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走る。 走る。 どぶ色に湿り、ザラメのようにぬかる雪を踏みしめて。 走る。 走る。 雪よりも冷たい雨粒が額を濡らし、袖口を濡らし、足元をすくう。 それでも走る。 雨が嫌いなあの人を、この何よりも冷たい雨の中で独りにすることが恐ろしかった。 今を逃すともう会えない。 そんなある意味で詩的な妄想すらが、竹内優斗を駆り立てる。 視界がぼやけるのは、別に涙のせいではなかった。 視力の衰えは、医者に指摘されるまでもなく、自分が一番よく知っている。 ああ、眼鏡がいるな、と思った。 もう空を飛べないという焦燥よりも、あの人を見失うかもしれない今が怖い。 走る。 走る。 幸い、求める背中はすぐに見つかった。 冷たい雨の中、冷たいザラメ雪を踏みしめて。 足音も無く歩く、細い背中。 「―――岩崎さん」 「やあやあ、どうしたんだい?竹内君」 振り返った微笑みは、ただただ穏やかだった。 軽く弧を描く薄い唇。 柔らかく細められた瞳。 何もかもを許すかのように、何もかもを諦めたかのように、若干16才の少年が微笑む。 岩崎仲俊は立ち止まると、振り返った微笑をそのままに、あとは黙って竹内を待ち受けた。 その岩崎から三歩分の距離を置いて立ち止まった竹内は、知らず歪む頬を内側から噛み締めながら言葉を選んだ。 「…今日。だけじゃないですけれど。谷口さんが休暇をくれたんじゃありませんでしたか?」 「うんうん。そうなんだけれどねぇ。この状況下でただ休むのも悪いし。何より暇だし」 「でも。休んだほうがいいと、思います」 独りになるのが嫌なら、僕がついてますから。 飲み込んだ台詞は、たぶん届いたのだろう。 ふ、と短い息だけ継いで、岩崎は表情を消した。 「大丈夫だよ。僕ぁ、冷たい人間なんだ。こんな時でも、こんな時だからこそ、いつも通りに皆の役に立てると思うよ」 僕ぁ、誓って皆の役に立つよ。 飲み込んだであろう台詞を、かつて山口葉月に贈っていたことを知っている。 どんなにか暖かな、優しい瞳でその言の葉を紡いだのかを、知っている。 今は冷たいザラメ雪の下に眠る葉月が、どんなにかその言の葉を、それを紡いだ彼自身を大切にしていたかも。 「―――共生派の活動が不穏だねぇ」 「…え」 「動きがね。見過ごせないものになってきているよ。隊長や谷口君たちは、まあ、工藤さんたちに任せておくとして…僕の今日の予定は決まりだね。奴らの活動拠点をもっと絞らなきゃならない」 「でも、岩崎さん」 「大丈夫。ヘマはしないよ。僕ぁ岩崎仲俊だよ。人の家にあがりこむのはお手の物さ」 「僕はそれでも貴方のことが」 「心配ないったら。あ、手伝いはいらないよ?一人の方がいいんだ、これは」 明るく笑ってヒラヒラと手を振るその横面を、衝動的にぶん殴りそうになった右手を左手が止めた。 傍から見ると変な踊りに見えたかもしれないが、岩崎は正確に、今、何が起ころうとしたのかを理解したらしい。言葉を止めて、この日初めて真正面から竹内を見つめる。 「…独りがいいなんて」 ぎりぎりと、左手が軋んだ。 寒さで赤く染まった指先が、今度は白く引きつっていく。 「独りがいいなんて、言っちゃダメです、岩崎さん」 視界が霞む。 今度こそ、涙のせいか。 今、見失ってはいけないのに。 見つめて。 この手で。 殴ってでも。 そうまでしてでも、僕はあの人を、見失ってはいけなかったのに。 その日、最後に岩崎が浮かべた表情を。 竹内優斗が知ることは、終ぞ無かった。 歩く。 歩く。 1歩1歩を踏みしめて、歩く。 走らずとも辿り着けることを、今は知っていた。 中指で眼鏡のずれを直す。 柔らかく握り締めていた右手をゆっくりと解き、また握る。 歩く。 歩く。 この青い瞳は、瞬き以外では閉じられない。 この拳は、僕の左手でも止められない。 歩く。 歩く。 香川優斗は、あの日岩崎がしたように短く息を継ぐと、微笑んだ。 再びを二度と繰り返さない、それはどんな決意よりも真っ直ぐな笑顔だった。 |