皆でボウリングに行った日曜日の夜。
 土曜日にもりりんから借りた工具、ちゃんともとの場所に戻してなかったことに気が付いて、ボクはひとけのない、明かりもついていないハンガーやってきた…はずだった。
 でも、明かりはついていて。
 誰がいるんだろう、なんて思いながら、ボクは何となく足音を消して、ハンガー二階に外から直接続く階段を上り、工具を片付けた。
 どうやら人は一階にいる。
 で、士魂号の整備してるみたい。
 ボクはそっと、手すり越しに一階を覗き込んだ。
 視界で揺れるくねくねとした白い後姿。
 ……イワッチ?







今だけは 〜イマダケハ〜







 さらさらと音を立てて、小雨が降ってきた。
 新井木勇美は鼻にしわを寄せ、どんよりと暗い空を睨みつけた。
「やだなー。制服、体に貼り付くと気持ち悪いのに」
 思わず独り言がもれる。
 今日は原素子整備班長から帰宅命令が降りた。
 22時までには、ハンガーを出ること。
 最近続いた徹夜作業の疲れを癒すように、そう整備班に告げる原の顔にも、深い疲労が覗われた。
 新井木は当然喜んで、その命令に従った。
 21時半には帰り支度を整え、田辺真紀を急かして一緒に帰路についた。
 そして、今。22時半。
 学校への道を早足に引き返している自分。
「やっぱ帰ろっかなー。風邪引くよね、こんなじゃさー…」
 ぶつぶつと呟くと言うより、半ば叫びつつ、それでも足は止まらない。
 森精華から借りた工具を片付け忘れるのは、これで三回目であった。
 慌てて片付け、事なきを得たのが一回目。
 忘れたままで翌日に、こっ酷く叱られた二回目。
 そして、今日が三回目。
 家に着く直前に気付き、こうして引き返してきたわけである。
 ああもう、めんどくさいったら。ボク今日見たいドラマあったのにさ。さっさとやって、さっさと帰ろう。
 やがて、学校が見えてきた。
 校門を駆け抜け、校舎の裏を走って、ハンガーを目指す。
「!?…………え…」
 ハンガーの入口が見えるところまで近付いて、新井木は思わず手近にあった木の後ろに駆け込んだ。
 昼間のように明るく照らされたハンガー内部に、どう見ても5121小隊の人間ではない人影がちらついている。
 大人?軍属の人?なんで、あんなにいっぱい…。
 ちょっと背筋が寒くなった。
 5121小隊主力の人型戦車、三体の士魂号。
 それらの入手方法や維持手段が合法的ではないのは、小隊の人間ならば多かれ少なかれ知っている。
 どうしよう。何これ、どうなってんの?外の人に、おおっぴらに触らせて良いわけ?
 善行司令は知ってるんだろうか。原さんは?
 軽いパニック状態に陥っていることに自分で気付き、新井木は大きく一度、深呼吸をした。
「落ち着けー、落ち着けー。原さんだったぞ、今日早く帰れって言ってたの。だから、原さんは知ってる。ってことはー……」
「詮索せずに、帰ったほうがいいでしょうねェ」
「そう、それ。詮索せずにね…って、イイイイイイワッチ!?」
「フフフ、その驚き方、イィですねェ。でもちょっとボリュームダウンです」
 言われるまでもなく、手で自分の口を塞ぐ。
 いつの間にやら自分の後ろに歩み寄っていたのは、小隊一の奇人変人、岩田裕であった。体にぴったりしている改造白衣(?)が小雨に濡れて、もともと細身な岩田の体をよりいっそう細身に見せている。
「…何やってんのさ、イワッチ」
 ヒソヒソと問い掛けると、岩田はくにゃりとポーズをつけた。
「電波の導きです」
「何ソレ?ていうかイワッチ、あの人たち何だか知ってんの?」
「いいえ。でも、電波は危険だと告げてますね。まァ司令も班長も知っていることのようですし、僕たちは気にしない方がいいでしょう」
「…………んー…………」
「ささ、強制フラグで帰還モードです。僕と一緒に帰りましょう」
「え、ちょっ、いーわーたー!」
 思いの他力強い岩田の腕にずるずると引きずられながら、小声でもがく。
 そこに、校舎の方から速水厚志と芝村舞が歩いてきた。
「あれ、イワッチ…と、新井木さん?」
「あ、速水君!ねぇ、なんか今、ハンガー行かない方がいいみたいだよ」
「え?…ええと…」
「構わん。行くぞ、速水」
「なっ…何よ、芝村!なんかねぇ、今ハンガーに怖そうな軍人がいっぱいいて、で、まずそうだからせっかく忠告…」
「…構わん。知っている」
「………え?」
 あっさり言われ、あっさり横を通り過ぎられて、新井木はぽかんと芝村の後姿を見送った。そのすぐ後ろを、速水が「ごめん」と顔の前で両手を合わせながら、追いかける。
 ハンガーから出てきた人影が、二人に向かって敬礼するのが見えた。その顔が一瞬こちらを向いたが、芝村が何かを言い、彼らは連れ立ってハンガーに入っていった。
「…何あれ」
「さァ、何でしょうね」
 答えた岩田の声は冷たかった。
 おや、と見あげた白塗りの顔は、いつものように笑っていたが。



 翌日。
 七時にハンガーの前に立っている自分を、誉めてあげたい。
 新井木は春の風に向かって胸を張り、それから腰に手をあてた。
 ええと、もりりんの工具を返して、で、後は何してよう?
 授業まで、整備でもしていようか。ふふ。僕、えらいな。
 そんなことを思いながら、一回の入口に歩みより、そしてふと、その足を止める。
 ………昨日の人たち、結局何だったんだろ?
 おそるおそる首だけで覗き込んだハンガーは、静まり返っていた。
 ほっとして、わざと足音を立てながら中に入る。
 順序良く並んでいる、一番機、二番機、そして……
「………!?」
 煤け、半分もげた右腕を垂れ下げ、片目の潰れた顔をこちらに向けている、三番機。
「何…これ…」
 昨日最後に見た三番機は、度重なる戦闘にも負けず、白々と雄々しく立っていた。
 もりりんと、陰険メガネと、ヨーコさん。
 几帳面な三人が、一生懸命整備している三番機。
「何、これ!?」
 まるで、戦闘の後。
 それも、ひどい負け戦の後のような三番機を見上げ、新井木は甲高い声で叫んでいた。
 瞬間、二階でごとっと重い音。生体部品を落した音?
 誰か、いる!?
 それが誰なのか、何をしているのか。
 考えることを考えもせず、一気に階段を駆け上がる。
 視界で、くねくねと長身が揺れた。今は、あの改造白衣を着ていない。ごくごく普通の作業着だ。
「……イワッチ」
 状況は大分違うが、まるでそれはあの日曜日の繰り返しのようだった。
 人気の無いハンガーの岩田。
 あの時一番機に向けられていた真剣な目は、たった今まで大破した三番機に向けられていたのだろうか。
 三番機の腕の生体部品を取り替える途中のポーズのままに、岩田はまっすぐ新井木を見つめ、ごく静かな声で返事をした。
「…はい。おはようございます」
 ギャグでもなく、はぐらかすでもなく、ごくごく普通の、静かな挨拶。
 拍子抜けして新井木は次の言葉を捜した。
 電波が届いていない岩田を見るのは初めてではない。整備作業中の彼はいつもそれなりに真面目だ。ただ、今は、絶対ギャグがかえってくると思っていた。…何でだろ?
「…早すぎだよ」
「…………あなたこそ」
 微かなため息。
 そして岩田は三番機に顔を戻し、淀みなく作業を再開した。
「…ね。どうしたの、これ。昨日の夜中にさ、出撃なんて、無かったよね?」
「そうですね。5121小隊の出撃は、ありませんでしたね」
「三番機はあったの?なんでこんなに壊れてんの?なんでイワッチが整備してんの?こんな朝早くに。知ってたの?何で?」
「…電波の導きで、たまたま早く来たらこうなってたんで、整備してました」
 イワッチ、言葉を選んでる。
 ……イワッチが?
「ふぅん、たまたまね」
「はい」
「速水君とさ、芝村は、無事なの?無事だよね?」
「電波は無事だと、言ってましたねェ」
「そっか」



 何となく、作業を手伝ってみた。
 ホームルームに遅刻すれすれで駆け込んだら、午前の授業は勲章授与に変わっていた。
 何とかっていう極秘作戦に成功したらしい速水君と芝村の、勲章授与式。
 芝村の右腕の袖から見えた真っ白い包帯か痛々しかった。
 放課後ハンガーに行ったら、「ちょっと」壊れた三番機があった。
 陰険メガネともりりんが、ぶーぶー怒ってみたり(二人とも、本気じゃ無さそうだったけど)。
 ヨーコさんが、「無事でよかったデス」なんて、いつもの口調で言ってみたり。

 ちょっと?
 無事?

 イワッチは、結局その日の授業には出てこなかったくせに、放課後のハンガーにはいなかった。



 居心地悪そうに揺れる白い背中に、新井木は構わず視線を送りつづけていた。
 日曜日の深夜。
「新井木さん、そんなに待っていても、電波は降りてきませんよ。僕のエキサイティンなギャグが聞きたいなら、明日の朝にたっぷりと…」
「期待してないよそんなの」
「…フ…フフフ…壬生屋さんの太刀のようにばっさりですねェ…」
「そう?あ、僕のこと気にしなくていいから。続けてよ」
 こちらが言うまでも無く、会話をしつつも岩田の注意は目の前の一番機に向けられていた。
 そうするイワッチの背中を、ずって見てる僕。そんな、最近の僕。
 …変かな?
 そりゃさ、トレーニングする先輩の後姿をじぃっと、ってほうが僕も楽しいし、いつもはそうしてるんだけどさ。

 気付いてしまったから。
 日曜の夜半に限らない。岩田は、ハンガーに人気の無い時間にひょっこりとやってきては、整備の作業を繰り返す。
 その鮮やかな手つきは、普段とは少し違っていた。テンションもどこかおかしい。岩田のギャグで笑えたためしは無かったが、こういう時に発せられるギャグは、どこか不器用な場つなぎのようで、憎めない。
 そのことに、気付いてしまったから。
 いつもと違う、いつもと違って変じゃ無いから変なイワッチ。
 たまに僕を撒こうとするけど、僕、鼻は利くんだよね。
 撒こうとして、撒けなくて、諦めたように整備を続けるイワッチ。
 …面白い。






「どーせ残業するなら、皆いるときにやればいいのに。原さん誉めてくれるかもよ?」
「整備の電波が降りてくるときにやってるだけですからねェ、僕は」
「うっそだぁ。絶対、みんなのいる時間さけてるじゃん」
「仕事時間にはいますよ」
「そうじゃなくて、残業とか、そういうの!隠れていいことやるのって、面白い?」
「だから、隠れてませんってば」


「…馬鹿ゴーグルの怪我、大したこと無かったって。半ズボンが言ってた」
「ま、頭打ってる様子もありませんでしたしね」
「そうなんだよね。あんなちょっとの怪我でさ。ぎゃーぎゃー泣き叫んじゃってさ。人騒がせだっての」
「血のような真っ赤な血はけっこう流れてましたから、まぁ慣れてなければスリリングでしょう。イィですねェ!」
「ん。血はいっぱい出てたしね。どのくらい痛いのとか、そういうのは分かんないけどさ。でも、あんなに泣かれたら見てるこっちが困るじゃない。絶対絶対あれじゃ死なないんだからさ、余計な心配させないで欲しいよ」
「フフフ、心配でしたか?」
「…少しはね」


「うっわー、雨降ってきちゃったよー」
「だから早く帰りなさいって言ったでしょう?僕ァ知りませんよ、風邪引いても」
「いいよ、止むまで待つから」
「この調子だとしばらく止みません」
「その時はイワッチがさ、こうばさっと上着をかけてくれたりとか……はしなくていいや。上着無いもんね」


「あ。猫!ブータ、元気?」
「ナォウ」
「そう?…ぶ。あははははは。見てイワッチー、なんかブータの顔、笑ってるみたいじゃない?」
「………………」
「ブータ、何見て笑ってンの?イワッチ?」
「……笑ってないで助けてくださいよ……」
「え、イワッチ何か言った?」
「いえ。何も」
「ンゲェー」


「先輩にタオル渡しちゃったー!えへ。校舎修理なんかめんどくさいって思ってたけどさ。いいこともあるよねー」
「フフフ、僕もタイガーとの友情を深められて満腹満足です」
「どつかれてただけじゃん?」
「あれもひとつの友情です!アア、美しいゆうじょぉうーラララー」


「司令がさ、何か明日小隊転区させるみたいだよ」
「………初耳ですね………」
「あ、そなんだ。僕も偶然、陳情しに行った時に速水君と話してるのきいちゃっただけなんだけど」
「この時期にですか。けっこう今、機体維持だけでいっぱいいっぱいなんですけどねェ」
「まぁ激戦区に行くって決まったわけじゃないし」
「…そうですね」


「………………………今日は静かですね」
「たまにはイワッチが話してよ」
「そうですねェ。じゃあ、聖ブラハルミクス・ラブラドール共和国における電波とソックスの謀略の歴史について」
「もっと別の」
「フフフ、昨日、隣の家に塀ができたんですよ。カッコイィーー!!」
「あとは?」
「梅干をどのようにして血の色にするかなんですが」
「却下」
「…それでは、昔話をひとつ」
「昔話?」
「あるところに、小さな箱庭がありました」

「箱庭の中では、戦いが行われていました」

「戦いの果てに望まれているのは、ひとつのハッピーエンドです」

「しかし、ハッピーエンドへの道は険しく、箱庭の中の人々は、何度も選ぶべき選択肢を間違えました」

「その度に、箱庭の中の戦いはリセットです」

「ひとつのハッピーエンドに行き着くために」

「いくつもの戦いが、リセットされています」

「その中には、小さな幸せや、小さな夢が、ひっそりと育っていたこともあったのに。それが、最高の至福であった人もいたのに」

「それでも、それは、望まれたハッピーエンドではないから」

「全ては忘れ去られ、消え去り、やり直しの日々」

「フフフ、さて、ここで問題です。この箱庭の中には、リセットされない人もいました。リセットされた世界の中で、リセットされていない記憶を持っています」
「…うん。それで?」
「……その人は、一体、何をするべきなんでしょうかね。箱庭が、その人に本当に求めているのは、いったい何なんでしょうかね」
「…さぁね。ていうかそれ、昔話じゃないじゃん?現在進行形だったよ、喋り方」



 はじめはぽつぽつと穏やかだった雨は、頭に当たって痛いほどの豪雨になり、そして今は止んでいる。
 熊本城での、大規模な攻防戦が終結したのは、もう夜といって良い時間帯であった。
 結果として人類の勝利に終わったこの作戦が、結局は何のために行われたのか。
 新井木のような学兵には知るよしもなかった。ただ、「幻獣のオリジナル」だとかいう話のそれぞれが、どこか胡散臭いこと。どこかで矛盾している気がすること。それだけだ。
 そのことについて深く追求する気は無いし、興味も実はほとんど無かった。
 それは新井木に限ったことではない。
 5121小隊の面々は、単独で残敵の中に飛び込んでいった三番機パイロットたちが生還したことへの喜びで、それどころでは無かったと言っていい。
 ただ、善行や茜といった新井木にとって「いつもなんだか難しそうな人たち」が、またもや少し難しげな顔をしていただけだ。
 僕には、それは関係ない。興味ない。
 興味あるのは……



「やっぱり、いた」
「なんで、来るんですか…」
 どこもかしこもボロボロになった三番機の前で工具箱を開けていた岩田に、新井木は駆け足の息を整えながら腰に手を当ててみせた。
「絶対いると思ったからだよ。今日は整備員も疲れてるから、帰還命令出てるじゃん。聞いてなかった?耳掃除ちゃんとしてる?」
「あなたに言われたくありませんねェ」
 それだけ言って、もう諦めたと言うように、岩田は手の中でサイズの違う幾つかのボルトをもてあそんだ。
 お手玉をするようにポンポンと放り投げ、サイズごとに分けていく。
「…ねぇ、さすがに電波の変態でもさ、今日は疲れてるでしょ?確かに士魂号はボロボロだけど、きっとしばらく出撃は無いしさ、別に今急いで修理しなくてもいいんじゃない?疲れてると、手元も鈍るよ?」
 そんなことを言いながら、新井木は岩田の手元を追う。
 全く疲れを感じさせない、しっかりとした動き。
 聞いたことがある。
 戦意高揚剤とかと同じ感じで、それと効果は違うけど、疲れとかを感じさせない、つまり、そういう薬があったりすることを。
 そしてそれが、体に良いわけがないことを。
「大丈夫です」
 ぐるぐると思考をめぐらす新井木に、帰ってきた返事はそれだけだった。

 最初は、ボウリングに行った日曜日。
 昼間いっぱい楽しく遊んで、さっきまではとなりで電波を振りまいて。そして、一人で夜中に仕事する、後姿。

 次は、三月の終わりと、四月の始めの日。
 何を知っていたのかは知らないけれど、知った顔で、当たり前のように仕事をこなす、表情の無い横顔。

 それからたくさん。
 たくさん、たくさん。
 この男は、いったい何のために、一人で。たくさん。

「……僕ヤだな、そういうの。馬鹿みたいじゃん。隠れてひっそり、頑張ってさ。そんなことしてても、誰も認めてくれないよ?だって皆、知らないんだもん」
「そうですか?」
「そうだよ」
「それでも、その皆が生きていてくれれば、それでいいんですけどね」
 ぽつりと何気なく返された言葉が胸に突き刺さる。
 それは本当に、何気なかったから。
「イワッチ…」
「だって、人が少なくなってしまったら、私のギャグの披露が出来なくなってしまうんですよ!幻獣向けのギャグは、まだ考えていませんし!」
「アホかーーーい!!」
 拳で思い切り後ろ頭を殴りつけると、「がはぁ!」と変な声を出してなぜか岩田は仰向けにひっくり返った。血が飛び散る。いつものことだ。
 その顔を跨いで、新井木はがんがんと足音を響かせながら一階に下りる階段に向かった。
 馬鹿馬鹿、馬鹿。
 ここまできて、またはぐらかす。
 知らないよ。もう知らないんだから。
「イワッチの、ばぁ……かッ!?…ちょっ……うわぁっ!?」
 勢い任せに階段に下ろした片足が、宙を踏んだ。
 日中の疲れが平衡感覚に出たらしい。
「新井木さん!?」
 バランスを取ろうとしばらくもがくが、あっという間にもう片足も投げ出されて。 甲高い岩田の声を聞きながら目を瞑る。
 はたして、覚悟していた衝撃はやってこなかった。
 力強く腕をつかまれ抱き寄せられて、その抱き寄せた人間をクッションにする形で、新井木は床に倒れこむ。
「あいたたた…って、そんな痛くないけど…」
「フ…フフ……フフフフフ…痛いのは僕です……ゲッフゥ」
「あ、ちょっと失礼だよ!?僕そんなに重くないよ!」
 抱き寄せた本人、岩田に礼を言うタイミングを逃しつつ、とりあえず起き上がろうとした新井木は、まだその腕を掴まれたままなことに気が付いた。
「………」
 掴まれたままとりあえず座り込み、ぐるっと体を回して岩田と向き合う。器用なことに、掴んだ腕はそのまま離れず付いてきた。
 ぺたんと尻を床につけて座る岩田の投げ出された足の間にしゃがみ込む、という奇妙な状態で、新井木はそれでも少し高い位置にある岩田の目を覗き込んだ。
 疲れのためか、使っているかもしれない薬のためか、なんなのか。充血した目。
「気を付けて下さい。死にますよ」
「階段落ちたくらいでそんな……………あー………死ぬかもねあれは…」
 今更ながらにぞっとする。
 けっこう高いのだ。ハンガーの二階というやつは。
「…ありかとう」
「死なないで下さい」
「…死なないよ」
「さすがにね。こたえるんですよ。何度も何度も、そんな場面を見せられては」
「イワッチ?」
「何度も何度も、僕のこの手じゃ、支えきれないんです。全部は無理なんです」
「……………」
「繰り返し、繰り返し、分かっていても避けられないこともあって。分かっていたから避けられることもあって。でも、繰り返し、何度も、……」
 熱に浮かされたように口を動かしつづけながら、少しずつ、岩田の手に力が込められた。
 込められた力は明らかに、だんだんと強くなってきているのに。
 それでも、僕の腕は痛くない。
 無意識のセーブ?
 イワッチは、いつも、そんなことをしている気がする。
 でもそれならどうして、この手は離れないんだろう。

「……僕は、そんなに何度も、どんなにリセットしても、階段から落ちてた?」

「いいえ。少なくとも、僕の前では、初めてですねェ」

 僕の問いに。
 一瞬驚いた顔をしてから、岩田はすぐにいつもの笑みを浮かべてそう言った。
 腕を放す。
 いつもの岩田。
「ねえ」
「何ですか?」
「僕はね、死なないよ。絶対絶対、生き延びて、幸せになるって決まってるんだから」
 君が何を見てきたか。何を知っているのかは、知らないけれど。
「イワッチ観察してると面白いしね。こんな面白いこと放っておいて、死なないよ」
 いくら観察していても、君は全てを見せてはくれないけれど。
「それとも」
 それでも。
「イワッチが知ってる僕って、そんなにいつも、弱っちかった?」
 僕が知ってる面白いイワッチ。僕だけが知ってる面白いイワッチ。
 …それで、いいよ。
 全部チャラにしてあげる。
「……」
 聞こえないほどのかすれた声で何かを呟き、岩田は笑みを苦笑に変えた。
「あなたはいつも、パワフルでしたねェ」
「でしょ?」
 胸を張って笑って見せる。
 しばらく苦笑を張り付かせていた岩田は、ふいに一度下げた腕を伸ばすと、ぐいっと身を乗り出した。
「抱きしめても、いいですか?」
「…って、もうやってるじゃないか…」
「そうですねェ」
 耳元で、楽しげな笑い声が聞こえた。






 それからも、僕はイワッチを追いかけて人気の無いハンガーに通う。

 君は何を知ってるの?
 君は何をしようとしてるの?

 分からないことはひとまず置いて。
 今はさ。
 今、ここにいる、僕を見てもいいんじゃないかな。







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