはたいてい詰め所にいた。
 たまに気を効かした速水が誘ってくれるが、その優しさが時に辛くて、誘われる前に逃げ出してしまうことがある。
 黙ったまま、否定も肯定もしない石津を見て、滝川がかわりとばかりに口を開いた。
「まあそのおかげで手当てしてもらえたから、俺はラッキーだけどさ…あ、終わった?サンキュー」
 ガーゼに引っかからないようにシャツの袖を下ろし、投げ出してあった上着を手にとる。
「思いっきり擦り切れたなー。裁縫苦手なのに……」
「…今…すぐ、縫える…わ。そう……する?」
 とっさに聞いていた。
「えっ、いいの?やりぃ、頼むぜ!」
 笑顔を見ながら、少し後悔する。
 私とずっと二人きりなんて。
 滝川君は、きっと退屈。



 実際、繕うのに苦労は無さそうだった。
 昼休みは残り十五分。このくらいなら、五分で終わる。
「俺ほんっっと、裁縫だめなんだよなー。針ぶすぶす刺しちゃって。ほら、この前の校舎修理。ついでだから大掃除もって、一人一枚、雑巾持参だっただろ?俺困ってさー。結局速水にやってもらったんだけど。血で真っ赤の雑巾なんか使いたくねーって泣きついたら、家で使う分もって、三枚も縫ってくれてさ。あいつ、芝村の分も縫ってたぜ。一晩で最低でも五枚?信じらんねー」
 たかが五分。
「…石津、バンバンジー見てる?そっか、見てないか。あれ、面白いぜ。オススメ。ひまだったら見てみろよ。……じゃ、テレビって何見てんの?…あー…もしかして、あんまし見てない?…………」
 されど五分。
 基本的に無言の石津を前に、それでもしばらく喋っていた滝川は、ついに口を閉じた。話題がなくなったらしい。
 石津はふと、そもそも滝川は、こんなにも喋る人だったかと考えた。
 お喋りなほうではある。しかし、ずっと一人でぺらぺらと、喋ることなどあっただろうか。
 …分からなかった。そんなに熱心に、滝川を観察したことは無い。
 ちくちくと針を動かしながら、それに合わせて心の中で頭を下げる。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 喋ることも出来ない私。
 太陽のような笑顔を向けられても、それは眩しいだけで。
 ちくちく、ちくちく。
「………あのさ?石津………」
「……………な…に…?」
 次に発せられた滝川の声は、ひどく硬かった。
 怒っている。
 そんなことを思って、石津は身を硬くする。
 しかし次の瞬間、滝川はへにゃりと情けなさそうに顔を歪めて、哀れっぽい声を出した。
「…ごめんな」
「?……あ…の…?」
「俺、一人で喋ってばっかでさ。なんか、自分でもわけ分かんなくて。疲れただろ、俺といて」
 なに。
 何を言ってるの、この人は?
「そんな…こと……私…こそ、会話…できなく、て…ごめんなさい……」
「や、それは別にいいんだけどさ。だって石津、黙っててもちゃんと俺の話聞いてくれてるの分かるし。なのに俺はさー、いい気になって自分の好きなことばっかりべらべら喋って。だめだよな、こんなんじゃ」
 別にいいんだけどさ?
 ずっと気にしていたことを「別に」と言われ、石津は目を瞬かせた。
 しゅんとした滝川が、こちらを見ている。
「…………別に…いい、わ……疲れてない…し、怒っても…いない…」
 なぜ私が許す方になっているのかと混乱しながらも石津が告げると、滝川は一転、何度目か数えることも出来ない笑顔になった。太陽の笑顔。
「っしゃ、それ聞いて安心したぜ!………俺さ、実はさ、……笑わないで聞いてくれよ?」
 こくりと頷く。
「…お…女の子と、二人きりになるの、は…初めてで、さ。なんか、緊張しちゃって、それで、なんか喋んなきゃって、さ……」
 女の子と二人きり?
 緊張して?
 ばつが悪そうな滝川。
 日に焼けた頬の辺りが赤い。
 緊張して?
「………ふ。ふふふ…………」
 いつの間にか、石津はくすくすと笑っていた。
 私も緊張していたから、おあいこ。
 でも、別に、男の子と二人きりだと思って緊張していたわけじゃないのにね。
 滝川は、そんな石津をぽかんと見てから、
「ひっでぇ、笑わないって言ったじゃん!」
 今度こそ真っ赤になって抗議した。



 元通りになった制服を着て、滝川は詰め所の戸口に立った。
 石津は午後の授業まで少しでも仕事をしようと、在庫の入った箱の前に陣取っている。
「手伝おっか?」
「ううん…いい……わ」
 手順が分からない者が手伝ってもどうしようもない。
 滝川はそっかと言って、扉を開けた。
「………あのさ、石津」
「…な…に?」
 声だけ掛けておいてしばらくもごもごとした滝川は、太陽の下に駆け出しながら、石津に向かって早口でささやいた。

「石津って、笑ったところも、可愛いのな」

 何を、突然。
 石津は呆然として、開きっぱなしの戸口を見た。
 外の音が一気に入ってくる。
 滝川勝ったよ2−0!
 マジ!?やったじゃん!!
 一番元気な声は、もちろん滝川。
 笑顔?可愛い?
 そんなこと、ないのに。
 それに、もし、そうだとしても、私はあなたみたいに、いつも笑ってはいられない。
 笑顔は、なかなか、出てこない。
 外の喧騒と、箱いっぱいの包帯と、滝川の言葉と、滝川の笑顔。
 わけが分からなくなってぶんぶんと首を振った石津は、はたと気付いた。

「……笑ったところ…『も』、可愛い……?」



「滝川、怪我大丈夫だった?」
「おう!…ていうかさ、たまには怪我するのも、いいな」
「はぁ?」
「何言ってんだ、お前」
「いや違った!怪我してちゃだめなんだ!速水、茜、怪我には気をつけろよ!」
『?…変な奴』





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