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喉の渇きを冷水で癒す。 RBの訓練中は、これが何よりの休息だった。 給水気の前でネコのように弛緩しきった伸びをしたタキガワの耳に、夜明けの船外部とつながるドアが開く音が聞こえた。 都市船に出ていた誰かが帰ってきたか。 そんなことを思いながら、振り返らずにもう一度、伸び。 …んん? おかしいな。 後ろに出現した気配が動かない。 あれ。もしや、水、飲みたかった? それは悪いことをした、と、一歩退きながら振り返ったタキガワの目に映ったのは、まず、見慣れた、海のように青い服。 「…あっれー?ホープじゃん。何突っ立って―――――」 そして、ぼろぼろと零れ落ちる大粒の涙。 「!!!!!?????ホッ、ホホホホホホホープッ!!???」 自分の後輩にして親友、凄腕のRB<希望号>パイロットが、ただただ無言で泣いていた。 サウザンド・サウンズ 〜さうざんど・さうんず〜 落ち着け。 落ち着け自分。 おつちくんだ、自分。って、違うっつーの!? 1秒間に200回ほどの割合で落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせながら、タキガワはホープを凝視した。 情けないことに、体がぴくりとも動かない。 ホープ。 RBのパイロット。 年上の女性だが、タキガワにとっては親友だった。遠い遠いご先祖に確認しなくたって分かる。俺が待っていた、大事なトモダチ。 凡庸に見えて、どこか底知れない雰囲気を纏った彼女が泣いているのを、実は見たことが無いタキガワだった。 情けないことに。 情けないことに、自分が泣いたことは、ある。おさえきれない慟哭を漏らす自分を、ホープは黙って抱きしめた。 ホープは優しい。 落ち込んでいるカオリの話を、黙ってずっと聞いていたところも見た。 ホープは強い。 隔壁が閉じて浸水、絶望的な目をした人々の前で、堂々と胸を張って歩いてきてタキガワに言った。「防水テープ、探さなきゃね」 そんなホープでも泣くんだなぁ、と思い、いやいやそういうふうに思うのはそれはそれで失礼だろ、と自分でツッコミ。 最早訳が分からない。 ていうか、俺。 ホープどころか、女性に目の前で泣かれるの、初めてだ。もちろんチビのころに叩いて泣かした女の子は除く。 どうしよう。どうしたらいい。 こんなときに限って、誰も通りかからない。 でも。 ホープが、泣いている。 「…ホープどうしたんだよ」 異性が泣いている、という、一種独特の興奮が伴う状況よりも、友情が勝った。 泣いている親友をとにかく楽にしてやりたくて、タキガワは恐る恐る近付いたホープの顔を覗き込んだ。身長差はほとんど無いので、正面から目と目がかち合う。 「……タキガワ……」 「ん。…言ってみろよ。いや、ホラ、俺相手でいいならさ。少しでも楽になるんなら」 「…え。…あれ?」 ぽろぽろ、と止まらず流れる涙を見てぼんやりと考える。 ああ、涙って、本当に粒になって流れるんだなぁ。 きれいだけれど、ずっと見ていたいけれど。親友が悲しんだ結果であるならば、今すぐせき止めたい。矛盾した思考。 「ホープ。なんで、泣いてんの?」 「…わ…たし…泣いてた?」 「はァ?」 きょとんとした言い草に、間抜けな声が漏れた。 構わずホープは左手で頬を、目元を触ってぎょっとしたそぶりを見せる。 「うわホントだ!…あちゃー…恥ずかしいー…」 「…気付いて…なかったのかよ」 「ん。ごめんね心配かけた?大丈夫、この通り、平気。だから―――」 「そっちの方が、重症だろ」 「タキ…」 吐き捨てて。 思わず、抱きしめた。 「………」 「………」 流れる沈黙が滅茶苦茶に気まずかった。 それでもタキガワは、力いっぱいホープを抱きしめる。 肩口に熱い涙が染みた、染み続ける、その事実がただただ、辛い。 泣いてる俺を優しく抱きしめたホープは偉いと、タキガワは思う。 俺にはできない。 辛くて辛くて。 力いっぱい抱きしめていないと、こっちまで泣きそうで。 こんな気持ちを友情と呼ぶのなら、ご先祖様。 あなたは、なんて辛くて暖かいものを残してくれたんだろう。 「…ホープ、ホープ」 どうしていいか分からず、名前を呼んだ。 「ホープ、ホープ、なあ、泣くなよ…」 繰り返す。 百でも、千でも、その名を呼ぶことができそうだった。 「ホープ、ホープ…」 「………希望」 「…ん?」 「希望って意味。わたしのあだ名」 ホープの澄んだ声にあわせて、またタキガワの肩口が濡れた。零れ落ちる涙。 「実はちょっと、気恥ずかしかったり」 「…俺はいいと思うけど」 何度呼んでも飽きないくらい。 百でも、千でも。 そう?と声は笑ったが、未だ涙は止まらない。 いよいよ一緒に泣きそうになったタキガワは、腕に力を込めなおす。 「…ヤガミも、そう言ってた」 「そっか。そうだろ。だって、似合うぜ」 「あは。…タキガワが言ってくれると、うんそうか、って思えるね」 「親友だしな」 「そう。それ」 あれ。 じゃあ、ヤガミは違うのか、と。思って、言葉はそのまま飲み込む。 沈黙。 ヤガミとホープ。 「…一番最初にホープって呼んだの、ヤガミだったな」 何となく呟いた。 なあ、あいつらって、できてると思う? そんな話をアキとしたのは数日前。 確かに、ホープとヤガミはなかなかに親しい。 親しげではあるが、タキガワにしてみれば何となく頷きがたいものがあり、その時はさあ、と曖昧に話を終わらせた。 今なら何となくがなぜなのか、何となく、分かる。 ヤガミの背を見るホープの目。 その時は、泣いてたわけじゃない。 でもなんだろう。 あの、緊張感。 「…うん。そうだね。ヤガミだね」 回想の波に飛び込んでいたタキガワの意識を、震えるホープの声が引き戻した。 ぐ、と涙に濡れた顔が、タキガワの肩口に押し当てられる。 「…ホープ…?」 千でも。 「ホープ、ホープ…」 「ヤガミが」 震える声。 もうホープ自身も、泣いている自分に気付かぬわけにはいかないだろう。 「ヤガミがね。覚えていたの」 「ヤガミが…?」 「ヤガミが。約束。覚えてッ……ヤガミが……だって、そんな、でも、約束。…ヤガミ、覚えて」 「ヤガミが、約束、覚えてたのか」 幼子のように要領を得ないホープの言葉を何とか拾い上げ、紡ぐ。 こっくりと頷いたホープは、より激しく泣き出した。 しゃっくりのようなひきつけのような、苦しそうな息の下からそれでもホープは言葉を零す。 「ヤガミとじゃ、っない、っのにっ……でも、ヤガミで、サッカー、っ嬉し、っかったけど、でも、」 「ホープ…」 抱きしめる。 名前を呼ぶ。 それしかできずに、タキガワはそれでも抱きしめて、その名前を呼んだ。 そして、瞬間、彼女の全てが凍りついた。 「ホープじゃ、ないのに」 「ホープ…?」 「あのとき、わたしはホープじゃなくて」 「ホープ」 「あのひとだって、希望号を守って、逝ってしまって」 「ホープ」 「それなのに」 「ホープ」 「ホープじゃないのに」 「ホープ」 「ホープ」 「…なあ、ホープ」 「お前はホープだよ。俺にとっては。誰にとっても」 「違うお前がいたなら、それはそれでいいけどさ」 「でも、ホープ」 「俺はホープの親友で、ホープが泣いてたら、辛いと思うんだ」 「だから泣き止むまで抱きしめて、名前を呼ぶよ」 百でも。 千でも。 肩口に押し当てられ、今は閉じた目が、時々遠くを見ていることは知っていた。 それでも。 ここにいるホープは、ホープだと。 百でも。 千でも。 ヤガミの向こう側にいたらしい、誰かがその名を呼べないのなら。 俺が、そう、繰り返す。 百でも、千でも。 それからしばらく泣きじゃくったホープは、落ち着いた後で照れくさそうに「ありがとう」と一言、笑った。 「ねえ、タキガワ」 「ん」 「あんなに名前呼んでおいてあれだけど。ヤガミ、関係ないからね」 「…」 「わたしが勝手に悲しかっただけ。ヤガミは何も、してないよ」 「…」 「…信じられない?」 「……信じるよ。親友だろ?」 喉の渇きを冷水で癒す。 RBの訓練中は、これが何よりの休息だった。 しかし今は、すっかり温くなった水の入った紙コップを手に、椅子に腰掛け宙を見る。 ドアの開く音。 出港ギリギリの夜明けの船に、ヤガミが足早に乗り込んでくる。 タキガワは立ち上がって、その名を呼んだ。 「ヤガミ」 「タキガワか。もう出るぞ。これから会議で」 「ヤガミ」 「?…どうした」 二度その名を呼ばれ、立ち止まる。 眼鏡の奥の深い色をした瞳が、じっとこちらを見つめてくる。 「ホープが」 「彼女が、どうかしたのか?」 「泣いてたぜ。あんたに、泣かされたって」 こんなに冷静に嘘をつくのは初めてだった。 ヤガミのせいではないとホープは言ったが、この男に原因の一端が無いとはまさか言えない。 ちょっとは、困っとけ。 子どもじみた復讐だったが、それくらいしておかなければ、あんなに親友の涙を見せられた辛さは拭いきれない気がした。 真顔で言い切ったタキガワを、きょとんとヤガミが見る。 その、どこかホープにも似た仕草に何となくむっとしたタキガワに、再度ヤガミが問いかけた。 「ホープが?」 「そう。ホープが」 眼鏡の奥の瞳がすぼまる。 ため息。 後悔のため息? 違う。 なぜか悲しそうなその瞳は、確かに笑んでいた。 「……は……か」 「…?何だって?」 「いや。…ホープは、まだ、俺のことで泣いてくれるのか」 それだけ言い残し、夜明けの船古参の飛行長はその場を去った。 「…誰が。何だって?」 小さいが確かに聞こえた、ホープ以外のひとの名を反芻する。 困らせるつもりが、なぜか喜ばせてしまったらしい。 百でも、千でも。 ヤガミ。 あんたが呼びたい名前は、ホープなのか。 それとも違うのか。 釈然としないまま、しかしその釈然としないものごと全てを受け入れたからこそ、泣いた後でホープは笑ったのだと、そのことにだけは納得して、タキガワは紙コップを軽く、握りつぶした。 |